2025年11月23日

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11:20 小金井宿をあとに石橋宿へと向かいます。

小金井薬師堂から650mほどは国道4号線を進んでいきます。下野市役所の少し手前から左手の旧道へ入っていきます。

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下野市役所で旧街道は分断されています。広場を回り建物の右手側を進んでいきます。
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下野市のゆるキャラ「カンピくん」

下野特産のかんぴょうをキャラクターにしたようです。このスツール的なものも、かんぴょうなのかな・・

下野のかんぴょう

1712年(正徳2)壬生藩に入封した鳥居忠英は殖産産業策として、近江よりユウガオの種子を取り寄せ、黒川以東の村々で栽培させることに成功し、下野名産壬生(ミブ)カンピョウの土台を築きました。

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下野市役所

南河内町・石橋町・国分寺町の合併に伴い、2016年(平成28)庁舎が新築されました。

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市役所の北側入口から旧道が続いています。
市役所から300mほど進み、県道を越えたあたりが「笹原新田立場」があったあたりと思われます。

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笹原新田立場跡

大きな旧家がありました。
170m進み左へ曲がり、寄り道をしていきます。250m進み丁字路を右へ曲がっていくと「稲荷神社」があります。

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稲荷神社

この付近は昔から稲荷殿林と呼ばれ、松林の中に小高い塚があり、ここに笹原新田を切り開いた人が慈眼寺に伺いをたてて神社を祀ったと伝えられています。創建は1659年(万治2)、1706年(宝永3)には「藤森稲荷大明神」、1857年(安政4)には「寺久保稲荷大明神」と呼ばれたほか、「五社稲荷」と称していた時代もありました。 笹原新田を開墾した大越氏と稲葉氏の子孫達が京都伏見稲荷より社号を賜ったものと伝えられています。
東側の出入口から稲荷神社をでて、北へ向かい県道を左へ、すぐ右へ曲がり、200mほど進むと「三島神社」への入口があり、左の樹林地脇の未舗装道路へ入ってきます。150mほどで舗装道路へでますが、ここに鳥居があります。鳥居から奥へ入っていきます。

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三島神社

1654年(承応3)の創建とされます。1664年(寛文4)村方に下賜されたとされ、以前は現在地より西のため池に祀られていたといわれています。地元では「弁天様」と呼ばれています。 1872年(明治5)氏神は一村一社とする布告があり、現在地へ遷座しました。

未舗装道路を戻り、畑の中を東へ向かうと日光街道へ戻り、石橋宿へ向けて再び進んでいきます。

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周囲に畑が多いため、国道沿いの立派な松が見えます。

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畑が多く残る旧道をしばらく進むと正面に未舗装の旧街道が残っています。
TOO001 絵図の「旭松」は現在残っていません。天保の頃の「日光道中略記」には、松並木のうち松の大木があり、枝葉が繁茂していたので「旭松」と名付けられていました。立木のまま枯れ、切られたそうです。

TOO001 未舗装の旧街道の雰囲気を残した道を300mほど進むと「下石橋一里塚」が残っています。

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下石橋一里塚

1843年(天保14)の「宿場大概帳」に「木立、杉、但、左右之塚共下石橋村地内」とあります。 東塚は昭和後期まで残っていたようですが、開発により消滅しました。
一里塚の北の川にはかつて石の橋が架かっていたと伝えられており、「石橋」という地名の由来であるといわれています。

TOO001 引き続き旧道を進みました。

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一里塚から100mほどでとうとう道がなくなってしまいました。少し戻り、国道へ出て迂回していきます。このあたりは工場や住宅が多い地域になってきました。 国道を300mほど進むと右手に大きな門があります。もともと、とんかつ合掌があった敷地の隣です。とんかつ屋さんは、建物は残っていましたが、すでに閉店していました。

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関宿城移築大手門

1748年(寛延元)老中、京都所司代久世出雲守広明の時代、大手門として建造され、慶応、明治の討幕時代の城主、久世隠岐守広文は幕府方に加担したときの幕府の命により戦争資金調達のため、あらゆる物資を付近の資産家へ売り払い、武器弾薬を購入するためこの大手門を川向の豪族に売却し解体されました。
そして舟で埼玉県の現在の鷲宮付近に移築されたといわれています。

近江弘により1978年(昭和53)現在地の石橋町へ移築されました。 近江弘は満州へ渡り、満州豚を普及させようとした人で、病に倒れたのちに石橋町へ移住したそうです。

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門の裏側にもすごい建物が・・

草ボーボーでしたが、後ろにも凄い建物が・・お城のようです。
このあたりは国道よりも西側に旧日光街道があったと思われますが、現在は国道4号線を進むしかありません。国道352と交差する少し手前の左手に星宮神社入口の石柱があり、その交差点に「夕顔橋石仏群」があります。

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夕顔橋石仏群

国道に背を向けて10体の石仏が並んでいます。この石仏の前を旧道が通っていたと思われます。
国道352の下をくぐりひたすら1km歩き、左手に「愛宕神社」があります。愛宕神社手前の県道を右へ1kmほど進むと「多功城跡」がありますが、寄り道はしませんでした。

多功城

多功城は1248年(宝治2)、宇都宮城の南方の固めとして多功の地が選ばれ、宇都宮第五代城主頼綱の四男、多功石見守宗朝によって築城され、1597年(慶長2)豊臣秀吉により領地を没収されるまで、349年間続いた城です。

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愛宕神社

社記によれば759年(天平宝字3)創立。境内は愛宕山古墳といわれ、帆立貝式前方後円墳です。現在は石橋町にありますが、もとは下石橋愛宕塚古墳の墳頂上にあったとされます。

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薬師堂

1847年(弘化4)の二十三夜塔などがあります。

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本陣・脇本陣・問屋・名主の宿役人はいずれも伊沢家が務め、現在も伊澤茶舗や伊沢写真館等、伊沢姓の家が多いとされます。伊沢家は宇都宮氏一族の多功城主多功氏に仕える家柄でしたが、戦国時代末期に宇都宮氏が没落すると石橋の地に土着したとされます。

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石室の切石の一部

かつて存在した古墳の石室材(巨大な石棺や天井石)が移築・保存されています。大きいもので高さ3メートル近くあり、線路敷設に伴い愛宕神社の境内に集められたとされています。
愛宕神社をあとに、200mほど進んだ右手の古風なデザインの建物付近が脇本陣跡とされます。

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脇本陣跡

一見、土蔵造りに見えますが、よく見ると近代的な材料でこの感じを出しているみたいですね。
さらに150mほど進むと左手に道祖神の祠、すぐ先に「本陣跡」があります。右手側が「石橋宿名主・控本陣跡」です。

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道祖神・馬頭観音

あちこちの辻から集められたものでしょうか。
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本陣跡

本陣・脇本陣・問屋・名主の宿役人はいずれも伊沢家が務めていました。

石橋宿

天保の頃の「日光道中略記」によれば、本陣・問屋・脇本陣の祖である伊沢氏は、もとは多功氏に仕えていましたが、1597年(慶長2)宇都宮氏の滅亡とともに多功氏も没落し、石橋の地に帰農したといいます。1843年(天保14)の「宿場大概帳」によれば、人口414人、家数79軒、本陣・脇本陣が各1軒、問屋は上町と下町に2軒でした。

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石橋宿名主・控本陣跡

伊沢家が務めていたと思われます。
すぐ先の石橋交差点で本日は終了します。右に曲がり石橋駅へ向かいます。駅の手前の商店でカンピョウを購入しました。道の駅よりも安かったです!!

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石橋駅のグリムからくり時計

グリム兄弟が生まれたドイツのヘッセン州にあるシュタインブリュッケン村は、地名がシュタイン(石)、ブリュッケン(橋)であることから、1966年(昭和41)から交流があり、1975年(昭和50)に姉妹都市となったそうで、駅前にこのようなモニュメントが作られているようです。

14:10 石橋駅到着。

駅裏に駐車していた車に戻り、一路帰宅します。