2024年11月23日
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14:00 引き続き、幸手宿へ向けて進んでいきます。

渡辺勘左衛門邸
渡辺勘左衛門家は1722年(享保7)杉戸宿に移り住んで以来、多数の農地を集積し、小作人を多く抱えるとともに、江戸中期以降は、質屋業を営み、杉戸宿及び近郊の住民へ金銭等の貸し付けを行ってきました。
1900年(明治33)杉戸銀行を設立し(神明神社東の埼玉りそな銀行)また、杉戸尋常小学校、杉戸高等小学校設立の際には多額の支援を行うとともに、1923年(大正12)の杉戸農業学校設立時にも、校舎建設地を寄贈するなど大きな貢献をしました。

九軒茶屋跡
渡辺勘左衛門邸から200mほどが、かつて「九軒茶屋」と呼ばれて付近ですが、全く面影はありません。
200mほどで国道4号と合流します。さらに200m先の交差点を右へ曲がると駐車場の一角に
「八幡神社」があります。
八幡神社
詳細は不明ですが、日光道中分間延絵図の
「上杉戸八幡」と思われます。境内には1720年(享保5)の庚申塔などがありました。
さらに日光街道を700mほど進みます。このあたりは国道のため車も多いですが、一本入ると農地が広がっています。左手に
「厳島神社」があります。
厳島神社
慶長年間(1596-1615)の頃、小谷堀の開拓に従事した武士、
野口太郎左衛門親澄が氏神として祀ったのが始まりとされます。寛文年間(1661-73)に村の鎮守として現在地に移しました。小さな祠は「天満宮」です。日光道中分間延絵図の「弁天」と思われます。小さな池らしきものも描かれています。
350mほど先の「大島」交差点を右へ入り、150mほど左手に
「稲荷神社」があり、境内に
「恭倹舎」があります。
日光道中分間延絵図の「下高野村」

稲荷神社
創建は明らかではありませんが、一説には戦国末期ともいわれています。本殿には1793年(寛政6)奉納の大絵馬がかかっているそうです。境内には他に天神社が祀られています。

恭倹舎
1785年(天明5)関口保宜、名主・藤代吉左衛門、大島有隣が共同で建設した教舎です。日光道中分間延絵図には「恭倹舎」の文字は見えませんが、境内にそれらしき建物が描かれています。
大島有隣
江戸時代の心学者(道徳家)の大島有隣(うりん)は名前を義展、通称幸右衛門といい、1755年(宝暦5)大島村で生まれました。
29歳のときに同村の関口保宣とともに江戸に行き、関東心学会の最高峰中沢道二に弟子入りました。1785年(天明5)郷里に戻り、「恭倹舎」を創建、この地の心学の普及に当りました。心学を講義する傍ら江戸日本橋の参前舎に入門しました。有隣が最も活躍したのは文政期(1818~1829)で、全国の大名・旗本の屋敷で講義を行い、町民・寄場人足の教化にあたりました。心学に関する著作としては,『心学和合歌』『心学初入手引草』『心学心得草』があります。
恭倹舎から日光街道へは戻らずに、さらに奥へ進んでいきます。すぐ先右手に
「名主藤城家」があり、その先350mを左へ曲がると
「大島院」があります。

名主藤城家
恭倹舎を創立した藤代吉左衛門家で、現在も大きなお屋敷です。樹木に覆われていましたが、木々の隙間からわらぶき屋根が見えました。

大島院(だいとういん)
大島村の開発者、大島小左衛門(大島右京亮)が1613年(慶長18)に開創したと伝えられます。現在お寺らしさはなく、民家のように見えますが、看板には「大島院」と書かれています。
大島院の左手に
「有隣塚」があります。

有隣塚
向かって左手の石塔が「有隣塚」、右手の石塔は有隣の先祖であり、大島院を開いた大島右京亮の墓石です。有隣塚は心学者で道徳家の大島有隣(1755~1836)の75歳のお祝いに建立されたものです。側面に1829年(文政12)と刻まれています。
手前の大きな石碑は有隣の顕彰碑で、歴史学者の三上参次博士が文章を記し、1932年(昭和7)郷土の青年団によって建立されたものです。有隣は1836年(天保7)82歳、江戸で亡くなっています。
長々と寄り道してしまいましたが、日光街道へ戻ります。大島交差点を右へ曲がり日光街道を250m、左手の山田うどんの駐車場角に一里塚の案内板があります。

茨島一里塚跡
往時、塚の上には榎が植えられていました。明治時代なかば以降には交通の発達や道路の拡張工事にともない撤去されています。
16:00 さらに350m左手に「杉戸高野台駅」があります。幸手まで行きたかったですけど・・暗くなってしまうので本日はこれで終了します。疲れました!
2025年4月12日
東武日光線、幸手駅前のコインパーキングに車を駐車し、幸手駅から電車に乗り一駅、杉戸高野台駅へやってきました。前回、疲れて途中で帰ってしまいました。ほんの3kmほど残してしまいました。
8:35 杉戸高野台駅を出発します。東口から駅を出て150mほどで日光街道でもある国道4号へでます。左へ曲がり、幸手宿へ向けて進んでいきます。

暫くは国道を進んでいきます。620mほど進み、左手から旧道へ入っていきます。

旧道へ入ると農地が増え、鴨がのんびりとてくてく歩いていたりします。500mほど進むと右手に「幸手市南公民館」があり、道路に「上高野村道路元標」があります。

上高野村道路元標
この先700mほどの御成街道追分にあったものです。1990年(平成2)の道路工事の際に現在地へ移されました。
すぐに首都圏中央連絡自動車道の下をくぐり、さらに500mほど進み小さな橋を渡ると丁字路になります。ここが
「御成街道追分」でした。

御成街道追分
日光街道は宇都宮まで奥州街道を兼ねており、千住から草加、春日部を通りここで日光御成道と合流しています。川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、徳川家光の時代に整備され、東照宮に参詣する代々の将軍が通行していました。また、地元では「羽生道」と呼ばれている道も合流していました。
右へ曲がり、すぐ先右手の小さな墓地の前に石仏が並んでいました。さらにその先は
「聖徳太子堂」、すぐ先に
「上高野神社」があります。
石仏
聖徳太子堂
日光道中分間延絵図には記載がありますが、詳細は不明です。1873年(明治6)八坂神社(上高野神社)梅林寺栄明宅において上高野小学校が創立されました。1878年(明治11) 太子堂を仮校舎と して「上高野学校」が開校したとされます。
上高野神社
街道に面した鳥居脇には高札場がありました。現在は鳥居もありません。
虚空蔵・天王(上高野神社)・八坂・神明・稲荷・香取・日枝・愛宕・羽黒天神・浅間・第六天神、上高野地区の神社を合祀しています。

大般若六百巻書写供養塔
鈴木百淵の業績として「大般若波羅蜜多教」600巻の書写があります。両親の死後、冥福を祈り1762年(宝暦12)から経典の書写を始め、1781年(天明元)20年に及ぶ大願を成し遂げました。翌年の1782年(天明2)上高野神社の境内に「大般若六百巻書写供養塔」を妻とともに建立しました。
鈴木百淵
上高野村に居住していた心学者で、1710年(宝永7)の生まれと推測されているそうですが、没年は不明です。父親は医者で、出羽国米沢の出身です。父の死後、仏教を深く信仰し、母の死後に縁を頼って上高野村へ移り住んだと言われています。光福院に「文中堂」という寺子屋を開き、子どもたちに読み書きを教えていました。「幼童便蒙」「元源本尋」などの著書を残しています。
上高野神社参道の向かいが
「神宮寺」、そのすぐ先右手が
「光福院跡」ですが、寺はすでになく、墓地だけが残っています。

神宮寺
1844年(天保15)新宮寺第14世願誉本冏上人による縁起があり、次のように記されています。
文治年間(1185~89)のこと、源頼朝は敵対する藤原泰衡を討伐するため奥州へ向かう途中、逃げ出した鷹を追ってこの地へ訪れました。
鷹は薬師堂の大樹へ止まり餌をもって呼んでも下りてきません。頼朝は堂守に命じ、仏師・
春日賢門作とされる薬師如来へ鷹が戻るよう祈願させたところ、鷹は頼朝の左肩に飛び降りてきました。頼朝一行は奥州合戦の帰陣後に七堂伽藍の寺院を建立したと記されています。

本堂改築之碑
1956年(昭和31)に建立された「本堂改築之碑」には、『神宮寺ノ創建ハ文治年間(1185~89)、鎌倉時代ニ時ノ征夷大将軍源頼朝公ノ開基』と源頼朝との由緒が記述されています。

片男浪仙吉の墓
片男浪仙吉は、江戸時代の相撲年寄、雷権太夫(イカズチゴンダユウ)の門弟で、幸手市出身の力士でした。四股名は「角田川千吉」といい、七代目雷権太夫の娘を妻とし、1863年(文久3)に亡くなりました。
薬師堂・石灯籠
神宮寺縁起の薬師堂です。薬師堂の石灯籠は1806年(文化3)の銘があります。霊験あらたかな薬師様として戦前には参詣者で賑わっていました。薬師・十二神将は立派な彫刻で、
春日賢門の作と言われています。

光福院跡
1636年(寛永13)に没した善海を開山としています。上高野の大阿寺に不動山観蔵院と周防山光福院が合寺したようです。この墓地に「鈴木百淵墓」があります。

鈴木百淵墓
「文中堂」という寺子屋を開いたという「光福院跡」の墓地に鈴木百淵夫妻の墓石があります。また、下川崎の安楽院には、鈴木百淵夫妻の供養塔があるとのことです。
150mほどで東武日光線を越えます。さらに350m余り進むと
「志手川」を渡ります。
志手川(倉松川)・志手橋
志手橋を渡ったこの周辺は幸手宿の入口で、開発者の新井右馬之助にちなみ、右馬之助町と呼ばれていました。
志手橋を渡るとすぐ右手に
「神明神社」、隣に
「岸本家住宅」、斜向かいに
「明治大帝行在所碑」があります。江戸時代には神明神社前に
高札場が掲げられていました。
神明神社とたにし不動尊
神明神社は、1755年(宝暦5)に伊勢皇大神宮の分霊のーを祀った神社です。境内には成田・菅谷両不動尊があり、菅谷不動尊が「たにし不動尊」と言われています。
「たにし不動尊」に、たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれます。
田螺(タニシ)不動の起こり
安政の頃(1854~60)小林善平という者が眼病で苦しんでいましたが、ある時、成田不動尊が夢枕に立ち、越後の菅谷不動尊の信心をすすめるので越後へ赴いて参詣したところ、たちまち眼病が治ったとされます。感激した善平は、右馬之助町の上野屋庄兵衛の協力を得て、成田不動と菅谷不動の二尊堂を建立したとされます。以来、眼病平癒の不動尊として信仰され、「田螺のような丈夫な眼をお授けください」と願ったことから「田螺不動」と呼ばれたとされます。
測量几号
灯籠の基礎に几号が刻まれています。1874年(明治7)にイギリス式の測量方法が導入され、東京・宮城県塩竈間の水準測量を行った際に神社の鳥居や灯籠等に刻まれたものです。

岸本家住宅
かつて醤油醸造業を営み、屋号は「上庄」と呼ばれ、幸手宿指折りの商家として栄えていました。

明治天皇幸手行在所碑
1876年(明治9)奥羽巡幸、1881年(明治14)山形・秋田・北海道巡幸、1896年(明治29)の近衛師団小機動演習天覧の際に幸手を行在所とし、1876年(明治9)には元本陣の知久家に、右馬之助町の元名主の中村家に宿泊しています。
すぐ先の「幸手駅入口」交差点を左へ曲がり、幸手駅へ向かいます。駅の中を通り、西口へでます。ロータリーを南へ向かい、調整池の脇を通り
「祥安寺」へ向かいます。
幸手駅のモニュメントと桜

祥安寺
この地を開発した新井右馬之助の養子である新井平左衛門が、妻と娘の菩提を弔うため建立したとされます。また、ここは一色氏の居城である幸手城の馬場であったとされます。

新井右馬之助墓地
新井右馬之助は、幕府の宿場制度に伴う伝馬需要の増加に対応するため、1699年(元禄12)に上高野村内の土地を開発し、新しい町「右馬之助町」を形成しました。開発後に中村家と改名したとされています。

鈴木百淵遺徳碑
先程、光福院跡にお墓のあった「鈴木百淵遺徳碑」です。鈴木百淵が写経した「大般若波羅蜜多経」は祥安寺に収められています。父母の供養のため、1762年(宝暦12)から1781年(天明元)にかけて写経したものです。これを病人の枕元で開くと、その風で病が治るといわれていました。
祥安寺をあとに幸手駅へ戻ります。
11:00 幸手駅到着です。午後は「古河公方公園」を見学しました。