2024年11月23日

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春日部駅近くのコインパーキングへ車を駐車し、東武伊勢崎線へ乗り「北越谷駅」へ向かいます。

9:00 北越谷駅を出発します。まずは日光街道へは向かわずに、西側の出口をでて300mほどにある「浄光寺」へ向かいます。

今日は風が強いです。気温はそれほど低くないですが、風が強く体感温度が下がります。かなり寒く感じる厳しい一日になりそうです。

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浄光寺

創建は不明ですが、1648年(慶安元)薬師堂領の内、五石が寺領として浄光寺に与えられており、朱印状には三代将軍家光の朱印があります。御朱印寺と呼ばれて「葵」の紋を付けるのが許されていました。
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五智如来堂

大房の薬師堂にあった「五智如来」です。1990年(平成2)薬師如来とともに浄光寺へ移されました。1718年(享保3)から1720年(享保5)にかけて奉納された青銅による五体の立像で、江戸の鋳物師太田駿河守正儀です。寄進者は江戸安針町講中をはじめ武州草加町、同瀬崎村、その他大房・大林・大沢など広範囲の講中が名を連ねています。

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浄光寺の薬師堂

807年(大同2)創立と伝わる大房の薬師堂(薬師如来)を1990年(平成2)に移されました。また、この薬師堂の堂舎は、日光東照宮造営のため日光街道を通った時、夕立のため雨乞いに立ち寄った飛騨の番匠左甚五郎が、一夜にして建立したという伝説を残しています。

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高浜虚子句碑

『寒けれど あのひとむれも 梅見客』

「越ヶ谷梅園」として知られていた浄光寺の園遊に招かれた虚子が詠んだもので、直筆が彫られています。
浄光寺をあとにすぐ西側の交差点を右へ曲がり、元荒川へ至る一つ手前の路地を右へ曲がると「大房稲荷神社」があります。

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大房稲荷神社

1825年(文政8)と1844年(天保15)の猿田彦大神、1693年(元禄6)と1841年(天保12)の庚申塔、1558年(永禄元)の板碑が並んでいます。
天保15の猿田彦大神はの側面には1899年(明治32)東武鉄道建設請負人遠藤君蔵配下の人々が再建した旨のことが刻まれています。東武鉄道建設工事の際、鉄道敷地にあったものをここへ移したものと考えられています。 小さな木造祠の奥には、1696年(元禄9) の水神宮、1714年(正徳4) の弁財天、1830年(文政13)の石祠が並んでいます。いずれも大房の別当千手院と刻まれているそうですが、所在地はわからなくなっているようです。

大房稲荷神社東側の道路から元荒川の遊歩道へでます。

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元荒川

気持ちよく歩ける元荒川の遊歩道を500mほど進むとようやく日光街道へ合流します。ここからは日光街道を進んでいきます。すぐ左手の土手に道標があります。

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古奥州道の庚申塔道標

右側の青面金剛と刻まれた文字庚申塔は1791年(寛政3)建立。側面に「左じおんじ・のじま道」と刻まれています。
200mほど先の路地を左へ入るとお寺には見えない「宝性寺」というお寺があります。

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大房の薬師堂跡(宝性寺)

現在の「宝性寺」付近に大房の薬師堂があったと言われています。

大房の薬師堂

薬師堂は806年(大同元)に創建され、「鵜の森の薬師」、「大江りの薬師」などとも呼ばれていました。飛騨の宮大工左甚五郎が日光東照宮修理の途中、夕立にあったため立ち寄り、あまりにも朽ちていた堂を見かねて一夜にして新たな堂を建立し、その足で急ぎ日光へ向かったとの伝説が残っています。 1597年(慶長2)徳川幕府より御朱印を受けた由緒あるお堂で、薬師様を祀っていましたが、老朽化のため1990年(平成2)に浄光寺の薬師堂へ移されました。

日光街道へ戻り、すぐ先左が立派な門の「宮内庁埼玉鴨場」です。さらにその先170mほどの路地を左手に入っていくと「大林寺」がありますが、門が閉まっていたので中へ入ることはできませんでした。

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宮内庁埼玉鴨場

鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として、 1907年(明治40) 皇室用の遊猟場として建設されたものです。往時は数万羽の鴨が飛来したそうですが、現在はきわめて少なくなったといわれます。
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大林寺

1720年(享保5)下総国五霞村の東昌寺の住職大震和尚の懇望により、大林村弥惣右衛門が敷地を寄進して建立され、「大林庵」と称しました。大震和尚の師大安和尚が開山。 その後大震和尚は江戸と関宿往復の途次大林庵を中継の宿泊所にあて、隠居も当所に定住しました。この間大震和尚は境内地に秋葉権現堂と稲荷社を勧請して万人講を取り立てました。 1805年(文化2)には「尼僧庵」となり、山王山東昌寺の門徒に組入れられて大林寺と改称しました。

大震和尚

大久保彦左衛門の末孫にあたる大久保権兵衛の子「万之助」です。大久保彦左衛門家は旗本、実父は大久保権兵衛、芸州広島藩の家臣、実母の実家は加賀藩、亀田大隅守との家臣であったとされます。 15歳の時、下谷龍谷寺で出家し、のち下谷龍谷寺・関宿東昌寺・広島国泰寺の住職を歴任、大林庵で81歳の生涯をとじました。

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富士三十六景「武蔵越かや在」

文化年間(1804~1818)越谷を訪れた江戸小日向の一向宗僧侶津田敬順は「十方庵遊歴雑記」に書き残しています。この中で見渡す限りの桃林であると、その見事さを称賛しています。また江戸の文人成島柳北も、「常総遊記」の中で、「この駅(越ヶ谷宿)尽くる処桃林あり、幾万株あるを知らず、都人称するところ越谷桃源とはこれなり」と記しています。
今はそのほとんどの桃林が伐採され住宅地になってしまいましたが、その歴史を残そうと「越谷梅林公園」が整備されたようです。 歌川広重の富士三十六景にも「武蔵越かや在」として富士を背景とした桃山が描かれています。

旧大林村の日光街道はあまり広くはないですが、結構な車の通行があります。歩道もなく危険ですが、 住宅地の中を進んでいきます。ファミリーマートの交差点から左へ行く道は「岩槻往還」と言われていた道です。さらにその先左手に「大林香取神社」があります。神社横は桃園のようです。

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大林香取神社

創建などの詳細は不明ですが、日光道中分間延絵図にも記載があります。稲荷、天神も描かれていますので、小さな祠はそれらかもしれません。 境内には1720年(享保5)の青面金剛像、1788年(天明8)の文字庚申塔、1828年(文政11)と1835年(天保6)の猿田彦大神、また1928年(昭和3)の農業協同組合育成経過記念碑などがあります。

日光街道へ戻り、少し進むと旧大林村から旧大里村へ入っていきます。セブンイレブンの向かいにコンクリートの小さなスペースに収まった庚申塔があります。

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大里の庚申塔

こちらのお宅、新築される際に庚申塔のスペースをしっかり作ってくれたみたいですね。大切にされています。
東武伊勢崎線の線路を渡り、少し進むと左手の狭い場所に石仏が数基まとめられている場所があります。

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勢至塚跡?

1790年(寛政2)の庚申塔、1698年(元禄10)の観音像、1628年(天和2)の地蔵、1669年(寛文9)の「奉造立石仏供養、衆中拾三人為二世安穏也」と刻まれた供養塔があり、13人の名が刻まれています。

日光道中分間延絵図を見ると、この付近に「勢至塚」が描かれています。「勢至(せいし)」とは勢至菩薩のことで、阿弥陀如来の脇侍として知られる菩薩で、阿弥陀三尊の一尊です。

旧大里村の日光街道を進んでいきます。低層の住宅街ですが、相変わらず車の通行が多いです。しばらく進むと右手に墓地がありますが、ここが「秀蔵院跡」になります。

さらに国道4号線の高架下をくぐり、右手側道を数十mの場所に「大里稲荷神社」があります。

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大里稲荷神社

往時、下間久里村の入口にあった神社です。このあたりから下間久里村でした。右手の境内社は明治末期に合祀された大里の八幡神社と思われます。
国道をすぎると車通りも少なくなり、歩きやすくなりました。日光街道へ戻るとすぐ左手の住宅に併設された「第六天」があります。日光道中分間延絵図によると街道右手にあったようですが、左手に移っています。

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第六天

勧請年は不明ですが、足の病に霊験あらたかであり、つねに「わらじ」が奉納されていたとされます。祠の中には算額が収められていました。下間久里の高橋要蔵が1862年(文久2)に奉納したものです。

すぐ先の畑の中の道・・という感じの路地を左へ入っていくと「下間久里不動堂」があります。さらにすぐ先左手の阿弥陀堂がある墓地が「開演寺跡」とされます。

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下間久里不動堂

往時は開演寺の墓地につづく境内地の一角で、寺小屋の校舎にも用いられていたともいわれます。
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下間久里不動堂の石仏

1772年(安永元)の月山湯殿山羽黒山供養塔、1825年(文政8)十一面観音供養塔、同年の青面金剛、(文政4)の庚申塔、1665年(寛文5)の庚申塔、1759年(宝暦9)の勢至供養塔、1747年(延享4)の弁才天の石祠が一列に並んでいます。また、開演寺の僧の墓石とみられる卵塔墓石が数基ありました。

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阿弥陀堂(開演寺跡)

ここには春日山開演寺と称された真言宗の寺院があった場所です。文字の判読ができない巨大な宝篋印塔供養塔が目印です。
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日光道中分間延絵図「下間久里・上間久里」

上間久里の日光道は本村の間を屈曲して通っていましたが、後に元荒川の川添地(1706年(宝永3)の改修で古川となる)に直道で付け替えられました。往時はまだ元荒川が流れていました。 1703年(元禄16)下総国の領主水野勝長が結城に城を築くことになり、この時家老水野長福が城地見分のため日光街道を通り結城へ向かいました。この際の紀行文の上間久里の項では「道に沿って川が流れている。漁をしている者が多い。川端の茶店はみなよしず張りである。夏はさぞ涼しいであろうと言うと、土地の者は仰せのごとくこの川は荒川の流れで水勢強く、炎天にも夏を忘れて立ちとどまる旅人が多い」と記されています。

静かな日光街道を300mほど進むと左手に「越谷市だるまの看板」があり、右手へ入っていくと「下間久里香取神社」があります。 このあたりに下間久里の一里塚があったと思われますが、今でははっきりとした場所はわかりません。日光道中分間延絵図から推定すると、下間久里香取神社のあたりにあったと思われます。

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越谷だるま

1880年(明治13)年の下間久里村明細帳には、張子達磨四万個、中仙道熊谷宿及上野国(群馬県)館林町へ多く輸す」とあり、農間余業として「越谷だるま」が盛んに作られていたようです。
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下間久里香取神社

創建は不明ですが、日光道中分間延絵図には記されています。無形文化財に指定された「下間久里の獅子舞」が知られています。

下間久里の獅子舞

1594年(文禄3)京都から伝わったとされます。獅子舞は笛や太鼓の音に合わせ太夫獅子、中獅子、女獅子3頭1組で舞うもので、祭礼日当日は下間久里の香取神社から行事が始まります。御幣を持った太夫を先頭に獅子が境内に入り舞を披露します。その後、太夫を先頭に笛、花笠、女獅子、中獅子、太夫獅子の隊列で村回りを行います。村回りでは各家々にて舞を行い、ヤドと呼ばれる家で休憩しながら、丸一日かけて下間久里地区全体を回ります。旧村境(上間久里地区・船渡地区との境)では御幣とお札をつけた長い竹を道路の端に刺し、最後の大里地区との境では太夫による「辻切り」が行われ、村中の悪魔を追い詰めてきて、ここで追い出すのだといいます。

下間久里香取神社をあとに静かな住宅地を500mほど進んだあたりが「鰻立場」です。

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秋田盧(上原家)・鰻立場 (間久里の立場)

秋田の佐竹氏が江戸との往返には必ず茶屋の一軒である上原家に立ち寄り、鰻を食したことから「秋田盧(しゅうでんろ)」と称され、書院・天井・畳敷きの部屋が設けられていました。 また弥次さん、喜多さんなど多くの旅人が立ち寄りました。往時は前に川が流れ、白鷺が浅瀬で魚をとろうとする姿や桃林の景色など趣があったとされます。
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武奥増補行程記「間久里」

『上まくり茶屋 名物うなき蒲焼 酒肴色々これあり候 裏に小堰これあり候 いけすにいつも数千匹のうなぎをかこひ置き候 なまずもこれあり候 うなぎよりは劣り候』と記されており、家並みの後ろにうなぎのいけすが描かれています。

少し戻り、国道へでて「上間久里」交差点を渡り、公園のトイレを拝借しました。公園の隣には「下堂」と書かれた墓地がありました。

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下堂(正覚寺跡地)

日光道中分間延絵図に記載のある「正覚寺」の跡地とされますが、絵図と比較すると「地蔵」と書かれている場所ではないかとも思います。古い宝篋印塔や無縫塔が残され、上間久里村の世襲名主上原家の墓石もあるようです。

この下堂前の細道を進んでいくと右手に広場があります。広場を過ぎ、次の四つ辻を左へ曲がると墓地があります。

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地蔵尊跡

「地蔵尊」と看板があるので、日光道中分間延絵図に記載のある「正覚寺」横の「地蔵」のようです。やはり絵図と比較するとこの広場や集会所を含めたあたりが、絵図にある地蔵尊と正覚寺の跡地のように思われます。
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地蔵尊・焔魔堂

墓地の奥に「焔魔堂」があり、入口に先程の地蔵尊跡から移設した石地蔵が並んでいます。

焔魔堂をでて国道4号と合流すると、再び日光街道へ戻ります。国道と合流した日光街道はかなり車も多く賑やかになってきました。国道をしばらく進み、新方川を渡ると右手に大きな石碑があり、「新方領耕地整理記念碑」と彫られていました。新方川の先は左手が春日部市、右手が越谷市になります。

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新方領耕地整理記念碑

新方領は、元荒川と大落古利根川にはさまれているうえ、大吉地先から大沢地先にかけて通称逆川と呼ばれる葛西用水が新方領を横断し、かつ北端は古隅田川によって画されています。つまり新方領は四本の流れによって包みこまれた地域でした。
そのため豪雨があると、領内耕地に水があふれ、しかも湛水期間は十数日に及ぶことも珍しくなかったといわれます。このような新方領地域に、農地の区画整理と用排水施設の整備を目的とした耕地整理工事の記念碑です。1907年(明治40)から協議が行われ、多くの困難の中、1916年(大正5)に完成しました。

さらに国道4号を会之堀川に沿って700mほど進むと左手に「大枝香取神社」があり、その奥に「歓喜院」があります。

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大枝香取神社

創建年は不明ですが、1814年(文化11)の棟札が残っています。「武里観音」の名で知られている隣の「歓喜院」の鎮守として祀られましたが、明治初年の神仏分離令により歓喜院より境内を分けて独立し、1909年(明治42)には字池の端の「浅間神社」、字井堀の「雷電神社」を合祀しました。
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歓喜院

火災で記録を失ってしまったため、創建年代は不明ですが、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載があります。

境内のペット墓地の奥、壁ぎわの宝篋印塔に「高低測量几号」が刻まれているそうですが・・・

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宝篋印塔

台座の右横に明治時代の「高低測量几号」あるらしいのですが、隣の石仏の台座とかなりくっついているので、見ることができませんでした。
歓喜院をあとに日光街道へ戻り、「武里駅入口」交差点を左へ曲がり200m「西光寺」へ寄り道します。

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西光寺

創建年は不詳ですが、光蓮社笈秀(寂年不詳)により開山、方譽泉察(1621年・元和7寂)により中興開山。泉察は小石川伝通院で修行し呑龍に法統を受け継いだとされます。
入口付近に「普門品供養塔」がありました。

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普門品供養塔

「奉読誦普門品拾万巻供養」と刻まれています。普門品は、法華経の第二十五品、妙法蓮華経観世音菩薩普門品の略で、観音経ともいいます。1754年(宝暦4)建立。
「武里駅入口」交差点へ戻り、日光街道へ戻らすずに直進、もうしばらく寄り道をしていきます。 会之堀川に架かる「会之堀橋(旧称がんまん橋)」を渡り、すぐの二股を左手へ入ります。すぐ右手の細道は古道で、「地蔵尊」があります。さらに150mほど進むと左手から「女帝神社」の参道があります。

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地蔵尊

左手の石塔には「浅草観世音 石橋建立供養塔」とあり、石橋供養塔のようです。 地蔵像供養塔は1673年(延宝元)、庚申塔は1719年(正徳5)、石橋供養塔は1762年(宝暦12)建立。

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女帝神社(女躰神社)

創建年は不詳ですが、1912年(明治45)に浅間神社と合併されます。その後の大正・昭和と村人の悲運が重なったため、昭和初期、仮宮を建立し女帝大神に御戻りいただきました。以来、村は繁栄したとされます。明治百年を紀年し、1967年(昭和42)昔と同じ社殿が再建しました。
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女帝神社

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女帝神社の石仏

様々な石仏がありましたが、左手に並んでいるものは1822年(文政5)と1846年(弘化3)の普門品供養塔のほか、金毘羅、庚申塔、天満宮、御嶽大神の石祠などがあります。1784年(天明4)の庚申塔が一番古そうです。

右手側には1829年(享保14)の六十六部廻国供養塔の他は全て墓石です。一番古そうなものが1662年(寛文2)の無縫塔です。

女帝神社をでて平方北通りを40mほど進むと、戸建住宅の塀に囲まれた石仏が祀られていました。

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稲荷大明神

1875年(明治8)と1922年(大正11)の稲荷大神が祀られています。
次の十字路を左へ曲がり、突き当りを右、次の十字路を左へ曲がるとようやく日光街道へ戻ってこれました。300mほど先の右手に「建御雷神社」があります。

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建御雷神社

寛文年間(1661~1673)村内の森泉金左衛門の所有地に落雷があったことから、上野国板倉の雷電神社の分霊を祀ったのが始まりと言われています。現在の社殿は明治期に再建されたと言われています。

日光街道を350mほど進み右へ曲がり、「称名寺」「林西寺」などに寄り道していきます。1つ目の路地を右へ曲がると「称名寺」です。

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称名寺

創建などの詳しいことは不明ですが、一阿修得上人が開山したとされます。日光道中分間延絵図に記載がありますので、1800年以前には既にあったようです。

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称名寺の六地蔵

日光道中分間延絵図に描かれている「六地蔵」です。1986年(昭和61)の資料に掲載されている写真には6体残っていますが、現在は2体のみのです。

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金精石神

1980年(昭和55)頃の境内整備工事の際に土中から発見されました。 全体は男根形で中央の凹部が女陰形を表しています。奇妙な文字は上下が逆さま、誉・生・忍・信の4文字が篆書で彫られています。妊娠を望む女性がこの石に座り、股を差して妊娠を願ったとされ、座った状態で下を覗き込み文字を読むために逆さに彫られたと考えられています。
称名寺をあとに元の路地へ戻り、この角に「庚申塔」があります。ここから日光街道に戻らず奥に250mほど進んでいくと呑龍上人ゆかりの「林西寺」があります。

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庚申塔

恐らく日光道中分間延絵図の街道沿いに描かれている「庚申」と思われます。元々庚申があった道はくねくねしていたので、道路改修で現在地へ移されたものと思われます。
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林西寺

開山年は不明ですが、呑龍上人を中興開祖としています。1591年(天正19)に朱印状を交付され、徳川秀忠による実物11通が残されています。

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呑龍上人の供養墓

墓碑は大光院の呑龍墓碑と大きさ、形が全く同じで、分骨埋葬されたものと見られています。

呑龍上人

呑龍上人は岩槻太田氏の家臣一ノ割村(春日部市)井上将監の次男として1556年(弘治2)に生まれ、14歳で林西寺に入り僧となり、後に増上寺の源誉存応(普光観智国師)のもとで修行に励みました。1584年(天正12)より林西寺の住職を務めましたが、1600年(慶長5)には多摩郡滝山の大善寺に移りました。 1613年(慶長18)徳川家康がその祖、新田義重の菩提を弔うため建立した上州太田大光院の開山僧に選任されて大光院に移りました。 1616年(元和2)法度の鶴を捕らえた若者をかくまい、小諸へ脱出しましたが1621年(元和7)許されて大光院へ戻り、1623年(元和9)亡くなりました。情深く、貧家の幼児を数多く養育したことから「子育呑龍」と称されました。

林西寺をあとに来た道を戻り、途中の用水路を越えた先、右手の水路沿いの道へ入っていきます。300mほど進んだ右手に小さな祠があります。

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地蔵の渡し跡

日光道中分間延絵図には街道沿いに「地蔵堂」が記載されています。この地蔵が渡し場へ行く目印になっており、「地蔵の渡し」と言われたそうです。この場所には「大日」が描かれていますので、祠の中には大日如来が祀られているのではないかと思い、絵図の地蔵は手前の1面に地蔵が2体、4面同じように彫られた石仏で、ここへ移されたのではないかと思います。
現在の日光街道沿い、中古車屋さんの角にお地蔵様があったようです。

地蔵の渡し跡からもう少し先へ進み、ポンプ場横を左へ曲がり、日光街道へ戻ります。その途中の右手に「稲荷神社」があります。

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稲荷神社

詳細は不明ですが、日光道中分間延絵図の稲荷神社だと思われます。
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日光道中分間延絵図「備後村」

日光街道へ戻り、粕壁へ向けて進んでいきます。130mほど右手奥に大きく立派な旧家がありますが、恐らく日光道中分間延絵図の高札の奥にある柵に囲まれた長屋門のあるお屋敷と同一ではないかと思います。そうであれば、江戸時代からこの土地に・・すごいですね。

日光街道を300mほど進むと「備後一里塚跡」の石碑があり、さらに200mほど右手に「善巧寺」があります。

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備後一里塚跡

一里塚の付近は「一里塚立場」になっていたようです。
その先右手には「善巧寺(ぜんぎょうじ)」というお寺があり、「藤塚橋」交差点で一旦、日光街道を離れて古利根川に架かる藤塚橋を渡ります。橋の袂に「藤塚橋碑」があります。

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藤塚橋と藤塚橋碑

昔は現在の藤塚橋の上流と下流に渡し場があったと考えられています。1933年(昭和8)坂巻治平らが藤塚橋組合を結成し、有料の木橋を架けました。その後1954年(昭和29)に市制を施行する際に買収され、1965年(昭和40)に現在の新橋に架け替えられたとされます。

日光街道へ戻り、ゴミゴミした日光街道である国道を1.8kmほどひたすら歩き、ようやく粕壁宿の入口である「八坂神社」へ到着します。

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八坂神社

江戸時代には「牛頭天王社」と呼ばれ、現在でも「天王さま」の通称で親しまれています。1770年(明和7)火災によって社殿が焼失したため、勧請の由来や創建は不明です。古くから粕壁宿の市の守護神として信仰厚く、毎年7月中旬に例祭(現在の春日部夏祭り)が盛大に行われています。2010年(平成22)放火により社殿が焼失、翌2011年(平成23)再建されました。

粕壁宿へ入っていく前に「東八幡神社」へ寄り道していきます。八坂神社前の道を80mほどで東八幡神社の参道へ至ります。右へ曲がり参道を進みます。

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東八幡神社

口碑によると、京都「男山」に鎮座する「岩清水八幡宮」から分霊を勧請し、氏神として祀ったものと伝えられます。元々は元新宿八幡社地に鎮座していましたが、日光街道が整備された際に現在地へ移したとされます。元の「元新宿八幡神社」も残っています。

一番奥に「弁天」も祀られていますし、稲荷、天神など日光道中分間延絵図の記載のままと感じました。

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三ノ宮卯之助の力石

この百貫目(375kg)の力石は卯之助が八幡神社境内で興行した際に持ち上げた記念に奉納されたものです。1832年(天保3)と刻まれています。

東八幡神社をあとに正面の道を西へ行くとすぐに「真蔵院」があります。

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真蔵院

岩付城主太田氏の家臣関根図書助が開基となり庵室として建立、東八幡神社が現在地へ移転の際に一緒に移転したとされます。

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関根図書助宗氏の墓

真蔵院開基の関根図書助の墓石です。墓石には1600年(慶長5)の銘があります。

関根図書

関根氏は行田市関根に領地を得たことから関根を名乗るようになり、「関根図書助」の代に北条氏に従い、 1573(元亀4)の北条氏繁感状には、関根図書助の戦功が称えられています。 関根図書は、一説には図書之助宗重と名乗り、1588年(天文16)に病死したとされます。その末裔である関根図書助宗氏は、粕壁宿開発者の一人です。

真蔵院をあとに、住宅と住宅の細い路地を通り抜けると国道4号へ突き当り、「東陽寺」があります。

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東陽寺

文明年間(1469年~1487年)に開山されました。格式の高い寺院であったとされます。当初は春日部八幡神社の隣に位置しており、現在は住宅地となっていますが、長く「東陽寺屋敷」「寺屋敷」と呼ばれていました。
1624年(寛永元)の火災により焼失、その後39年間は荒地と化していましたが、1662年(寛文2)に現在地に再建されました。

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芭蕉祈念碑と芭蕉・曽良が刻まれた碑

「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と『曾良旅日記』の一文が刻まれています。 1689年(元禄2)、松尾芭蕉は奥の細道の旅の途上、当寺に宿泊したといわれている。

東陽寺をあとに一宮交差点から粕壁宿へ入っていきます。すぐ先左手の狭い路地の奥が「源徳寺」、源徳寺の150mほど左手が後に本陣となった脇本陣跡です。

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源徳寺

承応年間(1652~1655)に僧了恩が創建したと伝わり、境内の墓地には1685年(貞享2)銘の中興開祖の釈恩法師の墓碑があるとされますが、見つかりませんでした。

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脇本陣・本陣跡

脇本陣として蓮沼屋庄兵衛が務めた後、1830年(天保元)現在地で旅籠屋を営んでいた高砂屋竹内家が脇本陣を務め、1849年(嘉永2)から幕末までは本陣になりました。1876年(明治9)、1881年(明治14)の2度、明治天皇東北巡幸の際、高砂屋が昼食所となりました。
「文化会館前」交差点を右へ曲がります。ここにはかつて水路があり、三枚の板石の橋が架けられていたため、「三枚橋」と呼ばれていました。市民会館のあたりが大正から昭和にかけて「薬用植物栽培試験場」になっていました。

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薬草園跡(ミニ薬草園)

1922年(大正11)日本初の国立薬用植物栽培試験場がこの地に整備されました。特にケシが栽培され、モルヒネ、コデインなどのアルカロイドを直接抽出するための栽培法や抽出法の研究などを行っていたようです。1980年(昭和55)につくば市に移転し、現在はミニ薬草園になっています。
あれ果てていて、ただの雑草にしか見えません・・

街道へ戻り100mほど進んだ左手の群馬銀行あたりも本陣跡です。ここは小沢家の跡地で、1809年(文化6)から1849年(嘉永2)まで本陣を務めていました。 右の路地へ入り、古利根川に突き当たるまで進み、左へ曲がります。古利根川に沿って80mほど左手に「碇神社」があり、その前の川沿いが「下喜蔵河岸跡」になりますが、特に何も残っていません。

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碇神社(下喜蔵河岸跡)

江戸時代の名主を務めた多田家の屋敷稲荷が現在も祀られています。

下喜蔵河岸跡

碇神社のある川岸は「下喜蔵河岸」があったと伝えられます。江戸時代の粕壁宿は米や麦の集散地として栄え、古利根川を利用した舟運が行われていました。舟の停泊に便利で、岸辺が小高い丘であったことからこのあたりを「碇山(いかりやま)」と呼んでいました。

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碇神社のイヌグス

このイヌグスの巨木は船頭にとって船着場の目印とされていたと伝えられており、「碇山のイヌグス」と呼ばれ、親しまれてきました。樹齢600年余り、高さ20mの巨木でしたが、1979年(昭和54)の台風で被害を受け、現在は高さ7mほどになってしまいましたが、それでも立派な巨木です。

さらに古利根川に沿って60m、春日部橋との交差点で左に曲がり日光街道へ戻ります。日光街道とぶつかったところに「関根本陣跡」がありました。全く面影はありませんが、案内柱があります。

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関根本陣跡

関根助右衛門家があったとされる場所です。年代は不明ですが、関根次郎兵衛家の次に本陣を務め、1754年(宝暦4)まで務めました。

粕壁宿の本陣

粕壁宿の本陣は4度変わり、複雑です。古くは関根次郎兵衛が務め、その後関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順に変遷しました。日光山法会など公用の通行者が多い時には最勝院、成就院が宿泊施設として利用されることもありました。 見川家の代には、日光門主や諸大名の宿泊の際に盗難事件があり、その処理に苦慮したことが伝わっています。

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東屋田村本店

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日光道中の道標

1834年(天保5)建立の銘があります。もとは高札場のあった三叉路(岩槻道分岐)にあったものです。「北日光・西南いハつき・東江戸」の三方面の方角が刻まれています。
50mほど進んだ左手の春日部仲町郵便局辺りは関根次郎兵衛家跡で、粕壁宿初代の本陣でした。

本日はここで終了します。粕壁東一丁目交差点で左へ曲がり、春日部駅へ向かいます。駅へ向かう途中に「加藤楸邨旧居跡」という案内板がありました。

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加藤楸邨旧居跡

加藤楸邨は現代俳句を代表する俳人の一人です。1905年(明治38)生まれ、1929年(昭和4)旧制粕壁中学校教師として赴任し、8年間この地で暮らし、同僚に勧められて俳句を始めました。当時定期的に粕壁医院(現安孫子医院)に来ていた水原秋桜子と親交を持ち、秋桜子主宰の「馬酔木」に参加。1937年(昭和12)教師を辞し「人間探求派」の俳人として名声を高めました。楸邨は生涯で12句集を刊行、芭蕉研究など多くの著書を残しました。1993年(平成5)88歳で亡くなりました。
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日光道中分間延絵図「粕壁宿」

1849年(嘉永2)には人口3779人、旅籠37軒があり、本陣、脇本陣、問屋ともに1件ずつ、継立ては前後の宿以外に関宿道からの公用人馬の継立ても行っていました。

15:00 春日部駅到着。コインパーキングで車をピックアップし帰宅します。いいお天気でしたが、ずっと風が強く、体感はかなり寒く大変でしたがなんとか到着しました。