2025年11月1日

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古河駅前のコインパーキングに車を駐車し、JRに乗車し栗橋駅へ。バスもありますが、駅前からタクシーに乗りました。タクシーで利根川を渡ります。

利根川の河川敷の幅は江戸時代と比べると2倍近くとなっています。拡幅された部分のほとんどが中田側であったため、中田宿はほとんどが移転し「中田松原」を中心とする地域へ移りました。

利根川を渡った先でタクシーを降りました。

8:30 中田宿から歩き出します。利根川橋を渡りすぐに左へ入り、堤防下を歩くと現在の中田宿へ入っていきます。道なりに650mほどで左手に「鶴峯八幡宮」があり、その先に「光了寺」「円光寺」と続きます。

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中田宿

江戸時代の中田宿は現在の利根川の橋の下、利根川に面していて現在は河川敷となってしまいました。再三の移転を経て現在の街並みとなったのは大正時代から昭和時代にかけての利根川改修工事によるものです。

宿場としては隣の古河宿や杉戸宿への継立業務を毎月15日ずつ半分に分けて中田宿、栗橋宿が交代で当たるという合宿でした。 本陣(藤田家)・問屋・旅籠・茶店などの商家が水辺から北へ船戸、山の内、仲町、上町と続き、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで530mほど軒を並べていました。 1843年(天保14)の記録では家数69軒、人口403人、旅籠6軒。

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鶴峯八幡宮

1180年(治承4)治承・寿永の乱の最中、源頼朝の命により下総・武蔵国の豪族らが集められ富士川の合戦へ向かいました。その際に頂上に鎮座していた稲荷様に勝利祈願。戦いに勝利した頼朝は1181年(養和元)相模の鶴岡八幡宮より勧請し「鶴ケ峰八幡宮」と称しました。初代神職に鶴岡八幡宮初詞宮、高橋摂津守の次男、高橋鴨次郎吉元が務めました。 1234年(天福2)香取宮を勧請し、元弘年中(1331~1334)には新田義貞が参籠(籠もって祈願)、栗橋城の守護宮として足利成氏らが祈願しています。

江戸末期から洪水対策、河川改修工事の為移転、破壊、放火、宝物盗難にあい、縮小されつつも再建され、現在へ至ります。

永代太々神楽

鶴峯八幡宮の「永代太々神楽」の起源はさだかではありませんが、1725年(享保10)近郷近在の神官たちにより五穀豊穣、家内安全、国土安穏のため奉納されたと伝えられています。この神楽は天岩戸の前で奏したという磐戸神楽の流れで、12種類の舞で構成されているため、「十二座神楽」ともいわれ、古式を伝えています。

1930年(昭和5)から地元の人たちで保存会が結成され、現在も続いており、茨木県の指定民俗文化財無形民俗文化財に指定されています。

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小久保城南翁胸像

1865年(慶応元)中田宿で生まれ、1908年(明治41)衆議院議員となり、田中正造を助けたとされます。
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光了寺

もとは武蔵国葛飾郡高柳村(久喜市)にあり、親鸞聖人の弟子・西願が開いた寺で、静御前の遺跡として知られています。静御前の舞衣と伝えられる蛙蟆竜(あまりょう)の御衣があるとされます。光了寺5世感悦の代に栗橋へ移り、6世悦信の代に現在地へ移りました。

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聖徳太子堂(松葉太子)

太子が3歳の時、乳母が桃の花と松の枝を差し出したところ、「桃の花はいっときの美しさ、松葉は長持ちするめでたい木だから」といって松の枝を選んだとされます。「聖徳太子伝暦」が伝える逸話に基づいて手に松葉を持った姿が彫られた「松葉太子像」が祀られています。
首内に1403年(応永10)に修理がなされた墨書があり、製作年代は鎌倉末期から南北朝前半と考えられています。

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芭蕉句碑

『いかめしき 音やあられの ひのき笠』

1817年(文化14)建立。
「日光道中分間延絵図」を見ると、円光寺の入口あたりに「中田の一里塚」があったようです。

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中田の一里塚跡

木立は杉だったとされますが、現在塚はなく、案内板などもありません。
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円光寺

「日光道中分間延絵図」に記載がありますが、創建など詳しいことはわかりません。

光了寺をあとにさらに日光街道を進んでいきます。100m進むと右手に「本願寺」、すぐ先左に「顕正寺」があります。

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本願寺

寺伝の詳細は分かりませんが、絵図では鶴峯八幡宮の隣に位置しており、利根川の改修工事で現在地へ移ったようです。

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板碑

江戸時代文化年間に峯崎の地より発掘されたものです。1380年(康暦2)、1368年(貞治7)の板碑などが並んでいます。

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顕正寺

開祖は幡谷城主の幡谷次郎左衛門信勝(唯信)で、常陸の国茨城郡水戸城主江戸尾張守信義の子です。十六代の善了の時、古河市中田の阿弥陀堂に移し、顕正寺と改めました。
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日光道中分間延絵図「中田宿」

顕正寺から750mほど進むと左手にカーブしていきます。このカーブから右へ曲がっていく道は「日光道中分間延絵図」には「関宿道」と記されています。このあたりから茶屋新田へと入っていきます。さらに300mほど進むと右手に「中田(茶屋新田)の松原」の案内板がありました。

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中田(茶屋新田)の松原

1855年(安政2)幕末の志士、清河八郎は旅中記にこのように記しています。『ここから古河までは一里半の道のりで、仙台道中、最も綺麗な松並木である。(中略)その並木の松の間から古河の天守閣が眺められ、また富士山も時には雲の上に姿を顕わし景色が大そうよい』

天保のころに書かれた「日光道中略記」には、この並木は永井尚政氏が古河城主の時の1630年(寛永7)植えたもので、手入れ、植え足し、土手を築かせ並木の敷地として9尺(約2.7m)以上を確保させたとあります。そして野火の防止にも注意が払われ、松の根元には初茸が生え、クツワムシ、ウマオイの生息地として親しまれたと書かれています。
案内板から150mほど進むと右手に香取神社がある広場があります。その向かいあたりは立場となっていました。現在、その面影は全くなく、普通の住宅地となっています。

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立場茶屋新田

幕末頃の茶屋新田の家数は22軒、立場が設けられていました。村名の「茶屋」は戦国時代に古河公方の茶屋があったからだとされます。
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香取神社

本田の屋根裏に「宝永元年」(1704年)と記されており、これが創建年と考えられています。現在の社殿は1989年(平成元)新築されたものです。「日光道中分間延絵図」には香取・八幡・稲荷が描かれています。

茶屋新田から1kmほど進み、西方面へ向かうと「古河公方館址」があり、東側へ向かうと鮭延越前守の墓がある「鮭延寺」静御前の伝説が残る「思案橋」があります。今日は寄り道しませんが、別日に行ったときのことを書き留めておきます。

2kmほど進み、国道354を過ぎさらに300m右手の路傍には「十九夜塔」があり、古河第二高校の校庭の片隅に「原町一里塚」があります。

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十九夜塔

十九夜塔のある路地は大堤村へ至る古道だったようです。

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原町一里塚

明治時代に入り取り壊されていましたが、のちに復元されたものです。柵で上手く写真が撮れなかったですが、一里塚と書いてある支柱が建っていました。
500mほど進むと右手に大きな「祭礼道道標」があります。

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祭礼道道標

雀神社の夏の例大祭において、中央町1丁目の「お仮屋(御旅所)」に神輿を巡幸します。巡幸中は大名といえどもお仮屋の前を通ることをはばかり、東裏に迂回する道を設け、これを「祭礼道」とし、諸大名の参勤交代もこれに従ったとされます。横山町にも道標があります。
このあたりから古河宿へと入っていきます。

古河宿

1843年(天保14)「宿村大概帳」によれば、人口3865人、家数1105軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒、本陣は2丁目にあり、大田氏が務めました。問屋は台町、一丁目、二丁目、横町に1軒ずつ、計4 軒あり、宿役人が1か月交代で務めていました。

往時は祭礼道との分岐のすぐ先に木戸がありました。200mほど左手に「浄善寺」があります。

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浄善寺

詳細は不明ですが、「日光道中分間延絵図」には記載があります。
この先、台町三差路で日光街道を離れ、古河の城下町を散策していきます。三差路を左へ進み、すぐに右手の細い路地へ入ります。さらにすぐ右へ曲がると「神明神社」があり、200mほど進むと正面に「一向寺」があります。

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神明神社

詳細は不明ですが、「日光道中分間延絵図」には記載があります。絵図には神明の他に稲荷、手前には白山・天神・桂昌寺・金毘羅・稲荷・覚泉院など多くの寺社があったようですが、現在は神明だけが残っています。
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一向寺

近江番場宿の蓮華寺の末寺。開山は庭阿一向で、1276年(建治2)没。本尊は阿弥陀如来で、傍に観音勢至があります。

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田代三喜顕彰碑

日本医学中興の祖とされる「田代三喜」の顕彰碑です。最近建立されたような真新しさがあります。

田代三喜

1794年(寛政6)田代兼綱の子として武蔵国越生、ないし川越で生まれました。15歳の時に僧侶となり、その後下野の足利学校にて医学を修学、23歳のとき遣明使の船にて明国に渡り、日本人医師月湖から金の李東垣、元の朱丹渓を学びました。

34歳で帰国し、鎌倉の円覚寺内江春庵に居を構えたのち、下野国足利へ転居しました。

猪苗代兼栽の中風の治療などの功績が古河公方の目に止まり、1509年(永正6)45歳のときに古河公方の御典医となりました。1544年(天文13)79歳、古河で亡くなり、足利氏開基である永仙院に葬られました。

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十九夜塔

如意輪観音は女性の罪を救済する仏として広く女性の信仰を集める女性の講でした。十九夜講や二十三夜講などの本尊として信仰の対象となってしました。1695年(元禄8)に原町の20名が伝阿弥を尊師として念仏供養を行い建立した塔です。現存する市内最古の十九夜塔です。

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田代三喜木像復刻石仏「なで仏」

田代三喜の木像が江戸時代後期に一向寺に奉納されましたが、1901年(明治34)の火災で焼失。その後1937年(昭和12)に復刻され、2018年(平成30)には石仏と六角堂が完成しました。
一向寺をあとに一向寺南の道を進み、最初の十字路を左へ曲がり丁字路を右へ。国道354を越えた左手が「永仙院跡」になります。

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永仙院跡

かつて、初代古河公方足利成氏開基、春貞周乾開山により、成氏法号の「乾享院」と称した鎌倉円覚寺系列の寺院が古河にありました。これがのちに、第四代足利晴氏の菩提寺として晴氏法号の「永仙院」に改称、開山も季竜周興に改められたと考えられているそうです。

「古河志」では、徳源院・松月院とともに、古河の「足利開基三ヵ院」と称されていたと記載されています。

江戸時代後期には無住持の状態が続き、1871年(明治4)には廃寺となり、栃木市藤岡町蛭沼の山王寺に合併されました。

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名医田代三喜の供養塔

永仙院跡へ入っていくと中央あたりに井戸がありますが、その右手あたりにあります。先ほどの一向寺に顕彰碑があった田代三喜の供養塔です。「天文十三」(1544年)と彫られています。

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永仙院歴代住持の墓

三伯昌伊(円覚寺156世)、天甫昌円(円覚寺157世)を中心に、岫雲玄瑞(円覚寺159世)など住持の無縫塔が残っています。

歴代の住持は政治分野で活躍したものが多く、戦国時代の季竜周興は古河公方晴氏・義氏の側近となり、江戸時代初期にも三伯昌伊、天甫昌円の兄弟は円覚寺156世・157世となって、ともに鎌倉円覚寺の再建に尽力しました。
永仙院跡をあとにさらに西へ向かいます。300mほどで渡良瀬川の堤防へと至り、階段を上り堤防上へでました。現在河原となっている場所に古河城の本丸があったようです。

広い河原には野球場もあり、右手のほうにはドローンの練習場にもなっていました。土手に座り、ドローンの練習を眺めながらちょっと休憩。 すぐ左手のほうに「古河城本丸跡」の案内板があります。

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古河城本丸跡

築城の年代は定かではありませんが、平安末期に下河辺荘の荘司、下河辺行平が築城したといいます。代々同氏の本拠でありましたが、南北朝の1382年(永徳2)小山四郎に攻略され、小山氏の家臣に与えられました。1440年(永享12)の結城合戦後、足利成氏が鴻巣に居館を構え、古河公方と称しました。
古河公方足利成氏が1455年(康正元)に古河に移座し、古河城は整備・拡張されていきました。一応の完成をみたのは土井利勝が本丸に三階建ての櫓を造営した1635年(寛永12)とされます。

規模は南北1800m、東西650mほどでした。古河城は平城で、西は渡良瀬川に沿い、東南は折廻した沼沢で北面南背の構えの要害であり、城下は城の東北辺に発達しています。本丸には御三階櫓、菱櫓、巽櫓、弓櫓、御殿がありましたが、本丸御殿は江戸中期に取り壊されています。

1874年(明治7)廃城令によって取り壊され、建物や門、石垣に至るまで払い下げられました。1910年(明治43)に始まった渡良瀬川河川改修工事によって立崎郭、頼政郭、二ノ丸、本丸、東帯郭、西帯郭、三ノ丸を失ってしまいました。出城であった諏訪郭だけがそのあとを留めています。

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日光連山

山頂に少し雲がかかっていますが、男体山、大真名子山、小真名子山、女峰山などが見えています。

堤防をおり、堤防沿いの道を北へ350mほど進み、堤防から離れ斜め右手の住宅地へ入っていきます。途中、右手の住宅前に大きな馬頭観音がありました。

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馬頭観音

堤防から離れ、住宅地へ入っていくと最初の丁字路を左へ曲がるとすぐに「古河城丸の内郭桜門跡」の石碑があります。

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古河城丸の内郭桜門跡

丸の内曲輪と観音寺曲輪を結ぶ門が「桜門」だったようです。桝形の虎口だったようですが、現在は何も残っていません。
国道354号へでて古河駅方面へ向かっていくと左手に「古河城 桜町曲輪 獅子ヶ崎土塁跡」右手に「長屋門」、そのすぐ先が「古河城御成門跡」となっています。

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古河城 桜町曲輪 獅子ヶ崎土塁跡

古河城土塁の中でも最も戦略的要地として重要視されていた場所とされています。
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古河藩重臣屋敷の長屋門と古河城御成門跡

さらに200mほど進んだ交差点を右へ曲がり、100m進んだ左手に「長谷寺」があります。七五三シーズンで晴れ着を着た子供がお参りに来ていましたね。

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長谷寺(長谷観音)

1493年(名応2)古河公方足利成氏が古河城の鬼門除けとして鎌倉より勧請したとされます。奈良の長谷寺・鎌倉の長谷寺と並び「日本三長谷寺」と称されています。1590年(天正18)古河公方義氏が再興しました。

少し戻り、右へ曲がっていくと諏訪曲輪へ入っていきます。左手に古河歴史博物館があり、右手には「鷹見泉石記念館」があります。

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古河歴史博物館

古河城の諏訪郭だった場所に建っており、今もその土塁が裏に残っています。「古河城出城諏訪曲輪跡」の石碑が建物の入口にありました。

中も見学しました。古河城の模型が良かったですね。古河城は渡良瀬川の改修により、よくわからなくなってしまっていますので模型で見るとよく理解することができました。また、古河藩家老の鷹見泉石の研究内容や河鍋暁斎の解剖の資料など興味深いものが多かったです。

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鷹見泉石記念館

蘭学者 鷹見泉石の晩年の住まいで、古河城の余材を使って建てたと伝えられている建物を改修して公開しています。江戸時代に作られたものとして唯一のヨーロッパ国図「新訳和蘭国全図」など、数々の研究に没頭した住居でした。

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行書字額「可琴軒」

鷹見泉石には、楓所(フウショ)・泰西堂・可琴軒などの雅号があります。この可琴軒という字額は、長崎渡来の清国人、劉東藩による書で、1847年(弘化4)泉石の隠居に合わせて揮毫されました。可琴には余生を楽しむといった意味が込められていると考えられています。なお、可琴軒の字額は古河在住の小山霞外の手による字額も伝えられています。どちらも国の重要文化財に指定されています。

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鷹見泉石の家

海外情報について教えを請う幕府の役人たちが泉石のもとを訪れたといいます。

鷹見泉石の家の西側に画家、奥原晴湖の画室であった「繍水草堂」があります。

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繍水草堂(シュウスイソウドウ)

明治時代を代表する女流南画家、奥原晴湖の画室です。当初は埼玉県熊谷にありましたが、清湖が亡くなった後に一部が古河の実家に移築されました。保存にあたり、画室をさらに現在地へ移築し、旧屋敷図を基に玄関と廊下は復元されました。

蔵の中には奥原清湖と繍水草堂についての展示がされています。

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繍水草堂内部

座敷内に入ることはできませんが、中庭から見学することができます。

鷹見泉石記念館をでて次の丁字路を左へ。道なりに進み最初の路地を左へ曲がると「古河文学館」があります。この建物の前に「鳥子歌碑」があります。

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鳥子歌碑

『今もかも 巴波の川は きし高み 青葉にこもり 水や流るゝ』

若杉鳥子は1892年(明治25)古河の豪商の子として東京で生まれますが、1歳で芸者置屋の養女となりますが、学齢までさらに近在の貧農へ里子へ出されました。16歳で上京、小間使、新聞記者として自活しながら創作活動をしました。19歳で結婚しますが活動は続け、1925年(大正14)発表の「烈日」で女性プロレタリア作家の草分けと評されました。
少し戻り、先程曲がってきた丁字路を左へ曲がります。すぐ右手に「三神町稲荷神社」がありました。さらにその先には古河名物の鮒甘露煮・鮎甘露煮を販売している「ぬた屋」があり、すぐ先に「内田茶園」があります。

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三神町稲荷神社

古河城の鬼門除けとして創建され、明治になってから町内で管理されるようになったといわれています。子供稲荷とも呼ばれています。

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ぬた屋

江戸末期、新潟県小千谷のおつまさんが古河の立場茶屋「松村屋」に嫁にきました。松村屋は馬方に酒とつまみを出し帰りには弁当としてお握りを持たせていました。そのつまみが「鮒の煮付け」でした。この鮒の煮付けは小千谷の冬の保存食として一般的でした。古河ではおつまが初めて作り、評判となりました。当時の古河は湿地や湖沼が多かったため、鮒がたくさん獲れていました。

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内田茶園の小麦まんじゅう

地元農家が栽培した小麦を使用した皮と北海道の小豆で作った餡。保存料などの添加物が全く使用されていないため、本日中に食べないとだめだそうですが、安心できるお饅頭です。お土産にはできないのが残念です。1個130円とリーズナブルなのもうれしいですね。ふわふわの皮にやさしい甘さの餡で美味しかったです。

60m進むと「古河城御茶屋口御門跡」があり、日光街道へ戻ってきました。

長くなりましたので、【後編】へ続きます。