2024年10月13日

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9:30 昨日宿泊したルートイン野田」からは車で30分近くかかったでしょうか。北越谷駅のコインパーキングへ車を駐車し、東武伊勢崎線で越谷駅までやってきました。今日はかなり短い距離ですので、のんびり行きます。

越谷駅から東へ300mほどで日光街道へぶつかります。左へ曲がり、越ヶ谷宿へ入っていきます。日光街道を100mほど進むと「新町八幡神社」の参道があります。

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新町八幡神社

1353年(文和2)の創建と考えられています。小さな御手洗石は1682年(天和2)の銘があり、拝殿前にある灯籠は1829年(文政12)の寄進、灯籠前には2つの力石が置かれています。一つには「嘉永五年(1852年)神奈川龍吉持之」、もう一つに「会田石」と刻まれています。

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今日は久伊豆神社の例大祭「越ヶ谷秋まつり」が行われていました。町が賑やかです。旧越ヶ谷の八ケ町(本町一丁目、二丁目、三丁目、中町、新石一丁目、二丁目、三丁目、弥生町)にはそれぞれの山車があるそうです。写真は新石一丁目の「鍾馗様」ですね。
越谷宿には数件の古い商家が残されています。越谷二丁目交差点から40m左手に「田中米店」、斜め向かいに「行徳屋」、その隣に「旧白屋旅館」が残っています。

新町には小説家沙羅双樹の生家である煙草卸商で栄えた大野家、味噌醸造の井橋家、明治から昭和の初めにかけ、平塚に支店をもった呉服商「万寿屋」の会田家など大きな商家が軒をならべていましたが、現在はその面影はありません。

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田中米店(永楽屋)・行徳屋・白屋旅館

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日光道中分間延絵図「越谷宿」

さらに70mほど左手に「横田診療所」があります。

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横田診療所(旧越ヶ谷郵便局)

1873年(明治5)郵便取扱所が設置されました。現在の建物は1935年(昭和10)の建築で、1967年(昭和42)に横田診療所となったようです。
横田診療所から65mほど進み左へ曲がると改修された「油長内蔵」が残されています。

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油長内蔵

山崎長右衛門が経営した商家の土蔵がリニューアルされて、現在はまちづくりの拠点として利用されています。 山崎長右衛門篤利は「油長」の山崎家13代目当主です。51歳の時に江戸の平田篤胤が開いた家塾「気吹屋」に入門しました。
その後平田篤胤の刊行する書籍のスポンサーとなっています。また養女里勢が篤胤の3人目の妻となったため、篤胤は度々越谷へ訪れ、油長へ泊まっていきました。

60m進んだ交差点、左手が赤山街道、右手は古奥州街道へつながる「観音横丁」です。観音横丁を東へ入り、久伊豆通りへ出る一本手前が「古奥州道」で、庚申塔道標がありました。(現在中町箕輪家で保管)さらにその先河川事務所・保育園のところは往時突き当りになっており、江戸時代は仕置き場になっていたそうです。

左へ曲がり赤山街道へ入ります。

赤山街道

「鳩ヶ谷道」とも呼ばれ、赤山陣屋(現川口市赤山)まで通じる街道です。赤山には関東を治める関東郡代伊奈氏の赤山陣屋がありました。ここから赤山陣屋まで約6kmほどです。

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有瀧家のタブノキ

赤山街道へ入ると右手のお屋敷が「伊勢屋」と号した幕末期の大商人有瀧家です。古道に沿った黒塀が昔の家構えの面影をとどめています。有瀧家の塀沿いに右手へ曲がると大きなタブノキが・・上部が切られていますね。大木の面影がありません。

大通りに出ると「浅間神社」があります。

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浅間神社

創建は不明ですが、1426年(応永33)、1476年(文明8)の裏書のある懸仏が残されているようで、かなりの古社と思われます。

浅間神社南側の大通りを通り、日光街道へ戻ります。すぐ左手に「木下半助商店」、その斜め向かいに「塗師屋(小泉市右衛門宅)」、その隣に「鍛冶忠」の古い建物があります。

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木下半助商店

木下家は江戸時代から商いを始め、明治以降は金物商を営んでいましたが、1899年(明治32)の大火で被災したため、現在の建物を順次建築しました。

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塗師屋(小泉市右衛門宅)

江戸時代から塗師屋の屋号をもった有力な呉服商で、屋敷構内には今でも巨大な土蔵が二、三棟残されています。かつて平田篤胤の門人に名を連ねた小泉市右衛門がこの家の数代前の先祖にあたるそうです。

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鍛冶忠

土蔵造りの商家です。現在も金物屋として営業しているのがすごいです。
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日光道中分間延絵図「越谷宿(大澤宿)」

さらに100mほど右手に「旧大野家住宅(はかり屋)」、左手に「会田金物店」その隣が「遠藤家の蔵」です。その向かいあたりが「市神神明社」です。

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旧大野家住宅(はかり屋)

宮本町、大野家の分家で、最初は肥料店を営んでいました。のちに「秤」を扱うようになったことから「はかりや」と呼ばれるようになりました。土蔵は1905年(明治38)以前に建築されたと考えられており、後に曳家をして現在地に移設されたと伝えられています。
石畳の通路はもとは「トロッコ用線路跡」で、船から荷下ろししたものを馬で店まで運び、奥行きが長かったのでトロッコで奥の蔵へ運んでいました。戦時中、鉄の供出をしたので今はありません。 主屋は大工棟梁の金子浅次郎で棟木に名前が残されています。現在は古民家複合施設として再生、地域交流の場となっています。

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会田金物店・遠藤家の蔵

会田金物店は往時、堀伊左衛門家、屋号は「富田屋」でした。現在も金物店が営まれています。 遠藤家は白生地の木綿問屋を営んでいました。

本日は久伊豆神社の例大祭「越ヶ谷秋まつり」のため、市神神明社は大賑わいです。

市神神明社の北側路地は日光道中分間延絵図の「往還廻り道」(御殿下道)と記載がある路地です。 往還廻り道(御殿下道)分岐の先右手は、元荒川までの約100mの広大な敷地が塩屋吉兵衛屋敷跡とされます。

塩屋吉兵衛

1817年(文化14)釈大浄という人が越谷の桃の花を見物に来て、吉兵衛宅へ宿泊しあまりにも豪華なもてなしに驚き、「越ヶ谷の駅、塩屋(池田)吉兵衛の供応」と題した記録を残しています。これによると池田家は油と塩を商う大問屋で「しほや吉兵衛」と称されていました。屋敷は往還に沿って約100m、奥行320m、蔵は54棟あったとされ、本陣に支障があるときは大名の宿泊所となるほどで「越ヶ谷の天下さま」と言われたそうです。飢饉のときはいち早く救済活動を行い、多額のお金を拠出したそうです。

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武奥増補行程記「越谷」1751年(寛延4)発刊

当初、本陣は会田八右衛門家が務めていました。しかし会田八右衛門家は、1772年(安永元)没落しその後は大沢町の照光院があてられ、1781年(天明元)より大沢町大松屋福井権右衛門が本陣を引き継ぎました。

この絵図では塩屋吉兵衛屋敷跡と思われる敷地に「御本陣 会田八右衛門」と記されています。会田八右衛門家は、1772年(安永元)没落し越ヶ谷町を退転したそうですので、会田家が去った後に塩屋吉兵衛がその土地に入ったのかと思われます。

一里塚は日光道中分間延絵図には記載がなく、不明でしたが「武奥増補行程記」には荒川のたもとに一里塚が描かれており、だいたいの場所がわかります。

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市神神明社

1442年(嘉吉2)勧請、1713年(正徳3)創建。1592~96の頃より毎月27日に市が開かれ、越ヶ谷の六斎市の守り神として信仰されました。もとは大沢橋南詰めにありましたが、1996年(平成8)道路拡幅工事のため、現在地へ移されました。

日光街道を離れ、市神神明社横の路地を元荒川方面へ進み、久伊豆神社へ寄り道していきます。最初の十字路で右へ曲がり、突き当りを左、県道を越えて真っすぐ進みます。

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左手の住宅地が途切れると草地の広場にでます。ここが日光道中分間延絵図に「御殿場跡、御林」と記載のある場所と思われます。1924年(大正13) 元荒川改修工事の際、御殿の礎石とみられる大きな角石が数個出土したそうです。また、御殿跡からはべっ甲の櫛も出土しています。
道なりに進むと葛西用水に架かる「御殿橋」にでますが、渡らずに左へ曲がり、葛西用水沿いに進むと水門の上に「越ヶ谷御殿跡碑」があります。

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越ヶ谷御殿跡碑

1604年(慶長9)増林にあった御茶屋御殿を越谷郷の土豪会田出羽資久の敷地内に移し、壮大な御殿を建造しました。家康はしばしば越谷御殿に宿泊し、民情視察を兼ねた鷹狩を行っていました。 2代秀忠も1ヶ月に渡り宿泊し、鷹狩に興じていました。1657年(明暦3)江戸大火で江戸城が全焼したため越ヶ谷御殿を解体し、江戸へ運び江戸城を再建しそれ以降、御殿は建設されませんでした。
道なりに70mほどで「建長元年板碑」、その隣に稲荷神社があります。

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建長元年板碑

越谷周辺から発見されている板碑は秩父の緑泥片岩で造られています。この板碑は、1249年(建長元)の年号が刻まれており、市内最古のものです。稲荷神社は絵図の「稲荷・月読・山神・山王相社」と記載がある社と思われます。

道なりに150mほど進むと宮前橋(寺橋)の手前に石碑がありました。

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「寺橋」由来の碑

かつて古荒川と呼ばれた元荒川は1629年(寛永6)治水対策のため、瀬替を行いました。天嶽寺は河川改修に伴い、遮断された旧越谷町内との通行利便のため、天嶽寺第四世城誉上人の発願により橋が架けられました。
宮前橋を渡ると久伊豆神社の参道となりますが、その左手に多くの石仏があります。

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猿田彦大神道標と六十六部供養塔道標

猿田彦大神道標には『南こしがや 北のじま・いわつき』と刻まれています。1807年(文化4)建立。 六十六部供養塔道標には台石に『かハしも二ごう半 川かみかすかへ』と刻まれています。1758年(宝暦8)の銘があります。

天嶽寺へ入っていくと黒門左手に「山口正定の菩提碑」があります。黒門は修復中でした。

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山口正定の菩提碑

山口正定は幕末の水戸藩士、尊皇攘夷派として活動、藩主徳川慶篤の上洛に随行し、京都の警護に従事もしました。明治維新後は権参事を経て第2代茨城県県令(知事)を務めています。1907年(明治40)に建立されたこの碑は、狩猟官であった山口正定を顕彰する碑です。江戸川筋御猟場の管理・運営に携わった官使や地元の有力者の名が刻まれています。

江戸川筋御猟場と山口正定

江戸川筋御猟場は、1883 年(明治16)に宮内省が千葉県下江戸川筋に設置した皇室の狩猟場です。越ヶ谷町をはじめとする66か町村にわたる地域が禁猟区に指定されました。そのため鳥害の甚大な被害があり、鳥害防除に補助金が交付されるようになりました。一方、御猟場を解除された町村もありました。この地域を猟区に指定し、入猟料を徴収し一般に解放し、希望者が東京市等から殺到したといいます。乱獲により数年を経ずに鳥類は激減しました。繁殖などにも務めましたが、結局は戻ることはなかったとされます。山口正定は江戸川筋御猟場の主猟局長であり、管理・運営・手当金の調整などを務めていたようです。

黒門と赤門とのちょうど中央くらいの左手に無縁墓地があり、多くの墓石が集められています。その中の向かって右手の一番端の一番後ろに「小杉藤左衛門」の墓碑があります。

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小杉藤左衛門の墓碑

墓碑正面には梵字の下に夫婦の戒名と年号が記され、右側に「俗名 小杉藤左衛門尉景房」とあります。無縁墓地へ移されてしまったようで、ちょっと可哀想・・

小杉藤左衛門(小杉藤左衛門尉景房)

小杉藤左衛門尉景房は、小田原北条家の浪人とされ、小田原城落城後に越谷へ落ち延びてきた人のようです。 先ほど通過した「越ヶ谷御殿」は古く古志賀谷氏館、天文~弘治年間には会田出羽資清の屋敷でした。家康の命により1604年(慶長9)には、徳川家康の鷹狩の際の御殿となりました。この御殿の御番役として小杉藤左衛門と浜野藤蔵の名が上がってきます。明暦の大火後、御殿が江戸城へ移築されたため無役となったようです。子孫は江戸へ出て伊賀同心組下などになったそうです。越ヶ谷宿本陣に勤めた福井猷貞により文政頃に著された「越ヶ谷瓜の蔓」にも記載がある人物です。

赤門の手前、左手に大きな「越谷吾山句碑」があります。

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越谷吾山句碑

『ひとつるべ 水ひかるや けさの秋』

吾山150年忌を記念して1934年(昭和9)に建碑されました。

越谷吾山

本名を秀真といい、1717年(享保2)越谷宿新町名主会田家に生まれ、若年より江戸などの文化と交流して俳諧に精進し、のちに「法橋」という芸道の位に推挙されました。しかし、新町の旧家会田家を没落させたため、五十歳前後の頃に一家をあげて江戸馬喰町に退転したとされます。1775年(安永4)には諸国の方言を分類解説した「諸国方言物類称呼」を刊行し、後世方言学の始祖と称され高く評価されています。 1787年(天明7)71歳で没しました。

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赤門

赤門は徳川家康より寺領高15石が寄進された際に、許されて建立されたと伝えられています。

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天嶽寺

1591年(天正19)、朱印地を与えられた古刹で、寺伝によると太田道灌の伯父ともいわれる専阿源照による1478年(文明10)開山、その後小田原北条氏の城砦にも用いられ北条氏による寺領黒印状が交付されていたと伝えられます。
本堂横から墓地へ入り、30mほど北西へ進んだちょうど本堂の西面あたり、神田家の墓所の中に「越谷吾山の墓」があります。

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越谷吾山の墓

吾山の墓は、滝沢馬琴によると深川霊厳寺にあったとされますが現存していないため、この墓石は吾山唯一の墓石といわれています。戒名「法橋往誉吾山師竹居士」が中央に、右には浩誉妙清信女、左には柔戒智光信女と刻まれています。浩誉妙清信女は神田家から嫁いだ吾山の後妻とされます。
久伊豆神社の参道へ戻り、参道を進みます。左手の公園を過ぎたあたりの左手に平田篤胤遺徳の碑、その前に土井晩翠の歌碑がありました。さらにその少し先に道標と庚申塔がありました。左手の池に面して大きな藤棚があります。

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土井晩翠の歌碑・平田篤胤遺徳の碑

土井晩翠の歌碑には笹川臨風染筆により「気吹の屋 いつのみ霊の宿れりし、あとなつかしき越ヶ谷のさと」と刻まれています。 両碑とも平田篤胤没後100を記念して「越ヶ谷町平田篤胤研究会」が1942年(昭和17)建立したものです。 往時、平田篤胤はしばしば越ヶ谷町を訪れており、越ヶ谷町には小泉市右衛門など三人の門人がいたことが明らかになっています。

土井晩翠

1871年(明治4)仙台市に生れ、第二高等学校を経て、東京帝大英文科を卒業、1899年(明治32)に詩集「天地有情」を刊行しました。滝廉太郎作曲の「荒城の月」は晩翠の作詩です。大正期はむしろ英文学者として活躍し、昭和になってからはホメロスの翻訳に打ち込んでいます。晩年の晩翠は1932年(昭和7)長女、翌年に長男をなくし、1940年(昭和15)には残された次女を相次いで失う不幸に見舞われています。戦後は校歌の作詞に専念し、1952年(昭和27)急性肺炎のため死去しました。

平田篤胤

1776年(安永5)に秋田佐竹藩の藩士の子として生まれ、幼少期に中山青我から漢籍を学び、国学を修めました。20歳のときに江戸に出て苦学し、後に備中松山藩士平田篤穏の養子となりました。本居宣長の古道精神を継承し、復古神道を主張。その思想は門弟に引き継がれ、幕末期の尊王攘夷運動などに大きな影響を与えています。 境内には「平田篤胤仮寓跡」と書かれた案内板がありますが、平田篤胤が越谷へ訪れた時の仮寓があったようです。

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道標・庚申塔

道標には「是より野田道」と彫られています。1797年(寛政9)氏子中奉納。もとからここにあったのかどうか不明です。

久伊豆神社の藤

樹齢およそ200年と推定される大藤は、1941年(昭和16)埼玉県の天然記念物に指定されています。1837年(天保8)越ヶ谷町の住人川鍋国蔵が下総国流山から樹齢50余年の藤を舟で運び、現在地へ植えたとされます。川鍋国蔵は棕櫚箒(しゅろほうき)を作って売る職人でしたが、寺社の祭礼や縁日には店を開き、すしを売ったので、通称「すし大」とも呼ばれた。藤の花盛りにも店を開き、すしを売りながら「この藤は地味が良いせいか育ちが早い」などと語っていたといいます。現在でも5月初旬の花の頃には盛大に藤祭りが行われています。

拝殿の広縁の両側に前足を縛られた石造狛犬が置かれています。

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縛られ狛犬

「一名足止めの狛犬」とも呼ばれ、1722年(享保7)の奉納です。この狛犬の足を麻縄でしばって願をかけると、不思議に家出人が戻ったり、悪所通いで家に寄りつかない者が外へ出なくなるという信仰がありました。今も縛られているので、願をかけている人がいるのでしょうね。

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久伊豆神社

創立年代は不詳ですが、社伝によると平安末期とされ、鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市(きさい)党の崇敬を受けていたとされます。1467年(応仁元)伊豆国宇佐見の領主、宇佐見三郎重之がこの地を領したとき、鎮守として太刀奉納するとともに社殿を再建したと伝えられます。江戸時代になると徳川将軍代々の信仰が厚かったといいます。拝殿前の石造阿茄獅子は会田資武が奉納したものです。
拝殿の右側に「三ノ宮卯之助力石」が祀られています。

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三ノ宮卯之助力石

力石は、力仕事を人力に頼らざるを得ない時代において、力比べをしたり、体力を鍛えるために用いられた石です。1831年(天保2)の銘があり、卯之助が24歳のときに五十貫目(約190kg)の力石を持ち上げたとされる文字が刻まれています。

三ノ宮卯之助

三ノ宮卯之助は江戸時代後期に三野宮村(越谷市三野宮)出身で、力石や米俵などの重量物を持ち上げる興行を行いながら全国各地を回り、日本一の力持ちと言われました。各地の神社には「三ノ宮卯之助」の銘が刻まれた力石が残されています。越谷市内では、久伊豆神社、三野宮香取神社に4個、三野宮向左家に確認されています。

拝殿裏の境内社もまわり、池のほうへ戻ります。今度は池の西側を通ってみます。

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久伊豆神社の池

いつ頃の造成か不明ですが、日光中禅寺湖をかたどったといわれ、池畔の盛土の丘には一面につつじが植えられ、花の季節には見事な景観をみせるそうです。今日は天気がいいので多くの亀が日光浴をしていますね。

水神社を過ぎると右手に「越谷吾山歌碑」があり、さらに池を回っていくと「平田篤胤仮寓跡」の案内板があります。

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越谷吾山歌碑

『出る日の旅のころもやはつかすみ』

1849年(嘉永2)、伊勢太々講中によって建碑されたもので、江戸へ旅立つときの句でした。

平田篤胤仮寓跡(旧松声庵跡)

平田篤胤が妻の実家がある越谷へ訪れていたことは確かですが、この仮寓に逗留したかどうかは不明とされます。しかし、1820年(文政3)に絵馬額「天之岩戸開之図」を奉納しており、越谷に来たときは参拝のため久伊豆社を訪れたことは間違えないと考えられています。

祖霊社の向かいには「木遣り歌碑」という大きなモニュメントがあります。

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木遣り歌碑

木遣(きやり)は労働歌として生まれました。越谷に残る木遣は、江戸幕府が開かれた以降に伝わったと思われ、鳶によって歌い継がれてきました。久伊豆神社の祭礼では山車の曳唄、練唄として今日まで歌い継がれてきましたが、年々伝える人も少なくなり、1983年(昭和58)に越ヶ谷市木遣保存会を創立し、木造りの伝承・保存を行っています。
久伊豆神社の駐車場を抜け、神社西側の道を元荒川へ向かって進みます。しばらく真っ直ぐ進むと天嶽寺の墓地の横を通り、丁字路にぶつかります。真っ直ぐ行ければいいのですが・・なぜか真っ直ぐの道がなく、右へ曲がり、小さな地蔵堂のところから葛西用水の脇へ出て、用水路沿いに元荒川方面へ進みます。元荒川まででると何やら大きな機械のようなものがありました。

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地蔵橋地蔵尊

江戸中期、八代将軍吉宗の頃、1737年(元文2)以前より安産・子育てのお地蔵様として信仰されてきました。

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葛西用水 元荒川伏越

伏越は、逆サイフォン構造によって河川や水路の河底を通過させる工法です。写真に写るものものしい機械のようなものは除塵機だそうです。ゴミを取り除いているのですね。

元荒川沿いを進めば日光街道へ戻ります。大沢橋の北詰あたり、正面に大沢宿跡公園がある場所にでました。長い、長い寄り道から戻ってきました。

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大沢宿跡公園と明治天皇大澤御小休所跡

明治天皇が日光街道を経て東北地方へ巡幸した際に本陣である大沢町の福井権右衛門家に小休されました。1876年(明治9)、1881年(明治14)に2回、計3回小休されています。

越谷宿大沢町

大沢の地名は、当地の住人深野源七郎が、1030年(長元3)、富士山に登拝し、大沢の滝から五色の光をはなつ影向石を持ち帰り、この石を神体に浅間宮を勧請したことから大沢の地名がおこったと伝わります。また一説には当地は荒川(現元荒川)に臨んだ沼沢地で、大小幾多の池沼が散在していたことから大沢と名付けられたともいわれます。はじめは越ヶ谷宿の合宿として、鷺後(さぎしろ)や高畑から移転した人々により成立した人工集落でした。高畑はほとんどの人が移転したため空家ばかりになってしまい、畑地に開発され、「高畑新田」と呼ばれるようになったとされます。

大沢宿跡公園の隣の駐車場となっているあたりが「饂飩屋跡」とされます。

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饂飩屋跡

江戸時代からの由緒を伝える川魚料理屋でした。このほか越ヶ谷には明治から大正にかけて繁昌した三階楼の加賀屋、天ぷらも扱った天芳屋・元芳屋、芳村屋・山本屋などの川魚料理屋が川べりに軒をつらねていました。往時は元荒川で獲れた鯰や鰻・鮒・鯉そのほかどじょうなどが川魚料理の材料になりましたが、川の汚濁と魚類の減少にともない、繁昌を誇った川魚料理屋は姿を消していきました。
50mほど進んだ左手に本陣問屋大松屋福井家があります。現在、街道沿いはお店などになっていますが、その奥に今でも残っているようです。

越ヶ谷宿の本陣は、当初は会田八右衛門が名主・問屋・本陣を世襲で行ってきましたが、1772年(安永元)没落。本陣は大沢町の照光院にあてられ、1781年(天明元)より大沢町大松屋福井権右衛門が本陣を引き継ぎました。福井家には本陣役として使用した陣笠や本陣の宿札、そのほか「往還御用留」「大沢猫の爪」「越ヶ谷瓜の蔓」といった本陣記録や地誌類が数多く保存されているそうです。

福井猷貞(ゆうてい)

本陣福井家の福井猷貞は、1769年(明和6)の生まれで、大沢と越ヶ谷の郷土地誌「大沢猫の爪」、「越ヶ谷瓜の蔓」を編纂し、1822年(文政5)に病没しています。

福井本陣を過ぎると左手の路地へ入り、東武伊勢崎線の線路の下をくぐると「弘福院」があります。

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弘福院

弘福院は円空による阿弥陀如来の坐像を有しています。制作年は不明ですが、1689年(元禄2)頃に刻まれたと考えられています。

円空

円空は1632年(寛永9)美濃国竹ヶ鼻の生まれで、幼年にして仏門へ入り、白山頂上などに籠もり修行を積みましたが、富士山頂での修行に霊感を受け仏像12万体を彫ることを念願し、全国各地を歩いて木彫仏を残しましたが、1695年(元禄8)美濃国弥勒寺の長良川河畔にて居住、63歳で没しています。

本堂前の大きな宝篋印塔

1743年(寛保3) 弘福院の本尊観音の開帳の折、花火が打ち上げられましたが、その火種が原因で寺は全焼してしまいました。この時の花火の主催者、大沢町の島根大蔵は火災の責任を取って、金千両という大金を出して1748年(延享5)堂舎を再建しました。再建の記念として、この宝篋印塔を奉納したと伝えられます。

日光街道へ戻り、30mほど右手深野造園あたりが脇本陣「玉屋」だったようです。そのすぐ隣は大沢町の世襲名主兼、問屋を勤めた江沢家の大屋敷でしたが、今はその大間口は細分化され、様々な家になっており、往時の面影は全くありません。

江沢家の向かいが脇本陣「虎屋」跡になります。

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脇本陣「玉屋(深野家)」跡・脇本陣「虎屋(山崎家)」跡

220mほど進むと左手に「照光院」があります。

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照光院・大沢小学校創設の地

安永年間、本陣の没落後本陣にあてられ、日光門主(日光山輪王寺に居住する輪王寺宮法親王・皇族出身の僧侶)の小休所となったこともあります。
鐘撞堂周囲の無縁仏塔の中には江戸時代の大沢町の飯盛女の墓が混じっているとされますが、たくさんありすぎて見つけることは出来ません。また、越ヶ谷宿本陣を代々務めた大松屋福井家の墓所があり、本陣を勤める傍ら多くの本陣記録や地誌類を書残した越ヶ谷宿の文化人福井猷貞の墓碑もあります。 「大沢小学校創設碑」は(昭和52)建立。

さらに75m進み右へ曲がります。香取神社の入口がありますが、ひとまず入らずに、県道を渡った先の「光明院」を先に行きます。

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光明院

開基年代は不詳ですが、当院の過去帳は1537年(天文6)からの記帳があり、古くからの寺院であったと思われます。江戸時代は鎮守香取社の別当寺でした。境内には「塩かけ地蔵」があります。

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塩かけ地蔵

異様な形態の石像が覆屋に安置されています。多くの信者から満願のつど頭から塩を供えられたので、塩によって石が溶け今のような形になったとされます。あまりにもひどい状況になったため、隣に新たなお地蔵様が祀られたと思われます。
戻って香取神社の参道へ入ります。

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几号水準点

香取神社の二の鳥居の下の方に明治時代の几号水準点が彫られています。鳥居は1823年(文化6)の寄進。

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香取神社

応永年間(1394~1429)に下総国一の宮香取神社より分霊し造立されました。日光街道大沢宿の整備により寛永の頃(1624~1644)鷺後から現在の大沢へ移されました。
今日は七五三のお宮参りで賑わっていました。

大きな灯籠は、1789年(寛政元) 伊勢太々講と大沢町世襲名主江沢太郎兵衛の寄進です。

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紺屋労働作業彫刻

現在の本殿は1866年(慶応2)に再建されたものであり、浅草山谷町長谷川竹次良(豊原周春)による彫刻が見事です。中でも紺屋労働作業の様子が刻まれており、貴重な民俗資料ともなっています。往時、越谷・大沢は商業都市として特に紺屋業が盛んでした。

日光街道へ戻り少し進み、左へ曲がるとすぐ「北越谷駅」です。

北越谷駅

1899年(明治32)北千住・久喜間に東武鉄道開通に伴ない、越ヶ谷停車場(現在の北越谷駅)が開業しました。1920年(大正9)現在の越ケ谷駅の場所に越谷駅が開設されると、それまでの越ヶ谷駅は武州大沢駅となりました。1956年(昭和31)現在の北越谷駅に改称されました。

12:20 本日は北越谷駅で終了します。