2025年11月22日

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小金井駅のコインパーキングへ車を駐車し、JRで小山駅へ向かいました。 9:00 小山駅出発。

日光街道へ向けて100m進み、日光街道へ至る手前で右へ曲がっていきます。150m進むと右手に「光照寺」があります。入口を入り左側に「笠間藩士・海老原清右衛門徳教墓」と「豊臣秀吉家臣・尾藤左衛門尉宝篋印塔」があります。

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光照寺

時宗の開祖一遍上人の高弟で遊行寺二祖、他阿真教上人(1237~1319)が1297年(永仁5)創建しました。1683年(天和3)堂宇が焼失、1784年(天明4)境内の一部焼失、1793年(寛政5)に再建されたとのことです。

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笠間藩士・海老原清右衛門徳教墓と豊臣秀吉家臣・尾藤左衛門尉宝篋印塔

笠間藩は、代々寺社奉行や大阪城代、京都所司代、老中などの要職を務める名門でした。

戊辰戦争において、当初は東山道鎮撫総督の命を受け新政府側として出陣しましたが、途中で態度を翻し旧幕府(奥羽越列藩同盟)側(倒幕派)に寝返るという複雑な経緯をたどりました。佐幕派と尊王派が入り混じる藩内の対立や藩主の優柔不断により、最終的には新政府軍に攻められ降伏・改易という結末を迎えました。この戊辰戦争で亡くなったものと思われます。

尾藤左衛門尉

尾藤左衛門尉(尾藤知宣)は父に従って尾張春日井郡三ッ井村に居を構え、初め森可成についで森長可に仕えたが、永禄年間に尾張日比野に移り、1566年(永禄9)羽柴秀吉が墨俣に一夜城を築いたときに駆けつけ、秀吉に仕えるようになりました。秀吉の古参の家臣での中でも最も軍事に通じていたとされます。

しかし、島津氏討伐の決定的な好機を逃したため秀吉の怒りを買い、所領を没収されてしまいました。小田原の役の後、会津黒川城に向かう秀吉の前に下総の古河で知宣は剃髪して現れて許しを請いましたが、路上において手打ちにされたともいわれています。また、殺害地は古河ではなく下野・那須野ヶ原であったという話もあります。

なぜこの場所に宝篋印塔が建立されているかは不明ですが、近くの古河で手打ちにされたということが関係していると思われます。

日光街道へでて50m進み、左手の路地へ入っていくと正面に「元須賀神社」があります。ここから長い寄り道となります。元須賀神社前で左へ曲がり、駅前から続く大通りに突き当たったら右へ曲がります。200m進むと左手に「小山御殿跡」があります。

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元須賀神社

前回訪れた宮本町にある須賀神社は、当初ここにあったという記載が多く見られますが、須賀神社は小山市中久喜(中久喜城内)にあったとされるのが正しいように思います。中久喜から元須賀神社、そして現在の須賀神社へと移ったのでしょうか・・・

元須賀神社は、江戸時代には、牛頭天王社、元祇園社、本祇園社とも呼ばれており、日光街道分間延絵図には「牛頭天王社」として描かれています。

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小山御殿跡

元和年中(1615~24)幕府の命により小山城の大手持宝寺曲輪に御殿が築かれました。 周囲に堀がめぐり、土塁が二重に築かれ、敷地内には16か所に御番所が設けられており、かなり厳重な造りになっていたようです。

将軍家の日光社参は1663年(寛文3)に4代将軍家綱が行って以来、8代将軍吉宗が1728年(享保13)に再開するまで財政難により、一時中断されていました。 この間に御殿は台風によって建物の一部が壊れてしまったこともあり、1682年(天和2)古河藩によって解体されました。 日光道中分間延絵図には「大猷院様御殿跡」と記されています。

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プレート

芝生広場の中に御殿の形がアスファルト舗装で作られています。場所ごとにプレートが設置されており、それぞれの場所の説明がなされていました。建物は失われていますが、わかりやすいよう工夫されていました。
大通りに戻り思川に向かい200m進み、左へ曲がっていきます。道なりに200m進むと堤防上の道へ合流します。その角に「小山政光・寒川尼像」があります。

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小山政光・寒川尼像

小山氏の祖、小山政光とその妻、寒川尼の石像です。寒川尼は、後に「女性といえども大功あり」として下野国寒川郡・網戸郡の地頭に任ぜられたとされます。

小山氏

小山氏は940年(天慶3)平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫で、12世紀中ごろに政光を初代として成立しました。

政光の妻(寒川尼)が源頼朝の乳母だったこともあり、頼朝に味方し、鎌倉幕府成立に大きな力となり、御家人として東日本屈指の勢力を誇っていました。 14世紀後半の小山義政、若犬丸の乱で、下野守護であった義政は鷲城や祇園城などを本拠に鎌倉府軍と戦いましたが、これを境に小山氏の勢力は著しく衰退していきました。 祇園城はこの乱以降、小山氏の居城となったと考えられています。名称は、城内に祇園牛頭天王社を祀ったことに由来するといわれています。

戦国時代になると、小山は北関東の要衝であることから越後の上杉氏や小田原北条氏が度々来功しました。 1590年(天正18)豊臣秀吉が北条氏を攻略して天下統一を果たすと、北条氏に属していた小山氏は領地を没収されてしまいます。 1607年(慶長12)徳川譜代の本多正純が小山へ移封されると、祇園城は廃城となり、一角に将軍家の日光社参の休憩所、宿泊所として小山御殿が造営されました。

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思川の河原

思川沿いを祇園城跡へ向かって歩いていきます。一旦、堤防から河原におり、観晃橋の下をくぐってから階段を上ると祇園城跡側へ至ります。
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観晃橋の親柱

1899年(明治32)「観晃橋」の名前で木橋が架けられました。その後、1936年(昭和11)2車線のRCゲルバー橋に架け替えられましたが、老朽化と思川の増水により橋脚が沈下する災害を受けました。1978年(昭和53)から架替え工事が行われ、上部工は、1988年(昭和63)からワーゲンによる場所打ち張出し工法を採用し、上下線を分離施工することで、上流側の2車線を2年早く供用しました。

祇園城跡へ入っていくとすぐに「本丸跡」です。広い芝生広場は近年再整備されたようで、とても綺麗でした。

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祇園城跡 本丸跡

平安末期に小山政光の築城と伝えられ、分間延絵図には「小山古城」と記されています。中世の平山城で複郭式。思川左岸に立地し、城域は南北に細長く、土塁と空堀で分けられています。1590年(天正18)小山氏は北条氏に味方し滅亡しました。
関ケ原の戦いの時に、徳川家康は祇園城に東軍を集めて軍議を開きました(小山評定)。後に廃城となりました。

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思川

足尾山地の地蔵岳を源流とし、渡良瀬川に合流する一級河川です。水の女神「田心姫命(タゴリヒメノミコト)」に由来し、「田心川」が転じて「思川」になったと伝えられています。

本丸跡からそのまま奥へ進み、堀切に架かる祇園橋を渡ります。渡った先の左手が「中曲輪跡」、右手が「上段曲輪跡」です。

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中曲輪跡(馬出)

馬出は、虎口の外側を守るために築かれたもので、虎口の外に設けられた堀つきの小曲輪です。半円形の丸馬出と角形の角馬出とがありました。

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上段曲輪跡

小山氏が、現在の城山公園の場所に城を築いたとき、城の守護神として祇園社(現在の須賀神社)をまつったことから、祇園城と呼ばれるようになったと伝えられています。
さらに奥へ進むと広い「塚田曲輪跡」があり、広場の片隅に「公孫樹」があります。

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塚田曲輪跡

明治時代には城山公園内に、第二代衆議院議長であった星亨の別邸が建築されました。1956年(昭和31)城山公園として開園しました。

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公孫樹(祇園城跡の大銀杏)

江戸時代の旅行記などにも大きなイチョウがあることが記されている古木です。祇園城落城の際、古井戸に身を投げて亡くなった姫君の霊が傍らのイチョウに宿り、実を結ぶことがないとの伝説もあります。そのためか「実なしいちょう」とも呼ばれてきました。
さらに小さな橋を渡り、奥へ進んでいくと「本祇園曲輪跡」へ至ります。

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本祇園曲輪跡

TOO001 本祇園曲輪跡から橋の下の空堀の中を進んでいきます。少し進むと「天翁院」の南側へでます。小さな小山があり、恐らく土塁の一部と思いますが、その上にいくつかの石仏があります。

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自書塚(筆塚)・大澤正雄頌徳碑

石碑の碑文によると大澤正雄という人物は、新潟の生まれで小山に居住し砂利採取をしていたようです。「風致の環境を活かし、史跡を振作(振興・創造)し、顕揚(広く世に知らしめる)・・」とあるので、祇園城の保存に尽力したのかもしれませんが、詳細はわかりません。石碑は1937年(昭和12)に建立されたようです。顔のレリーフまでありますね。

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天翁院の駐車場を通り、境内へ入っていきます。
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天翁院

1155年(久寿2) 小山政光を開基として北山(小山市中久喜)に創建され、「衹園山萬年寺」と称しました。1472年(文明4)小山持政が培芝正悦大和尚を中興開山の師として招き、現在地に移され、小山高朝の法名『天翁孝運』にちなみ『天翁院』と称するようになりました。当時の本堂は1808年(文化5)野火により焼失し、約200年後の平成十九年(2007年)に現在の本堂が再建されました。

参道の右手にはコウヤマキ、左手に小さな「千手観音堂」があります。

天翁院のコウヤマキ

コウヤマキは古来、防火樹として社寺の境内に多く植えられてきました。天翁院の本堂も1808年(文化5)野火によって類焼し、その後現在地へ建てられたといいます。このコウヤマキは焼失した本堂と現在の本堂との間にあり、防火樹として植えられたものと考えられています。樹齢400年以上と推定されています。

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千手観音堂

日光道中分間延絵図には「観音」として描かれています。
本堂の左手奥、墓地の最西端あたりに小山氏の墓地があります。

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初代小山政光之碑と小山氏代々の墓

小山氏は下野の豪族、藤原秀郷の子孫とされます。政光の子、朝政、宗政、朝政らはそれぞれ小山・長沼・結城氏を称して一族は繁栄しました。 結城晴朝は高朝の三男で、結城政勝の養子となり1559年(永禄2)家督を継ぎ下野国結城城主となっています。

天翁院をあとに国道4号を南へ向かいます。180m進み本郷交差点を左へ曲がり、60m左手に「宝性院」があり、門前に「不動尊」と彫られた龍の石像があります。

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宝性院

日光道中分間延絵図には宝性院と稲荷が一緒に描かれていますが、往時の場所はもう少し南にあったのではないかと思います。門前に石像の「倶利伽羅不動尊」が祀られています。

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倶利伽羅不動尊

倶利伽羅龍王が、煩悩を焼き尽くす不動明王の利剣に巻き付いている姿で、この龍自体が不動明王の化身とされています。
宝性院のすぐ先左手に「壬生城移築城門」があります。

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壬生城移築城門

現在は個人邸の門となっています。壬生城はここから12kmほど北の壬生町にあった城です。徳川将軍家の日光社参の帰路の宿館として壬生城本丸内に書院造の御殿が建設されていました。
城門のすぐ横の細道を入っていくと興法寺に入っていけます。

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興法寺(弘法寺)

寺伝によれば、849年(嘉祥2)慈覚大師円仁が都賀郡室の八島に下向の際、小山荘に一宇を建立して「妙薬院」と号したのが始まりとされます。 940年(天慶3)藤原秀郷が小山城を築城すると、城内へ移転して妙薬院興法寺と称したとされます。一説には小山城主の帰依を受けた僧、興海の中興開山と伝えられます。 1683年(天和3)火災の為堂宇を焼失、1687年(貞享4)覚栄法師によって再建されました。第57世貫首日光輪王寺宮門跡公弁法親王(後西院帝第六皇子)がしばしば休泊した場所として知られています。1695年(元禄8)には阿弥陀三尊像、比叡山中興の慈恵大師良源像、門額などを寄進したとされます。 1808年(文化5)にも焼失しましたが、1885年(明治18)滋湛法印が堂宇を再建しました。山門は焼失を免れています。

興法寺の正門から日光街道へ出て、すぐ先右手に「愛宕神社」があります。

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愛宕神社

1223年(貞応2)城主、小山左衛門尉朝政が本城鬼門守護の鎮守として山城国(京都)の愛宕神を勧請して創建しました。文政年間(1818~1830)に社殿を再建、1850年(嘉永3)本殿を再建しています。

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市内最古の狛犬

愛宕神社の狛犬は1785年(天明5)のもので、市内最古の狛犬です。

愛宕神社拝殿の左手に「遠山閑翠の碑」といものがありました。

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遠山閑翠(三郎右衛門)の碑

碑文によると前半は遠山家のことが書かれています。 遠山氏の初代、遠山景朝(カゲトモ)の流れを汲む家系で、遠山直勝、三郎右衛門、あるいは源次郎とされる人物は、櫻田の館(江戸城桜田?)に仕え、表小姓を務め、1704年(宝永元)文昭院殿(徳川家宣)西城(西の丸)に移り、御供に列し西城の焼火間番(火の元や周囲の警備・管理)となりました。下野国都賀郡に領地を与えられ、1712年(正徳2)番を辞め、御書院番となり、1723年(享保8)44歳で没。法名は了道。この地の領主であったようです。

後半は「鉄道会社」「若不慮之事故」などあり、明治時代の遠山家の方と思いますが、若くして亡くなったということでしょうか。よくわかりません。 1892年(明治25)に建立された石碑です。
愛宕神社をあとに日光街道を進みます。両毛線の踏切の少し手前左手にはかつて「醤油漬発祥の地」であった「八百忠」があったということですが、現在敷地が細かく分割され、小さな戸建てが何棟も立ち並んでいます。

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醤油漬発祥「八百忠」跡

「創業嘉永年間 海産物問屋 八百忠」という大きな看板を掲げた 蔵造りの店舗があったそうです。 江戸時代に八百屋として創業し、古くから近在で作られる野菜の醤油漬を作っていたとされます。
両毛線の踏切を越え、住宅街を650mほど進み左手へ入っていくと喜沢共同霊園ですが、ここに「喜沢薬師堂」があります。

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喜沢薬師堂

この場所は日光道中分間延絵図の「天翁院寮」と思われます。薬師堂はこの先の「栄蔵院」にあったものと思われます。栄蔵院も今はありませんが、ほかに供養塔、庚申塔が描かれています。
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観音堂

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地蔵尊道標(右端)

かつて喜沢の追分にあったといわれる1718年(享保3)の道標地蔵で、側面に「右へ奥州海道 左へ日光海道」とあり、1716年(正徳6)「海道」の使用を禁止した幕府の御触れが徹底していなかったようです。
さらに500mほど進み、左手から「日枝神社」の参道へ進んでいきます。

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日枝神社参道の大ケヤキ

大きなケヤキの下を潜り抜けるように歩いていきます。途中、国道4号で参道が途切れますが、国道を渡るとすぐに「日枝神社」へ至ります。
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日枝神社

創建年は不詳です。日光道中分間延絵図では「山王」となっています。喜沢の追分の「男体講碑」によれば明治維新の際に山王権現を廃し、日枝神社と改称するとあり、神仏分離令によるものです。 建物を新築する際、着工前の敷地に境内の砂をまいて、土地の神様に安全を祈願するのが「地(とこ)鎮めの砂」といわれます。竣工後に倍の砂をお返しするのが習わしとなっています。

愛宕神社は、拝殿左手奥から山中に入り、左手方面へ少し入っていくと小さな社があります。

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境内社と愛宕神社

境内には大神官稲荷、大杉明神、摩利支天が祀られています。愛宕神社も江戸時代から祀られていました。

参道を通り日光街道まで戻り、200mほど進むと左右に分岐している「喜沢の追分」があり、左手の住宅前に「馬力神」がありました。追分には男体山碑があります。

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馬力神

1904年(明治37)と彫られています。「馬力神」とは、馬の守護神や愛馬の供養塔として建立された石碑です。栃木県、宮城県、茨城県の一部に集中して存在しています。
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喜沢の追分道標

日光道中と日光道中壬生(みぶ)通りとの分岐点です。往時は地蔵尊と1835年(天保6)の男体講碑の道標が建てられていました。

表面に大きく「男体山」と刻まれ、やや小さく『右奥州 左日光』と刻まれています。江戸の力士、歌浜斧吉の発願で建立されました。一時、日枝神社に移されていたようですが、現在は元の位置に戻されています。1889年(明治22)の馬頭観音と1785年(天明5)の西国秩父坂東供養塔もあります。この供養塔には「左 壬生道」と道標にもなっています。

日光道中壬生(みぶ)通り

壬生通りは今市で日光街道と再び合流しますが、通説では飯塚から楡木までを「壬生通り」と呼んでいます。壬生通りは脇往還ですが、道中奉行の管理下にあり、公用通行路となっていました。

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右手の旧道方面へ入っていきます。ここからようやく静かな道となります。
650mほど進むと「喜沢の一里塚」がありますが、案内も何もないのでわかりにくいかもしれません。

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喜沢の一里塚

1975年(昭和50)頃の資料には「左右ともよく保存されている」と記されていまが、現在、左塚は形状を保っていますが、右手はわずかに盛り上がっている程度です。往時は杉の木が植えられていたとされます。「宿場大概帳」には左側に雑木、右には杉があると書かれています。
道なりに1.5kmほど進むと国道4号線に合流します。さらに国道4号線を600mほど進んでいくと新田宿へ入っていきます。信号機の右手が「脇本陣跡」、左手が「本陣跡」です。

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脇本陣跡

新田宿の開発年代は不詳です。もとは「芋柄新田」でしたが、宿場となってからは新田町、あるいは新田宿というようになりました。家数59軒、本陣1軒、青木家、脇本陣1軒、問屋1軒でした。

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本陣跡

150mほど進んだ左手、見つけにくいですが、倉庫と倉庫の間に「吉田神社跡」と彫られた石碑があります。そのすぐ先を左へ入っていくと「羽川薬師堂」があり、このあたりが「幕府代官陣屋跡」だったとされます。薬師堂の奥に「中里遜齋墓碑」があります。

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吉田神社跡

現在、橿原神社の境内社となっている吉田神社がもとはここにあったようです。祭神は吉田久左衛門彦出命、小出大助照方彦之命。代官であった二人を祀っていたのが吉田神社のようです。
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羽川薬師堂・幕府代官陣屋跡

慈眼寺末寺の玉性院があり、慈眼寺から僧、権大僧都覧清師を招き中興開祖としました。覧清師は堂を建立し、薬師如来瑠璃光如来像を安置したのが薬師堂の由来です。1984年(昭和59)堂の修復がなされました

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中里遜齋墓碑

国学者で橿原神社建立にもかかわった中里遜齋の墓碑が中里家の墓地内にあります。

幕府代官陣屋跡

日光道中分間延絵図では、「御代官陣屋」と記されていますが、明確な記録はないようです。ただ、「日光道中略記」に「徳円霊神・泰誠霊神の合祀」と記されています。宝暦年中(1751~63)代官、吉田久左衛門支配の時に窮民を救い、善政を行ったので「徳円霊神」として合祀したとされます。後の寛政年中(1789~1800)にも代官・小出大助支配の時、善政を行ったので「泰誠霊神」として合祀したといいます。この点から代官の陣屋が置かれていたのは確かであると書かれています。この吉田久左衛門が後に「吉田神社」となったと思われます。

日光街道を80m進み、右手が「橿原神社」です。参道を200m進むと拝殿があります。拝殿の左手に「星宮神社」があります。

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橿原神社

古くは「星宮神社」が氏神でしたが、1872年(明治5)九州宮崎神宮より勧請し「橿原神社」と名を改め創建されました。1906年(明治39)汽車の飛び火により焼失、1914年(大正3)再建されたものが現在の社殿です。1972年(昭和47)新幹線建設の為、西へ移転しています。

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星宮

現在は境内社のようになっていますが、もともとこの場所は「星宮」でした。

14:00 新田宿をあとに小金井宿へ向かいます。