2025年11月2日
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宿泊した『里沼リゾートHotel KOMORINU』を出発し、本日は野木駅裏のコインパーキングへ駐車しました。駅の中を通り、西口から外へでます。
10:30 野木駅出発。日光街道まで1kmほどあります。日光街道へ合流したら右へ。80mほど進んだあたりに「逆川板橋」があったと思われますが、手前で左へ曲がると「逆川」についての案内板があります。
逆川城跡
この付近にあったとされるのが「逆川城」です。中世から戦国期の城館跡とされます。城館跡と思われるところから出土した石や忠魂碑の付近に散在していたという板碑が残されていますが、現在ではそれらしき箇所は確認できず、規模は不明だそうです。フェンスで閉じられており、中へ入ることができないため、どのような石碑があるのかわかりません。 日光道中分間延絵図を見ると、このあたりに「日ノ御前社」が描かれています。この場所ではなかったのかな、と思いますが、詳細はわかりません。 日光街道へ戻り、車の通行量の多い国道を450mほど進みます。右手の民家脇に題目碑があり、この路地を入っていくと小さな稲荷の社があり、小高い丘に「愛宕神社」があります。愛宕神社の裏手に廻ると大きな地蔵があり、墓地が「真如庵跡」と思われます。道を挟んだ向かいの町内会館がある場所が「宝光院跡」で、観音堂が残されています。
愛宕神社
火防の神として信仰されていますが、村境に祀られ外敵の侵入を防ぐ塞の神ともされます。傍らには稲荷の祠があります。野木町の神社の中で、小高い丘に建てられているのはこの神社だけです。
「日光道中分間延絵図」友沼村
思川に友沼河岸があり、船積問屋は菅谷又兵衛で、河岸は繁盛していたとされます。 1843年(天保14)の記録には村内に古沼が10か所あり、「十沼」といっていましたが、いつの頃からか間違って「友沼」と呼ぶようになったと記されています。宝光院跡
法音寺の末寺。宝徳年間(1452~54)に僧、俊雅の創立とされます。本尊は観音で別殿(観音堂)に配置していました。
観音堂
宝光院の本尊が祀られていた観音堂は残っています。また、住職の墓である無縫塔が3基残っています。
法音寺
1395年(応永2)創建され、開山は真海上人。1648年(慶安元)御朱印地を賜り、古河宿徳星寺の末寺でしたが、護持院の末寺に属していたとされます。1747年(延享4)災害により、一時衰退しましたが、再興し、1869年(明治2)放火により焼失し、1878年(明治11)に再建されました。
几号
「高祖弘法大師行願圓満塔」と彫られた台座の下のほうに几号が彫られています。明治初期に日本でイギリス式の水準測量に用いられた「不」の字に似た標識です。東京から宮城県塩竈までの日光街道沿いには多く残されています。
日光道中略記の八幡神社
将軍の日光参詣は秀忠の第1回をはじめとして、1843年(天保14)12代将軍家慶まで19回に及びました。行程は岩槻、古河、宇都宮で各1泊の三泊四日が恒例でした。2泊目となる古河城を朝出発し、最初に休憩をするのがこの八幡神社でした。次は小金井の慈眼寺で昼食をとり、石橋へ向かいました。 八幡神社での休憩所建物は「西運庵」と呼ばれ、日光道中分間延絵図では「運西庵」となっています。 「日光道中略記」では八幡神社からの眺望がすばらしく、丸林村、潤島村、若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されています。 八幡神社を過ぎ400mほどで、栃木県下都賀郡野木町から小山市へ入ります。小山市へ入ると民家も少なくなり、100mほど左手路地の角に小さな道標があります。さらに250mほど先の左手には農地の一角に小さな鳥居と石祠が祀られています。ここが「乙女の一里塚」とされています。一里塚から200m左には「若宮八幡宮」があります。
若宮八幡宮
詳細は不明ですが、「日光道中分間延絵図」には境内に大日・地蔵・四岸庵が描かれています。現在、四岸庵は無くなっているようですが、大日如来像や地蔵は残っています。
寒沢土橋跡付近
「寒沢」とは乙女村の小字名です。「さむさわ」と読んでいるとの記録もあるそうです。昔、源頼朝が此地を通った時、渇して水を求め、一咽して「甘露水なり」といったことにより、甘露沢と名付けたのが転じて「寒沢」と呼ぶようになったとされます。この沢に架けられた土橋が「寒沢橋」で、1843年(天保14)の調査によれば、長さ6尺、横4間とあります。
柿が鈴なりです。秋ですね~
中妻公民館前に「十九夜塔」があります。700mほど進むと右手には「佛光寺」、左手は「乙女八幡宮」の参道です。
佛光寺と観音堂
富田宿如意輪寺の末寺。本尊は阿弥陀如来を安置しています。観音堂には十一面観音の坐像を安置しています。
乙女八幡宮
乙女八幡宮 は、鎌倉時代に創祀されたと伝えられます。1703年(元禄16)に別当寺だった光明寺 の住僧舜誉が願主となって建立した鳥居には、施主として乙女村の青木主水尉照朝と下館大町(茨城県)の有力商人高嶋忠左衛門勝広、栃木町の石屋三左右衛門らの名が銘文に刻まれています。このことから乙女八幡宮は、西方の思川沿いに開けた、乙女河岸で活動する商人からも崇敬されていたことがうかがわれます。乙女河岸
「大日本博覧図」に乙女河岸の絵図があります。 1600年(慶長5)関が原合戦の発端に、上杉景勝が会津に挙兵したときに家康は小山まで北進しました。この時に先陣の用具や兵糧を乙女河岸から陸揚げしました。これを吉例として、20年ごとに行われる日光東照宮修繕の資材の大半を乙女河岸から陸揚げしていました。 乙女河岸は上・中・下の3河岸に分かれており、それぞれ山中八郎兵衛・青木覚左衛門が河岸問屋を務め、1869年(明治2)都賀郡河岸取調書上帳によれば、問屋の持船数は覚左衛門が9、八郎兵衛が4、与右衛門は持船無となっています。 詳しい場所は不明ですが、友沼にも河岸がありました。「友沼河岸」は乙女河岸の補助的、下河岸的な存在として、江戸時代を通じて菅谷又兵衛が河岸問屋を務めていました。同家の家系図によると河岸開設は1597年(慶長2)とされます。
乙女かわらの里公園
「乙女不動原瓦窯跡」が公園として保存されています。 屋根付建物は「工房跡」で、瓦の成形を行う作業台を据える穴がある竪穴式の建物跡です。壁はなく、切妻風の簡単な屋根が葺かれた作業小屋と考えられています。 中央広場は「土の広場」とされ、採掘された粘土の保管から調合、熟成を経て生瓦の形成までの作業空間と考えられています。周辺には工人達の住まいや燃料となる樹木の茂る林が広がっていたと考えられています。
乙女不動原瓦窯跡
1977年(昭和52)、1988年(昭和63)からの5か年発掘調査の結果、瓦を焼いた4基の窯のほか、工房や粘土採掘坑、粘土溜、瓦集積場、灰原などの遺構が発見されました。ここで出土している瓦は下野薬師寺や下野国分寺などの寺跡、あるいは宇都宮市の水道山瓦窯跡から出土した瓦と共通した特徴をもっているそうです。 赤色が目立つ鐘楼門から「乙女不動尊」へ入っていきます。
乙女不動尊
鐘楼門は1720年(享保5)の建立、鐘楼門に掛けられた南川和尚筆の扁額は谷文晁の「集古十種」にも収録されています。乙女不動堂は、不動原にあったものを後に境内に移したとされます。不動尊像は25年に一度、御開帳されるそうです。

















