2025年4月12日

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車で「古河公方公園」へやってきました。駐車場に車を止めてまずは中央正面の管理棟を見て、北側の「虚空蔵菩薩堂」へ向かいます。

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古河公方公園 (古河公方の城館跡)

室町幕府は地方機関として鎌倉に鎌倉府(関東府)を開設し、足利尊氏の息子基氏をその長官として鎌倉へ派遣します。これを鎌倉公方(関東公方)とよび、関東・東北地方を統治します。その補佐役である関東管領を上杉氏が務めました。

しかし、15世紀中頃の関東における動乱により幕府と対立し、4代足利持氏は幕府と上杉氏に攻められ自害します。その息子成氏は一旦許され、鎌倉公方に復帰しますが、再び上杉氏をはじめとする反公方派と対立し、鎌倉から古河へ座を移し、古河公方と呼ばれこの地に城館を築きます。

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虚空蔵菩薩堂

文安年間(1444~1449)の開基とされ、足利義満が非常に信仰して依頼、代々大切にされてきました。足利成氏(古河公方)の代に公方家の館より東北の現在地に辰崎の古河城跡地より同じく鬼門除として移転されたと伝えられております。

虚空蔵菩薩堂の東側に浅間神社があり、さらに東側に子安地蔵尊があります。

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浅間神社

高さ6m、直径30mの富士塚の頂上に富士浅間神社が祀られています。1830年(天保元)頃の築造と考えられています。途中、稲荷神社もあります。

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子安地蔵尊

五代古河公方足利義氏の娘・氏女の守本尊とも言われていましたが、明治初年の廃寺後、何度かの移転を経て、ここに安置されました。 鎌倉時代の作という伝承もありますが、作風から判断すると南北朝から室町時代であると思われます。
子安地蔵尊から道路へでて、北側へ向かいます。少し進むと「公方公園入口門」がありますが、そのまま直進すると再び入口があり、ここに「徳源院跡」の石碑があります。

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徳源院跡

徳源院は、鎌倉円覚寺末の臨済禅寺で、開山は夢窓国師あるいは大円国師とも伝えられています。長谷(現在の桜町)の永仙院、牧野地の松月院とともに古河公方が開基したとされる「足利三ヵ院」の一つとされます。寺号は、はじめ瑞雲院(古河公方3代高基の妻の法号)から芳春院(4代晴氏の妻の法号)へ、さらに1620年(元和6) 5代義氏の娘氏女の死去により、その法号である徳源院に改められたとされます。
徳源院跡碑の所から公園に入っていきます。かつては参道だったのかとも思いますが・・多くの桃が咲いていてきれいです。100mほど園路を進むと1990年(平成2)に建立された「長塚節・若杉鳥子歌碑」があります。

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長塚節(ナガツカタカシ)・若杉鳥子歌碑

古河は若杉鳥子が育った街であり、若杉鳥子の写真を見て長塚節が詠んだ歌と、長塚節が亡くなったとき若杉鳥子が詠んだ挽歌七首のうちの二首とが刻まれています。

『まくらがの古河の桃の樹ふゝめるを いまだ見ねどもわれ戀ひにけり  紅の下照り匂ふもゝの樹の立ちたるおもかげに見ゆ』

常総市出身の文豪・ 長塚節が、ある女性の写真を見て一目惚れして詠んだ歌です。

『み歌今われなき家の文筺に 忘られてあり身は人の妻 まくらがの古河の白桃咲かむ日を待たずて君は隠れたまへり』

この歌は節追悼のために若杉鳥子が詠んだ歌が刻まれています。

さらに歌碑から60mほど進むと徳源院跡である場所に古河公方足利義氏の墓所があります。

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古河公方足利義氏墓所

正面の石碑は1926年(大正15)に建てられた「古河公方義氏公墳墓」の標石、左のさらに、氏女の一子義親の宝篋印塔、七地蔵を刻んだ石幢(セキドウ)、義氏の遺骸の一部が葬られたと考えられている土塚も残っています。

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古河公方足利義氏墓所

石囲いの中にある宝篋印塔は氏女の墓石だそうです。さらに、氏女の一子義親の宝篋印塔、七地蔵を刻んだ石幢、義氏の遺骸の一部が葬られたと考えられている土塚も残っています。

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さらに奥へ進み、浄円坊池中央の橋を渡り、西側の出入口から公園を一旦出ました。公園をあとに道なりに200mほど進むと「心性山鳳桐寺」があります。

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心性山鳳桐寺

室町時代、初代古河公方足利成氏が鎌倉にいたとき、成氏の開基・日延の開山により「鎌倉波路川之内上川原村」に創建されました。

1455年(享徳4)、成氏が古河に移座した際、あるいは第5代足利義氏のときに、古河に移転したとされます。
ただし、あいまいな点が多く、開基は足利義政とする記述もあります。創建時には、境内に桐の老木があり、鳳凰が止まったことから「康正山 鳳桐寺」としたとされます。足利義氏の時代には公方家の祈願寺であり、住職が奉行人を勤めていたとされる資料もあります。

江戸時代の初期、住職の心性院日遠が徳川家康から迫害を受け、側室のお万の方に救われたことがあり、このとき山号を「心性山」に改めました。無住の時代が長かったのですが、1958年(昭和33)に中興されました。

鳳桐寺をあとに60m戻り、右へ曲がります。道なりに350mほど進むと左手に「松月院跡」があり、その一角に「御所塚」があります。

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松月院跡

古河公方開基の三ケ院の一つでしたが、既に廃寺となっています。所在地はこの場所から北に300mほどのところに比定されていますが、この場所も寺域の一角であったと推定されています。

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御所塚

「御所塚」という名称から古河公方の墓と考えられていますが、人物は特定できていないそうです。一つの宝篋印塔には「源氏車」の紋があることから、これを家紋とする榊原康政の娘(一説には養女)で、五代古河公方義氏の孫、義親の妻となった「松月院殿真晃瑞公大禅定尼」(1619年・元和5没)の墓石と推定されています。
「松月院跡」で左へ曲がり道なりに進むと、先ほどの出入口へ戻り、再び公園内へ入っていきます。公園に入ると右手方向へ。ソメイヨシノの並木を見ながら芝生広場を進み、御所沼中央の橋を渡り鴻巣方面へ向かいます。

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TOO001 御所沼沿いを歩いていきます。鴨がのんびりと日向ぼっこしていました。

御所沼

かつては河川と繋がったおり、公方館のある森の半島を囲むように星型に伸びていました。戦後、食糧難の時代に干拓され田になりましたが、その後放置されていました。ここを公園として整備する計画の中で沼として復元しました。

途中、右手の階段を上っていくと「古河公方館址」があり、その隣に旧家が2軒移築されています。

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古河公方館址

1455年(享徳4)足利成氏は鎌倉から古河の鴻巣に館を築き、さらにその北西、渡良瀬川を自然の要害として、中世の古河城を整備・改築したと見られます。この場所に2年ほどの間居住しており、古くは鴻巣御所と言われていました。
また、城下は鎌倉にならったとも言われ、鎌倉ゆかりの寺社も建立されていますが、新たに開基された寺もあります。このうち永仙院、松月院、徳源院は古河公方開基の三ケ院といわれ、周辺に所在しています。

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旧中山家住宅

茨城県岩井市大字辺田の中山家を移築したものです。中山家は武士の出身でしたが、江戸時代初期に戸田村に移住し帰農したといわれ、代々辺田村の組頭などを勤めた旧家でした。1674年(延宝2)に建てられた可能性が高いとされます。
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旧中山家住宅 内部

猿島地方に多く見られる直屋といわれる型で、平面は東側の広い「どま」と中央の無目(溝なし)の敷居に分けられた「ひろま」と西側の前室のある「ざしき」とその裏の「なんど」からなる大型農家です。

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旧飛田家住宅

茨城県久慈郡金砂郷村大字岩手の飛田家を移築したものです。18世紀前半の建築と推定されています。
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旧飛田家住宅 内部

東北から常陸地方北部にかけてよく見られる曲り家で、土間の「うまや」部分が突出してL字形をしています。居室の方は、土間に続いてまず広い「板の間」があり、その片隅には小さな「へや」が設けられており、さらにその奥には前室のある「ざしき」が並ぶ形式です。

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旧飛田家住宅 内部

この2軒の建物や公園の樹林地などでは、NHK大河ドラマの「西郷どん」が撮影されたそうです。

古河公方公園をほぼ一周して駐車場へ戻りました。車に乗り、10分ほどの「鮭延寺」へ向かいました。鮭延寺には駐車場がありました。

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鮭延寺

この場所は、鮭延越前守秀綱の屋敷があった場所です。1646年(正保3)秀綱が没したため、1618年(慶安元) 鮭延越前守秀綱の家臣たちが主の遺徳を偲び、屋敷跡に創建したと伝えられる名刹です。

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鮭延越前守墓

鮭延越前守秀綱(鮭延秀綱)

鮭延秀綱(サケノブヒデツナ1563~1646)は、出羽国山形藩主、最上義光の家老で、自身も出羽国鮭延城主(真室城)であり、少年時代には源四郎、後に典膳、長じて越前と称しました。

出羽国領有化を目指す最上義光は仙北の小野寺氏、越後の上杉氏、陸奥の伊達氏とも激しく争いました。秀綱は知勇兼備の名将として知られていました。 関ヶ原合戦後、最上義光は東北においては仙台の伊達氏と並ぶ大藩となりました。

しかし、最上家は孫の義俊時代の1622年(元和8)お家騒動により幕府から改易を命じられ、重臣たちは全国の諸藩に身柄を預けられることとなりました。秀綱は佐倉藩主(千葉県佐倉市)で幕閣の実力者、土井利勝に身柄を預けられることになりました。

秀綱は翌年、赦免となりますが、引き続き利勝に家臣として仕えることとなりました。1633年(寛永10)土井利勝が佐倉から古河藩へ移封となると、秀綱もこれに従い、古河城下大堤に屋敷を賜り、1646年(正保3)屋敷にて没しました。この屋敷跡に建立されたのが「鮭延寺」です。

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熊沢蕃山の墓

名は伯継・字は了介といい、息游軒などの号があります。

1619年(元和5)京都に生まれ、8歳の時、外祖父で水戸の初代藩主、頼房に仕えていた熊沢守久の養子となり、熊沢姓になりました。 学者として大成し、特に中江藤樹に学んだ陽明学者として知られます。
ニ度に渡り岡山藩主、池田光政に仕え、家老となりますが、39歳で岡山を引退し、以後30年間は講学に専念しました。 1687年(貞享4)古河藩に招かれましたが、幕府に政務改革を建言し、幕命によって古河城の隅に禁錮の身となっていましたが、1691年(元禄4)73歳で没しました。

鮭延寺をあとに車で数分の「思案橋」付近へ向かいます。向堀川沿いに車を駐車し、附近を散策しました。

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向堀川碑

洪水が多いため改修されてきた河川です。改修事業工事の完成を記念して建立された石碑のようです。1972年(昭和47)着工、1995年(平成7)完成しました。23年もかかったのですね。

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思案橋

源義経を追い、奥州平泉へ向かった静御前は、この橋で義経が死に至ったと知らせを聞き、奥州への旅を続けるか否か、橋の上で思案にくれたという伝説が残る橋です。結局、静御前は平泉へ行くことを諦め、義経の叔父が住職をしている栗橋の高柳寺を訪れることにしました。
寺に到着した静御前は悲しみのため床に伏し22歳の生涯を終えたと言われています。

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静御前之像

『吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき』

『しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな』

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年豊人楽碑

約30haの沼田地区は江戸時代古河藩の米産地として歴代藩主は特に留意していました。一説によると家臣、熊沢蕃山によって耕地整理が行われ、その方式は現在の圃場整備の基本となっているとも言われています。
戦後の開発が著しく、生活排水が激増し美田は数年で泥溜となり、農耕を阻害しました。1973年(昭和48)関係機関に陳情を繰り返し、1978年(昭和53)ようやく事業開始、1982年(昭和57)完成しました。 『年豊人楽』とは、その年の収穫が豊かで、人々が皆楽しむという意味で、五穀豊穣を祝い、平和で満ち足りた生活への願いが込められています。

隣にはトモヱ乳業の本社があります。工場前には作り物の牛がたくさんいて、なんだか楽しい空間です。

国道354号の思案橋から東へ少し行くと小さな「地蔵堂」があります。

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地蔵堂

地蔵の座っている椅子の手すりには「江戸新吉原・江戸本郷金谷」と彫られています。江戸の人々が建立した地蔵のようです。

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地蔵堂の石仏

1727年(享保12)の六十六部供養塔や1724年(享保9)の馬頭観音、1944年(昭和19)の十九夜塔などが並んでいます。

車で幸手まで戻り、一度行ってみたいな・・と思っていた「ステーキ&ハンバーグ前田亭」に寄ってみました。

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黒毛和牛200gだったかな。すごく美味しかったです。でも200gはちょっと多かったかな。

2025年11月2日

渡瀬遊水地にある「旧谷中村」へやってきました。駐車場に車を止めて、「体験活動センター」の前を通り、東回りに歩いていきます。谷中村は廃村となっており、建物などは取り壊されていますが、遊水地からは外されて草地となって残されています。

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旧谷中村地図

谷中村は1889年(明治22)下宮村、恵下野村内野村の三村が合併してできた村で、栃木県の最南部に位置し、渡良瀬川、巴波川、思川に囲まれた洪水常襲地帯でした。反面、肥沃な土壌を洪水が運んでくるため農地は全く肥料を必要としないほどの沃田とも言われていました。
しかし、1877年(明治10)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに1887年(明治20)以降、足尾銅山の生産が増大するとともに、その被害は渡良瀬川沿川の広範囲に及びました。谷中村も例外ではなく、農作物の立ち枯れや魚の弊死等被害は想像を絶するものでした。

このため、栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え、住民も東京へ上京請願し、1900年(明治33)の川俣事件、翌1901年(明治34)の田中正造の天皇の直訴で、鉱毒問題は人々の関心を引くことと成りました。

被害民の足尾銅山の操業停止要求に対し、政府は原因は洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削と遊水地設置の政策が決定されていまいました。 谷中村は大半が遊水地となることにより、買収は1906年(明治39)から着手され、応じたものは他の地域へ集団移住を開始し、同年、藤岡町に合併させられ、事実上の廃村となってしまいました。

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旧谷中村役場٠休憩所(大野孫衛門屋敷跡) 谷中村は、渡良瀬遊水地の南側にあった村です。室町時代頃から人が住みはじめ、江戸時代には8つの村に分かれていました。1874年(明治7)、合併により8か村が下宮村・内野村・恵下野村の3か村になりました。1889年(明治22)、3か村が合併して谷中村が誕生しました。
村は堤防に囲まれ、囲堤(カコイヅツミ)集落を形成していました。堤防の内側が堤内地、堤防の外側が堤外地です。

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大野音次郎屋敷跡

谷中村周辺は、3年に一度は洪水に見舞われるという洪水常襲地帯でしたが、昔から土壌が肥沃であったと言われており、魚介類も豊富で自然が豊かな村でした。 村民は農業のほかに漁業や養蚕、スゲ笠作りなどを行って生活していました。
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水野要作屋敷跡・岩波正作屋敷跡

谷中村の人口は1903年(明治36)が最も多く、2,527人、戸数377戸、面積は(明治35)の時点で1,171haでした。

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雷電橋

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雷電神社跡

雷電神社は雷・雹・厄除け、豊作祈願などの神様です。谷中村一帯は、農作業中の落雷事故を避けようと、雷電信仰が盛んでした。 恵下野にも雷電神社がありましたが、野木村野渡に移されました。しかし下宮のこの雷電神社は廃村後も、田中正造と谷中村廃村に反対する人々が村に残り続けたため、長く残りました。

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延命院跡

延命院は大きな寺院だったと推察されています。1986年(昭和61)幸手市の消防署施設から延命院の半鐘が発見されました。現在、この半鐘は栃木県指定文化財となり、栃木市藤岡歴史民俗資料館に保存されています。

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延命院共同墓地

谷中村廃村後も谷中村の人々に使用され続け、とくに残留民には雷電神社とともに心の拠り所になっていたとされます。

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延命院の石仏

一旦、渡良瀬遊水地の外周に整備されているアスファルト舗装の道にでて、遊水地を眺めてみました。

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渡良瀬遊水池

1972年(昭和47)谷中村の中心部にあった役場などを残すよう関係者が話し合いました。1976年(昭和51)役場、雷電神社、延命院などを残すことで貯水池建設工事が始まり、1990年(平成2)現在のハート型の谷中湖が完成しました。
中の島へ向かい、進んてみましたが、結構遠いので途中で戻りました。再び草地中の園路へ入っていくと「落合幸次屋敷跡・落合幸蔵屋敷跡」がありました。

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落合幸次屋敷跡・落合幸蔵屋敷跡

1887年(明治20)頃、足尾銅山からの鉱毒の流出による被害が、渡良瀬川沿岸地域に拡大していきます。被害を受けた村民たちは、栃木県選出の衆議院議員田中正造とともに、足尾銅山の操業停止と被害民救済を訴え続けました。

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落合熊吉屋敷跡

1903年(明治36)、政府は洪水と鉱毒被害の対策として谷中村の堤内地を遊水地とすることを決定します。1905年(明治38)から栃木県が堤内地の買収を行い、1911年(明治44)には、国による堤外地の買収が始まりました。
350戸ほどの村民は近くの古河町、藤岡町、野木村などへ移転し、遠くは栃木県北部の村や北海道まで移転して行きました。

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鎌立橋

1906年(明治39)、谷中村は藤岡町へ合併され廃村となり、17年間続いた村の名前はなくなりました。1907年(明治40)堤内地に残り、移転に反対した村民に対し、家屋の強制破壊が行われました。
家屋を失った16戸の村民は、仮小屋を建て、1917年(大正6)まで住み続け、移転の際には田中正造の遺骨を祀る「田中霊祠」は藤岡町へ移転しました。

しばらく進むと一周し、駐車場へ戻りました。

この渡良瀬遊水地は、谷中村の村民や周辺地域の人々の大きな犠牲のもとに築造されたといえます。一方、コウノトリをはじめとした多くの生物が暮らす野生の宝庫でもあり、ラムサール条約湿地に登録されています。 コウノトリの繁殖期は2月頃(巣作り開始)から7月頃(巣立ち終了)で、ヒナの誕生は4~6月頃が中心です。いつか、ヒナが成長する姿を観察できたらいいな、と思います。

2025年11月2日

『旧下野煉化製造会社煉瓦窯』へやってきました。交流センター内へ入り、100円の料金を支払い、ヘルメットをかぶって出発です。100円とは安いですね!

下野煉化製造会社煉瓦窯

下野煉化製造会社は、1888年(明治21)に設立し、赤煉瓦を中心に製造を続けました。前身となる東輝煉化石製造所が先行して旧谷中村(現渡良瀬遊水地)に設立され、そこで製造された煉瓦がこの煉瓦窯製造の際に使用されました。

この場所は煉瓦の原料となる粘土と川砂に恵まれ、渡良瀬川の水運も利用できる絶好の地として選ばれました。 かつて構内には、ホフマン式輪窯のほか、素地製造場、登窯、事務所などがありました。 操業開始後、会社名は「下野煉化株式会社」、「下野煉瓦株式会社」、「下野煉瓦工業株式会社」、「株式会社シモレン」へと改称され、煉瓦製造は1971年(昭和46)まで続けられました。

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ホフマン式輪窯

日本に現存する有数のホフマン式輪窯のうち、最古かつ唯一の完全な形のものです。東西2基あったホフマン式輪窯のうち、東窯と称されたものであり、煉瓦の焼成窯として1890年(明治23)に築造されました。

ホフマン式輪窯

ドイツ人ホフマンが1858年(安政5)に特許を取得した赤煉瓦焼成用の窯であり、環状の窯の中で火を循環させながら、窯詰め、予熱、焼成、冷却、窯出しの焼成工程を繰り返し、一度点火することにより半永久的に焼成可能となっています。 2階に上る階段は2か所に設置されていますが、「粉炭」の搬入をするためのものです。

この煉瓦窯は、1979年(昭和54)に重要文化財に指定されました。

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ホフマン式輪窯のしくみ

時計回りに火を循環させながら工程を進めていきます。

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内部に入っていきます。 階段下の通路や窯出入口はヴォールト(アーチを元にした曲面天井)で煉瓦が積まれています。
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1F内部

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2階 投炭孔

煉瓦焼成に必要な粉炭は階段から窯上部へ運ばれ、投炭孔から焼成窯へ投入されました。粉炭は天秤棒の前後にぶらさげたパイスケと呼ばれる皿状の籠に入れられ、人力で運ばれていたようです。
小さなキャップ状のものが「投炭孔」です。外側と内側の2か所に線路状のものがありますが、ここに「炭車」と呼ばれるトロッコのようなもので粉炭を移動させ、15分ごとに投炭孔に炭を入れていたようです。2階から炭を入れ、1階の煉瓦を焼いていたようです。このブロックが焼き上がると、次のブロックの投炭孔に粉炭を入れていくことで、焼成帯を自然に前進していくことになります。

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煙突

上下で煉瓦や目地の仕様が異なる境目が確認されていることから、煙突全長の約半分が積み直されていたことがわかりました。

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煙突下部と周囲の道

窯から煙突をまわるようにある集煙道を通り煙突から外へ流れ出ます。煙道からの煙は、集煙道にあるダンパーの開閉で調節できます。

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乗馬クラブ

お隣は乗馬クラブですが、恐らくもとは煉瓦工場の敷地だった場所と思われます。

のんびりと馬が歩いていました。
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東輝煉化石製造所の刻印

この断片は、1890年(明治23)の築造当時のものと考えられる煙突の一部です。1923年(大正12)の関東大震災により落下したものと思われます。 このホフマン式輪窯の各所より「東輝煉化石製造所」で製造されたと思われる煉瓦が見つかっています。煉瓦積の上面に「T」の刻印があります。