2025年9月14日

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宿泊した「ホテルルートイン小山」を出発。本当は古河駅前を予約したかったのですが、満室で仕方なく少し遠い小山へ宿泊しました。野木駅まで車で25分。野木駅東側の駐車場へ車を駐車し、JRに乗り古河駅へ向かいました。

11:00 少し前に古河駅を出発。結構遅くなってしまいました。古河駅前の大きな通りを日光街道へ向けて進みます。200m余りで左へ曲がり、道なりに進むと「古河駅西口入口」交差点で日光街道へでます。この交差点に「古河町道路元標」「古河城下高札場跡」斜向かいに「古河城下本陣跡碑」があります。

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古河町道路元標

道路元標は1919年(大正8)に制定された旧道路法に基づき全国各地の市町村に置かれた基準点です。

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古河城下高札場跡

1807年(文化4)の古地図によるとこのあたりに高札場があったとされます。 斜め向かいに本陣と問屋のうちの1軒があり、さらにその向かいには脇本陣が2軒並んで描かれています。

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古河城下本陣跡碑

本陣は吉沢家が務めました。門構え、玄関付きで建坪は114坪ありました。

古河宿

1843年(天保14)の記録によれば、宿内の人口は3865人、家数は1105軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒でした。問屋は4か所にありました。

100mほど進むと左手に「金比羅宮」があります。

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金比羅宮

1814年(文化11)この地の丸山儀左衛門が願主となり社殿を建立しました。1982年(昭和57)には鞘堂(覆堂)を造営しました。2002年(平成14)現在地へ移転しましたが、2006年(平成18)焼失しました。翌2007年に再建されました。

古河生まれの天才絵師 河鍋暁斎

河鍋暁斎(キョウサイ)は幕末・明治の激動期に生き、卓越した技量で一世を風靡した画人です。1831年(天保2)古河城下の石町に古河藩士、河鍋記右衛門の次男として生まれました。2歳の時に家族とともに江戸へ移り、7歳で浮世絵師・歌川国芳に入門しました。10歳で駿河台狩野家の前村洞和・狩野洞白陳信に師事しました。古画や漢画、西洋画などあらゆる絵画を研究し、多岐に渡る分野の絵画を手掛ける人気絵師でした。また多くの外国人と交流があった暁斎は、欧米各国でも高く評価されています。

さらに50mで交差点となります。右手の角に「日光街道道標」があり、その奥に「尊勝院」があります。

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日光街道道標

この丁字路を左へ曲がるのが日光街道、右が筑波道(下妻道)への分岐となっていました。この道標は1861年(文久元)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか11名によって建てられたものです。
文字は小山霞外(カガイ)・梧岡・遜堂という父・子・孫三人の書家の揮毫です。一時、古河市の公民館に移されていましたが、もとの場所に戻されています。

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尊勝院

1718年(享保3)の縁起によれば、足利尊氏の父・貞氏が不動明王を篤く信仰し、その甲斐があって尊氏が生まれたので、不動明王を安置する不動堂を建てたことに始まるとされ、元は鎌倉にありました。古河公方足利成氏が鎌倉から古河に移るとともに鎌倉から移転し、古河城の東北に位置し祈願所としました。 明治初年の廃仏毀釈の際には、住職・順盛が廃仏を逃れるよう祈願し、亡くなるまで塩を断っていました。順盛は野木宿満願寺境内にある塩断地蔵尊の石仏として祀られています。

尊勝院をあとに日光街道へ戻り、西へ向かいます。すぐ先右手に「神宮寺」があります。

現在、神宮寺の駐車場になっている場所に、かつて脇本陣であった大田家の「太田屋旅館」があったようです。しかし、日光道中分関延絵図には交差点の手前、右手に脇本陣が2軒描かれています。太田屋は幕末頃の脇本陣であったようです。

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神宮寺

1446年(文安3)に良宥上人が鎌倉に開いた寺で、当時の鎌倉公方足利成氏の古河入りに伴い、古河に移りました。本堂には室町時代の作と推定される十一面観世音菩薩坐像を安置しています。

100mほど進むと右へ曲がるのが日光街道ですが、寄り道のため直進します。100mほど右手に「菅原天満宮」があり、その先に「古河藩武家屋敷」があります。

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菅原天満宮

「古河市史」にはこのように記されているそうです。 1872年(明治5)まで、薬王山地福院という寺があり、天満宮の別当をつとめていました。地福院の六代住職の宥伝が創建したとされます。

また、土井家の家臣の日暮七郎左衛門の屋敷にまつられていたものが屋敷替えのとき残ったともいわれています。そのため日暮天神ともいわれ、同家には天神の画像もありましたが、それも神社に奉納されたといいます。天満宮の扁額は1779年(安永8)に市川泰溜が書いたものです。

天神町由来記

古河藩主第4代の奥平美作守忠昌は1619年(元和5)下野宇都宮から移封となり城主となりました。家中が多人数だったため、翌年には家中や町方の屋敷割が行われ、武家屋敷の増加が図られました。この時に町並みが形成され、天満宮(通称天神様)が祀られ、天神町の町名がつけられました。

小出重固の「古河志」にも、古河天神町の天満宮と記述されています。住居表示の変更で1975年(昭和50)天神町の名が消え、横山町一丁目となりました。また、

日光道中分間延絵図には、地福院の隣に「天神」が描かれています。天神町由来の「天満宮(通称天神さま)」がこの神社のようです。

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古河藩武家屋敷

立派な門と土塀が残っています。

武無屋敷を見たら元の道を枡形まで戻ります。左へ曲がり「横山町柳通り」を50m、左手に「古河市提灯竿もみ祭り発祥の地碑」「若杉鳥子文学碑」、右手に「武蔵屋」があります。

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古河市提灯竿もみ祭り発祥の地碑

江戸時代古河藩領であった野木神社の神官が、ご神体の神鉾を奉じて馬に乗り、神社の神領である七ヶ村の末社をめぐり「七郷めぐり」を終え、12月3日末明に帰社するのを、提灯を持って出迎えた人達が、寒さをしのぐために身体を揉み合ったのが始まりで、その名も「お帰り」と言われました。
現在も「古河市提灯竿もみ祭り」として行われています。

若杉鳥子文学碑

若杉鳥子は、大正から昭和にかけて活躍した古河出身のプロレタリア(労働者階級)作家です。 古河の豪商と神田の貸席の女中との間に生まれ、すぐ古河の置屋、若杉はなの養女となります。その養家の近くの横山町柳通りに、「帰郷」の一節を刻んだ文学碑があります。 『汽車が松並樹を突っ切ると……田舎街の外郭が現れてきた。』

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武蔵屋

江戸末期、茶屋「漆屋」として開業し、1911年(明治44)料理屋へ転業し「武蔵屋」に改称されました。現在の建物は、明治中期に建てられたものだそうです。
さらに横山町柳通りを200m、雀神社へ寄り道するために、日光街道を離れて左へ曲がっていきます。曲がるとすぐ右手にあるのが「弁財天(七福神)」「徳星寺」です。「天神町由来記」という石碑もありました。

「天神町由来記」の前の道路東側には木戸番の小屋とその左に木戸があったとされます。

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弁財天(七福神)・徳星寺

徳星寺は1275年(建治元)醍醐慈猛房意教により創建され、江戸大塚護持院の末寺でした。元は鴻巣村にありましたが、土井利勝が城主の時に古河城鬼門除けとして現在とへ移りました。1693年(元禄6)の「末寺一札」によれば、当時の末寺は24あり、この地では最大の真言寺院であったとされます。

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旧谷中村・龍蔵院石仏群

弁財天の付近に多数ある石仏は旧谷中村にあった「龍蔵院」の石仏とされます。宝篋印塔の横にある大きな石碑には龍蔵院の由来が記されています。

旧谷中村

1877年(明治10)頃から、上流の足尾銅山からの鉱毒の流出により、渡良瀬川沿岸地域では作物が実らず、魚もとれない鉱毒被害が激化・拡大していきました。栃木県選出衆議院議員の田中正造は、10年にわたって国会で足尾銅山の操業停止を訴え続けますが効果がなく、1901年(明治34)議員を辞職して明治天皇に直訴しました。これを機に鉱毒民救済の世論が盛り上がります。正造は、谷中村に居住し村民と行動をともにします。明治政府は、谷中村を廃村にして遊水池化することで鉱毒事件の鎮静化を図り、村民たちの多くは先祖伝来の地を追われました。16戸が抵抗しましたが、1907年(明治40)政府による強制破壊により谷中村は消滅しました。

徳星寺をでて渡良瀬川方面へ向けてさらに500mあまり進むと突き当りが「雀神社」です。

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雀神社

創立は明らかではありませんが、伝承によれば貞観年間(859~876)に出雲大社から勧請したものとされます。社名は「鎮宮」かせ転化して「雀宮」となったとされます。その後、1455年(康正元)足利成氏が古河公方となってから、代々崇拝され古賀藩主も保護してきました。古河城主、松平信輝の時に二丁目から厩町に移したとされます。現存の社殿は1605年(慶長10)松平丹波守康長の造営したものです。

雀神社の参道左手に堤防へ上がる階段があります。ここを上ると「万葉歌碑」があります。

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万葉歌碑

『まくらがの 許我の渡りの からかじの 音高しもな 寝なへ児ゆえに』

『逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの 許我こぐ船に 君も逢はぬかも』

この2つの歌の内容から往時、渡し場であった様子が伺え、渡良瀬川などの河川や沼を交通路として利用し、河川交通の要所として発展していたことを伺わせます。 この万葉歌碑は、1985年(昭和60)に建立されたもので、書は生井子華の揮毫です。

生井子華

古河市出身の篆刻家、生井子華は1904年(明治37)、古河で印章業を営む旧家に生まれ、書家の西川寧に師事しました。二度にわたり日展で特選を受賞し、審査員にもなり、以来歴任してきました。1989年(平成元)死去。 古河市中央町二丁目には、生井子華の作品を展示する施設として「篆刻美術館」があります。

そのまま堤防を南へ進むと大きな「田中正造翁遺徳之賛碑」があります。その後ろのゴルフ場クラブハウスにはなぜか「煉瓦塔」が残されていました。

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田中正造翁遺徳之賛碑

田中正造は、1841年(天保12)安蘇郡小中村(佐野市)で生まれ、栃木新聞(下野新聞)編集長を経て、県会議員となりました。1890年(明治23)衆議院選挙に当選し、足尾鉱毒問題に取り組みました。足尾銅山は渡良瀬川上流に位置し、江戸時代に鉱脈が発見されて開発が始まりました。
明治時代になると、産銅量が増加するとともに鉱毒による被害が表面化してきました。被害は渡良瀬川中下流地域にも拡大し、谷中村の村民たちは、田中正造と共に、足尾銅山の操業停止と被害民救済を訴えました。田中正造は、鉱毒問題を国会で取り上げ、1901年(明治34)には衆議院議員を辞職し、天皇に直訴を試みました。

1903年(明治36)、政府は洪水と鉱毒被害の対策として谷中村地域を遊水地とすることを決定しましたが、田中正造はこれに反対。翌年谷中村に移住し、村民と共に遊水地計画の反対運動に尽力しました。

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煉瓦塔

恐らく明治時代に使用されていた煙突のようですが、詳しいことは全くわかりません。
渡良瀬川の堤防から下りて、雀神社の社務所へ戻り、道路へ出ます。そのまま日光街道方面へ向かうと左手の小さな小屋の前に「明治天皇御膳水跡」の石碑があり、駐車場に井戸がありました。

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明治天皇御膳水跡

1881年(明治14)明治天皇東北巡幸の際にこの井戸の水が献上されました。同年、古河の士族の出資による古河初の製糸場「同志社」が設立され、井戸も使用されてきたとされます。1899年(明治32)には同志社は解散となり、1935年(昭和10)地権者が変わり、井戸を後世へ保存されたと記されています。

丁字路を左へ曲がり、1つ目の角に「下宮八幡宮」があり、境内の角に「古河藩野渡御蔵跡」の石碑がありました。

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古河藩野渡御蔵跡

年貢米を収納した蔵を御蔵といいました。御蔵が最初に築造された時期は不明ですが、1664~1665年(寛文4~5)頃と考えられています。 「日光道中分間延絵図」には雀神社の北側に「領主蔵屋敷」とあるので、実際は雀神社北側なのではないかと思うのですが、この場所に石碑があります。

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旧谷中村下宮八幡宮・牛頭天王社・稲荷神社

天文年間(1532~54)、旧栃木県谷中村字下宮の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮と津島市の津島神社より勧請して創建されました。現在の社殿は1878年(明治11)の改築で、1913年(大正2)谷中村の廃村の数年後に現在地へ移されました。

旧谷中村

谷中村は、渡良瀬川、巴波川、思川に挟まれた沼地や湿地が広がる地域に位置し、周辺に比べて地盤の高さが低く水害を受けやすいため、村の周囲には囲堤が築かれていました。度々、洪水の被害に見舞われていた谷中村周辺地域では、1887年(明治20)の足尾鉱毒問題をきっかけとして遊水地化の意見が出され、河川の氾濫被害を無くすため、渡良瀬川下流部に遊水地を造る計画が打ち出されました。

遊水地化の計画は谷中村を中心とした地域で、1905年(明治38)から栃木県が買収を進め、1906年(明治39)に谷中村は藤岡町(栃木市)に合併され廃村となりました。旧谷中村(下宮、内野)の一部には現在も旧村民の子孫の方が住んでいます。

下宮八幡宮をあとに再び東へ向かって進むと丁字路となります。左へ曲がり、1つ目を右へ。300mほどで再び丁字路となり、左へ。すぐに三叉路を右へ曲がります。徳星寺の墓地裏を進み、次の丁字路を左へ曲がるとようやく「正麟寺」へたどり着きました。

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正麟寺

1577年(天正5) 古河城主・小笠原家により開基、開山は愕叟とされます。(別の資料では小笠原秀政が古河城主だった1590年(天正18)から1601年(慶長6)とされています) 寺名は秀政の祖父にあたる小笠原長時の法号「長時院殿麒翁正麟大居士」によるものです。
創建時は同じ古河城下の石町北浦四つ谷にありましたが、その後現在地に移転しました。現在の本堂は1933年(昭和8)の再興です。

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鷹見泉石の墓

1785年(天明5)古河に生まれ、江戸幕府の老中を務めた古河藩主土井利位(トシツラ)に仕えて家老となり、藩主を補佐しました。利位が大阪城代のときに起きた大塩平八郎の乱には、その鎮定に尽くしました。
泉石は蘭学に通じ、渡辺崋山・桂川甫周などの蘭学者と親交があり、また、地理学にも詳しく、世界の絵地図の作成・書写・収集に意をそそぎました。古河城下に隠居したのち「新訳和蘭国全図」を著しました。1858年(安政5)に74歳で没しました。

正麟寺をあとに北へ向かうと、大きな通りを横切りさらにそのまま進むと、左手に「本成寺」があります。

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本成寺

京都六条本国寺の末寺。開基は日蓮聖人の弟子、摩詩一院日印上人で下総国猿島郡森戸村伏木(猿島郡境町)に創建しました。藩主となった土井利益は伏木の本成寺を1602年(慶長7)に現在地へ移しました。(延宝年間(1673~80)とい説もある)にこの地へ移し、母である法清院への供養としました。時の住職、日禛(ニッシン)が法清院の兄妹であった縁によるものです。

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法清院殿の墓(土井利益生母)

法清院は、古河藩主五代、土井利益の生母です。宮中で縫殿寮(ヌイドノリョウ)の頭を務める中川貞長の長女で「オサナ」といい、土井家二代利隆との間に土井家中興の祖、利益を生みましたが、4年後の1652年(慶安5)に22歳の若さで亡くなりました。
墓地の奥へ入っていくと「河口信任」の墓地と「小出重固」の墓地があります。

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河口信任墓所

一番右手の「寿専院閑春日量居士」と刻まれているのが、河口信任の墓碑です。 九州唐津の土井藩に仕える医師(オランダ流)の家に生まれ、長崎に遊学して栗崎流外科(南蛮イスパニア流)も修めました。
土井藩の古河への転封、藩主土井利里の京都所司代赴任に伴い、京都で1770年(明和7)には刑屍を解剖し、翌々年に「解屍編」を刊行しました。1811年(文化8)76歳、古河で亡くなりました。

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小出重固の墓所

小出重固は、老中となった古河藩主・土井利厚のもとで公用人(留守居役)を勤めた武士であり、また清水浜臣門下の国学者・歌人でもあり、松斎または翠庵と号しました。
引退を命じられてからは、古河藩内をくまなく踏査し、寺社の縁起や古文書・説話を収集し古河藩領の地誌「古河志」を著しました。1852年(嘉永5)81歳で没しました。

「厳相院翠庵日量居士」と彫られた墓石で、正面右側の少し茶色がかった墓石になります。

本成寺の赤門をでて東へ向かうと日光街道です。ようやく戻ってきました。2.5kmほどの寄り道でした。 85mほど進むとX型の四つ辻へでます。この辻に「祭礼道道標」があります。日光街道は左手です。

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祭礼道道標(横山町口)

雀神社の夏の例大祭において、中央町1丁目の「お仮屋(御旅所)」に神輿を巡幸します。巡幸中は大名といえどもお仮屋の前を通ることをはばかり、東裏に迂回する道を設け、これを「祭礼道」とし、諸大名の参勤交代もこれに従ったとされます。
県道を700mあまり進みます。周囲は住宅街です。左手にドラックストアや西松屋の駐車場になっている向かいに「塩滑地蔵尊」があります。細い路地を入ると小さなお堂があります。

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塩滑地蔵尊

お堂の前に塩が置いてあり、体の悪いところに塩を塗ると治るという言い伝えがあります。日光道中分間延絵図には「供養石」は描かれているのですが、地蔵は描かれていません。

さらに200mほど進むと「下総国と下野国の国境」になります。現在は茨城県と栃木県の県境です。

下総と下野の国境

日光道中分間延絵図では、右手側に「ぢぞう」の堂があり、左手に「私領榜示杭」があり、榎と思われる樹木が左右に見られます。「日光駅程見聞雑記」に「宿の松並木の東に皀莢(サイカチ)樹西に榎木あり 是は下総国葛飾郡と下野国寒河郡と国界なり」とあります。古河は江戸時代まで下総国で、明治以降に茨城県となりました。

塩滑地蔵尊から100mほど戻り、右手、渡良瀬川方面へ向かい、寄り道をしていきます。野渡河岸跡や萬福寺へ寄るのが主な目的ですが、途中少し左へ折れて「新井家ふるさと記念館」へ向かいましたが、新井家ふるさと記念館はすでに閉館しているようで、中に入ることは出来ませんでした。外から蔵がちらっと見えただけです。

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新井製糸所跡(旧新井家ふるさと記念館)

明治30年代、栃木県随一の製糸所で あった旧新井家製糸所の跡地です。敷地内には、国の登録有形文化財に認定された3つの建築があり、中でも煉瓦造りの養蚕棟は野木町煉瓦窯で焼かれた煉瓦が使われているそうです。

渡良瀬川堤防下の道沿いに「古河藩野渡河岸跡」の案内板があります。そのまま北へ向かうと「萬福寺」があります。

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古河藩野渡河岸跡

江戸時代、古河藩の御蔵は野渡と立崎・中田にあり、野渡御蔵のほうには主に中郷の村々からの年貢米などが納められました。この年貢米は思川・巴波川(ウズマガワ)の水運を利用して運ばれ、野渡に陸揚げされましたが、商品物流としての河岸は認められていませんでした。
18世紀以降、年貢米以外の荷物が船積みされるようになり、古河河岸問屋との間に度々トラブルを起こすようになりましたが、正式な許可が下りることはありませんでした。野渡河岸が正式に認められたのは明治以降でした。1880年(明治13)の「野渡村諸営業人名取調書」によれば回漕店2軒(小林家・川島家)、高瀬舟12艘、部賀船3艘を持ち繁盛していたとされます。「回漕店」とは、船による貨物の集荷や運送を仲介する業者で、部賀船(べかふね)とは、一人乗りの小型舟です。

1885年(明治18)の東北本線開通以後は舟運貨物が激減し、野渡河岸は短期間で廃止されました。

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萬福寺

1492年(明応元)に建立されました。古河公方足利成氏の開基、開山は山王東昌寺二代の僧、能満和尚とされます。

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鎌倉時代の板碑

板碑は鎌倉時代から戦国時代に主に関東を中心に広がり、江戸時代には姿を消します。この板碑は1259年(正元元)に建立され、「考子等」「敬白」と刻まれており、亡き父のために子どもたちが板碑を建立して供養したことがわかります。

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古河公方・足利成氏公墓所

古いものが墓碑でしょう。大きく新しいものは供養塔と思われます。

足利成氏(シゲウジ)

足利成氏は1434年(永享6)足利持氏(第4代鎌倉公方)の4男として生まれました。1440年(永享12)兄の安王・春王とともに幕府に背き、下総結城に挙兵、翌年捉えられ上京し、許しを得ました。1449年(文安6)鎌倉幕府が再興され、足利成氏は父の跡を継ぎ、第5代鎌倉公方となりました。鎌倉府内部は北関東の豪族組織の足利成氏と関東管領上杉憲忠の対立構造が表面化しました。 1454年(享徳3) 成氏の命で上杉憲忠が謀殺されると享徳の大乱が始まり、以後約30年間に及ぶ動乱に入ります。形勢不利となった成氏は鎌倉を放棄して古河を本拠地とし、古河公方と称し長い間上杉方と対峙しましたが、1482年(文明14)和睦となりました。

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連歌師・猪苗代兼載(法橋)の墓

1809年(文化6) 兼載の三百回忌を記念して建立されたものです。墓碑に「花ちりて名のミ残るや墳桜」と刻まれています。

猪苗代兼載(法橋)

1452年(享徳元)奥州会津の猪苗代盛実の子として生まれ、20歳の頃、応仁の乱で関東へ来ていた僧であり連歌師であった心敬に指導を受け、飯尾宗祇(連歌師)とも交流を持ちました。京都に出て連歌師として活躍、1489年(延徳元)には最高名誉職の北野連歌会所奉行となりました。1495年(明応4)「新撰菟玖波集」では編者の宗祇を補佐しました。また、山口・阿波・北陸・関東を旅し、1501年(文亀元)関東へ下向、以後会津・古河などで連歌や古典講義の活動を続け、古河で没しました。

萬福寺の山門をでて東へ向かいます。140mほど進むと左手に「熊野神社」があります。長い参道を拝殿まで進みました。

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熊野神社

紀州熊野の川島對馬は諸国を歴遊し、この地へ至ったところ住居を構え、開墾しながら村を落を起こし、次第に人口を増やしていきました。神社がなかったため、703年(大宝3)出身国である紀州の熊野神社を分霊して祀ったとされます。ささら獅子舞が奉納されています。

ささら獅子舞

「ささら獅子舞」は、古河公方足利成氏の時代に、病気などの魔よけや豊作を祈って始められたという伝承があります。ささら獅子舞の行列は、毎年4月上旬に行なわれる春季大祭で、昔さながらの木ぐるまをつけた「山車」が、彩りも鮮やかに飾り立てた笠鉾を揺るがせながら先導します。

熊野神社の三の鳥居あたりから東側の道に下りられます。今度は北へ向かい「旧下野煉化製造会社煉瓦窯」へ向かってみます。だいてばこ広場前を通り煉瓦窯が見えてきました。

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野木宮合戦

1180年(治承4)源頼朝は流罪先の伊豆で平氏打倒の兵を挙げました。このようなさなかに「志田義広の乱」が勃発しました。小山朝政は、頼朝方に与することを決意し、志田義広からの誘いに味方のフリをすることにしました。
これが1183年(寿永2) 野木宮(野木神社)に陣を張った朝政は兵を木立に隠れさせ、油断して進軍してくる義広軍を野木宮付近で待ち伏せして急襲しました。朝政方(頼朝方)が勝利し、朝政は北関東一の有力御家人にのし上がることに成功しました。これが「野木宮合戦」です。

「だいてばこ広場」

仁徳天皇の時代、下野国造奈良別命(ナラワケノミコト)がこの地に赴任するにあたり、16代、応神天皇の第8皇子で皇太子の菟道稚郎子命(ウジノワキイラツコノミコト)の神霊を山城国菟道の聖廟より下野国笠懸野台手函(現・大字野渡字大手箱)の地に祠を建て祀ったのが始まりで、往古の宮殿の跡と伝えられています。

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旧下野煉化製造会社煉瓦窯

1890年(明治23)に完成した巨大な煉瓦窯は、ドイツ人のフリードリヒ・ホフマンが発明した連続窯で「ホフマン式輪窯」と呼ばれています。円形のホフマン式輪窯は世界的にも極めて貴重なものとされます。 中もよく見たいので、また今度ゆっくり見に来たいと思います。
日光街道へ向かい500mほど畑の中の道を進み、街道へ出る手前で左手へ曲がっていきます。200mほどで「雷電神社」へ到着します。さらに100m進むと「野木神社」の参道へ通じます。参道を左へ曲がり、野木神社の社殿へ向かいます。

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旧谷中村・雷電神社

1561年(永禄4)に旧谷中村恵下野地区に創建されましたが、1907年(明治40)谷中村が廃村となるため、 現在地へ移されたものです。右手には「水神宮跡」と彫られた石碑があります。

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野木神社

仁徳天皇の時代、下野国造奈良別命(ナラワケノミコト)がこの地に赴任した際に、菟道稚郎子命の遺骨を奉じ、下野国笠懸野台手函(だいてばこ広場付近)の地に祀りました。その後、802年(延暦21)坂上田村麿が蝦夷平定し都へ凱旋の途中、現在地へ社殿を造り遷座したと伝えられます。

鎌倉時代には幕府より社領の寄進、神馬の奉納があり、元寇の際には北条時宗より譲夷祈願の命をうけ、新たに5祭神を新たに祀りました。

1806年(文化3)社殿を焼失しましたが、1819年(文政2)古河藩主土井利厚が現在の社殿を再建しました。明治時代には乃木大将も度々参拝に訪れていたそうです。

12月の夜、御神体を村外れの仮家へ祀り、夜に帰社する「裸もくみ」あるいは「提灯もみ」といわれる行事があります。

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大イチョウ

黒馬繋馬図絵馬と算額 野木神社に奉納されている「黒馬繋馬図」は、谷文晁の作画といわれています。大型の絵馬は例がなく、描かれている馬も素晴らしく、伝承によれば浅草寺の「白馬繋馬図」の大絵馬と対をなすといわれています。

「算額」は1889年(明治22)間々田在住の和算学者、根岸林左エ門安章の門下生で、野木在住の野鳥勝次正行の手により野木神社に奉納されたものです。

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棒火矢絵馬

「棒火矢」とは戦国時代から使用された、火矢を筒状にして火薬を入れ、大筒を用いて発射する兵器です。絵馬に実物の棒火矢を金具で取り付け、周囲に墨書で銘文があります。銘文には古河藩臣の小山家が師範であった砲術三木流の由来を書いて、流派の隆盛と技術の上達を願いました。門下生である藩士15名の名が記され、1847年(弘化4)古河藩士達によって奉納されました。
社務所前に芭蕉句碑があります。社務所ではふくろうのストラップのお守りを購入しました。

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芭蕉句碑

『一疋のはね馬もなし河千鳥』

1760年(宝暦10)徳雨建立。

野木神社のふくろう

野木神社には、25年ほど前からふくろうが営巣しています。大きなケヤキに毎年営巣しているそうですが、2025年は雛が生まれなかったようです。春に産声を上げて6月頃に巣立つようです。時期を合わせてこちらへ来ようと思っていましたが、今年は生まれなくて残念でした。来年は生まれるといいですね。また見に来たいと思います。

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奉納錨

さきほど寄り道してきた「旧下野煉化製造会社煉瓦窯」で製造されたレンガの多くは陸路ではなく水運を使用し、渡良瀬川から利根川、江戸川と経由し東京まで運ばれていました。この錨はその航路の安全を祈願し奉納されたものです。

弘法捨松

日光道中分間延絵図には野木神社 一の鳥居の道路を挟んだ向かいに「弘法捨松」と記されています。「日光道中略記」によれば、大同年中(806~809)に弘法大師が千株の樹木を野木明神の社内に植えて寄進しましたが、松一株を路傍に捨てたところ根がつき、大木となりました。1696年(元禄12)台風により倒れ、その跡に小松を植えたものが成木したものであるものとされます。現在、捨松はありませんが、「捨松」という地名だけが残されているそうです。

野木神社をあとに日光街道まで戻らずに、左へ曲がっていきます。途中の四つ辻に石仏があり、さらに進むと日光街道と合流し、「野木宿木戸跡」へでます。

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青面金剛像

かなり大きい青面金剛像と馬頭観音があります。

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野木宿 木戸跡

かつてはこの場所に木戸がありました。ここから野木宿へ入っていきます。

野木宿

野木宿の成立は、野木神社の周りに居住したのが始まりで、その後文禄年中(1592~95)に街道筋ができ、馬継ぎが開始され、新野木村が成立しました。間もなく、野木村も街道筋へ移動し町並みが形成されていきました。1602年(慶長7)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立しました。 1843年(天保14)の記録では、人口527人、本陣1軒、脇本陣1軒、問屋4か所、旅籠が23軒でした。 野木宿には古い住宅は全く残っておらず、街道時代の面影は全て失っています。

木戸跡から250mほど進んだ左手が野木宿本陣跡です。すぐ先右手の大きなお宅が脇本陣跡です。どちらも往時の面影は残っていません。

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野木宿本陣跡

「越谷市史」によると熊沢七郎右衛門が務めたとなっていますが、別の資料では「熊倉家」が務めたとなっています。ただ、現地の表札を見ると「熊倉家」で間違いないと思われます。

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野木宿脇本陣跡

脇本陣も熊倉家が務めていました。
さらに100mほど左手に「満願寺」があり、万願寺の境内には「塩断地蔵尊」があります。

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満願寺

古河宿徳星寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来を安置しています。開山・開基は不明ですが、1616年(元和2) 建立。野木明神の別当となっています。1841年(天保12)焼失しましたが、後に再建されました。

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塩断地蔵尊

明治初年の廃仏毀釈の際、古河の尊勝院住職、順盛が廃仏を逃れるよう祈願し、亡くなるまで塩を断っていたとされます。このおかげか、尊勝院は廃寺とならずに現在も残っています。この順盛を塩断地蔵尊の石仏として祀られています。
満願寺から100mほどで十字路となりますが、左手角が「野木の一里塚跡」、左へ60mほど入ると「妙福弁財天」があります。

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野木の一里塚跡

一里塚は既にありませんが、往時は杉の木が植えられていたとされます。

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妙福弁財天

日光道中分間延絵図には一里塚の裏には稲荷と天王が描かれています。弁財天と稲荷神が同一視されることもあるので、もともとは絵図に描かれていた稲荷かもしれません。野木唯一の弁財天です。
街道へ戻り120m、左手に「浄明寺」、400m先の四つ辻左手に「野木宿道標」があります。

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浄明寺

1603年(慶長7)の創建、開山は良阿上人で、開基は野木宿名主、川島対馬守信親と言われています。野渡光明寺の末寺。

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野木宿道標

「是より大平山道」とあり、「日光山近裏道」と呼ばれた脇往還入口に建てられています。栃木で例幣街道へ通じており、日光方面への近道でした。また、大平山神社(北へ15kmほど)への参詣道としての道標でもありました。
さらに150m左手に「観音堂」があり、そのすぐ先に「猿田彦大神」の石碑がありました。

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観音堂

「日光道中略記」には「聖観音を安置す。浄明寺の持なり。堂傍に庵一宇。馬頭観音の石像あり。この辺右に筑波山、加波山見わたし、左に岩船、太平、上州の山々より日光山まで眼前に見ゆ」と記されています。日光道中分間延絵図には観音堂に馬頭観音が描かれています。右から2番目の大きな「馬頭観音」がそれと思われます。1800年(寛政12)と読み取れます。

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猿田彦大神

庚申信仰は江戸時代に盛んに行われ、庚申の夜、猿と申が同意語であることから庚申の夜は仏教では帝釈天・青面金剛を、また神道では猿田彦大神を祀り、寝ずに祈る習慣になっていました。
四つ辻を右に曲がり、1つ目を右へ曲がると大きなエノキと小さな神社らしき祠があります。

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稲荷?雷電神社?

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日光道中分間延絵図

日光道中分間延絵図の雷電神社か稲荷神社と思われますが、どちらかな・・ 『雷電神社は、1561年(永禄4)創建され、古河藩主小笠原秀政は検地の際、神領として一反九歩が寄進されました。1716年(享保元)火災にあったのですが、1725年(享保10)には再建され、これが現在の建物である』と資料には記されています。
日光街道は現在国道4号で、車も多く気分が良くないので、このまま街道へは戻らずに、水田の中を歩いていきました。

松原

松原新田とも呼ばれていました。江戸時代、このあたりの日光街道には松並木が続いていたため、「松原」の地名が起こったとされます。 天保(1830~43)頃の「日光道中略記」によれば、1655年(万治2)友沼村の名主、角左衛門や大島新右衛門らが開発したとされます。また、天保頃には次第に人家も多くなり、友沼村とは別村のようだと記してあります。

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1kmほど歩くと住宅が数件現れてきます。細い三叉路を右に曲がり30m進んだ左手に「松原不動尊」があります。
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松原不動尊

野木町史によると1942年(昭和17)に焼失、災難時に祈願すると必ず願いが叶ったと伝えられ、成就したら提灯を奉納する習わしがあったそうです。

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松原不動尊の石仏

かなりの数の石仏があります。女人講に建立された庚申塔が多いです。

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日光道中分間延絵図

「松原不動尊」は薬師や愛宕があった場所ではないかと思われます。石仏は江戸時代の銘があるものが多いです。

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松原不動尊から水田の中を200mほど歩くと四つ辻になり、ここを左へ曲がり70mほど進むと正面に「高良神社」の森が見えてきます。
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高良神社

清和源氏の流れをくむ源頼義・頼家親子が前九年の役(平安末期に陸奥で起こった反乱)の戦勝祈願のために友沼八幡神社を再建しました。この時、九州久留米の高良神社の御神霊をこの地に移しました。

高良神社をあとに野木駅へむかいます。1kmちょっとですが、疲れてのろのろ・・なんとか駅へたどり着きました。

17:00 野木駅へ到着し、駅裏に駐車しておいた車をピックアップし帰宅です。