2025年11月15日
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小山駅近くの思季彩館裏のコインパーキングへ駐車し、JRで間々田駅まで戻ります。
9:00 間々田駅出発。駅前には「間々田駅の蛇祭り」のモニュメントがありました。

間々田駅の蛇祭り
古くは「ジャガマイタ」と呼ばれていました。毎年5月5日の子供の日に間々田八幡宮に集合し、儀式を行った後、樽型の大蛇を担ぎ町内を練り歩きます。蛇は長さ15m、胴の太さ30cm程度です。起源については、八大竜王信仰説、法隆東林の雨乞い(滝昌寺住職)、疫病厄除け説などいくつかの説があります。
西に250mほどで日光街道へ至ります。右へ曲がり日光街道を250m進むと右手に
「小川家住宅」があり、さらに250m進むと
「逢いの榎」があります。
小川家住宅
乙女河岸で肥料問屋「車屋」を営んでいた小川善平が明治末期に現在地に店舗や住居を移転し、その際に大半は新築したものですが一部は乙女河岸から移築したと考えられています。
主屋は1912年(明治45)建築、米蔵は美術展示室となっており、1911年 (明治44) 建築。肥料蔵は小川家関係資料展示コーナーとなっており、1913年(大正2)建築とされます。
逢いの榎(間の榎)
江戸と日光、それぞれからほぼ18里(約72km)の中間点に位置しており、「間の榎」と呼ばれました。間々田宿の入口にあった榎は、毎年街道を通った
例幣使が江戸と日光の中間にこの榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。縁結びの木として祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられます。
100mほど進むと右手に
「琴平神社」があり、さらに60m左手に
「龍昌寺」があります。
琴平神社
日光道中分間延絵図を見ると、ここには金毘羅・愛宕・雷電がありました。手前には
溜井があったようですが、現在は埋め立てられているようです。
日光道中分間延絵図「間々田」
絵図に「逢いの榎」は描かれていません。
龍昌寺
1606年(慶長11)に常陸水戸城内の龍江院第十二世華翁玄芳禅師の開基です。その後、禅師は弟子、宗存に譲り、自らは安蘇・足利に至り龍真・龍西・
龍江院を興しました。寛永年中(1624~43)落雷のために火災となり、焼失。その後に再建。1277年(建治3)の板碑が保存されています。

寝起不動尊
水戸城内の龍江院に祀られていましたが、元亀年間(1570~1572)模庵和尚が明王の示現によって尊像を背負い旅にでました。老齢であったため当地へたどり着くと足も動かなくなり、枕辺に明王が現れ、「この地こそ我が済度化縁の地なり」と和尚は寝起こされ、お堂を建て、尊像を祀ったとされます。
現在の堂は1745年(延享2)に建てられたものとされますが・・280年前・・ペンキが塗られているせいでしょうか、そんなに古い堂には見えないのですが・・
本堂の左手に
「家光の碑」があり、さらに本堂の奥に
「家光公御霊屋跡碑」があります。

家光の碑
徳川三代将軍家光(大猷院)は1651年(慶安4)没し、上野寛永寺より御霊棺奉行、酒井讃岐守源忠勝以下数百名の行列により、日光山へ葬送されました。途中、龍昌寺が遺骸の安置所となり、御霊屋が設けられました。この御霊屋は絵図にも描かれています。

家光公御霊屋跡
1651年(慶安4)、4月24に上野出発、26日に龍昌寺へ一泊、28日に日光山へ到着しています。この場所に「御霊屋」が建てられたようです。
龍昌寺から日光街道へ戻り、50mほど、左手に
「間々田ひも」と書かれた店舗があります。
間々田ひも
間々田地方は昔から組紐の街として栄えてきました。奈良時代から受け継がれた組紐技術に小山市の渡辺浅市が創意工夫を凝らして創案したものだそうです。伝統的工芸品として国に指定されています。
350mほど進むと「間々田」交差点があり、間々田宿となります。交差点のすぐ先左手が脇本陣跡、2軒先が問屋場跡、さらに80mほど先に本陣跡がありました。
間々田脇本陣跡・間々田宿問屋場跡
脇本陣は舘野家が務めていました。問屋は上原家が名主職を兼ねて代々世襲で問屋を務めました。

間々田本陣跡
青木家が幕末まで代々世襲により務めていました。明治時代になると明治天皇が本陣で休憩をしています。
間々田宿
日光街道が整備された翌年に宿駅に指定されました。
1843年(天保14)の「宿村大概帳」によれば、人口947人、家数175軒、本陣は1軒、脇本陣1軒、旅籠50軒、問屋は3か所にありました。旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉も間々田宿へ宿泊しています。
間々田宿内を進んでいきます。200m先には間々田八幡宮の参道がありますが、曲がらずにその先のお寺に寄っていきます。右手には
「行泉寺」、左手には
「浄光院」があり、往時から同じ位置にあるようです。
行泉寺
開基は西限法師で、はじめ浄土宗でしたが3代住職願良法師の時に時宗となり、本尊を薬師堂に祀りました。1876年(明治9)風災により破壊し、さらに1885 年(明治18)には火災により全焼しました。1887年(明治20)18代住職の時に再建し現在に至ります。
開基・西限墓碑
1658年(万治元)の年紀があります。「日光道中略記」には「開基西限法師ハ慶安四年(1651)寂ス」とあります。
浄光院
開山は憲順法師で、1652年(慶安5)に没。古くは阿弥陀寺と称しましたが、いつ頃改称したのかは定かではありません。境内に観音堂があり、元は西音寺境内にありましたが、小学校増築のため1877 年(明治10)末に境内に移しました。本尊は思川にあったものを川より揚げて安置したものといいます。
浄光院の先を左へ曲がり、300mほど進むと間々田八幡公園に突き当たります。左へ曲がり池に沿って進むと間々田八幡宮の境内へ入っていきます。

弁天池
池は往時からあり、中央に弁天が祀られており、「弁天池」と呼ばれています。
社務所の前を通り、右手へ入っていくと
「頼朝手植えの松」があり、その奥に
「厳島神社」があります。そのすぐ先に
「芭蕉句碑」がありました。

頼朝手植えの松
1189年(文治5)陸奥守藤原秀衡討伐の軍を率いた源頼朝は、藤原秀郷の将門調状の祈誓が八幡宮にあるということを聞き、戦勝を祈願し松を植えたとされます。1905年(明治38)に枯死し、現在の松は3代目とのことです。
厳島神社
日光道中分間延絵図に記載のある「弁天」だと思われます。

芭蕉句碑
『古池や蛙飛びこむ水の音』
1853年(嘉永6)田口久七が北越遊歴中に病気にかかり、故郷の鎮守である間々田八幡宮に祈念して平癒し、無事に間々田村に帰ることができたので、奉謝のため芭蕉句碑を寄進したといいます。
間々田八幡宮
天平年中(729~748)の勧請とされる歴史の古い神社です。939年(天慶2)平将門の乱の時、藤原秀郷が将門を討伐すると、沿道の諸神社仏閣に戦勝を祈願しました。乱の平定後、八幡宮に供御料として田を寄進し、住民は飯田の里と称しました。
江戸時代には日光例幣使が例年参詣したとの記録もあります。
狛犬と境内社
享和年間(1801~1804)はしかが流行した時には、遠方からも祈願者が多く、その線香により火災となり焼失。1851年(嘉永4)村民が協力して再建されました。
駅にモニュメントがあった
「蛇まつり(間々田のジャガマイタ)」が行われています。

ひょうたん池
社務所で鯉のえさを飼い、池で餌をあげるとほとんどは鴨が食べちゃいます。
日光街道へ戻り700mほど先の間々田郵便局付近に
「間々田一里塚」があったと思われます。

間々田一里塚跡
塚の上には杉が植えられていたとされます。現在は表示も案内もありませんので、はっきりとした場所は分かりませんが、日光道中分間延絵図によると間々田村と千駄塚村境の手前、間々田側にあったようです。恐らく現在の郵便局あたりと思います。
間々田郵便局から500mほど左手に馬頭観音や石仏があります。ここを左へ入っていくと
「千駄塚古墳」があります。
馬頭観音
日光道中分間延絵図を見ると、この場所には馬頭観音や地蔵堂、庚申塔、供養塔などが描かれており、この馬頭観音は絵図に描かれているものと思われます。

日光道中分間延絵図「千駄塚村」
小山の富豪と通りかかった奥州の商人との千駄の荷物をめぐる賭け事が、「千駄塚」の由来となっているそうです。
千駄塚古墳・浅間神社
有段式円墳。大きな円形の基壇の上に円錐形に封土を盛り上げており、墳頂は平らになっており、墳丘の周囲には周濠跡がめぐっています。古墳内部は未調査で、詳しいことは不明ですが、6世紀頃のものといわれています。
古墳の頂上には
浅間神社が祀られています。この神は昔、間々田の地に住む
牧の長者という者の守り本尊であったとされます。

山神社・雷電神社
塚上には山神社と雷電神社も祀られています。
塚を下り、左手に塚の周囲を回っていくと
「石棺」が展示されています。

桃塚の石棺
1901年(明治34)近くの桃塚という古墳から発掘され、地元の谷内仙三郎氏の尽力により1915年(大正4)現在地へ移されました。石棺と蓋石、巨石が置かれています。大きさから当時の有力者の子供を葬ったと考えられています。
日光街道へ戻ります。少し進むと千駄塚と粟宮の境に差し掛かります。このあたりには、絵図によると右手に
「泉蔵院」があったようです。宝永年間(1704~10)に本尊が焼失し、後に浅間社の前に移す。とありますが、浅間社前にも今はありません。
千駄塚古墳から700m進むと左手に
「西堀酒造」があり、すぐその先に
「大橋訥庵・巻子旧居跡」があります。
西堀酒造
幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした儒学者、
大橋訥庵(とつあん)を婿養子として迎えた呉服問屋(江戸日本橋の豪商佐野屋)は、仕込蔵を売りに出していました。
滋賀県蒲生郡朝日野村(現、東近江市)に居を構える西堀家の10代目当主、
西堀源治郎(三左衛門)がこれを買い受け、酒造りを始めたのが1872年(明治5)でした。
荷物になるのでここでは通過しましたが、帰りに車で寄り、
「門外不出」という純米吟醸酒を購入しました。

大橋訥庵・巻子旧居跡
粟宮の医師、大橋英斉の子で、宇都宮で母方の姓をついだ菊地淡雅は江戸日本橋へでた豪商で、文化人としても知られていました。
娘巻子に生家、大橋家をつがせるべく迎えた婿は昌平黌(ショウヘウコウ)教授、佐藤一斉門下の秀才で、大橋訥庵(トツアン)を名乗り、日本橋に思誠塾を開き、青年志士に大きな影響を与えました。
しかし、尊王攘夷を唱えていたため、坂下門外の変への関与を疑われて
投獄されました。出獄後の1862年(文久2)47歳で病没しました。
この経緯を綴った妻、巻子の歌日記
「夢路日記」が刊行されるとベストセラーとなりました。
150mほど進むと右手に粟宮上公民館があり、地蔵などがある墓地がありますが、ここが絵図の
「地蔵寮」の跡と思われます。

地蔵寮跡?
地蔵寮の詳細は不明ですが、墓地が残されています。また、この墓地には「御登理様」が祀られ、大橋家の墓地があり、大橋淡雅頌徳碑が建立されています。

御登理様
詳しいことはわかりませんが、口コミによると、婦人病で亡くなったおとりさんが臨終に際し同じ病に苦しむ人を助けたいと言い遺しました。その後墓詣でをする人々の間で 霊験あらたかとの声が増え、お堂が建つまでになったとのことです。墓石の脇には「御鳥神」とも記されていました。

大橋淡雅頌徳碑
先ほどの大橋訥庵(トツアン)の妻、巻子の父が大橋淡雅でした。
大橋淡雅は粟宮村の医師大橋英斎(栄斉)の子として生まれ、15歳のとき宇都宮の古着商佐野屋を営む菊池家の婿養子となります。1811年に家督を岳父の弟・栄親に譲り、江戸に出ました。
1814年(文化11)、26歳のとき岳父孝古(菊池治右衛門)から資財を受けて江戸日本橋元浜町に佐野屋の分家として別店を出し、商才を発揮して、1834年に
真岡晒木綿の販売を開始して大手太物商となり、呉服商・真岡木綿の中継問屋・両替商と事業を拡大します。江戸を中心に関東一円に50店以上を持つ豪商となりました。
晩年は書画をコレクションし、書法の鑑定家として知られるようになり、また
佐藤一斎・渡辺崋山・椿椿山・立原杏所など文人墨客と盛んに交遊し、同郷の画家
高久靄厓を熱心に支援していました。
著書『淡雅雑著』では商人の道義と徳を述べ、「余りあれば必ず施し、人を富まして自ら富む」と説いている。事実、天保の大飢饉では私財を投じて救民に尽くしました。1853年(嘉永6)病没、享年66歳。谷中天王寺に葬られました。また、淡雅の妻民子は雅号を
倭文舎(シズノヤ)とし歌人として知られます。歌集『倭文舎集』・紀行文『江の嶋の記』を著しています。この碑は1990年(平成2)大橋家の墓地に建立されました。
絵図によると地蔵寮前を左へ曲がっていく道が「粟宮明神参詣道」でした。現在もここから入っていくと一の鳥居がありますが、日光街道のほうを通っていきます。

上宿立場跡
60mほど進んだ左へ入る道に少し旧道が残っています。国道になる際に取り込まれなかったようです。左へ入ったあたりが「上宿立場跡」付近です。
150mほどで旧道は消えています。右へ曲がると現在の日光街道へでますが、左へ曲がり
「安房神社」へ向かいます。200m進むと参道へ突き当たりますので、右へ曲がり参道を進んでいきます。

安房神社参道
樹木が生い茂る参道は異世界のようでした。
石橋と石橋供養塔

弁財天祠
日光道中分間延絵図によると池も弁天も往時からあったようです。
鎌倉道
安房神社の西側の細道が
鎌倉道のようです。
安房神社
創建は不詳ですが、927年(延長5)の「延喜式」に記載されている神社、別当は神宮寺です。崇神天皇の御代に創建されたとも伝えられます。千葉県館山市の安房神社を祀る人々の一部が良き土地を求めてここへ移住し、神を祀り、
粟の栽培をしたともいわれています。平安時代末期に平将門と戦った藤原秀郷が戦勝を祈願したとも、社領を寄進したともいわれています。
小山氏の信仰も厚く、古河公方も敬っていました。「日光道中分間延絵図」では「粟宮明神」となっています。境内には天神社、稲荷社、道祖伸社、大臣社ほか多くの境内社が祀られています。
安房神社の拝殿をでて、参道を今度は東へ向けて進んでいきます。こちらには東の一の鳥居があり、日光街道へ戻ります。再び日光街道を小山宿へ向けて進んでいきます。
600m進み、信号のある交差点を右へ曲がり、
「神鳥谷八幡宮」へ寄り道してみます。途中、線路のくぐるため道を一段下り線路を越え、再び上ると到着します。
神鳥谷(ヒトトノヤ)八幡宮
創建は不詳ですが、1440年(永享12)結城民朝の乱により神社も廃絶したと伝わることから、神社の創建は、それ以前と考えられます。
天和年間(1681~1684)には、鎌倉八幡宮より御分霊を勧請して、再建されました。
神社前の八幡公園で一休みし、日光街道まで戻らずに新幹線とJRが並行して走る線路沿いを進んでいきました。新幹線沿いを1kmほど進むと国道50号の下をくぐります。神山公園を越えさらに100mほど進むと左手に土塁のような土手があります。
曲輪跡(小山氏居館)
この場所には「史跡 曲輪跡」の石碑があったようですが、なぜか今は無くなっています。

日光道中分間延絵図「青蓮寺堤」
「日光道中分間延絵図」にはこの場所を「青蓮寺堤」と記されています。「日光道中略記」には「東西北の三方に堤あり。内は方七十間許の地なり。いにしへる尼寺の跡といふ」とあり、青蓮寺という尼寺の跡というと記しています。しかし、この地は「青蓮寺曲輪」といわれ、元来は四方に土手がありましたが、現在は切り崩され一部が残っています。土手構えから見て館跡で、曲輪城といわれ、小山氏が築いた館跡と考えられていました。
さらに進み丁字路を左へ曲がり50mほど右手に
地蔵堂があります。かなり古い石仏も見られますが、詳細はわかりません。
地蔵堂・石仏群
踏切を渡り、新幹線の高架を越えすぐ左へ入っていきます。

青蓮寺堤を反対側からみてみます。
曲がってから80mほど進むと右手は空地になっています。ここが
「神鳥谷曲輪跡」になります。

神鳥谷(ひととのや)曲輪跡
この地を治めていた小山氏が13世紀後半から14世紀の終わり頃まで使用した館跡であることが2007年(平成19)の発掘調査によりわかりました。小山義政の乱の時に焼失し、館としての機能を終えたと考えられています。小山氏の城郭としてほかに鷲城跡、祇園城跡、中久喜城跡の3つの城があります。
曲がってきた道へ戻り、左へ曲がり、150mほど進むと日光街道へ戻ります。この交差点にあるのが
「天満宮」です。
天満宮
創建は不詳ですが、稲荷神社、雷電神社の3社が合祀されています。稲荷神社の社殿棟板には1767年(明和4)沼郡直右衛門有寿という人が先達となり、結城大木村の大工、池田権平と結城郡小森村の彫刻師、増山藤重良という二人の職人により造られました。この時の落慶式の導師は持宝寺住職、広映和尚でした。

青蓮寺跡
恐らく現在の公園付近が「青蓮寺跡」と思われます。小字名として「青蓮寺」が残っています。
持宝寺の末寺でしたが、1870年(明治3)廃寺となりました。境内には天神社、観音堂、道祖伸、稲荷社が祀られていたとされますから、現在の天満宮の敷地も青蓮寺の境内だったと思われます。
江戸時代末期、
水戸斉昭が大砲を作るため、水戸領内のお寺に釣り鐘を供出させたとき、青蓮寺の住職は人殺しに仏様の釣り鐘を使うとは何事か、と反対し一夜のうちにどこかへ隠してしまったといいます。
ここから
小山宿となる日光街道を進んでいきます。

醤油醸造所跡
1918年(大正7)頃に建築された醤油醸造所です。煉瓦煙突は1925年(大正14)に建築されました。戦後まもなく醸造所は廃業となりましたが、その後は集会所などに利用されていました。現在は小山市に寄贈され、補修を行い市民活動の拠点として利用されています。
さらに100mほど進んだ永島金物店、斎藤酒店付近に
「小山一里塚」があったといわれています。

小山一里塚跡
往時は塚の上に杉が植えられていましたが、1884年(明治17)頃に取り壊されています。
一里塚跡のすぐ先交差点を左へ曲がっていき、寄り道をしていきます。すぐ先左手に
「子安地蔵尊」があり、さらにその先の右手には
「持宝寺」、左手の持宝寺墓地の角に
「観音堂」があります。

子安地蔵尊
絵図を見ると、往時この辺りも持宝寺の境内だったようです。絵図にある「地蔵」がこの子安地蔵尊でしょうか。

持宝寺
772年(宝亀3) 開基は弓削道鏡で、花岡天皇の時に俊海大阿闍梨が中興開山であると伝えられています。初めは宇都宮城内にあり、本多正純が城主のときの1619年(元和5)現在地へ移転したとも、あるいは小山城にあり、本多正純が小山城主の時に現在地へ移転したともいわれています。阿弥陀像は小山四郎政光の守護神といわれます。
1728年(享保13)の徳川吉宗日光社参の際には
小休所となりました。これは、小山御殿が廃されたためと思われます。1762年(宝暦12)正月の火災により寺宝などは失われています。
梵鐘は1792年(寛政4)に佐野の鋳物師三木平右衛門が鋳造したものです。「当人者人皇四十五代孝謙天皇弓削道鏡廟塔」とあったため、戦中の供出を免れています。
観音堂
絵図の「聖天」がこの観音堂かもしれません。
更に奥へ進み、小山第二小学校を過ぎた八幡町の交差点を右へ曲がります。160mほど進むと左手に
「須賀神社」があります。
須賀神社(牛頭天王)
祇園大明神、天王さまなどとも呼ばれていました。
平安時代、下野国の押領使であった
藤原秀郷が天慶の乱に際して、平将門を討つために祈願し、これが成就したことにより、940年(天慶3)京都八坂神社(祇園社)からの分霊を祀ったのが始まりです。創建当時は約3km離れた北山(小山市中久喜)に祀ったとされ、小山城の築城に伴い、平治年間(1159~60)に現在地へ移されました。
中久喜城跡近くの「牛頭天王碑」がありますが、そこが跡地でしょうか。
須賀神社の入口に
「徳川家康公小山評定之碑」があります。また、参道には
「藤原秀郷公彰之碑」があり、拝殿左手に
「七つ石」、「小山朝政之碑・小山義政之碑」があります。

徳川家康公小山評定之碑
関ヶ原の戦い直前の1600年(慶長5)、徳川家康が会津討伐の途中で石田三成挙兵の報告を受け、ここ小山に諸将を集めて開いた軍議のことです。ここで家康は西上して三成を討つことを決定したとされます。

藤原秀郷公彰之碑
藤原秀郷公は下野国押領使で須賀神社を創始しました。秀郷は天慶の乱で平将門を討伐し、その後も下野国の興隆に尽力しました。その功績を顕彰するために1992年(平成4)に建立されました。

境内社
境内社としては、天満宮・三峯神社・八雲神社・蘇民神社・神明宮・足尾神社・工祖神社・稲荷神社・浅間神社・小御嶽神社があります。

七つ石(夜泣き石)
7つの石は、元小山城にあった庭石とされ、小山城が落成した際に結城の城主に接収されました。すると夜中にこの七つ石が小山の地を懐かしみ泣いたといいます。驚いた結城の城主は小山城が廃城になったことから鎮守であったこの須賀神社へ運ばれました。その後、石は泣くことはなかったとされます。

小山朝政之碑・小山義政之碑
小山朝政
生年不詳、1238年(嘉禎4)没。初代小山城主である政光の子で、小山小四郎とも称しました。平安・鎌倉時代の武士で、源頼朝に従い特に1183年(寿永2)には鎌倉攻撃を図った志田義広の大軍に下野野木宮で勝利し、平氏追討の一翼を担いました。
その後も多くの合戦において武功を挙げ、頼朝の信頼が厚い御家人として活躍しました。
小山義政
生年不詳。1382年(弘和2)没。小山朝政の孫で、南北朝時代の武将、五郎、佐馬助とも称し、祇園城、鷲城を本拠とし、下野国守護、鎌倉公方であった足利氏満の制止を無視しで宇都宮基綱と合戦し、基綱を戦死させたことにより、氏満は関東八か国に義政追討令を発しました。義政は鷲城を中心に幕府軍と戦い(義政の乱)遂に1382年(弘和2)糟尾山中で自害しました。
須賀神社の先には、「妙建寺」があります。

妙建寺
1334年(建武元)成就院日念聖人によって建立されました。1715年(正徳5)作成の過去帳には1338年(暦応元)「松厳院本壽日久居士 小山松本石見守藤原正久」と松本氏関係の記載が三件あり、日念聖人が松本房と称したことから松本氏の戦勝祈願所・菩提寺として建立されたと思われます。
旧本堂は、1717年(享保2)から16年間かけて建立されましたが、2012年(平成24)の東日本大震災により一部被害を被ったため解体し、2023年(令和5)再建されました。
妙建寺の先を左へ曲がります。下り坂となりますが、この坂が「清水坂」と呼ばれていました。すぐ先を左へ入っていくと「愛宕神社」があります。
愛宕神社
別当は玉宝寺でしたが、玉宝寺は無くなっているようです。1379年(康暦元)小山義政が勧請したとされます。大きなケヤキは勧請したときに御神木として植えられたとされます。本地は勝軍地蔵です。境内には大杉明神社、金毘羅社、稲荷社、弁財天祠、雷電祠が祀られています。
愛宕神社社殿の裏に「宝井其角句碑」があります。

宝井其角句碑
『ほととぎす 十二の橋の 夜明けかな』
宝井其角(タカライキカク)は、江戸時代前期を代表する俳諧師で、松尾芭蕉の「蕉門十哲」の一人に数えられ、洒落風と呼ばれる都会的で華やかな俳諧を大成し、「江戸座」を創設した人です。
愛宕神社から清水坂へ戻り、さらに下っていきます。突き当り付近に「庚申塔道標」があります。

清水坂
小山宿から思川の舟渡場に至る坂道として人々に親しまれていました。昔から坂の崖に沿って清水が豊富に湧き出していたことから近隣の人々や舟待ちする旅人などが喉を潤す場所となっていました。

清水坂の庚申塔道標
『左佐野道 右朽木道』と刻まれており、庚申塔を兼ねています。
1800年(寛政12)建立の庚申塔道標は、当初は思川沿いの佐野道・栃木道の追分付近に榎の大木と一緒にありました。思川を舟で渡り、佐野、栃木方面へ向かう人々の道しるべとなり、その後、思川の氾濫や改修工事などで数回移動されています。
右へ曲がり、小山市役所への階段を上っていきます。駐車場の中を進み庁舎左手に変わったモニュメントがありました。

東京スカイツリー本体鉄骨製作 記念碑
東京スカイツリー本体の鉄骨制作を行ったのが「巴コーポレーション小山工場」なのだとか。実際に使用されたものと同一の部材で、右側は地上495mに使用されたもの、左側は塔本体の「トラス構造」という骨組みの重要な接合部分である「分岐継手」の接合部分溶接テストを行った試験体ということです。
小山市役所の駐車場内に「小山評定跡碑」があります。

小山評定跡碑
1600年(慶長5)徳川家康は上杉景勝を討つべく会津へ向かう途上、小山の地で石田三成挙兵の報告を受け、急遽諸将を集めて「小山評定」と呼ばれる軍議を開き、関ケ原へ向かうことを決めました。須賀神社へ戦勝祈願をしたことから1658年(万治元)日光で作られた赤神輿が須賀神社へ徳川家より奉納されました。
後ろに映るのは小山市役所です。立派な庁舎は2021年竣工だそうで、真新しい庁舎です。
市役所の裏側が「小山御殿跡」になりますが、ここは次回に行くことにして、日光街道へ戻るルートをとります。駐車場から大通りへ出て、清水坂の交差点まで戻り、左へ曲がっていきます。最初の十字路を右へ曲がり、すぐ左手に「小山酒蔵取水の井戸」があり、その先右手には「現声寺」があります。

小山酒蔵取水の井戸
明治期に酒を醸造、販売していた「近江屋」で使われていた井戸です。小山は古来より地下水が豊富で良質であったことから酒造りが盛んでした。
現声寺
遊行上人(一遍)の小山への来訪回数は不明ですが、1726年(享保11)から1758年(宝暦8)までの約30年間に4度通過しています。最後は1758年(宝暦8)で、古河から結城へ向かっています。乙女の道明寺で休憩し、小山現声寺へ宿泊しました。この時到着が夜となったため谷町から高張提灯を出し、町をあげて歓迎しています。
現声寺の先を左へ曲がり、120mほど進むと日光街道へ至り、左へ。小山宿内を進みます。現在は宿場の面影は失われ、地方都市的な街並みです。右手へ入っていくと「常光寺」があります。
常光寺
鎌倉時代創建の寺。阿弥陀仏如来像には、1868年(慶応4)年の戊辰戦争に伴う、激戦により受けた弾痕が残っているそうです。
日光道中分間延絵図には、常光寺の南に「俊明院様御休所跡」と記されている場所があります。「俊明院」とは十代将軍家治のことで、1776年(安永5)の日光社参の時の小休所となった場所です。小休所の予定地であった持宝寺に差しさわりがあり、常光寺の付近に御茶屋を設け小休したとのことです。
常光寺を過ぎるとすぐ左手にあるのが「小山宿脇本陣」です。さらにすぐ先右手の呉服店が「控本陣跡」です。
脇本陣・明治天皇行在所跡碑
高橋家が務め、昔の玄関が今でも残っています。「明治天皇小山行在所跡」の碑が建っています。
小山宿
1608年(慶長13)から1619年(元和5)まで小山藩主、本多正純が城下を形成し、日光道中小山宿を形成しました。「宿村大概帳」によれば人口1392人、家数423軒、本陣1軒、脇本陣は2軒とありますが、絵図には1軒しか描かれていません。旅籠は74軒でした。

控本陣跡
「宿村大概帳」の脇本陣は2軒となっており、絵図には1軒しか描かれていませんが、こちらが描かれていない脇本陣ではないかと思います。
70mほど先、左手の駐車場付近が「小山宿本陣跡」です。

小山宿本陣跡
小川家が務めていたとのことですが、現在、何も残っていません。案内板もありません。
80mほどで右手の小山市まちの駅へ到着です。

小山市まちの駅
旧八百忠跡の敷地とされます。「八百忠」はここから1.5kmほどの両毛線の線路手前に立派なお店があったようですが、そこも現在は無くなっています。
建物のデザインは往時の商家的な雰囲気ですが、近年建築されたもののようですね。
小山市まちの駅の裏手の駐車場へ車を止めています。建物の裏から抜けていくことができます。
15:00 駐車場へ到着。間々田から小山までは6.5kmほどですが、かなり寄り道をしてしまいました。