2024年6月8日
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10:20 蔦木宿をあとに金沢宿へ向けて進んでいきます。
川除古木のすぐ先から国道へ出る手前にある旧道へ入っていきます。すぐ先右手に「芭蕉句碑」があります。
芭蕉句碑
『川上と此川下や月の友 祖翁』
石碑の上部にこの芭蕉の句が彫られ、その下に正風・友甫・春山など10名の句が彫られています。また側面には雪洲の句が彫られています。 1883年(明治16)建立。恐らく下に彫ってある句の作者たちで建立したのでしないかと思われます。
砕石工場の横の道
暫く進むと国道と合流し、250mほどは国道を進み、左手から再び旧道へ入ります。工事現場のようなところなので、ちょっとビクビク。砕石工場を抜けると鳥獣避けフェンスで行く手を阻まれます。
鳥獣避けフェンス
縦の支柱を上下に動かし、輪っかを外すと簡単に通行できますが、きっちり締めて行きましょう。
左手は釜無川の河原、右手は田んぼの旧道を進みます。国道との合流点に石仏群があります。
石仏群
恐らく石祠は馬頭観音、庚申塔や双体道祖神などがあります。
国道を反対側へ渡ったところが
森山汀川の生家跡です。またこの付近に
「神代桜」があったと言われています。
森山汀川生家跡碑と歌碑
『昨日よりも青みをもちてにこり波 吾か目の前にたきちくるかも』
汀川が甲信越アララギ「ヒムロ」の立ち上げをした1945年(昭和20)自ら半折に書かれたものがそのままの大きさで刻まれています。2007年(平成19)建立。
森山汀川
森山汀川は1880年(明治13)この地の農家の三男として生まれ、小学校・中学校をでたのち文芸の道を志し、21歳のときに
正岡子規の門を叩いています。教師となり、結婚後は敷地内母屋の隣に新たに住居が建てられました。当初は生活の拠点でしたが、赤彦らと諏訪に「比牟呂」を立ち上げ、仕事の関係から次第に上諏訪で生活することが多くなりました。左千夫らの「アララギ」にも参画した50歳の時に「アララギ」選者となり、南信日日、信濃毎日新聞等の選歌に携わり、晩年に「甲信越アララギ(現ヒムロ)」を立ち上げました。
神代桜
神代村には老木の桜の木があり、
「神代桜」と呼ばれていました。とても美しく、村人はこの花の咲くころに麻を撒くことが昔からの習わしだったので、「桜苧」とも伝えられています。
歌碑の奥から坂道を上っていきます。1段上の道路へ出ると「汀川墓所左160m」と書かれた案内柱があり、そこから山を上っていきます。天狗社の参道になり、数基の石仏があります。
石仏
天狗社
旧村社で、猿田彦命を祀っています。詳しいことは不明ですが、甲州道中分間延絵図は「天狗宮」として記載があります。社殿の裏に「天神大石」があります。
天神大石
この大石は400年以上も前からこの地に鎮座していたとされ、転げ落ちない霊験あらたかなものとして、集落の人々は合格祈願、守り神として代々祀ってきたとされます。
天狗社前を左手へ、山道をさらに上り道なりに左へ曲がり、さらに右カーブのところに、左手に少し下がる細道を入ると右奥に
「汀川墓碑」があります。何も案内はなく、結構わかりにくい場所です。
汀川墓碑と歌碑
「甲信越アララギ(現ヒムロ)」を立ち上げた翌年の1946年(昭和21)67歳で没しています。墓碑の一番端、戒名に「汀川」が入っています。歌碑は全て読み取れないのですが、「左千夫赤彦」、「あららぎ友」が読み取れ親交を深めた友らを歌ったもののようです。
汀川の墓から下ってきて、道路へでてすぐ右にある建物は現代的建物ですが、
薬師堂と思われます。庭には多くの石仏があります。
薬師堂の石仏
甲州街道である国道20号へ下り、西へ向かって進みます。国道を100mほど進み左から旧道へ入っていきます。耕地整理で少し道の位置が変更されたとは思います。あぜ道を300mほど進むと右手の奥、国道近くに
「平岡一里塚」があります。見にくいので、この先のアスファルト舗装から回り込んで見学します。
平岡一里塚
もともと街道右手のみの塚しかなかった一里塚です。耕地整理の際、約10m国道よりに移されています。
さらに水田の中を300mほど進むと左手に「明治天皇御野立所跡」があります。
明治天皇御野立所跡
1880年(明治13)山梨・長野・三重・京都などへの巡幸が行われ、台ケ原を出発した一行は国界橋を経てこの地へ入り、午前10時に蔦木宿本陣に到着され、休憩後にこの平岡の御野立所へ向かいました。次の休憩所は原の茶屋でした。
鸞躅碑(らんたくひ)と左右には行幸を讃える歌碑が建立されましたが、1884年(明治17)釜無川の氾濫によって三基の石碑が流されましたが、村人総出で探し出しましたが、台座だけは見つかりませんでした。
170mで丁字路にぶつかり右へ曲がり、国道へ合流します。国道を430mほど進むと右手に
「机観音堂」があります。観音堂の奥の階段を上っていくと林の中に
「三社明神社」が鎮座されています。
机観音堂
観音堂は諏訪百番札所の東27番に指定されています。
机観音堂の六地蔵石幢
六地蔵石幢は供養塔の一種で、鎌倉時代に中国から伝わったといわれています。造立年代は1656年(明暦2)、1692年(元禄5)、1704年(宝永元)2基、1709年(宝永6)5基、1基は年紀不明です。
三社明神社
詳細は不明です。
甲州街道へ戻ります。このあたりは河岸段丘に沿って道が蛇行していたようですが、現在は国道を進むしかありません。国道を150mほど進むと右手旧道へ入っていきます。多くの石仏や祠があります。
甲州道中分間延絵図にある「山神」でしょうか?
絵図の山神?
道なりに250mほどくねくね進むと右手斜面に
「神楽石」と呼ばれていた大石があります。
神楽石
昔から机村ではこの石が獅子頭によく似て、石の下からきれいな水が湧き出ていたことから「清水の神楽石」と呼ばれていました。甲州街道を往来する旅人達は街道から神楽石をながめ、清水で喉を潤す休憩の場でもありました。
1880年(明治13)
明治天皇巡幸の際、机村では神楽石を展覧に供し、案内役を中山佐右衛門が務めたとされます。
再び国道と合流します。右手あたりが
「尼ん堂跡」です。
尼ん堂跡
瀬沢合戦ののち、戦死者の末裔である尼僧がこの地へ移住し、亡霊を鎮めたという「尼ん堂伝説」が残されています。
その先、瀬沢大橋信号のあたりから西へ立場川を越える
「瀬沢川尾木橋」が架かっていたようですが、今はありませんので、直進して瀬沢大橋を渡り立場川を渡ります。
立場川
往時は瀬沢川と呼ばれていました。
瀬沢大橋を渡りきるとすぐ左手へ入り、迂回して甲州街道へ向かいます。瀬沢集落の緩い登り坂を250mほど進むと左手に
「諏訪神社」の入口がありますが、先にもう少し直進し、辻にある道標を見てみます。
道標と諏訪神社の双体道祖神
『左 橋道 右 縣道』と彫られているので、明治時代の道標のようです。
諏訪神社入口には、大きく立派な双体道祖神があります。石段を上り
「諏訪神社」の社殿があり、広場には
「西照寺」と掲げられた堂があります。
諏訪神社
西照寺(養福院)
甲州道中分間延絵図には、この場所に諏訪神社、観音堂、
養福院が描かれています。創建は明らかではありませんが、1788年(天明8)学問所が設けられ、後に「静脩学校」と呼ばれ村の子供達が学んだとされます。
西照寺の堂の左手のあたり、小さな今にも崩れそうな階段があり、ここを上ると丘の上にでることができます。この丘に
「瀬沢合戦供養塔」があります。
瀬沢合戦供養塔
瀬沢合戦で討ち死にした武田方9名の遺族が建立したと伝わります。
「于時天文十三甲辰年三月一日 旦那九人 敬白」と刻まれ、この日付は瀬沢合戦の三回忌に符号します。
丘の上の向こう側は太陽光パネルだらけでびっくり。
諏訪神社の広場から北側の路地を下り、甲州街道へ戻ると角に
「瀬沢の道標」があります。
瀬沢の道標
「右山浦 左すわ道」と刻まれています。山浦とは八ヶ岳西山麓一帯を示します。
甲州街道、瀬沢の登り坂をさらに100m上っていきます。右へ曲がり
「瀬沢合戦場跡」へ向かいます。
瀬沢合戦場跡
「甲陽軍鑑」に「甲信境せさハ合戦之事」とあり、1542年(天文11)武田晴信と信濃の四将との間で合戦が行われていたと記されています。
甲州街道へ戻り乙貝川を越え、100mほどで右に急カーブします。このカーブの内側に往時は
「社宮司」があり、周囲は
立場になっていました。左手に石仏がありますが、社宮司跡の名残の石仏と思われます。
社宮司跡の名残の石仏?
馬頭観音が多いので、道路改良で集められたものかもしれません。
社宮司は御左口神、社軍陣などとも記されます。この神については柳田国男の「石神問答」をはじめとして種々論じられていますが、諏訪信仰の基盤をなす神であることは間違いなく、諏訪には多く見られます。
社宮司跡からさらに100mほど進んだカーブの左手にも石仏が数体、さらに80mほど先の右手にも石仏がありました。
石仏群
1880年(明治13)の明治天皇巡幸においてはこのあたりの
瀬沢坂、この先の
芓ノ木坂は悪路であったため、
板輿でこえたとされます。
芓木(とちのき)集落をしばらく進むと右手に「尾片瀬神社」があります。
尾片瀬神社
詳細は不明ですが、甲州道中分間延絵図では、このあたりにあるのは
「蔵王ノ宮」。西側に「山神」、街道を隔てた反対側に「道祖神」が描かれています。境内へ入ると左手にあるのは山之神(大山祇神社)の石祠です。繭玉神社と彫られた大きな石碑もあります。
尾片瀬神社内の石仏
黒い御影石には
「福昌院跡 諏訪霊場八十八ヶ所 第十二」と彫られています。地蔵などもあることからここに福昌院があったのだと思われますが、詳細はわかりません。
尾片瀬神社のすぐ先右手に石祠があります。さらに250m先の右手にもお地蔵様が並び、すぐ先には
「とちのき風除林」が残されています。
道祖神
絵図の道祖神と思われます。左手にあったものが右手に移動したと思われます。
お地蔵様
石仏が6基並んでおり、中央に馬頭観音が祀られています。
とちのき風除林
この付近は風が強く、五穀が実らず全戸が若宮地積へ移り無人の地となりました。寛政年間(1789~1800)高島藩へ願い出て、防風林として外風除けのアカマツを植え、樹齢200年以上のアカマツが現在も残っています。
のどかな芓木(とちのき)集落を進んでいくと右手に
「塚平一里塚」が残されています。
塚平(重修)一里塚
両塚ありましたが、現在は右手側にわずかに残っている状況で、一里塚の石碑と道祖神があります。
メガソーラーに行く手を阻まれます。左へ曲がり、メガソーラー横の迂回路を進みます。メガソーラーを越えてから120mほど戻り、「三井透関の馬頭観音」を見に行きます。
三井透関の馬頭観音
往時、原の茶屋付近の甲州街道はぬかるむことも多く、人馬の通行に難渋していました。透関はこの改修を思い立ち、自分は甲府に住んでいいため、乙事村の弟達により1780年(安永9)私財を投じて工事を始めました。この工事を記念して馬頭観音が建立されました。1782年(天明元)建立。
三井透関
透関は1705年(宝永2)乙事村三井伊左衛門の長男に生まれ、通称は藤助といい、晩年には茂右衛門と名乗りました。農業を営むかたわら近村の
麻などを買い集めて甲府の問屋などに送っていましたが、後には甲府へ出て託間屋という
商家の養子となり、酒・醤油などの物産商を営み、諏訪地方との交易も多かったとされます。これらの商売により私財を築いたといいます。
原ノ茶屋集落(向原立場)
1772年(明和9)松目新田の名取与兵衛が向原に出て、茶屋をはじめました。その後次第に人家が増え、周囲の村と紛争が起こったので、高島藩では40間(72m)四方に築地を築かせ、その中では自由に茶屋を営むことを許しました。
原ノ茶屋集落を300mほど進むと右手に
「富士見公園」があります。富士見公園には芭蕉句碑や多くのアララギ派の歌碑があります。
富士見公園
1904年(明治37)
左千夫は甲州御嶽歌会の後を韮崎より馬車で入り、上諏訪にて
赤彦と初対面しました。この頃よりアララギ同人の富士見来訪者が多く、1908年(明治41)富士見油屋歌会に来遊した左千夫は「財ほしき思いは起こる草花のくしく富士見に庵まぐかね」と原の茶屋の一小丘に立ち「ここは自然の大公園だ。自然を損なわずに公園を作りたい」といい、1911年(明治44)
左千夫の設計で公園が出来上がりました。
芭蕉句碑
『眼にかゝるときや殊更五月不二 はせを』
1881年(明治14)鶴鳴舎中によって建てられました。書は諏訪市中金子の岩波千尋の揮毫です。天保の頃、独楽坊一山にはじまる鶴鳴舎は知角、柳心、対岳等の俳人を生みました。この句は1694年(元禄7)の作で「箱根の関越えて」と前書があり、1695年(元禄8)の路通著「芭蕉翁行状記」に収められています。
庚申塔群
松丘句碑
『草に入る先れる水や秋晴るゝ』
1952年(昭和27)松丘翁報恩会によって建立されました。揮毫は平沢有外です。松丘は本名を名取鶴吉といい、1873年(明治6)原の茶屋で生まれました。丶山の跡を継いで大正・昭和初期の俳句の宗匠として活躍し、鶴鳴舎を不動のものにしました。
伊藤左千夫歌碑
『寂志布乃極尓堪弖天地丹寄寸留命乎都久都九止思布』
(さびしきのきわみにたえてあめつちによするいのちをつくづくとおもふ)
この歌は蓼科山歌十三首の中にあり、赤彦の書で1922年(大正11)村人により建立されました。
斎藤茂吉歌碑
『高原尓足乎留而目守良無加飛騨乃左加比乃雲比曽武山』
(たかはらにあしをとどめてまもらむかひだのさかひのくもひそむやま)
茂吉は1921年(大正10)頃夏渡欧を前に1ヶ月間富士見で静養しました。1965年(昭和40)茂吉十三回忌を期して富士見町が中心となり建立されました。
丶山(ちょんざん)句碑
『富士さして蒲公英並ぶ野路哉』
1973年(昭和48)丸山丶山翁しのぶ会によって建立された句碑です。丶山は1883年(明治16)富士見町栗生に生まれ、役場書記として務め、後に助役となります。富士見を訪れる歌人や犬養木堂らと親しく、1911年(明治44)左千夫・赤彦の協力を得て富士見公園の拡張整備にあたりました。郷土史研究の足跡も多いです。
島木赤彦歌碑
『水海之氷者等計而尚寒志三日月乃影波爾映呂布』
(みずうみのこおりはとけてなおさむしみかづきのかげなみにうつろふ)
1937年(昭和12)赤彦の13回忌を期して諏訪教育会の久保田俊彦先生追悼謝恩会と富士見村が歌碑を建立しました。
斎藤茂吉の揮毫と伝えられます。
森山汀川歌碑
『郭公者国乃最中尓鳴機乎里而赤羅比久日能未沈萬寸』
(かこうはくにのもなかになきおりて あからひくひのいまだしずまず)
1990年(平成2)汀川の45年忌を期して建立されました。この歌は、汀川がアララギ選者としての充実期を代表する歌で、歌集「雲垣」に収められています。汀川自筆の揮毫です。
富士見公園をあとに甲州街道へ戻ります。120m先の右手、原の茶屋公民館前に
「明治天皇駐輦碑」があり、すぐ先右手に
「明治天皇御前水」、その手前が
「柳家」で、
斎藤茂吉が滞在していたとされます。
明治天皇駐輦碑・明治天皇御前水
1876年(明治9)住民により森深くより暗渠を通して湧水が整備され、1880年(明治13)の明治天皇行幸には御前水として献上されました。
そのすぐ先右手にかつては
「富士見村役場」がありました。現在は民家になっています。
斎藤茂吉歌碑
『あららぎのくれなゐの実を食むときは父母こいし 信濃路にして 茂吉』
往時、原の茶屋には明治・大正・昭和にかけて富士見野を愛した伊藤左千夫、島木赤彦、斎藤茂吉等多くのアララギ派歌人が集い、歌会が開催されました。この歌は当地で作られた茂吉の五十首のうちの一歌で、1921年(大正10)「中央公論」に「山水人間虫魚」のタイトルで発表され、ここ桔梗屋の宿帳に揮毫されました。
左手に桔梗屋、右手に常夜灯があります。
桔梗屋・常夜灯
桔梗屋名取家が最初にこの地に茶屋を開いた
「原の茶屋発祥の家」です。旅籠をしていました。「原の茶屋」は甲州道中分間延絵図では
「向原茶屋」となっています。
右手の民家前に
「守屋貞治如意輪観音」と書かれた石柱があります。ここを入っていくとあるらしいのですが・・・民家と蔵の間を通るため、民地のようで入っていいのかどうか、二人で議論していると・・なんと家主さんがでてこられて案内してくださいました。民家と蔵の間を通り、家屋の奥のさらに少し上ったところ、小さな堂の中に収められていました。
守屋貞治の如意輪観音
高遠石工の中でも稀に見る名工とされる守屋貞治の繊細さが現れている作品です。曲線が美しく、穏やかなお顔、また堂に収められていましたので綺麗に残されています。
守屋貞治
1765年(明和2)に高遠藩藤沢郷塩供村で生まれました。藤沢郷は高遠藩領内でも多くの優れた石工を輩出した地域で、貞治の生家も代々石工の家系でした。亡くなる前年の1831年(天保2)に
「石仏菩薩細工」を書き残しており、正確な記録が判明しています。貞治は信州諏訪の
温泉寺の名僧、願王和尚を師と仰ぎ深く仏門に帰依し、香を焚き経を唱えて石仏を刻んだとされ、単に石工ではなく
「石仏師」、刻んだ石仏は「貞治仏」と呼ばれていました。
高遠石工の中でも稀代の名工と言われ、68年の生涯に336体の石仏を残しています。
すぐ先右手を少し入ったところに
「金毘羅神社」があります。
金毘羅神社
旧道を道なりに進みます。カゴメの工場が両側にあります。こちらでは工場見学などできるようですね。野菜の収穫体験など楽しそうなコンテンツがありますが、予約をしていないのでこのまま直進。のどかな旧道を1kmほど進むと左手に墓地があり、石仏が集められた一角がありました。
真那○跡碑
読めない文字があるのですが・・「真那穴?」「真那䒔?」「真那沢」でしょうか。わかりませんでした。
さらに80mほど左手に
庚申塔と筆塚、その先カーブを曲がっていくと右手に
富蔵山碑があります。
庚申塔・筆塚・富蔵山(とくらさん)碑
富士見町には
「富蔵山」と彫られた碑がいくつかあるとされます。これは牛馬の神である
富蔵山信仰とされます。富蔵山は、東筑摩郡筑北村にありますが、ここから60kmも離れた地にあります。牛馬とともに暮らした往時、恐らく馬頭観音と同じく、牛馬の神として「富蔵山」碑が建立されたと思われます。
カーブを曲がり、坂を下ると国道と合流します。国道を160mほど進むと右手に
「小川平吉先生生誕之地」と書かれた石碑があります。
小川平吉先生生誕之地
1870年(明治2) 呉服商人・小川金蔵の三男として生まれた政治家です。第78代 内閣総理大臣宮澤喜一の祖父になります。
御射山神戸
200mほど進み、御射山神戸の信号を左へ曲がり、寄り道していきます。交差点に冠木門がある大きな旧家があります。名主や庄屋だったのでしょうか・・
瑞雲寺
瑞雲寺の薬師堂
1486年(文明18)祖峰和尚によって開創され、牛首山といいました。頼岳寺十三世、提山見全和尚が開山し、神沢山瑞雲寺と改め頼岳寺の末寺となりました。見全は上桑原村の矢島庄内家の者とされます。
瑞雲寺の裏側を通り
「御射山神戸八幡神社」へ向かいます。
御射山神戸八幡神社
神戸八幡社の欅
樹高30mほどあり、樹齢は390年と推定されています。
芭蕉句碑
『雪ちるや穂屋のすゝきの苅のこし』
1843年(天保14) 山亭一路建立。
神戸八幡社の参道
古くは鍬形八幡と称され、1237年(嘉禎3)の「祝詞段」には「神戸ニクハカタ」と記されています。現在の建物は1762年(宝暦12)の建立で、棟梁は伊那郡沢底村(現辰野町)出身の加藤吉左衛門とされます。
16:00 本日はここで終了し、
「すずらんの里駅」へ向かいます。
すずらんの里駅
駅につき時刻表を見てみると・・なんと1時間30分も電車がないです。待つこともできたのですが、飲み物がずっと前になくなり、喉がカラカラ・・自動販売機もなく・・
仕方ないのでタクシーを呼び
小淵沢駅まで乗車しました。結構な金額(6000円くらい)かかりました。どひゃー!!
2024年9月14日
茅野駅前の駐車場に車を止め、8:10の上りJRに乗り、すずらんの里駅へ向かいました。
8:25 すずらんの里駅出発します。今日はとてもいいお天気です。最高気温は32℃でした。
すずらんの里駅から西へ300mほどで甲州街道へでます。現在は国道20号となっている甲州街道を300mほど進むと左手から旧道へ入っていきます。この分岐点に大きな石碑があります。
馬頭観音?
読みづらいのですが、恐らく馬頭観世音と彫ってあるように思います。1905年(明治38)建立。
旧道へ入りすぐ先に小さな川があります。この川が
「神沢川」です。神沢川の先100mほど右手に多くの石仏があります。
神戸合戦跡
神戸合戦は、1528年(享禄元年)にこのあたりの神沢川付近で起こった諏訪頼満と武田信虎の合戦です。はじめ、武田軍が優勢でしたが、じりじりと諏訪軍が巻き返し、決着はつきませんでした。そのため、1535年(天文4)堺川で和議が結ばれました。
供養塔・馬頭観音群
「神戸区会」と書いてありましたので、集落の境なのでしょう。その境に悪いものが入ってこないよう、多くの石仏が祀られているようです。
静かな集落をさらに進むと大きな一里塚が見えてきます。
「御射山神戸一里塚」です。
御射山神戸一里塚
東塚にはエノキ、西塚にはケヤキが育っていましたが、東塚のエノキは明治初年に枯れてしまったとされます。残っている西塚のケヤキは塚が造られた慶長年間に植えられたものと推定され、樹齢380年とされます。
江戸時代の一里塚にかなり近い状態で残っており、嬉しくなりました。
御射山神戸の旧道
遠くに八ヶ岳がちらっと見えました。このあたりは緑が多く、気持ちいい道を歩いていきます。
一里塚から900mほどで下に国道が見える場所へ出てきました。斜面の下の方に
「ゆるぎ石」があります。
ゆるぎ石
東へ1kmほどの御狩野集落にも「ゆるぎ石」があり、
夫婦石と呼ばれ毎日米1粒ずつ双方が歩み寄るという言い伝えがあります。江戸時代から甲州街道を行き来する旅人はこの巨石を金沢宿入口の目安にしたといいます。
ゆるぎ石を過ぎると住宅が多くなります。しばらく進むと右手の公園内に
「出雲神社」があります。公園と言っても一見公園に見えないのですが・・
出雲神社
中央線青柳駅開通15周年記念として、公園内の片隅に1920年(大正9)に建立されました。
その先100m右側に案内板があり、案内板の後ろの斜面に
「穴観音」があります。見つけにくいですが、小さな石の隙間に観音様があります。ちょっと観音様には見えないのですが・・
穴観音
昔、近隣の家で不幸や災難が相次いだことから行者へ相談した所、「村はずれの甲州街道脇に尊い観音様が泥や草にまみれて祀られている。誰にも顧みられず嘆いている。何とかしてほしいと訴えているからねんごろに祀ってやるが良い」と告げられました。家人は行者とともに周囲を清め高台に祀ると、その後は病気や災難から救われたと言い伝えられています。
250m先に
「大沢入口の庚申塔」があり、さらに250mほど坂を下ると国道20号線へ合流します。
「穂屋之木大明神」へ向かうため国道を50mほど戻り、左へ入り宮川を渡ると「穂屋之木大明神」があります。
大沢入口の庚申塔
昔はここからが大沢の入口でした。庚申塔は1800年(寛政12)に建立されたものです。この地にあった道祖神が大沢川近くの道祖神場(230mほど南西)に移されたとも言われています。
穂屋之木大明神(穂屋の木神社)
脇の道はかつて甲州街道下筋方面からの参詣道の一つとして
御射山祭(原山祭)が行われる3日間は賑わっていました。昭和初期、青柳から新たに参詣道が開設されると通る人も少なくなりました。終戦後、鉄道の複線化工事に伴ない、樹齢数百年のモミの大木が伐採され、往時の面影を失ってしまいました。
「穂屋」とは御射山祭のさいに設けられた小屋で、その屋根が御射山で刈り取られたススキの穂で葺かれたことにちなみます。
国道へ戻り、再び金沢宿へ向けて進み小さな川を渡るとすぐ左手へ入り、甲州街道を外れて寄り道をしていきます。左手へ入ると正面の小山に
「金比羅神社」が祀られています。
金比羅神社
宿場であった金沢は商売繁盛の神様としてここへ祀られました。
三山大権現の碑・秋葉神社
出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)の
三山大権現碑があります。
金比羅神社の前の道を西へ進み、丁字路の右手に
「念仏堂」があります。
念仏堂
丁字路を右へ曲がり、
「不動小路」と呼ばれた小路を甲州街道へ向けて下っていきます。甲州街道へ出る手前の右手に
「蓮華不動尊」があります。
蓮華不動尊
京都の「蓮華坊」という名僧が金沢宿に通りかかった所女達が泣いており、訳を聞くと『夫達が金山で働いているが、食事も満足に食べさせてもらえず酷使され、毎日のように死人がでている』と訴えました。
僧は険しい山を登り、親方に待遇を見直すよう頼んだが聞き入れられませんでした。僧は「この山の金を止める」と言い、山を下り僧の姿が林の中へ消えると同時に金脈が消えてしまいました。僧は金沢宿の路地で錫杖(しゃくじょう)を逆さに突き、祈り立った姿で絶命していました。僧が背負っていた笈(おい)の中に
不動尊があったので、村人はそこに墓を造って葬り、
「蓮華不動尊の碑」を建立しました。明治になり、整備のため掘ったところ、錫杖の頭部が出土し、上町集会所に保管されています。
金山は金沢宿の西にある
「金鶏金山」と思われます。
金山
金沢金山、あるいは
金鶏金山とも呼ばれました。
戦国大名武田氏は金山開発で有名ですが、金山も武田信玄が天文年中(1532~55)にこの地を領するようになってから採掘されるようになりました。特に弘治から天正年間(1555~92)のうち約20年間に盛んに採掘されました。掘った金は甲州へ送られ、武田軍の軍資金になったと伝えられます。金山の全盛期には金鉱付近に人家が千軒も建ち、遊女も置かれており
「千軒平」の地名が残っています。
金沢宿内を進み、左手に
「泉長寺」入口がありますが、通過してさらに50m、右手に
「旅籠 丸屋」が残っています。
旅籠 丸屋
甲州街道が整備された頃から創業したという古い旅籠です。江戸時代より名主「七左衛門」を含め、16代に渡り引き継がれています。1880年(明治13)明治天皇巡幸の際には丸屋に27名の御一行が立ち寄り、日本大学祖、司法大臣であった山田顕義参議、電気通信の父といわれた寺島宗則参議の両名が食事・休憩のため利用しました。
甲州街道を50m戻り、泉長寺へ入っていきます。寺入口の道は
「寺小路」と呼び、昭和中期までは専用の石畳の大門通りがありました。
泉長寺門前の石仏とおてつき石(御伝馬石)
泉長寺前に
「おてつき石」があります。往時、金沢宿では入口上下におてつき石が置かれていました。ここにあるのは上町にあったものです。殿様がお通りの時には金沢宿の役人がこの石に手をついて「御用を伺った」と言われています。
泉長寺
甲州街道が整備された当時は現在の権現原に
「青柳宿」が作られ、お寺は宿場の東側に
「青柳寺」として創建されました。1650年(慶安3)に青柳宿が大火にあい、焼失したことで宿場は現在の金沢宿へ移り、寺も現在地へ移り
「泉長寺」となりました。
本尊は正徳年中(1711~16)に地蔵寺住職から寄贈されたものです。2001年(平成13)に寺全体の建て替えが行われています。
泉長寺裏の墓地に
「小松三郎左衛門供養塔」があります。
小松三郎左衛門供養塔
近年建立されたもののようですが、台座には小松三郎左衛門の功績が彫られ、短歌が刻まれています。
小松三郎左衛門
小松家は、青柳宿当時から
本陣・問屋を務め、金沢宿となっても代々務めていました。4代の小松三郎左衛門は、金沢町と茅野村との
山論(山の境界線)に際し、代表として金沢町の正当性主張し、町民のために奔走していました。1656年(明暦2)高島藩主・諏訪忠垣の裁定で金沢村の内山(占有)となっていましたが、1668年(寛文8)入山した際に境界に関する傷害事件を起こし、それをきっかけに入会山(茅野村との共用地)となってしまいました。1678年(延宝6)三郎左衛門が江戸へ行き、直訴するという噂が流れると、高島藩は伝馬を怠ったとのかどで町民の見守る中で磔の刑に処せられ、家は断絶しました。
200年ほどが経過した1880年(明治13)子孫縁者が宮城上等裁判所へ提訴を行い、これに勝訴し、ようや金沢山が分離され金沢村のものとなり、金沢山にカラマツの苗が植林されました。
泉長寺の裏から金沢小学校の北側の道を廻っていきます。金沢地区センターの駐車場に
「独鈷石」というものがありました。
独鈷石(とっこいし)
この石は金沢峠頂上付近の道路改修時に出土しました。金沢峠は飯田藩や高遠藩の参勤交代や物資輸送の交通の要衝でした。古東山道は京都から恵那山を越え信州飯田へ入り、高遠を経て杖突峠越えて諏訪へ出て佐久へ抜けたとする説がありますが、この石の出現により、杖突峠ではなく金沢峠であった説も有力視されるようになりました。
金沢地区センターとグラウンドの間を上っていくと
「青柳神社」があります。
青柳神社
鎌倉時代中期、嘉禎年中(1235~38)北条泰時の時代に奈良県吉野郡丹生川上村の川上神社から大池の産土山に勧請したと伝わります。明治後期になると遷座の要望が出され、1907年(明治40)現在地へ移されました。元の青柳神社の場所にも石祠が祀られています。
青柳神社の北側には回舞台を備えた
舞屋がありました。往時、金沢には
天狗連という素人の芝居グループがあり、1945年(昭和20)頃まで祭りの際には芝居が行われていました。芝居小屋は江戸末期から明治時代にかけて道徳などを漢学者から諸国をめぐりながら教え、導いた場所でもありましたが、1955年(昭和30)に取り壊されてしまいました。
小松三郎左衛門供養の地蔵尊
本陣問屋小松三郎左衛門の霊を弔う地蔵尊が宿尻の処刑場跡付近に1749年(寛延2)に建立されましたが、宮川の氾濫による水害で流出し、行方不明となっていました。1898年(明治31)の水害復旧工事のとき、台石だけが付近の河原より見つかり、台座を失った青面金剛像がその台座上に祀られました。1987年(昭和62)宮川の川底から行方不明になっていた地蔵が首を失った状態で発見されました。首が復元されここへ祀られました。
青柳神社から来た道を戻り、金沢小学校前から甲州街道へでます。この交差点に本陣がありました。本陣敷地は公民館や消防団駐屯地などになっています。
金沢宿本陣跡・金澤村道路元標
本陣敷地内には高島藩や松本藩の米倉がありました。小松家は青柳宿当時から代々本陣・問屋を務めていましたが、四代三郎左衛門が処刑され、家は断絶したため、1678年(延宝6)から明治初年まで6代に渡り白川家が本陣・問屋を務めました。
金沢宿
慶安年間のはじめまでは北方の権現原にあり、
青柳宿と称していましたが、度重なる水害と前年の火災で焼失した際の1651年(慶安4)現在地へ移転、
金沢宿と改称されました。本陣1軒、問屋2軒、旅籠19軒、家数154軒、人口583人でした。
本陣跡の2軒先が
近江屋、さらに郵便局があり、その先2軒先に
松坂屋があります。
金沢宿茶屋近江屋・旅籠松坂屋
近江屋は明治期まで
茶屋を営んでいました。江戸後期の建物とされます。当主は宿場に伝わっていた村芝居仲間
「天狗連」に所属していたとされます。
宿一番の旅籠であった
「松坂屋」では博打も盛んに行われ、
博打場や逃げ道の地下通路もあったと言われています。先祖は伊勢松坂より金沢宿へ来た人と伝わります。
1887年(明治20)二階に泊まっていた薬の行商人が煙草盆を盗もうとして灰を布団の中へ捨て、それが出火し火事騒ぎに乗じて帳場から金を盗んで逃亡しました。この時建物が全焼し、その後再建されたのが現在の建物で、昭和初期まで営業していました。
1855年(安政2)の「五海道中細見独案内」には旅籠として「松坂屋武右衛門」が記されています。
さらに140mほど金沢宿内を進むと右手に大きな旧家が残されています。ここが
「馬宿」です。
中馬宿 馬宿
私設の中馬荷物問屋(中馬宿)が発達しました。この馬宿は江戸時代から1905年(明治38)まで小林家が150年間馬宿を営業していました。現在の建物は1897年(明治30)敷地を買い足し、大きな馬宿を建て24頭の馬と馬方を泊める事ができました。
その先70mほど左手に
「秋葉常夜灯」があり、ここを左へ入ると
「繭蔵」があります。
秋葉常夜灯
電球タイプの秋葉常夜灯は初めてでしょうか。あまり見たことが無いですね。
繭蔵
金沢で最初に製糸業を始めた
守矢製糸が1893年(明治26)に建てた繭蔵で、現存するものはここだけとなりました。
守矢鉄治郎は若干19歳で自宅裏に創業を開始しました。1897年(明治30)には弟が群馬県前橋市で守矢製糸工場を創立。多くの若い女工が寄宿し出稼ぎに来ていました。1946年(昭和21)には
勢見屋製糸工場を創立し、戦後景気の波に乗りましたが、ナイロンなどの新繊維の普及により衰退し、1976年(昭和51)に長い歴史を閉じました。
甲州街道へ戻り、すぐ先を右手へ入ります。この細い路地が往時の「甲州街道」です。
供養塔があり、そのすぐ先に
如意輪観音があり、
宮川へぶつかります。
旧道と供養塔
如意輪観音・小松三郎左衛門磔場
先程の青柳神社にある小松三郎左衛門の供養地蔵が流出したため、1800年(寛政12)新たに建立された如意輪観音です。
浅敷場
小松三郎左衛門が磔の刑となった場所です。
供養塔など石碑群
宮川沿いを進み、金沢橋をわたります。
宮川
金沢宿からは伊那道(高遠道)の御堂垣外へ三里であり、そこからは高遠・飯田へとつながっていたので、金沢宿を経て塩や雑穀などが中馬によって伊那へ運ばれていました。宮川の袂が追分となっており、現在の大池集落より金沢峠へ抜けていたと思われます。
11:00 金沢宿をあとに上諏訪宿へ向けて進んでいきます。