2023年8月11日
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本日は小淵沢駅前のコインパーキングへ車を停め、駅前からタクシーに乗り台ケ原宿まで向かいました。韮崎駅からバスもありますが、始発の時間が遅いのです・・タクシー代は4,000円くらいかかってしまったでしょうか。
8:00 台ケ原宿の荒尾神社あたりからスタートします。すぐ先右手の空地に
「修検智拳寺跡」の看板がありました。
修検智拳寺跡
山岳宗教と仏教が習合したものが修検です。奈良時代に役小角を開祖として始まったとされます。室町時代には天台宗系山派、真言宗系を当山記派としていました。智拳寺は当山派に属して府中の宝蔵院、境町の明宝院とともに三触頭の一院としていましたが、1871年(明治4)の神仏分離令により廃寺となりました。
50mほど先の左手には
「台ヶ原一里塚跡」の石碑がありました。
台ヶ原一里塚跡
甲州道中分間延絵図によると南塚のみが描かれています。また木立は描かれていません。一里塚の隣には「竜福寺隠居所 長泉軒」が描かれていますが、今はないですね。
右手前方に見えるのは八ヶ岳だと思います。
古い町並みを残す台ケ原宿を進んできました。台ヶ原一里塚跡を過ぎると
白須村へ入っていきます。300mほど進むと左手に
「つるや旅館」があります。
つるや旅館
江戸時代初期の創業ですが、現在も旅館を営んでいます。
講中札が掛けられています。
つるや旅館から250m進むと街道は右へ曲がります。角に火の見櫓がありその下に
「秋葉山塔」がありました。
秋葉山塔
秋葉山塔には1812年(文化9)と刻まれています。
右へ曲がっていくと趣のある旧家が並んでいます。
橋場 名主の家
「尾白川に架かる橋のたもとに「橋場」と呼ばれる小さな家がありました・・」と案内板にありますが、かなり大きな立派な家です。別の資料では名主の家と書かれていました。
現在は「はしば文庫」として昔懐かしい本に出会える図書館として開放されています。
橋場の家のすぐ先を右へ曲がると
「自元寺」があります。
自元寺総門
総門は、「武田四臣」の武田二十四将、馬場美濃守信房(信春)の梨子の木屋敷から移したもので、1546年(天文15)頃に造られたと考えられています。もとは茅葺きであったと思われる屋根は現在は鉄板葺となっています。棟の前後に奥方の家紋笹竜胆が付けられています。
自元寺
自元寺は馬場信房の遺言により1584年(天正12)創建しました。位牌と墓所があります。
馬場信房の墓
信房ははじめ、教来石民部少輔景政といいました。一族の馬場伊豆守虎貞は武田家重臣のため、主君信虎の暴政を戒めたため怒りに触れ誅せられ、馬場家は断絶しました。信玄の時代になり教来石民部に馬場の名跡を継がせ、美濃守に抜擢しました。
「一国の大守の器量人」、「知慧の武将」と高く評価された武将です。1575年(天正3)長篠の合戦で武田一族の敗走を見届けた後、自ら敵兵に首を取らせ壮絶な最期であったとされます。
石祠
自元寺をあとに少し寄り道をしていきます。甲州街道を越えてそのまま橋場の家北側の道へ入ると石祠がありました。そのすぐ隣が天白神社です。
天白神社
創建などはわかりませんが、甲州道中分間延絵図には
「天白」と記載があります。
国道20号へでると道の駅はくしゅうの角に
駒岳神社参道碑と
道標があります。
駒岳神社参道碑と道標
霊山
甲斐駒ケ岳への参道碑と思われます。登山口にある里宮として建立された
「竹宇駒ヶ岳神社」があり、ここから4kmほどあります。道標には
「向左 駒ヶ嶽登〇〇 向右 鳳來村」下の方は埋まっていて見えません。
駒岳神社参道碑から奥へ500mほど進むと
「梨子の木屋敷跡」と言われている場所があります。
梨子の木屋敷跡
馬場美濃守信春の館跡「梨子の木屋敷」があったとされる場所です。自元寺の総門はここから移築されたようです。現在は白州保育園となっています。飛行機の横に標柱があるのみです。
道の駅 はくしゅう
景色のいい場所にある道の駅です。山口素堂文学碑や白州の名水が汲める場所もありました。
山口素堂文学碑
『目には青葉 山ほととぎす 初かつお』
山口素堂は1642年(寛永19)教来石村山口(現北杜市白州町)に生まれました。江戸へ出て不忍池や葛飾に住んでいたこともあり、松尾芭蕉と深く親交しています。句碑は1983年(昭和58)に島口氏が上教来石に建立しましたが、北杜市へ寄贈され現在地へ移設しました。書は田中角栄、世話人は金丸信です。
白州の名水
多くの人が水汲みに来ています。サントリーやシャトレーゼも白州の名水を求めてこの地へ工場を建てています。
道の駅 はくしゅうのすぐ北側に
「若宮八幡神社」があります。
若宮八幡神社
甲斐国志によると光厳院より勧請し、古くは宮原という地にあり、
武田家代々の祈願所となっていました。1558〜70年(永禄年中)に馬場美濃守が現在地へ移し、白須刑部少輔政義神主、石田菅蔵により修造すると書かれています。
若宮八幡神社のモミノキ
境内のモミの巨木は落雷により幹は折れ、内部は空洞になっています。境内には多くの石祠がありました。
若宮八幡神社をあとに国道20号を越えて甲州街道へ戻ります。甲州街道へぶつかる丁字路に大きな
題目碑と道祖神祠がありました。
教来石宿へ向けて進んでいくと住宅は徐々に少なり、水田が広がってきました。
しばらく進むと右手に小さな鳥居がありました。
武田神社
ぶどう棚の下にある小さな神社でした。
とっても景色がいいですね。400mほど進むと右手の広場奥に大きな石碑があります。
白須松林跡碑
平安時代 (794年〜) の頃よりこの地には素晴らしい
松原が一里(4km)に渡り続き、
六本松や
白須の一ツ松と呼ばれた巨木もありました。
「白須の松原」として、また
キノコの産地として京にまで知られていました。松は1940年(昭和15)に「都合により伐採された」と案内板にありますが、都合というのは戦時中の
「松根油」のことでしょうか。石碑は1922年(大正11)に地元有志により建立されました。
宗良親王歌碑
『かりそめの行かひぢとはききしかど いざやしらすのまつ人もなし』
南北朝時代、南朝の征夷大将軍宗良親王は甲斐国の武将達を味方につけようと、遠州井伊谷より信濃の保科氏を頼り山伏に変装して旅をしていました。しかし、味方につく者はなく松の影で野宿し、寂しく信濃佐久地方へ向かいました。その時に詠まれた歌とされます。
碑は菅原村が1922年(大正11)に建立しました。歌碑の左手には蚕神や馬頭観音など多くの石仏があります。
「甲斐叢記」に描かれた白須松原
白須松林址跡碑から人家がまばらな街道を500mほど進むと左手に墓地があり、黒御影石の山田玉斎句碑があります。
山田玉斎(玉斎吾七)句碑
「槍もちのおくれて通る日長かな」
白須生まれの山田玉斎は明治初期の人で、人徳があり郷土の指導者だったようです。
長光寺墓地
自元寺の末寺であり、1592年(文禄元)創建し、自元寺2世の笑顔の開山とされます。
墓地を抜けて国道20号線の前沢交差点へでると古い「山田玉斎句碑」があります。
山田玉斎句碑
「槍もちのおくれて通る日長かな」
先ほどと同じ句ですが、古いようです。この句碑の奥に長光寺があります。
長光寺の墓地から200mほど進むと右手に多くの石仏があります。
石仏群
殆どが
馬頭観音です。周辺から集められたものでしょうか。1845年(天保15)建立の大きな馬頭観音像はほのぼのとしたお顔で素敵です。
100mほどで国道20号線と合流し、濁川橋で
神宮川を渡ります。
神宮川
往時は
「濁川」という名前でしたが、1973年(昭和48)に
「神宮川」と改称されています。この川から採集した玉砂利を
明治神宮に献上したため「神宮川」となったと言われています。1km程度で釜無川へ合流します。
300mほどで右手から旧道へ入ります。旧道を500mほど進むと住宅が多くなり
「鳥原」集落へ入ります。鳥原は旧街道の面影が残る趣のある集落でした。
題目碑(往大神社参道?)
集落へ入り170mほど左手に題目碑がありました。往大神社に入る道がわからなかったのですが、あとから考えると恐らくここが参道なのでしょう。道のようになっていました。往大神社は甲州道中分間延絵図では「七面之社」となっています。
七面之社
1775年(安永4)小林家の先祖が屋敷内に祀ったものが、その後信者が増えたため絵画や大太鼓を整備した神殿を、主に小林氏子の手によって建立されましたが、神殿は老朽化し昭和年代に小さく改築されました。
すぐ先の松原集落会館の向かいに
般若堂があり、松原集会所が
地蔵堂でした。
般若堂
甲州道中分間延絵図には「祝神」が描かれているあたりに般若堂があります。
地蔵堂跡
武田信玄の勧請といわれ、甲州二十四地蔵の一つでした。度々の道路普請や国道20号線のトラック交通増加による損傷のため、現在は無くなっています。地蔵はどこへいったのでしょうか?
地蔵堂跡を左へ曲がり、寄り道をしていきます。
甲州道中分間延絵図では、地蔵堂と若宮八幡宮(松原諏訪神社)の間くらいに
鳥原村の一里塚が描かれています。東の塚は描かれていません。現在は耕作地になっているあたりでしょうか・・
国道へでてそのまま直進すると
「松原諏訪神社」ですが、その前に右へ曲がりセブンイレブンを通過し、その隣が
サントリーウイスキー 白州蒸溜所の入口になっています。
サントリーウイスキー 白州蒸溜所入口
サントリーウイスキー 白州蒸溜所入口
1973年
モルトウイスキー蒸溜所がこの地に建設されました。
白州の名水が上質のウイスキーになるのです。工場見学をしたかったのですが、平日のみで予約も必要なようで諦めました。
国道を戻りセブンイレブンを越えた交差点を右へ入っていきます。
松原諏訪神社
創建は不明ですが、1795年(寛政7)再建の棟札が残っています。甲州道中分間延絵図にも記載があります。
松原諏訪神社前の道の向かいの針葉樹林へ入り、幅50cmほどの水路を飛び越えると
大師堂へいけますが、水路の流量が多く、なかなか怖いです。グルっと回って行ったほうが良さそうです。
大師堂
小さなお堂ですが、石仏はかなり多く点在しています。
ここから1kmほどひたすら歩き、教来石民部館跡の前にある
「ビューファーム鳥原平」へ向かいました。ここのお蕎麦がとっても美味しいと聞いていたため、頑張って歩きました。
ビューファーム鳥原平
行政の施設のようで、お蕎麦屋さんらしくはないですが、八ヶ岳を望みながら食べるお蕎麦は一層美味しいですね。
おかあさんの手打ちそば 名水そば
十割そばと野菜の天麩羅を注文しました。十割そばでもボソボソしていなくて美味しいですが、とにかく野菜の天麩羅が美味しいです。お塩を添えてくれているのでお塩で食べたほうが美味しいです。野菜の甘味がよく味わえます。野菜ってこんなに美味しいのかとびっくりしました。ごちそうさまでした。
ビューファーム鳥原平の向かいが
教来石民部館跡です。
教来石民部館(鳥原屋敷)跡
馬場美濃守信春の館跡です。こちらは発掘調査がされているので確実に館があったことがわかっています。館主である教来石氏は、武田家支流の一条氏から派生した在地の武士団、いわゆる武川衆の一員であり、武田家に仕え、幾多の合戦で勇猛な働きをしたと伝わります。また信濃の防衛拠点としても重要な役割を果たしたと思われます。
甲州街道へ戻ります。
松山沢川沿いにでました。このあたりは耕地も川も道路も綺麗に工事がされて整然としています。松山沢川のたもとに
道祖神と思われる石祠が3つ並んでいます。
松山沢川と石祠
道祖神の石祠と思われます。
山梨では球形の道祖神が多かったのですが、
信濃に近づいてきたためか石祠も見かけるようになりました。
石祠の先は松山沢川から離れて道なりに下っていき、国道20号線を突っ切ると道に石の鳥居があり、その先ようやく甲州街道へ戻ってきました。
石尊神社の鳥居
石尊神社の参道入口の鳥居です。石尊神社はここから松山沢川を2kmほど遡った八ヶ岳の麓に鎮座しています。
甲州街道へでて200mほど進むと左手に常夜灯と石仏がります。
常夜灯と石仏
流川を流川橋で渡り、道なりに進むと左カーブの枡形から
教来石宿へ入ります。国道20号線への合流が再び枡形となっています。
国道へ出るとすぐ左へ入っていき、緩い坂をのぼり
来福寺へ向かいます。
来福寺入口の石仏
1261年(弘長元)梅雪和尚が創建し、大覚蘭渓禅師(蘭渓道隆)を懇請して開山した古刹です。甲斐に臨済宗を布教したのは宋の高僧・蘭渓道隆であり、甲斐では3年にわたり布教を行、この間に教来石に迎え開山となりました。
来福寺
来福寺の宝篋印塔
来福寺境内には高さ1.85mの宝篋印塔があります。町内最古のものとされ1729年(享保14)の銘があります。
来福寺を出るとさらに坂を上り、来福寺墓地の向かいに
九頭竜ノ宮の石祠があり、さらに60mほど進むと右手の耕作地の中に
教来石があります。
九頭竜ノ宮(九頭竜社)
九頭竜は水防の神で、祠の前に堤防を積む真似をして石を2,3個積んだりしたそうです。南側に「流川」が流れており、かつてはこの川が水害を起こしていたといいます。石祠には1800年(寛政12)の銘があります。
経来石
地元の人は「へてこい石」と呼ぶそうです。日本武尊が東征の折、石の上で休み『大川を経て来し村に家庭も見得あはれ』と詠い、「経て来石」として村名にしたようですが、「経」が「教」に変化したようです。
「甲斐叢記」によると石の上の小祠には日本武尊が祀られているとされますが、
小祠は見当たらず、石の上には
馬頭観音が佇んでいます。石祠はどこへ行ってしまったのでしょうか・・・
来た道を戻り、甲州街道へでて教来石宿内を進みます。
教来石宿
教来石宿は甲州最期の宿場です。
1843年(天保14)の記録では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠7軒、家数144戸、人口684人と記されています。
問屋は上町と中町に1軒づつあり、江戸方面への継立は1〜25日までは台ケ原宿へ、26日から月末までは台ヶ原宿を越えて韮崎宿へ継立ました。蔦木宿へは26日〜月末まで継立を行い、残りは台ケ原宿で行いました。武家荷物は教来石宿では継立を行いませんでした。
すぐ先左手に
明治天皇御小休止址碑があり、ここが
問屋と本陣跡になります。本陣前が脇本陣跡です。
経来石宿本陣跡
問屋を兼ねて川西家が世襲していました。家屋はなくなっていますが、明治天皇御小休止址碑が建っています。
経来石宿脇本陣
脇本陣は本陣の向かいで、恐らく空き地になっている場所ではないかと思います。そのお隣は旧家の佇まいを残した立派な家屋が残されています。
鳳来郵便局の手前から右手に入るのが甲州街道です。右手奥に
釜無川があります。このあたりは河岸段丘になっています。旧道へ入り200mほどで左手に諏訪神社があります。
釜無川方面
諏訪神社
勧請の年代は明らかではありませんが、1617年(元和3)までは仮宮に鎮座しており、同年社殿を建立した記録が残っています。現在の本殿は1844年(天保15)、
諏訪立川流二代立川和四郎富昌により建立されましたが、国道20号の改修工事により1963年(昭和38)現在地へ移築されました。
諏訪神社
彫刻の多い立川流の代表作の一つです。網で見えづらいですが、素晴らしい彫刻が施されています。
13:00 本日はここまでにします。公共交通機関がありませんので、小淵沢駅からタクシーに迎えに来てもらいました。諏訪神社で休憩しながら待つこと15分くらいで来ていただき、車を駐車してある小淵沢駅まで乗車し帰宅します。