2025年11月1日
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60m進むと
「古河城御茶屋口御門跡」があり、日光街道へ戻ってきました。

古河城御茶屋口御門跡
将軍の日光社参の宿は、岩槻、古河、宇都宮が当てられました。古河城の場合は、参詣の休憩所として寛永年間(1624~43)日光街道の南側に御茶屋を設け、将軍入城のための門を御茶屋口御門と呼んでいました。「日光道中分間延絵図」には「御社参之節御成門」と書かれています。
日光街道を70mほど進み右手へ入っていくと
「八幡神社」があります。
八幡神社
「八幡宮再興願記」によれば、1521年(大永元)古河公方足利成氏が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請し、古河城第三の郭に創建したとあります。1642年(寛永19)城主、土井大炊頭利勝によって現在地へ移されたとされます。

八幡神社の大イチョウ
1642年(寛永19)古河城内に祀られていた八幡神社をこの地に移した時に植えられたと伝えられています。
日光街道へ戻り、170m先を左、
「肴町通り」へ入っていきます。すぐ左手に
「古河藩使者取次所跡」と彫られた石碑があり、その先に古河城の文庫蔵と袖蔵を移した
「坂長」があり、坂長の西側に
恵比寿神社があります。

古河藩使者取次所跡(御馳走番所)
参勤交代で日光街道を通過する諸大名は、使者を派遣しあいさつに参りました。古河藩からは役人が出向いて歓迎の接待をしたとされます。
肴町
1619年(元和5)
奥平忠昌が古河城主として移封され、城の増築や武家屋敷の拡大のために町屋の大移動を図り、中心部に新しい街づくりを始めました。大工町・壱丁目・石町・江戸町等はその時に名付けられたものです。
坂長 古河城文庫蔵・袖蔵
正面に店(もと
古河城文庫蔵)と袖蔵(もと
乾蔵)が並びます。店の背後に主屋・石蔵・更に奥に質蔵・中蔵が並んでいます。初代、佐藤弥一左衛門(元禄11没)は、小山藩に仕えていましたが、この地に移り、両替商を始め9代目(元治元・66歳没)から酒問屋となり、現在に至っています。袖蔵は1863年(文久3)に建立された古河城乾蔵を移築したものと伝えられています。

恵比寿神社
1814年(文化11)創建。現在地より南東方面にあったものを1912年(明治45)に現在地に移し町内鎮守とし、商売繁盛の神として信仰されてきました。
恵比寿神社前を左へ曲がっていくと、右手に
「福法寺」があります。
福法寺
福法寺の山門は、古河城二ノ丸御殿入口にあった
「乾門」が移設されたものとされます。1873年(明治6)古河城取り壊しの際、檀家が払い下げをうけ、寺に移築・寄進されたものです。
福法寺の墓地から西側の駐車場を抜けていくと、
「古河市立古河第一小学校」の前へ至ります。
古河市立古河第一小学校と赤門
古河尋常小学校が1904年(明治37)に移転された際に建築された煉瓦造りの門です。下野煉化製造会社は1888年(明治21)に創業され、古河では多くの煉瓦建築物が建てられました。現在もいくつかは残されています。
古河第一小学校の北側角を左へ曲がります。150mほど進むと右手に
「妙光寺」、その隣が
「宗願寺」、宗願寺の向かいに
「鷹見泉石生誕の地」の石碑があります。
妙光寺
1275年(建治元)千葉阿闇梨(あじゃり)日胤(にちいん)が開基し、慶長年間(1596~1615)に現在地に移されました。

妙光寺の馬頭観音
1718年(享保3)の建立で、市内最古の馬頭観音です。もとは寺にあったものではなく、付近の道辻あたりから移されたものと思われるそうです。

お万の方供養塔
徳川家康の側室で、紀伊徳川家の祖、頼宣、水戸徳川家の祖、頼房の生母です。
1577年(大正5)上総勝浦城の正木左近大夫邦時の娘として生まれ、のちに蔭山長門守利広の養女になったと伝えられます。
日光への参拝の折には妙光寺へ度々立ち寄られ、本尊や諸尊像はお万の方による建立です。
1653年(承応2)江戸紀州邸にて77歳で亡くなりました。墓石は本遠寺にありますが、分骨されて埋葬されました。

宗願寺
木像親鸞像があり、言い伝えでは親鸞45歳の像とされます。本尊は阿弥陀如来で、行基作といわれています。開基は親鸞の高弟、野田西念坊(道裕)とされます。
本堂の裏手に
「和田芳恵」の墓所があります。

作家・和田芳恵墓所
1906年(明治39)北海道山越郡長万部町で生まれた和田芳恵は、中央大学へ進み、新潮社へ勤務しながら小説を執筆し、特に樋口一葉の研究に没頭していました。小説『塵の中』で1963年下半期の直木賞を受賞。
1975年『接木の台』で読売文学賞、1977年『暗い流れ』で日本文学大賞、1978年「雪女」で川端康成文学賞受賞。1977年東京の自宅で亡くなり、宗願寺へ葬られました。

鷹見泉石生誕の地
渡辺崋山の描く国宝「鷹見泉石像」で知られる鷹見泉石は実務に通じた、江戸後期の幕府老中で古河藩主土井利厚、利位に仕えました。殊に対外関係の分野で鎖国日本に迫るロシア・イギリス・アメリカ関係の情報を収集、殿様の補佐を通じて幕府に関与しています。
引退後の泉石は、日本最初のオランダ地図「新訳和蘭国全図」や開国と人材育成、富国強兵等の必要性を説いて時代を先取りした意見書「愚意摘要」を著すなど長年収集した海外情報を分析・啓蒙活動をしました。
さらに渡良瀬川へ向けて歩いていきます。道なりに500mほど進むと渡良瀬川の堤防につきあたります。堤防下を北へ向けて少し進むと小高い丘に大きな石碑や銅像がありました。銅像は国会議員さんのようです。
渡良瀬川治水紀功碑
渡良瀬川の改修工事の完成を記念し建てられたものです。また傍には事業に携わり亡くなられた人のために「渡良瀬川改修殉業諸氏記念碑」が建てられています。碑文には渡良瀬川の沿革、足尾鉱毒事件、谷中村事件で全国に渡良瀬の名が知れ渡ったこと、明治29年、明治35年等の洪水を受け、明治43年より渡良瀬川改修工事着工に至る経緯及び事業の概要について記されています。
さらに堤防を下ると
「古河城 船渡門跡」があり、

古河城 船渡門跡
船渡門は、一名不浄門、あるいは無常門とも呼ばれ、城内に居住する武士の葬式に用いられる以外、昼夜とも一切の通行が許されませんでした。ただし、家老筆頭の小杉家当主の場合はこの門を使用せずに病気ということにして、追手門から出す習わしでした。
北側の「古河公園」へ向かうと
「水神宮」があり、公園の東側出入口脇には
「作事役所跡碑」があります。
水神宮
水神宮から上っていくと「頼政神社」へ至るようですが、草が繁茂していて近づけませんでした。頼政神社はぐるっと回り、正面の参道から入ることにします。

作事役所跡碑
「作事役所」とは建造物の造営・修理を担当した役所のようです。この場所は古河城の観音寺曲輪にあたります。城の改築や修繕を行っていた役所だったのでしょうか・・
東側の出入口から古河公園をでて左へ向かうと
頼政神社の入口があります。頼政神社は古河城観音寺曲輪土塁の上に移されています。石段を上り土塁の上へ向かいます。
頼政神社
1696年(元禄9)古河城主、
松平信輝は城内の立崎曲輪に先祖、
源頼政の墳墓があるのを知り、神社を建立して祀りました。1912年(大正元)になると河川改修のため、立崎から現在地へ移されました。

手水
城主の弟で高崎城主だった松平輝貞の家臣たちが手水を寄進しました。

大灯籠
城主の弟で高崎城主だった松平輝貞が寄進した大灯籠一対です。江戸前期の優れた作品として評価されています。
頼政神社の石段をくだり、さらに北へ向かいます。交通量の多い県道へ出ると左へ曲がり、70mほど進むと
「永井寺」があります。

永井寺(えいせいじ)
1626年(寛永3)に古河城主永井直勝の子、尚政が父の追善供養のため建立し、開基を永井直勝としています。以後、永井家の菩提寺となりました。

永井直勝公墓所
永井直勝は、徳川家康天下統一に際し、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いに多くの戦功があり、笠間城主を経て1622年(元和8)古河城主となりました。その後、直勝が没し、尚政に代替わりしますが、1633年(寛永10)淀城主となるまで2代、11年間古河を治めました。
墓地には直勝の墓を始め、江戸時代初期の市内最大の宝篋印塔があり、また2代尚政、3代尚征、その弟の尚庸の供養塔もあります。

永井月丹居士石表辞
永井直勝の功績を称えた石碑です。撰文は幕府儒者、林羅山です。

小山霞外・悟岡・遜道の墓
小山家は藤原秀郷の末裔で、古河公方との関りも深く、弘治年中(1555~58)から観音寺郭に住み観音堂を守護していたので「観音寺」とも俗称されていました。後年、江戸町の北側(中央1丁目)に屋敷を移し、墓所も邸内にありましたが、1949年(昭和24)永井寺へ改葬されました。
霞外は1785年(天明5)下野喜連川の星家に生まれ、小山家を継ぎ、学問・詩歌を好み特に書に優れ、子の悟岡、孫の遜道もまた書に秀でおり、
書家の名門として世に知られていました。

小高益卿の墓(中央の大きい墓石)
古河土井氏の藩校「盈科堂(えいかどう)」の教授で、幕末から明治にかけて活躍した古河出身者の多くに影響を与えました。1784年(天明4)仲之町の藩邸に生まれ、名は精一郎、晩年吉右衛門と改名、名を益卿といいました。
6歳で父恒斎を失うまでは父に、以後は盈科堂校長、恩田鶴城に教えを受けました。13歳の時に古河帰城中の藩主、土井利厚に初めて拝謁し、「春秋」を講じてその才能を認められたとされます。16歳で盈科堂の教授となり、藩領であった摂津平野郷(大阪市)の代官として赴任した間の15年間を除き専ら藩士の子弟教育に当たっています。1864年(元治元)80歳で没しました。
永井寺をでて再び、古河公園の東側入口まで戻ります。入口前を東へ50m進むと右手のアパート前に
「河口信任屋敷跡」の案内板があります。

河口信任屋敷跡
河口信任は,佐賀県唐津の藩医の子として生まれました。河口家は曽祖父の代からオランダ流医学を学んだ医者の家だったため、信任も医者となりました。信任が仕えていた唐津藩土井家が1762年(宝暦12)古河に国替えとなったため、藩主の土井利里に従い古河に移りました。
1770年(明和7)京都所司代でもあった利里から解剖の許しを得て、人体の解剖を自ら行いました。この解剖の結果を1772年(明和9)
「解屍編」という本にまとめて出版しました。杉田玄白 ・前野良沢の「解体新書」よりも2年早く出版され、医者自ら執刀解剖の成果として、また脳や眼球を含む人体解剖の記録としては日本で初めてのものでした。
さらに150mほど進むと
「古河城 追手門跡」の石碑があります。

古河城 追手門跡
城の正門のことを追手門、大手門と呼びました。追手門へ入るには堀にかかる橋を渡りました。門の創建は慶応年間(1596~1615)の松平(戸田)康長の時とされます。
追手門跡で左へ曲がり、県道との交差点の西側が
「盈科堂・教武所跡」の跡だそうです。

古河藩校盈科堂・教武所跡
現在は何も残っていませんし、案内板もありません。
教武所跡の横を抜け、さらに60mほど北へ進み、左へ曲がります。30m右手の住宅街の一角に
「水戸藩勤王志士殉難乃地」と彫られている石碑があります。

水戸藩勤王志士殉難乃地
幕末の1864年(元治元)筑波山で挙兵した天狗党の志士ら102名の身を古河藩土井利則が預かる事になり、幕命により29名をこの地で処刑したとされます。
30m戻り、右へ曲がりすぐ先をさらに左へ。丁字路手前に
「鎮火稲荷神社」と
「藩校盈科堂跡」があります。
鎮火稲荷神社と藩校盈科堂跡
丁字路を右へ曲がり、再び県道へでて左へ。65m先を左へ入っていくと正面に
「正定寺」があります。
正定寺
開基は古河城主、
土井利勝で1634年(寛永10)の建立。開山は江戸増上寺13世廓山上人の弟子、冨誉玄哲上人です。また、本堂の前には4代将軍家綱の生母楽子の墓があります。本堂は2回焼失し、現本堂は1832年(天保3)土井利位が再建したものであり、土井家の菩提寺で城主の墓があります。

お楽の供養塔
徳川家光の側室・お楽の方(宝樹院)の供養塔です。お楽の方は、京都の増山氏の娘で、1641年(寛永18)のちに4代将軍となる徳川家綱を出産しています。1653年(承応2)死去。
土井家墓所
歴代古河藩主の中で最も古河に深く関りを有したのは土井家でした。土井家の治世は前後2期に渡り、廃藩に至るまで155年間に及びます。土井家墓所は元々、
東京浅草の誓願寺にありましたが、1923年(大正12)の関東大震災後の東京復興計画によって墓所の移転に迫られ、1927年(昭和2)現在地へ移されました。正面に初代土井利勝夫妻の宝篋印塔2基、向かって左側に歴代の土井家当主の供養宝篋印塔、右手に13代、利則夫妻の宝篋印塔があります。
正定寺の中庭には
「芭蕉句碑」があるそうですが、中庭のため非公開なのだとか。見ることはできません。
正定寺の東側の門が
「古河藩江戸下屋敷黒門」です。黒門の南側に
「土岐氏の馬頭観音」があります。

古河藩江戸下屋敷黒門
この門は東京の本郷にあった古河藩主土井家の下屋敷の表門でしたが、1933年(昭和8)に土井家の菩提寺である正定寺に移築されたものです。屋根瓦には土井家の家紋である「水車」があしらわれています。

土岐氏の馬頭観音
黒門の脇にはくぐり門があります。家臣の土岐という者が緊急のため乗馬のまま乗り入れ、無事に務めを果たしました。臨機応変な働きにより、名馬を土井公より賜りました。以後、巷では「土岐門」と呼ばれ、「時に応じて敏なり」として、立身出世門と称されました。
子孫が先祖の栄誉を忘れないように、1830年代に馬頭観世音を奉納しました。石碑の左面には馬名が刻まれているそうですが、判然としません。
正定寺の黒門を出るとそのまま正面にある
「福寿稲荷神社」へ入っていきます。

福寿稲荷神社
社伝では天正年間(1573~92)の創建で、古河城主、小笠原秀政の信仰が厚く、祈願所としたことに始まるといいます。1875年(明治8)までは隆岩寺の守護神でもありました。
福寿稲荷神社を南側の参道を通り鳥居からでて、隣の
「隆岩寺」へ入っていきます。
隆岩寺
1595年(文禄4)古河初代城主、小笠原秀政が妻登久姫の父である岡崎三郎信康(家康の長男)の菩提を弔うために廣誉道上人を開山として建立されました。

山雀塚
1711年(正徳元)往時、野鳥の「山雀(やまがら)」を飼うことが流行していました。藩内の若い武士数名がやまがら捕りのことで喧嘩となり、犠牲者がでるほどの騒ぎになりました。3名が犠牲になり、その供養のためこの塚が建立されました。
地面に腹ばいになり、耳を地面につけると刀の切りあいの音がするという言い伝えがあります。

小笠原貞慶の供養塔
小笠原貞慶は信州松本、戦国時代の武将で、江戸時代になって古賀藩の初代藩主となった小笠原秀政の父にあたります。貞慶は1595年(文禄4)に古河で没し、墓の所在は不明でしたが、1793年(寛政5)になり、正麟寺山の土の中から墓石の一部が発見されました。
この墓石を隆岩寺の住職と九州小倉の藩主となっていた孫の小笠原氏が当地へ移設しました。
隆岩寺は秀政が妻の父である岡崎三郎信康(家康の長男)のために建てたもので、傍らの宝篋印塔が信康の供養塔です。
隆岩寺をあとに右へ出て、50m先の丁字路を左へ曲がります。再び県道へ出て左へ曲がり、60mほどの右手に
「永井路子旧宅」があり、その先100mに
「篆刻美術館」、さらに90m、ビルの端っこのあたりにひっそりと
「河鍋暁斎生誕の地碑」があります。

永井路子旧宅
直木賞作家、永井路子が3歳~20歳まで過ごした建物です。江戸時代に建てられた2階建て土蔵造りの建物です。現在は古河文学館の別館として利用されています。

篆刻(てんこく)美術館
1991年(平成3)日本で初めての篆刻専門の美術館として開館しました。1920年(大正9)に建築された3階建て石蔵を改修しています。

河鍋暁斎生誕の地碑
1831年(天保2)古河石町で生まれ、1837年(天保8)浮世絵師歌川国芳に入門。幼いころから鬼才と讃えられますが、1840年(天保11)、国芳の素行を心配した父により狩野派(駿河台狩野派)の絵師前村洞和に再入門します。多くの傑作が残されています。
次の交差点を右へ曲がり、100m先の駐車場右側の幅1mほどの細い路地へ入り、日光街道を横切り200m、左手の
「大聖院」へ入っていきます。大聖院の墓地には、小杉監物・小杉元卿・枚田水石の墓碑があります。
大聖院
1523年(大永3)古河公方二代
足利政氏を開基として古河市坂間に大聖院の前身である
永昌寺を創建。古河公方4代晴氏の妻、芳春院の兄、北条氏康が1571年(元亀2)50歳で没しました。氏康の菩提を弔うために1573年(天正元)古河公方5代義氏と佐野昌綱の合力により寺を建立し、寺名を永昌寺から氏康の戒名から五龍山大聖院に改名しました。1620年(元和6)古河城主、奥平忠昌の時、城内の普請につき坂間から現在地に移転しました。1860年(万延元)本堂が焼失し、現在の本堂は1909年(明治42)に再建されたものです。

小杉監物墓
古賀藩家老を務め、幕末の激動期から維新の変革期にかけて古賀藩を戦乱の渦中より救うことに成功した名家老と言われている小杉監物は1869年(明治2)61歳で没しています。
小杉監物
小杉監物は、古河藩主土井家の家老職を代々務めた小杉家の8代目として1808年(文化5)古河城内桜町の藩邸に生まれました。
1830年(文政13)家督を継ぎ、藩主土井利位より家老職座上を命じられました。
壮年時代は
鷹見泉石の感化を受け、幕末には佐幕派を説得し、勤皇恭順の意を表すことに身を挺して奔走し、藩内の意思統一を図りました。また、会津戦争の出兵要請には貯蓄米と金子の献上による経済協力を主に乗り切ることに努力し、古河城下を戦火から防ぎました。

小杉元卿墓
元卿は1767年(明和4)49歳で没し、双桂は「古河教授」の肩書で墓碑銘を撰文しました。古河に来てからの小杉家の墓としては最初のもので、唐津風の形態をしています。並んで建つ「月窓孺人藤掛氏之墓」は藤懸(藤掛)家から入った元卿の妻のものです。
小杉元卿
古河土井氏の藩校
「盈科堂(えいかどう)」は1724年(享保9)九州唐津城中に創設され、その後土井氏の古河移封に伴い、1763年(宝暦13)に古河に移されたもので、学校としては県内最古のものです。往時の校長は非朱子学派に属する原双桂で、双桂を尊敬し助けたのが小杉元卿(善長)でした。
元卿と双桂は唐津藩時代の1760年(宝暦10)に藩主、土井利里に従って長崎巡見を行っています。

枚田水石の墓
1796年(寛政8)古賀藩江戸上屋敷に生まれ、名を源之丞といいました。藩士、土井利位に仕え、大塩平八郎の乱には鷹見泉石らとともに大功を上げました。馬術や文芸にも親しみましたが、画家の谷文晁にも師事しました。墨竹画が得意で雅号を文石と号し、古河に戻ったのちに水石と改めました。晩年は絵画に没頭し、奥原晴湖に絵の手ほどきをしています。1863年(文久3)68歳で病没しています。
大聖院をでてさらに古河駅方面へ向かうと左手に
「秋葉神社」があります。
秋葉神社(毘沙門天)
秋葉神社は、1845年(弘化2)古河城主土井利位が駿州秋葉神社より分霊したものです。火伏せの神としてまつられました。現社殿は1927年(昭和2)に再建されました。古河七福神の毘沙門天でもあります。
さらに東へ、最初の交差点を左へ曲がると古河駅へ到着しました。
15:00 古河駅到着。
古くから城下町の古河は、町のあちこちに史跡が点在し、長い長い寄り道となってしまいましたが、雰囲気のいい通りもあり、楽しい街巡りでした。
駅前のコインパーキングで車をピックアップし、本日宿泊する
『里沼リゾートHotel KOMORINU』へ向かいます。