2024年9月14日

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11:00 金沢宿をあとに上諏訪宿へ向けて進んでいきます。宮川を渡るとすぐに「金山権現」があります。

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金山権現(権現之森)

石祠は1694年(承応3)建立。祭神は金の神・鉱山の神であり、このことから金沢金山との関わりが考えられます。

TOO001 石祠の左右には江戸中期頃より庶民の信仰として祀られた御嶽座王、庚申塔、津島牛頭天王(1858年・安政5)など大正期までの石造物20数基が祀られています。

青柳宿であった頃は、権現神社南とこの先の御社宮司が桝形になっていました。金山権現を過ぎると左手から旧道へ入っていきます。

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そば畑

青柳宿は「焼け屋敷」と呼ばれ、現在は畑や水田となっています。

水田の中を歩いていくと、丁字路になっています。ここが青柳宿であった頃は桝形になっていました。右手に「御社宮司」があります。

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御社宮司

この御社宮司は、新田開発時に勧請されたものです。

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青柳宿の旧道

桝形を左へ曲がり、水田の中をさらに進んでいきます。 往時、青柳宿であった頃は、家屋が建ち並んでいたのでしょう・・・

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金草履十三編「青柳宿」

『蔦木より二里ゆきて、青柳の宿なり。この宿より高遠の御成下へ道あり。二里なり。これは尾張の名古屋へゆく街道也。また、この宿より上の諏訪へ三里』とあり、『愛嬌はむすめのこしのしほらしや なびくすがたの青柳の茶屋』の狂歌が記されています。

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チュウサギ

丁字路になります。ここからは国道20号が甲州街道になりますが、その前にちょっと寄り道をしていきます。左へ曲がり万年橋を渡ると左手に「耕地整理記念碑」があります。

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耕地整理記念碑

この堀割道が開通するまでは、大池住民が国道方面へ行く場合、産土山の裾を大きく周り、宮川に架かる橋を渡るという不便な道でした。1898年(明治31)水害で橋が流されたのをきっかけにして、1914年(大正3)より耕地整理事業を行い、切通の工事が行われました。
掘った土を周辺の湿地へ入れ、1917年(大正6)切通、万年橋、水田が完成し記念碑が建立されました。

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稚児塚への道

耕地整理記念碑の向かいの草がボーボーのところから入っていくようです。小さな案内板がありました。
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稚児塚

南北朝の頃(1300年代)、後醍醐天皇の第八王子宗良親王は、下伊那郡大鹿村に住んでいましたが、関東の北朝側との戦いに向かう途中、稚児が病死してしまいました。親王は脇坂、有賀の2名にあとを弔うよう申し付け、両名はここに稚児を葬り、塚を建立し供養を続けました。

親王の妃は駿河井伊道政の娘で、この稚児はその子供と思われます。脇坂氏の出身は近江の脇坂郷で、後の賤ケ岳七本槍の一人、脇坂安治は有名です。 有賀家は諏訪豊田の有賀の先祖となります。両家とも子孫が大池と金沢下町に住み、今も供養を続けているとされます。

この塚には樹齢数百年と言われていた見事な松があり、「稚児塚の傘松」として知られていましたが、1940年(昭和15)頃に枯れ始め伐採されました。

なぜ戦いに行くのに稚児を連れて行ったのでしょうか・・ちょっと疑問です。

稚児塚からさらに奥へ進み、畑のあぜ道へでます。宮川方向へ30mほど行くと「大池一里塚跡」があります。

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大池一里塚跡

左手のみの片塚でした。木立はなかったとの記録があります。
あぜ道を戻り稚児塚へは戻らず、直進していきます。260mほど進むと丁字路となり、左へ曲がり大池公民館の横を通り、さらに150mほど進み左手の産土山へ入っていくと「青柳神社」があります。

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青柳神社

金沢宿にあった青柳神社が遷座されるまであった旧青柳宿の産土神であった「青柳神社」です。

万年橋を渡り、甲州街道へ戻ります。

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常夜灯と石祠・石仏と道路をまたぐように造られた火の見櫓

国道を1kmほど進むと右手から旧道へ入っていきます。急勾配のS字カーブに「木舟神社石仏群」があり、JRを越える跨線橋を渡ります。跨線橋のすぐ先右手から山道を上ると「木船神社」があります。

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木舟神社石仏群

右側写真は、三山大権現で、1804年(文化元)建立。

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JRの線路敷設のために山が削られました。

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木船神社

洪水を鎮める目的で鎌倉時代には既に勧請されていたとされます。以前は三山大権現の碑の東側にありましたが、1902年(明治35)の鉄道工事で現在地へ移転されました。嘉禎年中(1235~38)の奥書のある「祝詞段」に記載がある「木舟明神」であるとされます。

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木船神社からの景色

正面に白い崖が見えます。「白ソレ山」と呼ばれていました。

白ソレ山(白ザレ城跡)

「シラザレ」とは花崗岩・閃緑岩の白いがけ崩れの意味です。崖下に宮川が流れ、天然の要害でした。そのため、戦国時代には諏訪氏の陣場が設けられ、「シラサレ城」と呼ばれていました。その後、武田氏の支配下に入ってからは甲府へ連絡を取る狼煙場として重要でした。

山道を下り、旧道を進みます。水田や畑、樹林・・気持ちのいい旧道を進みます。元禄頃(1688~1704)に廃止された慶長古道は、右手の斜面にあったとされます。

県道へ出る100m手前の左手に「念仏碑」があります。

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旧道と念仏碑

慶長古道の難所から転落した人や馬を弔うために建てられた説と、追いはぎに襲われた家族を弔うために建てられたという説があります。この碑の基礎石は古いもので「ひとつ石」と言われ、元は宮川村と金沢村の境界を示していました。

県道へ出て左へ曲がり、280m進みJRのトンネルをくぐります。このあたりは歩道もなく、狭い道ですが、車が多く危険です。さらに400m進むと「宮川坂室交差点」にでます。

宮川と弓振川との間にある小山があります。入口には大きめの石仏があり、その横を上っていくと坂の途中にも44基の石仏があります。この細い道が「慶長古道」と考えられています。

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坂室石仏群

入口には六十六部塔や二十三夜塔があります。

慶長古道にある石仏は街道沿いにあった44基の石仏を集めたものです。往時は難所があり、崖から落ちた人や馬を供養するために建立されました。

さらに上っていく途中に「河西神社」、上りきった頂上で右手奥へ進むと「三峯様」と石祠が数基ありました。

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河西神社

鳥居はきれいな新しいものですが、古い石祠が祀られています。

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三峯様・石祠

茅で覆われているのが「三峯様」です。このように茅で覆うのが習わしだそうです。甲州道中分間延絵図には「山神」となっています。
この石祠前の道も「慶長古道」だったようです。石祠の先はJRの線路のため、道はなくなっています。

頂上を反対側へ戻り西側奥へ進むと四阿もあり、休憩スペースもありました。このまま小山を下っていきます。少し下ったところに石祠があり、これが恐らく甲州道中分間延絵図にある「秋葉」だと思ったのですが、その奥にも2つ目の石祠がありました。

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秋葉神社

2つ石祠がありました。甲州道中分間延絵図にある「秋葉」はどちらかしら・・最初にあった石祠のほうが立派に祀られていたので、こちらかな。

急でちょっと怖い石段を下ると甲州街道へ戻ります。石段の横に石地蔵が3体並んでいます。

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地蔵堂跡の石地蔵

甲州道中分間延絵図にある「地蔵堂」跡の地蔵と思われます。

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甲州道中分間延絵図「坂室新田」

「坂室新田」は甲州道中の開通に伴い、本村の人家から酒室神社周辺に村落ができはじめ、1665年(寛文5)の家数は4軒と記録があります。1681年(延宝9)に人口35人、1714年(正徳4)の人口は70人、1864年(文久4)に200人と記録があります。
弓振川を渡ると坂室の集落へ入っていきます。坂室集落は寒天製造で知られます。坂室交差点で右へ入っていくと「酒室神社」があります。

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坂室の寒天屋

坂室は寒天製造で知られますが、これは1851年(嘉永4)に今井芳太郎が始めたもので、次第に諏訪の地場産業として盛んになりました。
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酒室神社

諏訪明神の大切な例祭である「御射山祭」神事の祭場であり、前夜祭には境内土中の室で醸造したどぶろくを作って奉納しました。ここから神社名・地名が生じたと伝えられます。 1329年(嘉暦4)の鎌倉幕府下知状に「酒室社御造営、千野、青柳、田沢ノ役」と見られます。現在の社殿は1525年(文政8)に棟梁矢崎玖右衛門が建築したものです。

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雨降塚

雨降塚古墳があり、勾玉・管玉・切子玉・金環・鉄鏃(鉄製の鏃)等が発掘されています。石碑の石は古墳の石室の蓋が使用されています。

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坂室の旧家

坂室から暫く進み中央自動車道の下をくぐり、200mほど右手の斜面上に「三山社」があります。
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三山社

1827年(文政10)に凶作が続いたため、出羽国の「出羽三山」を勧請され、「三山大権現」(湯殿山・羽黒山・月山)が祀られています。 石尊大権現は1845年(弘化2)建立。庚申塔は1860年(萬延元)建立。茅野川神社石祠は一番左端にあり、1860年(萬延元)に西茅野の亀石明神から分祀され、「茅野川大明神・亀石大明神」と彫られています。

三山社からは国道へは戻らずに、一部残っている「慶長古道」を進みました。JR西側に並行して走る未舗装の細い道を150mほど進むとアスファルトの道となり、「茅野一里塚跡」があります。

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茅野一里塚跡と双体道祖神

甲州道中分間延絵図では両塚とも街道の右手奥に描かれています。両塚の間には慶長古道がありました。この古道は元禄頃(1688~1704)廃止され、新たに甲州街道が付け替えられたため、一里塚が取り残された形になりました。1914年(大正3)民間に払い下げられ、現在は石柱が建っているのみです。

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甲州道中分間延絵図

茅野一里塚跡から甲州街道(国道20号)へ出て少し進むと「宮川交差点」があります。ここを右手へ入り、県道へ出ると正面に「三輪神社」が祀られています。

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三輪神社

久寿年間(1154~56)に大和国三輪神社をこの地へ迎えたと伝わります。本殿は1804年(文化元)に棟梁矢崎玖右衛門により築造され、拝殿は1820年(文政3)に建築され、1908年(明治41)に改築されました。本殿の彫刻は素晴らしく、大隅流の流れをくむ矢崎玖右衛門の代表作です。

三輪神社の向かいに「宮川寒天蔵」、斜め前に「鈿女(うずめ)神社」があり、公園になっています。鈿女(うずめ)神社西側の道路を北へ数十メートル進むと「イリイチ寒天蔵」があったようですが、取り壊されていました。

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宮川寒天蔵

この建物は昭和初期、岡谷にあった繭倉を移築し寒天倉庫として使ってきたものです。明治から大正期、岡谷は製糸で栄えていました。昭和に入り、製糸が下火になるのと入れ替わるように茅野では寒天作りが盛んになっていました。役目を終えた寒天倉は2009年(平成21)多目的ホールに改装し、現在は音楽を始めとする様々なイベント等で利用されています。

板倉

八ヶ岳山麓周辺に残る倉の多くは「板倉」です。板倉の古いものは「セイロ」と呼ばれる「井籠倉」で建物の隅で井桁に組まれた形式のものですが、この寒天倉は「オトシ」と呼ばれる「落とし板倉」です。「オトシ」とは、大きな梁で支えられた柱と柱の間に5~6cmの厚みの板材を柱の溝に沿って落とし込む形式のものです。これに荒土を塗りつけ、漆喰で仕上げています。釘を使っていないのも特徴で、土壁を落として解体すれば、移築が可能です。

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鈿女(うずめ)神社

祭神である「天鈿女命(あめのうずめ)」の面は狂言の面として知られる「おかめ面」となり、これが「ひょっとこ」と一緒におかしく踊られるようになりました。
甲州街道である県道197号へ戻ります。宮川寒天倉横の駐車場の一角に「明治天皇御小休所跡碑」があります。

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明治天皇御小休所跡碑

この場所には五味邸がありました。1880年(明治13)明治天皇が三重・滋賀・京都などを巡幸された際にはここで1時間ほど小休されました。宗湖寺の井戸から運んだ水を用いてお茶を差し上げたといいます。
甲州街道を挟んだ向かいには「丸井伊藤商店」があります。

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丸井伊藤商店

丸井伊藤商店は「発酵パーク」としてどぶろくや味噌づくりなどの工場見学ができるようになっています。
丸井伊藤商店から70mほど進んだ右手の路地へ入ります。100mほど進むと右手に「宗湖寺」があります。宗湖寺の向かいの墓地の奥に「四ツ塚神社」、「祝神」などがあります。

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宗湖寺(旧千松庵)

千松庵が1823年(文政6)に廃寺となりました。その後1828年(文政11)に上原の頼岳寺境内より諏訪頼忠の位牌所である宗湖庵(宗湖寺)が移されてきました。寺内には「明治天皇御前水の碑」もあります。

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高島城三之丸御門

高島城は諏訪湖の南側にあった日根野高吉によって築城されました。往時、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ、別名「諏訪の浮城」と呼ばれました。この門は高島城から移築されたものとされます。

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四ツ塚神社

このあたりは四ツ塚古墳群の4基の古墳があり、そのうちの四ツ塚C古墳に四ツ塚神社が祀られています。四ツ塚古墳群は、古墳時代末期の7世紀から8世紀のものと見られています。
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祝神

宗湖寺から甲州街道へ戻り、さらに60m進み左手の路地へ入るとすぐに「増木寒天蔵」があります。

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増木寒天蔵

板倉3階建て、土壁漆喰仕上げの建物で、壁の色が黄土色なのが特徴です。色が塗られたのは戦時中といわれています。
さらに甲州街道を100m、左手に「麻屋荒物店跡」という石碑があります。すぐその先は「上川」です。

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麻屋荒物店跡

江戸時代の「荒物」とは、「粗物」とも呼ばれ、簡単なつくりの家庭用品、薦(こも)、渋紙、縄、細引、ざるや桶などの台所用具、草履、線香、蝋燭などが売られていました。
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茅川尾木橋(現上川橋)

「諏訪神社参詣道碑」があります。往時は橋の袂が立場になっていました。

橋を渡る前に川沿いを左手に入っていきます。90mほどで「治水碑」があり、すぐ先に「水神」の石碑があります。

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治水碑・銭場堤防・常官寺跡

この付近に常官寺があったと伝えられています。往時、上川(分間延絵図では茅野川)の流れは木落し坂から亀石明神(千野川神社)の方向へ流れたいたため、この地は横内に続いて栗林郷と呼ばれていました。

上川の大氾濫によって常官寺五日市場は流出して今日の川筋に変化しました。その後、この銭場堤防が築かれましたが、幾度か決壊し復旧にはとても苦労しました。工事中、多くの古銭が発掘されたので、「銭場」となりました。古銭は常官寺や五日市場の銭箱から流散したものであると考えられています。
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水神

15:00 上川橋を渡り、「茅野駅」で本日は終了です。駅前に「姥塚古墳」と彫られた石碑がありました。

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姥塚古墳

1905年(明治38)中央東線茅野停車場の開設に伴ない、取り壊されてしまいました。記録によれば水田の中にあった8世紀末円墳で、墳丘上には石祠があり、台座石には花崗岩の天井石三枚が用いられていました。 出土品は直刀・鉄鏃・桂甲小札・金銀環・玉類・和鏡・須恵器・青銅銙などがありました。

2025年4月19日

半年ぶりに続きを歩くため、JR上諏訪駅へやってきました。駅西側のコインパーキングへ駐車し、JRに乗車し茅野駅で下車しました。

8:30 茅野駅を出発します。空はすっきり晴れています。

まずは駅から西側へ移動し、すぐに甲州街道へでます。駅ビル前の茅野駅前信号機から左手へ伸びている道には諏訪大社の石造り鳥居がどーんとそびえています。

ここで鳥居をくぐり、左手へ入り寄り道していきます。道なりに進むと突き当りになり、左手に「横内笠地蔵」があります。つきあたりを右へ進むと「達屋酢蔵神社」「横内不動尊」があります。

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諏訪大社鳥居

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横内笠地蔵

この広場は「回場」と呼ばれ、かつては葬列がここで回ってから墓地へ向かった歴史ある土地です。笠を冠った珍しい地蔵像で全国的にも珍しく、市内ではここにある二体のみです。西側の地蔵は破損していますが、これは1923年(大正12)の大震災の時に転落したものです。

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達屋酢蔵神社

達屋社は諏訪大明神末社39神のうち、下ノ十三所の一つ、酢蔵社は同じく中ノ十三所の一つで、達屋社に合祀され、「達屋酢蔵神社」となりました。社殿は1つですが2つの扉を持っています。 元は「五龍権現之社」、古来諏訪大明神の東岳御小屋神林より御柱の更出しができる特権を持つ唯一の末社といわれています。

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水資源開発の碑

1966年(昭和41)電気探査により横内の地下に飲用に適した膨大な地下水があることがわかり、1973年(昭和48)地下の開発を行い、飲用水として供給が始まりました。
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達屋酢蔵神社御神水

水資源開発の地下水を達屋酢蔵神社内にも御神水として引いています。

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横内不動尊

横内村には古来より護摩講があり、信者は行屋に籠もり水垢離を取り護摩炊行を積み、この不動尊を信仰しました。諏訪高島城主九代、諏訪忠誠が病気の際に横内護摩講を城中に召され、病気平癒を命ぜられました。五味惣七の祈祷の結果、病気が全快され、褒美に刀剣二振を賜れ、達屋酢蔵神社の宝物として奉納しました。1858年(安政5)飢餓と疫病が流行しましたが、熱心に祈願し罹患を免れたとされます。

達屋酢蔵神社を東から出て横内公民館横の細道を東へ向かい丁字路を右へ曲がると、右手に小さな「大天白社」があります。

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大天白社・勘兵衛の墓碑

矢嶋氏の祝神で、祭神は矢嶋祖神、天白神、池生神、白鳥神、牛頭天王です。本殿の彫刻は1850年(嘉永3)2代目立川和四郎冨昌によるものです。

勘兵衛の墓碑

1823年(文政6)江戸より帰郷の途中、甲州猿橋宿にて病死した、高島藩代官手代五代、勘兵衛の墓碑が猿橋の心月寺の無縁墓地の中から発見されました。 184年ぶりに帰郷し、大天白社の境内に安置されました。 官兵衛は江戸初期に祖父惣右衛門から名主職を継ぎ、以後代々横内村の名主を務めました。1876年(明治9)横内学校創設の際は広大な居宅を提供するなど長年にわたり村に貢献しています。更に蟹河原長者を祖とし大天白社一族の総本家として郷土の産土神達屋酢蔵神社神官の重職を奉仕、多くの事績を残した一族です。

石碑にはなぜか「真田六文銭」。なぜ彫られているのかはわかりませんでした。

ここから甲州街道へ戻ります。「杖突街道」の追分と思われる路地から甲州街道へ入ります。甲州街道を400mほど進むと「上原交差点」から国道20号へ合流します。300m左手には「上原八幡宮」があります。

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上原八幡宮

鎌倉の鶴岡八幡宮の遷社と伝えられ、上原の鎮守神です。江戸時代を通して高島藩主の江戸参勤に当たっては高島城から八幡宮まで藩士が見送り、帰国の際には出迎えたといわれ、現在も祠前に藩主の籠を置いた台石が残っています。拝殿前の敷石のようです。

上原八幡宮の北側の道から左手へ入ると水路脇に「北原祝神」の小さな石祠があり、その奥に「光明寺跡」の石碑があります。

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光明寺跡

鎌倉五山になぞらえて、上原五山(極楽寺・光明寺・永明寺・金剛寺・法明寺)と称されるなかの一つのお寺でした。法明寺と光明寺は合寺となり現在の岡村に移転し、法光寺になったとされます。

光明寺跡から甲州街道へ戻り、30m右手奥に「極楽寺」があります。

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極楽寺

「諏訪旧跡誌」には、「上原は往昔諏訪家の居館の在りし地なり。当時諏訪の五山として極楽・永明・金剛・光明・法光の五院あり。其極楽寺は鎌倉殿に任へし盛重入道蓮仏の創建」とあります。 入口にある六字名号碑には1803年(享和3)の銘があります。

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上原五山

上原は鎌倉時代、上原城の城下町で、諏訪信満以降、頼重の代まで諏訪氏の居城として1542年(天文11)に武田氏に攻略されるまでは諏訪の政治・経済・文化の中心地でした。

これらの名残としてツイヂ、ハッツケ田、金山ハバ、古道、町屋敷、上町、六町小町、構居、トウショ小路、鍛冶小路、六供六坊、十二坊、ハリマ小路、地蔵清水、遊女小路、備前坂、和尚屋敷、柳町、十日町寺の古い地字名が残っています。 また、鎌倉五山に準じて極楽寺・光明寺・金剛寺・永明寺・法明寺の上原五山が作られました。戦国時代以降に廃寺となっていき、現在残っているのは極楽寺のみです。
さらに甲州街道を300m進み、左へ曲がり緩い坂道を200mほど下ると「葛井神社」へと至ります。

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葛井(九頭井)神社

創建は不詳ですが、古くから諏訪神社の末社であり、前宮(茅野市宮川)との関係が深いとされます。はじめは池が信仰の対象でしたが、後に社殿を建て槻井泉神を祀った諏訪神社上社の摂社でした。九頭井大夫の屋敷は社の東隅にあり、代々神官を勤めました。現在は矢島氏で、1566年(永禄9)武田信玄が九頭井大夫あてた寄進状が残されています。

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千本欅

葛井神社の御神木でした。再三の落雷や失火により危険な状況となり、1974年(昭和49)現在の高さまで切り落とし、屋根をかけて保存しています。生きていれば推定樹齢700~800年とのことです。
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葛井の清池

大晦日、前宮において一年中の神事に手向けた幣帛(ヘイハク)、榊(カシワ)、柳の枝、柏の葉等を御宝殿より取り下げて葛井神社へ運び、寅の刻(午前4時頃)に前宮御室の御燈を合図に葛井の池へ投げ入れます。すると卯の刻(午前6時頃)に遠州さなぎの池(現在の佐鳴湖と思われる)へ浮かびでると伝えられています。これは「葛井神事」と呼ばれます。「諏訪七不思議」の一つに数えられ、池に住む魚は全て片目といいます。

坂道を上り200m戻ります。甲州街道を横切り「鍛冶小路」と彫られた石碑を見てさらに奥へ進み、さらに寄り道をしていきます。すぐ先に「金剛寺跡碑」があり、正面の山は「上原城」です。

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鍛冶小路碑

鎌倉時代、上原城の城下町だった頃の通りの名前だと思われます。

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金剛寺跡碑

上原五山と称されるなかの一つのお寺でした。 1588年(天正16)の「諏訪上下社寺領案文」には、極楽寺・永明寺と並び、金剛寺の名が記されており、既にこの時期には建立されているのがわかりますが、創建は室町時代の後半から安土桃山時代にかけてと推定されています。現在の石碑より東側奥50mに寺があったと推定されています。

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上原城跡

諏訪氏の山城跡で、諏訪盆地を一望できる金比羅山山頂にあります。築城の年代は不明ですが、室町時代の中頃には諏訪惣家の信満が上原城を基盤にしていたことが知られます。

信満の子、政満は1483年(文明15)前宮居館で大祝継満のために謀殺されました。その子、頼満は碧雲斎と号し諏訪に大きく勢力を広げ、1531年(享禄4)には甲斐の塩川へ出陣して武田信虎を破りました。その子孫、頼重は筑摩郡や小県郡にまで攻め入ったが、1542年(天文11)に武田晴信(信玄)に攻められ、上原城から桑原城へ逃れましたが、甲府で自害しました。

晴信は翌年、上原城を居館としての改修に着手し、板垣信方をおいて支配させました。板垣信方死後、1549年(天文18)統治の中心を茶臼山城に移しましたが、城の管理はなされていましたが、武田氏が滅亡するとほとんど意義を失いました。
緩い上り坂を100mほど進みJRの線路を越えます。さらに200m進んだ突き当りに「千鹿頭神社」への入口があります。徐々に坂道の傾斜がきつくなってきます。

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千鹿頭神社

祀っている千鹿頭神は洩矢神(モリヤシン)のひ孫とされます。洩矢神は、諏訪に侵入したとされる建御名方命と争った神話の主で、後に負けて建御名方命の従神となり、守矢氏(守矢一族)がその神職を担うようになったという伝承があります。

詳細は不明ですが、上原城下町の地図に記載があるので、鎌倉時代には鎮座されていたようです。

千鹿頭神社から斜面を横切るように東へ少し行くと小さな石祠と鳥居があります。

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中組山之神(中山ノ神)

詳しいことはわかりませんが、上原城下町の地図に記載があるので、鎌倉時代には鎮座されていたようです。

TOO001 さらに東へ向かい、墓地の中へ入っていきます。斜面を巻くように100mほど進み、左手へ少し上ると「諏訪頼雄」の新しい墓石があります。

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諏訪頼雄之墓

ここにあった古い墓石は1968年(昭和43)頼岳寺二之丸家墓地へ移されています。その際に新しい墓石を建立したと思われます。

諏訪頼雄(ヨリカツ)

諏訪頼忠の四男として生まれ、幼少時は徳川家康の人質として駿府で過ごしました。1592年(文禄元)上野国総社領主となった兄・頼水に仕えました。諏訪図書家、初代が諏訪頼雄です。

1601年(慶長6)頼水が信濃高島へ転封となると共に移り、原山の新田開発を指揮し、1610年(慶長15)に完成しました。この開発に尽力したことから領民に崇敬され、原新田の鎮守社に兄頼水と共に祀られました。(深山農村公園西側)

1611年(慶長16)江戸藩邸で火災が起こり、火元となった藩士高山左太夫の処罰を巡って、厳罰を主張する頼水と対立し、重臣たちと共に藩を退去してしまいます。翌年、屋代秀正、小笠原秀政の仲裁により頼水が折れて高島藩へ戻ります。

1621年(元和7)病により隠居し、家督を嫡男の盛政に譲り、1631年(寛永8)没しました。代々高島城二の丸に居住し二の丸家とも呼ばれ、8代頼保は二の丸騒動(後継者争い)で切腹を命じられ、諏訪図書家は家名断絶しています。

墓地から下の道まで下り、さらに50mほど奥へ進みますと、左手に大きな「永明寺跡碑」がありました。

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永明寺跡碑 永明寺も鎌倉五山になぞらえて、上原五山と称して造立されたお寺の一つでした。永正年間(1504~21)の創建とされ、開基は慈山永訓禅師、開山は諏訪惣領家の碧雲斎諏訪頼満とされています。諏訪氏の菩提寺でしたが1630年(寛永7)諏訪頼水によって焼き払われたようです。

永明寺事件

初代高島藩主、諏訪頼水には亀姫という末娘おり、家臣の小澤家へと嫁ぎました。ある日、亀姫が城へ書状を届けるよう下男へ頼んだ所、隣の下男に手紙を奪われ衣ノ渡川に捨てたため、諏訪家に追われ、永明寺へ駆け込み命乞いをしました。頼水はその下男を渡すよう寺僧に命じましたが、聞き入れられなかったため、寺を焼き払い、その者の首を刎ねたとされます。

ちょっと不思議なのが、寛永7年に永明寺が焼失していますが、諏訪頼雄の墓碑が建立されたのが寛永8年です。なぜ焼失した永明寺に建立したのでしょうか・・

TOO001 梅が綺麗に咲いています。永明寺跡のあたりは高台で見晴らしがとても良いですね。梅が咲き誇り、春爛漫・・という感じで楽しい街道歩きです。

後半へ続きます。