2023年12月9日

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今日から「日光街道」を歩いていきます。電車で日本橋までやってきました。東京は電車の路線も多くどこからでも帰宅できるので遅めの出発です。

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日本橋

9:30 日本橋を出発します。400mほどは中山道と同じ道で、北へ向かっていきます。

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歌川広重、銀世界東十二景「日本橋雪のあけぼの」

双十郎河岸、日本国道路元標、日本橋魚河岸跡などがありますが、東海道、中山道出立の際に書いたので、省略し、中山道を歩いたときには寄らなかった場所へ寄道していきたいと思います。

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武奥増補行程記の「日本橋」

武奥増補行程記は、盛岡藩士清水秋全が1751年(寛延4)に盛岡藩主の命を受けて描いた奥州街道の絵図です。「日光道中分間延絵図」は1800年頃ですのでそれよりも早くに描かれています。ちなみに「日光道中分間延絵図」では山谷町や泪橋あたりからしか描かれていません。

日本橋から北へ100mほど進むと左手に三越新館があり、ここを右手に入り100mほど左手のビルとビルの間の狭い場所にひっそりとその石碑はあります。

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三浦按針屋敷跡碑

ウイリアム・アダムスは1600年(慶長5)に日本へ渡り、徳川家康に迎えられて江戸へ入り、この地に屋敷を設けました。造船、砲術、地理、数学等に業績を上げ、ついで家康・秀忠の外交、特に通商の顧問となり日英貿易に貢献し1620(元和6)長崎平戸で没しました。 日本名「三浦按針」を与えたのは徳川家康のようですが、三浦は領地として与えた相模国三浦郡逸見村(現横須賀市)から、「按針」は「水先案内人」という意味ということです。
日光街道沿いへ戻り少し進み、三井本館の趣ある建物を左へ曲がると、隣が日本銀行です。日本銀行も素晴らしい建物が残っています。上から見ると「円」になっているあの建物です。

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日本銀行

江戸時代、この場所には金貨鋳造を行う「金座」が置かれていました。1896年(明治29)に竣工しています。関東大震災では一部が焼けたものの、建物はびくともしなかったそうです。
日本銀行前を進むと正面に常盤橋、橋を渡ると「常盤橋公園」となっており、大きな渋沢栄一像が建っています。

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常盤橋

車道である常盤橋は関東大震災後の復興計画で架橋されたもので、人道橋としての「常磐橋」と区別するために別の漢字が使用されています。

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渋沢栄一像

この銅像は2代目です。初代渋沢栄一像は1933年、渋沢栄一の命日に完成しましたが、第二次世界大戦による金属提供で撤去されました。その後の1955年、「東洋のロダン」と称された彫刻家、朝倉文夫が製作しました。

渋沢栄一

1840年、武蔵国(埼玉深谷市)に生まれ、後に江戸へ出て幕臣となり明治維新後は官僚として財務や経済政策に携わりますが、大隈重信との対立のため官僚を退職します。その後、日本初の銀行である第一国立銀行(現みずほ銀行)や東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテル、キリンビールなど500社以上の設立に尽力しました。

常盤橋公園へ入り、常磐橋門の石垣に沿って進みます。この石垣と石垣の間に常磐橋門があったと思われ、その先に人道橋の「常磐橋」が架かっています。常磐橋のたもとに「防災船着場」があります。

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常磐橋門跡

江戸城の城門の一つである「常磐橋門」があった場所です。城門の石垣は「常磐橋門跡」として国の史跡に指定されています。 常磐橋は、元は「大橋」と呼ばれ、江戸城大手門から浅草に向かう本町通りに架けられていました。また、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれました。

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日本橋川常盤橋 防災船着場

災害時における帰宅困難者や物資の水上輸送など防災時に役立つよう、船着場が設けてあるそうです。

大通りに出ます。左へ200mほど進み右の「本町通り」へ入っていきます。

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本町通り

江戸城外郭の常磐橋門から東へ続く奥州・日光街道の本道として利用されてきましたが、現在は街区整備のため、東側は道路が付け替えられています。
真っ直ぐ進むと道がなくなってしまうので、日銀の裏側を右へ曲がり、すぐ左へ曲がり120mほどで日光街道と中山道の追分であった室町三丁目南の交差点へでます。ここに「十軒店跡碑」「にほんのクスノキ」があります。

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十軒店跡碑

羽子板・破魔弓・雛人形・武者人形など節句用品を商う店が軒を連ね、この時期には盛大な市が立ちました。原舟月や川端玉山ら江戸の人形師に加えて近代には永徳斉、玉翁などが名工として知られていましたが、関東大震災と戦火により多くの店が焼失、最後まで残った「玉貞人形店」も1998年(平成10)に閉店しました。
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江戸名所図会「十軒店」

『内裏雛人形天皇の御宇とかや 芭蕉』

芭蕉の句が添えられています。 天皇・皇后の姿に模した雛人形があるが、「何天皇」の時代かと聞かれれば、「人形天皇」の世というべきであろうか・・・というようなことのようです。

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にほんのクスノキ

長崎街道・黒崎宿の街道脇に長年に亘って2本並んでいたものが移植されたそうです。もう1本は福徳神社の前にあります。・・・長崎街道は寂しくなってしまったのではないのかな?
室町三丁目南の交差点を東へ向かって進んでいきます。中山道は北へ向かいます。すぐ先に「本町薬問屋発祥の町碑」があります。右へ入っていくと「福徳の森」が整備されており、「薬祖神社」が祀られています。

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本町薬問屋発祥の町碑

江戸時代初期からこのあたりには薬草や薬を扱う薬種問屋が軒を連ねており、名高い薬種問屋は仲間組合を結成し、独占販売を行っていました。
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江戸名所図会「本町薬種店」

特に本町3丁目のあたりは薬の匂いが立ち込めるほど薬種店や問屋が集まっており、「本草を道へならへる三丁目」「三丁目匂はぬ見世は三四軒 四丁目もまだちらほらと匂う也」と川柳に読まれたほどでした。

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薬祖神社

1900年(明治33)東京薬種貿易商同業組合が五條天神社から薬祖神を勧請しました。1929年(昭和4)組合の事務所ビルを新築するにあたり、屋上に遷座されましたが、2016年(平成28)現在地に三代目の社殿が作られました。
日光街道へ戻り、昭和通りを越えると左手角に「小津和紙」があり、碑が建立されています。

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小津和紙の碑

伊勢商人、小津清左衛門長弘は当時、江戸随一の商業地であった大伝馬町(現在地)に1653年(承応2)創業しました。江戸初期は、紙の使用が貴族や武士から庶民に広がり、紙の生産や消費が拡大した時期でした。

小津和紙を左へ曲がり30mほど進むと「馬込勘解由の碑」があり、その先を右へ曲がっていくと「於竹大日如来井戸跡」があります。

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馬込勘解由の碑(べったら市の由来)

馬込勘解由は大伝馬町の草分名主で、一帯が馬込氏の屋敷であり、人馬の継立役を務めました。
べったら市は毎年10月に盛大な祭礼が行われます。恵比寿講に使用する鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根についたを若い女性の着物につけ「べったらべったら、買わないと着物にくっつくよ」と戯れたことから「べったら市」との名前が付きました。

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於竹大日如来井戸跡

1640年(寛永17)於竹さん18歳のときに山形県庄内より馬込家で働くことになります。その行いは一粒の米、一切れの野菜も決して粗末にせず、貧困者に施したとされます。出羽国の行者、乗蓮と玄良坊が馬込家を訪れ、羽黒山のお告げによると、於竹さんは大日如来の化身であると告げました。主人は驚き、勝手仕事を辞めさせ、持仏堂を作り於竹さんは念仏の道へ入りました。於竹さんは1680年(延宝8)、58歳で没しています。於竹さんが愛用したという「於竹井戸」がこの地にあったとされます。
井戸跡からすぐ先には「宝田恵比寿神社」、さらにすぐ先には「馬込勘解由屋敷跡」の案内板があります。恐らく昭和通りから案内板まで馬込勘解由の屋敷だったのではないかと思われます。

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宝田恵比寿神社(べったら市)

馬込勘解由が住民を率いて集団移転をする際、同時に宝田村の鎮守としていた恵比寿様も移転しました。
この恵比寿様は、馬込勘解由が家康入府の際、三河の国から随行し大業を成し遂げられた功により家康より賜ったもので、鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。

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馬込勘解由屋敷跡

1590年(天正18)家康に連れ立って江戸城に赴き、当初後の呉服橋御門内にあたる宝田村に居住し、伝馬役・名主役を務めました。その後江戸城下の整備が進み、大伝馬町・小伝馬町・中伝馬町が成立、1606年(慶長11)馬込勘解由は住民を率いて集団移転をしました。
「馬込勘解由屋敷跡」の案内板を見学したら右へ曲がり、日光街道へ戻ります。日光街道を少し進むと左手に1924年(大正13)に建築されたモダンな建物の「江戸屋」があります。

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江戸屋

七代将軍家継の時代、初代利兵衛は将軍家お抱えの「刷毛師」に任じられました。1718年(享保3)に将軍家より「江戸屋」の屋号を与えられ、江戸刷毛の専門店として開業しました。明治時代からはブラシ作りを始め、現在も多くの商品が作られています。
さらに130mほど進み、大通りを左へ曲がり160m、左手に「大安楽寺」があり、その奥に「十恩公園」があります。このあたり一帯が江戸時代には「牢屋敷」となっていました。十思公園内には吉田松陰終焉の地碑や杵屋勝三郎代々の碑、石町時の鐘、牢屋敷遺構などがあります。

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江戸八臂弁財天・大安楽寺

牢屋敷跡だったこの地に誰も住み着かなかったことから、大倉喜八郎と安田善次郎が土地を寄進して、両氏の名(「大」と「安」)より大安楽寺と号して1882年(明治15)に創建しました。

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江戸伝馬町処刑場跡の碑

1590年(天正18)江戸へ徳川家康が入った当初は、常盤橋門外、現在の日本銀行あたりにありましたが、1613年(慶長18)頃に伝馬町へ移され、1875年(明治8)に市ヶ谷の監獄に移るまで使用され、取り壊されました。

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杵屋勝三郎代々の碑

長唄三味線方です。現在まで7世を数えますが、2世が最も知られます。2世杵屋勝三郎は、1840年(天保11)に襲名。1848年(嘉永元)長唄杵勝会を結成しました。日本橋馬喰町に住んでいたことから「馬場の鬼勝」とよばれていました。

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吉田松陰終焉の地碑・辞世の碑・顕彰碑

『身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬとも とどめ置かほし大和魂』

処刑の時期が近づいたのを知って書き上げたのが「留魂録」で、その冒頭にこの歌が記されています。

吉田松陰

1830年(天保元)長州萩で生まれ、幼くして吉田家の家督を継ぎました。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったため、早くから山鹿流兵学、その他の学問を修めその道を究め、師弟の教育に務めました。 1854年(安政元)佐久間象山の勧めで海外渡航を計画、下田から米艦に乗船しようとして失敗し、下田獄から伝馬町獄送りとなります。釈放されると萩へ戻り、松下村塾で多くの師弟の教育を行いました。安政の大獄の連座にて再び伝馬町獄に入牢。1859年(安政6)30歳で江戸伝馬町処刑場にて処刑されました。

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牢屋敷遺構

2012年(平成24)に発掘調査がなされ、石垣や木片が発掘されています。発掘された石垣の石が展示されています。

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銅鐘 石町時の鐘

鐘撞き役であった辻源七の書上によると、1626年(寛永3)に本石三丁目へ鐘撞堂が建てられたことが記されており、鐘が聞こえる範囲から「鐘楼銭」を集め、維持・運営が行われていました。何度か火災にあい、現在の鐘は1711年(宝永8)に鋳造されたものです。鐘つきは明治になると廃止され、1930年(昭和5)十思公園内に鉄筋コンクリートの鐘楼が造られ、移されています。
十思公園の南側に油かけ大黒天神がある「身延別院」があります。

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日蓮宗 身延別院

伝馬町牢屋の跡地であったこの場所に1883年(明治16)、獄死亡霊を弔うために創建されました。現在の本堂は、関東大震災によって焼失したのち、1929年(昭和4)に再建されたもので、第二次大戦からは奇跡的に逃れられました。
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油かけ大黒天神

昭和の名優、長谷川一夫氏の出身地である京都伏見には「油かけ町」があり、昔、油売り商人が道端の石像に間違って油をかけてしまったが、それ以来商売が大繁昌したという伝説がありました。
長谷川しげ夫人は戦後間もなく、油かけ天神を夢に見てお告げを得たため、当時の住職に相談し、安置されることになりました。

日光街道へ戻り、再び千住宿へ向けて歩いていくと東横INNの前に浮世絵があります。このあたりが「馬喰町」です。

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馬喰町浮世絵

このあたり、江戸中期以降は旅籠が集中し、馬喰町を起点とした「江戸めぐり」の案内書なども発行されていました。
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名所江戸百景「馬喰町初音の馬場」・江戸名所図会「馬喰町馬場」

馬喰町は、古くは博労町と書かれ、馬市が立ちました。三丁目北側に、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの前に馬揃えがなされたという初音の馬場(追回しの馬場とも)が知られています。

馬喰町を進んでいくと清杉通りと合流します。合流してすぐに右へ曲がり、日光街道から離れて「柳橋」周辺に行ってみたいと思います。

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両国広小路と両国橋

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江戸名所図会「両国橋」

両国広小路は火除け地として大きな空地となっていました。常設の建物は建てることができませんでししたが、仮設の見世物小屋や飲食店で賑わっていました。

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葛飾北斎「浮世両国橋夕涼花火見物之図」

両国広小路を左へ曲がるとすぐに「柳橋」があります。

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柳橋の碑

1698年(元禄11)神田川が隅田川へ注ぐこの地に架けられ、はじめは「川口出口の橋」と呼ばれました。近くに幕府の矢の倉があったことから矢の倉橋・矢之城橋などとも呼ばれたといいます。

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柳橋

1887年(明治20)に鉄橋へ架替られ、現在の橋は1929年(昭和4)に完成したものです。

『春の夜や女見返る柳橋』正岡子規

柳橋は文人たちに度々取り上げられ、山本周五郎や池波正太郎、藤沢周平などの時代小説を始め、映画やドラマの舞台にもなり、江戸の雰囲気を感じられる町として今も人々に親しまれています。

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船宿

現在は数軒しかありませんが、江戸中期頃から花街として知られ、川のほとりには船宿や料亭が数多く並び大変賑わったようです。また、幕末、明治以降も花柳界として名高く、夏には両国橋を中心に大川(隅田川)で花火が打ち上げられていました。

現在も毎年続けられる隅田川の花火大会は、この江戸時代から行われていた両国橋付近花火大会が発端で、日本で最古の花火大会です。

柳橋を渡った先の右手ビルに「亀C楼」の看板があります。

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亀C楼

亀C楼は、1854年(安政元)の創業です。かつて柳橋には多くの料亭がありましたが、唯一残っている料亭です。
道なりに180mほど進むと小さな「石塚稲荷神社」があります。

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石塚稲荷神社

稲荷大神のお告げにより、掘井戸より宝石が出現したため、浅草御蔵前元旅籠町の居住者により創建したと伝わります。1688年(元禄元)、浅草御蔵御火除御用地として境内が召上げられたため、代地として現在地に移転しました。
玉垣には「柳橋料亭組合」「柳橋芸姑組合」とあり、かつてこのあたりが花街だったことが偲ばれます。

来た道を戻り、柳橋から1本手前の路地を右へ曲がり100mほどで「篠塚稲荷神社」があります。神社横には宗祇の歌碑があります。

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篠塚稲荷神社

1325年頃(正中年間)に新田義貞の四天王の一人であった篠塚伊賀守重宏が、足利尊氏軍との四国での最後の戦いに敗れた後、東国へ逃れ現在地近辺の茅原の里にあったという当稲荷の祠の傍らで庵を結び仏門へ入り、主家の再興を祈願したと伝わります。いつの頃からか里人が「篠塚稲荷神社」と称するようになり、後に別当「玉蔵院」となります。

江戸期から大正末期までは神社境内に寺子屋(後の篠塚小学校)が置かれていましたが、明治の廃仏毀釈により玉蔵院を廃止し、1922年(大正11)には篠塚学校も廃校になりました。

篠塚伊賀守重宏

強力無双な武将で、新田義貞が福井で戦死した後は義貞の弟、脇屋義助に従って各地を転戦し、四国で新田一門が滅亡する時、単騎で敵の軍船を奪い、現在の魚島を経て関東に向かったとあります。魚島には墓所とされる供養塔がありますが、没年は不明です。その豪傑ぶりは歌舞伎の演目にもなり、武者絵にもなりました。後年、群馬県邑楽町篠塚の大信寺境内に御廟が建立されています。

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江戸名所図会1836年(天保7)「第六天 篠塚稲荷」

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宗祇歌碑

「代地川岸永住乘 涼風や月雪 はなの隅田川 宗祇」

宗祇は室町時代の歌人で古典学者、幼少から仏門へ入り各地を旅しながら連歌の指導を行っています。西行法師、松尾芭蕉と共に「漂白の三歌人」として知られています。1470年(文明2)隅田川で『吾妻問答』を残しています。これは連歌の歴史、学習法、作法などを問答形式で記述されたもので、別名を「角田川」とも呼ばれており、この周辺を拠点としていたのかもしれません。
神田川沿いに進み、日光街道へ戻ります。神田川に架る橋が「浅草橋」で、浅草橋を日本橋方面へ少し戻ると橋の袂に「郡代屋敷跡」の案内板、再び浅草橋を戻ると西側ポケットパークに「浅草見附跡碑」と「高札場跡」の案内板があります。

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浅草見附跡碑・高札場跡と郡代屋敷跡

浅草見附は江戸防衛の要でした。明暦以後吉原が盛んになると、浅草橋あたりから柳橋にかけて船宿ができ、猪牙舟(ちょきぶね)での廓通いが盛んになりました。「郡代」は代官と仕事は同じようなものですが、その規模が大きな位置づけです。

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武奥増補行程記の浅草見附

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浅草橋から見た神田川

浅草橋が神田川に初めて架けられたのは、1636年(寛永13)のことでした。浅草御門にあったことから「浅草御門橋」と呼ばれていましたが、いつしか「浅草橋」となりました。
浅草橋から日光街道を進み、JR浅草橋高架下をくぐり少し行くと右手に「久月」の本店があります。

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久月

1835 年(天保6)、横山久左衛門が雛人形問屋として創業しました。

「♪にんぎょ〜のきゅうげつ〜♪」

は昭和時代の人々にとって知らない人はいないでしょう。
久月の正面あたりで左へ入ると「銀杏岡八幡神社」があります。

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銀杏岡八幡神社

源頼義、頼家は朝廷の命により奥州安倍貞任、宗任を平定するため当地を通りかかりました。往時は小高い丘で隅田川を一望できる景勝地で休憩します。銀杏の枝が上流より流れてきたので拾い上げ、丘の上に差立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願して旅立ちました。

平定の後、再びここへさしかかると銀杏の枝は繁茂していたので、大刀一振りを捧げ八幡宮を勧請しました。1062年(康平5)のこととされます。

この銀杏は大木となり、隅田川や街道を行き交う人々の目印になりました。1618年(元和4)この地は福井藩松平家の屋敷となり邸内社となっていましたが、1725年(享保10)公収され、地域の産土神として繁栄してきました。

大銀杏は1745年(延享2)の台風で中程より折れ、1806年(文化3)江戸大火で焼失してしまいました。

150mほどで「須賀神社」があり、須賀神社横の路地を入り1本目の路地を右へ入り75m、細い路地の脇にひっそりと「蔵前閻魔堂跡碑」が建っています。

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須賀神社

創建は600年(推古天皇9)とされています。江戸時代には牛頭天王社、祇園社、蔵前天王社、団子天王社と呼ばれていましたが、1868年(明治元)、須賀神社と改めました。

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蔵前閻魔堂跡碑

華徳院という閻魔王を本尊とするお寺がありました。華徳院は下野国佐野に創建され、当初は「理正院長延寺」と称し、開基は慈覚大師円仁とされます。後に武蔵国霞ヶ関へ移り、慶長年間に浅草蔵前に移転し、閻魔堂の別当となります。
往時は参詣客が絶えず、賑やかであったとされます。本尊の閻魔王は大仏師、運慶の作であり、「江戸の三閻魔」の一として有名でしたが、関東大震災により焼失しました。華徳院は杉並区松ノ木へ再建されています。

蔵前

蔵前の付近には徳川幕府の米蔵があったことから「蔵前」と付けられました。幕府の非常備蓄米としての役割と領地を持たない旗本・御家人に支給する給料米でした。

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江戸名所図会「倉前閻魔堂・牛頭天王・十王堂」

「牛頭天王社」が現在の須賀神社のことです。

蔵前閻魔堂跡碑をあとに日光街道へ戻りすぐ先、須賀橋交番前信号を右へ入っていくと「第六天榊神社」があり、境内には「浅草文庫跡碑」や「蔵前工業学園跡碑」があります。

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第六天榊神社

景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の折に創祀したといわれ、古くから「第六天神宮」と呼ばれてきましたが、1873年(明治6)に「榊神社」へ改称しました。当初は「鳥越の丘」にあった鳥越神社の末社でしたが、1620年(元和6)米を保存するため浅草御蔵を建設するため埋め立てを行うこととなりました。「鳥越の丘」を切り崩し埋め立て用の土としたため、蔵前へ移りました。関東大震災の後、1928年(昭和3)に現在地へ移ってきました。

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浅草文庫跡碑

1874年(明治7)に創設された官立の図書館がありました。蔵書は11万冊とも13万冊とも言われ、現在は国立公文書館、国会図書館、国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆跡と伝わる「浅草文庫」の朱印が押されています。1881年(明治14)閉館。石碑は1940年(昭和15)に建立されています。

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蔵前工業学園跡碑

浅草文庫が閉館されたため、1881年(明治14)「東京職工学校」(後に東京高等工業学校、現東京工業大学)が開設されました。1923年(大正12)関東大震災により施設の大半を焼失したため目黒区大岡山に移転し、その後の1928年(昭和3)に榊神社が移ってきました。
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武奥増補行程記、第六天榊神社付近

日光街道へ戻り170m、蔵前一丁目交差点左手に「浅草天文台跡」の案内板があります。

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浅草天文台跡

1782年(天明2)幕府の天文、暦術、測量、地誌編纂、洋書翻訳などを行う施設として天文台が置かれました。正式には「領暦所御用屋敷」といいます。
天文方、高橋至時が観測を行った場所であり、弟子の伊能忠敬は全国の測量を始める前に深川の自宅との方位と距離を観測し、緯度1分の長さを求めようとしていた場所です。

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葛飾北斎「富嶽百景 鳥越の不二」

高さ9mほどの築山の上に天文台が築かれていました。

さらに蔵前二丁目交差点を左へ曲がり、しばらく日光街道から離れて寄り道をしていきます。左へ曲がり130mの路地をさらに右折し、1つ目の十字路右手が「法林寺」、左手が「西福寺」です。

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法林寺

慶長年間に開山したとされ、西福寺の塔頭となり、1624年(寛永元)、塔頭から寺院に昇格しました。1638年(寛永15)に西福寺とともに現在地に移転しました。高嵩谷(こうすうこく)の墓所がありますが非公開です。

高嵩谷(こうすうこく)

1730年(享保15)江戸に生まれ、名を一雄、号を屠竜翁(とりゅうおう)、翠雲堂と称した絵師です。元禄期を代表する英一蝶に学び、一蝶風俗画を得意としましたが、後に武者絵に新境地を開きました。1804年(文化元)75歳で没し、法林寺へ葬られました。

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西福寺・育英小学校発祥之地

徳川家の本拠地だった駿河国府中に1574年(天正2)徳川家康により開基されました。1608年(慶長13)に江戸の駿河台に移り、1638年(寛永15)現在地へ移りました。 隣には、家康を祀った「松平神社」がありましたが、関東大震災のため、現在は鳥越神社に合祀されているそうです。

育英小学校発祥之地

1869年(明治2)、明治新政府は小学校の設置を定め、翌年東京に6つの小学校が設立されました。その一つが西福寺の境内におかれた、育英小学校の前身である第4校でした。付近の旧大名や旗本・その家臣の子弟達が入学しました。

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江戸名所図会「西福寺」

かつては境内地が7000坪もあった大寺院だったようです。

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勝川春章の墓

1726年(享保11)生まれの春章は江戸中期の浮世絵師で、勝川派の祖です。勝川派は門下に春英や春好、後に葛飾北斎となる春朗などを輩出し、明和から寛政期の役者絵を独占して描いていました。 1792年(寛政4)67歳で没しています。
右側面に辞世の句が刻まれています。

『枯ゆくや今ぞいふことよしあしも』

彰義隊の供養塔は西福寺南の墓地の中にあったようですが、忘れてしまいました・・・

精華公園の前を抜けて進むと右手に蔵前小学校があり、十字路右手に「夏目漱石学び始めの碑」があり、左手に「浄念寺」があります。

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夏目漱石学び始めの碑

精華小学校は1874年(明治7)創立し、夏目漱石はこの年に入学し、1876年(明治9)までの2年間在学したようです。

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浄念寺

1596年(慶長元)、善連社性誉上人専阿浄念露休大和尚が神田駿河台に開創し、1605年(慶長10)に現在地に移転しました。横綱千代の山や三島政行が葬られています。
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江戸名所図会「浄念寺と龍宝寺」

描かれている川は「新堀」だと思います。現在の「新堀通り」でしょう。

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横綱千代の山の墓

第41代横綱の千代の山は北海道出身で出羽海部屋所属、1951年(昭和26)〜1959年(昭和34)まで横綱として活躍。引退後は九重親方として1970年(昭和45)浅草に「九重部屋」を設立しています。後に昭和の大横綱となる千代の富士が入門した部屋です。

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三島政行の墓

1780年(安永9)三島政春の六男として生まれ、三島正世の養子となります。通称を政蔵といい、知還翁、凸凹斎などと号しました。1826年(文政9)江戸府内の地誌「御府内風土記」の編纂を手掛け、「新編武蔵風土記稿」などの編纂にも参画しています。1856年(安政3)77歳で亡くなっています。
浄念寺前の「川柳横丁」へ入っていきます。150mほど右手に小さなお寺ですが、「龍宝寺」があります。

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川柳横丁と龍宝寺

川柳文芸の始祖、柄井八右衛門は1718年(享保3)に生まれ、名主を務める傍ら1757年(宝暦7) 前句附点者となります。前句附点者とは前句を出題する人で、他のものが後ろに長句を付けます。俳号である「川柳」が文芸名として定着し、今日に受け継がれています。

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柄井川柳句碑と柄井川柳墓

『木枯や跡で芽をふけ川柳』

関東大震災、大空襲で消失し、現在の句碑は1955年(昭和30)に再々建されたものだそうです。

左側の墓碑が初代、柄井川柳のもので、右側の墓碑が二代目の墓碑です。初代墓碑の右後方には1889年(明治22)建立の「元祖川柳翁一百回紀年標」があります。

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不動板碑

板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて追善供養などの目的で造られたものです。1293年(正応6)の銘があり、造立者の父を供養する目的で建てられたことがわかっています。
龍宝寺をあとに春日通りへでると左へ進み、次の三筋二丁目交差点に「川柳発祥の地の石碑」があります。

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川柳発祥の地の石碑

1757年(宝暦7)龍宝寺門前で柄井八右衛門が川柳と号して初めて万句合を開催して以来、盛んに行われ、今日に至る川柳の礎を築いてから250年に当たり、開祖の偉業を顕彰して2007年(平成19)に石碑が建立されました。
春日通りを日光街道へ戻っていき350m、右の路地へ入っていくと「藏前神社」があります。

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藏前神社(旧御蔵前八幡宮)

御蔵前八幡宮は勧進相撲発祥の地であり、1833年(天保4)本所回向院が定場所となるまでの拠点の一つでした。

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落語元犬の像

古典落語に「御蔵前八幡宮」が登場するものが2つ紹介されています。

「元犬」

蔵前の八幡さまの境内で満願かなって人間になった真白い犬が奉公先で巻き起こす珍騒動・・・

「阿武松」

江戸時代、勧進大相撲発祥の地、蔵前の八幡さまで名横綱に出世した相撲取りの人情噺です。

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奉納力持の碑

1824年(文政7)御蔵前八幡宮(現蔵前神社)で行われた「力持」を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下生の歌川國安です。描かれている「大関金蔵」は、神田明神下の酒屋・内田屋の金蔵で当時有名な素人の力持ちでした。
藏前神社をあとに再び春日通りへ戻ると「榧寺」へ入ります。

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榧寺(かやでら)

1599年(慶長4)、普光観智国師によって開山され、当初は「池中山盈満院正覚寺」といいましたが、境内に榧の木が茂っており、火災から寺を守ったという逸話から、江戸時代より「榧寺」と呼ばれていました。1952年(昭和27)、正式に「榧寺」となりました。
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江戸名所図会「榧寺・八幡宮(御蔵前八幡宮)」

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武奥増補行程記の榧寺付近

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葛飾北斎「榧寺の高灯籠」

境内には浮世絵の高灯籠に模したモニュメントもありました。
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娘義太夫初代竹本綾之介顕彰碑と墓

1875年(明治8)大阪で生まれ、母は義太夫の三味線方だったことから幼少から義太夫の芸を仕込まれました。東京で娘義太夫が流行り始めたため上京し、浅草の寄席へ出演し一躍人気を博しました。

石川雅望の墓は墓地へ入りすぐ左手奥に進み、奥のコンクリート壁で隔たれられた一角にあります。

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石川雅望墓

1753年(宝暦3)旅館糟屋七兵衛こと浮世絵師の石川豊信の子として生まれ、狂名を「宿屋飯盛」といい、狂歌四天王に数えられています。国学においては「源註余滴」や「雅言集覧」を著し、「(百人一首)古今狂歌袋」などの狂歌絵本や「万代狂歌集」などの狂歌選集、「草まくら」などの紀行文もあります。

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横綱安藝ノ海墓

第37代横綱の安藝ノ海は広島市出身で出羽海部屋所属、1943年(昭和18)〜1946年(昭和21)まで横綱として活躍。双葉山定次の70連勝を阻止した「世紀の一番」で知られています。

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洋画家安井曾太郎墓

1907年(明治40)フランスへ留学しますが、7年後に第一次世界大戦が勃発したため帰国します。昭和期を代表する洋画家とされ、1931年(昭和6)から全12図の『安井曾太郎版画集』を出版。戦後の『文藝春秋』の表紙画を担当していました。1955年(昭和30)、心臓麻痺により67歳で死去。

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お初地蔵

1922年(大正11)に養親により児童虐待をうけ折檻死した10歳の養子の被害者を供養するために建てられたものです。当寺の住職は被害者を哀れんで遺骨を引き取り、「お初地蔵」に納めました。当時は事件を題材にした芝居や映画も製作されて、多くの人の涙を誘ったといいます。

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榧寺縁起碑・銅造観音菩薩坐像

銅造観音菩薩坐像は、宝暦年間(1751〜1764)に宝生寺の僧、快心の発願によって江戸を代表する鋳物師、粉川市正が制作したものです。
14:30 厩橋交差点で日光街道へ合流し、日光街道を北へ進んでいきます。