2025年4月19日
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下諏訪駅のコインパーキングへ車を止めて、下諏訪駅からJRに乗り、上諏訪駅で下車しました。本日で甲州街道はゴールする予定です。
歩き始める時間が少し遅くなってしまいましたが、晴天の中ではりきって出発します。
9:30 下諏訪駅西口を出発。まずは、
高島城へ寄り道していきます。いきなり寄り道!
行きは縄手の1本西側の道を進み
「三之丸跡」から高島城へ入り、帰りは縄手(並木通り)を通ってみようと思っていましたが、なんと!「三之丸跡」にかかる橋が工事中で通行不可でした。一旦、並木通りへ戻り、1つ東側の橋を渡り、すぐ右へ曲がり丁字路左手が
「高島城三之丸跡」、「味噌茶屋」があります。

高島城三之丸跡・味噌茶屋
衣之渡川と中門川(三之丸川)との間が三之丸で、道路より東には周囲に堀を巡らせた藩主の別邸である三之丸御殿があり、藩主が訪れ吉凶その他祭事や藩士がくつろぐ場所でした。
八詠桜・常盈倉(籾を貯蔵する倉庫)もありました。西には家老三之丸千野家の屋敷があり、三之丸様と呼ばれ、北の続きには牛山氏・前田氏の屋敷がありました。
明治維新直後、三之丸御殿は前藩主の居所となり、東御殿と呼ばれ、家老の屋敷は藩知事の居所となり、西御殿と呼ばれました。
味噌茶屋
丸高蔵という味噌蔵が味噌を使用したお料理を提供していたのですが、2022年に飲食部門は閉業したようです。うーん・・残念。色々な写真をみると、ほんとに美味しそうなお料理ばかりです。
高島城へ向けて進んでいきます。左手は丸高蔵の古い
味噌蔵が続いていており、いい雰囲気です。この味噌蔵のあたりに三之丸御殿があったのでしょう。味噌蔵が途切れると三之丸橋の手前に
「三之丸湯跡」があり、反対側には小さな
「諏訪社」があります。

三之丸湯跡
三の丸温泉は、高島藩7代藩主、諏訪忠粛の意向により、高島藩作事方筆頭大工棟梁 伊藤儀左衛門光禄が1786年(天明6)下鶴沼(現在の弁天町)に自然湧出していた温泉を木管で220間引湯してこの地に浴室と汲み湯場を設け、当初は藩主が使用し、次いで城内居住の藩士に便宜を図ったのが始まりでした。
明治維新後、払い下げを受けた旧藩士は三の丸湯を「士族の湯」とし維持管理してきましたが、町の人の要請を受け1925年(大正14)共同浴場として運営することになりました。利用者の激減などにより1996年(平成8)この場所にあった第一浴場は閉鎖されたそうです。
現在も熱い温泉がでています。もったいないなぁ・・

諏訪社?
小さなものでも御柱は忘れません。
三之丸橋を渡り進むと高島城の壕に突き当たります。左手へ曲がると入口の門があります。

高島城跡
高島城は1590年(天正18)豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉によって設計され、1592年(文禄元)着工、1598年(慶長3)完成しました。
諏訪湖と数本の河川が周囲を巡り、濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城の石垣に迫り「諏訪の浮城」と呼ばれていました。1601年(慶長6)初代藩主、諏訪頼水から10代藩主、諏訪忠礼に至る270年間、諏訪氏の居城でした。
1871年(明治4)廃藩置県となったため、1875年(明治8)に天守閣など撤去されましたが、1912年(明治45)天守閣が再建されました。
高島城の石垣
天守閣の石垣と本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいです。西側と南側の石積は簡素なものでした。地盤が軟弱なため、沈下しないよう大木で組んだ筏の上に石垣が積まれています。
冠木門跡
冠木橋を渡ったところに、冠木門があります。絵図からは楼門、あるいは高麗門と呼ばれる屋根付きの門であったことがわかります。当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称のみ残されたものと考えられています。

高島城角櫓
高島城の本丸にはかつて角櫓、持方月櫓、富士見櫓と3つの櫓が建てられていました。角櫓は1970年(昭和45)に再建されました。現在は茶室として利用されています。

持方月櫓跡
ほかの城ではよく「月見櫓」がありますね。あれと同じように月見をする櫓だったのではないでしょうか。
天守閣のほうへ戻っていく時に
「覗石松と亀石」があり、さらに天守閣への階段近くに
「石集配湯桝」がありました。
覗石松と亀石
「亀石」は城内の庭園にありましたが、1875年(明治8)の廃藩の時に城外へ移され、以後所有が引き継がれ、河西謙吉氏の庭に置かれていました。2007年(平成19)、132年ぶりに高島城公園に戻されました。
水を掛けると、まるで亀が生きているようになり、願いが叶うと言われています。

石集配湯桝
1803年(享和3)七代藩主忠粛(ただかた)の頃、城内三の丸浴場に引湯のため木樋を継ぎ、集湯、配湯をした石の桝です。
天守閣を見学し、庭園を南へ向けて進むと右手に
「三之丸御殿裏門」があり、さらに南へ進むと
「諏訪護国神社」があります。

三之丸御殿裏門(御川渡門跡)
ここはかつて御川渡御門と呼ばれた門があった場所ですが、城が湖に面していた頃は、ここから船に乗ることができました。1988年(昭和63) 三之丸御殿の裏門が寄贈され移築されました。
諏訪護国神社
諏訪地域出身の戦没者を祀るために1900年(明治33)に創建された比較的新しい神社です。
諏訪護国神社に参詣後、左手へ進み、土戸門跡を過ぎ富士見櫓跡近くに
「芭蕉句碑」がありました。

芭蕉句碑
『花に遊ぶ虻那くらひそ友雀』
1880年(明治13)建立。
高島城をあとにします。東側の歩道橋より公道へでます。橋を2つ渡り400mほど進み左へ折れて並木通りを進んでいきます。
道端の温泉
こんな場所にも温泉がでています。諏訪は温泉が引ける住宅がたくさんあるそうですね。諏訪に小さな別荘がほしいなぁ。

高島城縄手
縄手は城下町の柳口(高島城柳口役所跡)から大手門までの唯一の道で、河原(湿地)を埋め立てて造ったものです。1600年代後半に三代藩主、諏訪忠晴が描いた「路行記」をみると湖の中の一本道で、両側に柳並木がありました。その後、両側は蓮池となり、諏訪湖の水位が下がるにつれて乾地となり、1700年代後半には現在のけやき並木となりました。
並木通りを進み、左手の柳並公園を過ぎてすぐ右の路地へ入っていくと、左手に小さな公園があります。ここは
柳口役所跡、高島学校跡、行在所跡となります。

柳口役所・高島学校跡・行在所跡
高島藩は民政の窓口として城の柳口近くに「柳口役所」を置き、その中には白州もありました。また、この一帯は島崎についで上級藩士の屋敷が多く、近くの虫湯は藩主や藩士達の温泉でした。
1869年(明治2)ここに国学校が開かれ、1880年(明治13)には高島学校が新築され、明治天皇巡幸の際には行在所となりました。
並木通りへ戻り、少し進むと諏訪1丁目交差点です。ここからは前回歩いた300mを重複して歩き、吉田のマツを過ぎます。吉田のマツのすぐ先左手に
「片羽一里塚跡」があります。

片羽一里塚跡
1610年(慶長15)頃に一里塚が築かれたと言われています。絵図では左塚のみですが、「宿場大概帳」によれば両塚と記され、左塚にはエノキ、右には木がないと記されています。
100mほど歩いていると右手の崖のすごい場所に大きな馬頭観音がありました。どうやって建てたのでしょうか。

馬頭観音
崖の上に観音堂があるようなので、そこの馬頭観音なのでしょう。近づくことすらできない場所なので、建立年など確認できません。
さらに少し進むと甲州街道がくるーっと右カーブしています。そのカーブの左手に
「指月庵」があります。

指月庵、諏訪家庭園
かつて温泉寺の隠居所として1793年(寛政5)に建築されたものです。以後、諏訪藩主が菩提寺である温泉寺への墓参りの折に、休憩所として使用されたといわれています。1901年(明治34)までは温泉寺の所有でしたが、現在は個人所有となっています。
庭園内には、1849年(嘉永2)と刻まれた
「解脱門」という石門があり、かつて諏訪藩主が温泉寺参道前からこの門をくぐり、ここへ入られたと伝えられています。現在の建物は一部当時の柱や梁などが使用されていますが、近年再建されたものです。

甲州道中分間延絵図
甲州道中分間延絵図には「温泉寺隠居所」とあり、すぐ近くには池のような「温泉」が描かれています。
右手側の温泉寺への入口には温泉寺の地蔵などの石仏があり、そのすぐ先右手奥に天神社があります。天神社の前に
「天神山城跡」の石碑があります。

温泉寺参道の石仏群
地蔵の後ろで大きく傾いている石碑には「薬師如来名湯」と刻まれており、古くから湯の脇にあった薬師の湯を伝える石碑です。

天神山城跡(天神社)
1483年(文明15)に上社勢力と下社勢力との争いで下社方に攻め落とされたことが記録に残っているそうです。現在は「天神社」とありますが、絵図の「天満宮」と思われます。
天神社から温泉寺の参道へ戻り、上ると右手に3列の覆屋があります。
守屋貞治の西国三十三所観音像
高遠の建福寺にある三十三観音と同様に3列の覆屋に33体の観音様が納められていました。

守屋貞治の西国三十三所観音像
覆屋に納められているので、どの観音様も美しく往時のままに保存されています。とても繊細で特に表情が素晴らしく、じっと見ているとつい微笑んでしまいます。これまでに守屋貞治の石仏はいくつも見てきましたが、やはり素晴らしい。
守屋貞治と温泉寺の願王和尚
高遠石工の中でも特に優れた腕を持ち、「稀代の名工」と謳われたのが
守屋貞治(さだじ)です。
1765年(明和2)高遠藩藤沢郷塩供村(現、高遠町長藤)で、守屋孫兵衛の子として生まれました。藤沢郷は多くの優れた石工を輩出した地域で、貞治の生家も代々石工の家系でした。
貞治の作品は1都9県で発見されており、作品は350体にもおよぶとされています。
貞治に大きな影響を与えたのが、
温泉寺の住職・願王和尚とされます。若き貞治は、温泉寺で願王和尚に仕え、雲水として仏道修行に励んだと伝えられています。彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したため、広範囲に作品が点在しています。
貞治が石仏を刻む際には、香を炊き経文を唱えながらひたすら彫像に打ち込んだとも伝えられており、貞治が単なる石工ではなく
「石仏師」と呼ばれるのはこういったことからです。

温泉寺
高島藩主初代、諏訪頼水が開基となり高島城下に菩提寺を作ることを望み、慈雲寺の泰嶺を招いて菩提寺としようとしましたが辞退されたため、2代忠恒が志を継いで1649年(慶安2)、鉄嶺を迎えて開山し温泉寺を建立しました。
諏訪家は古代から続く氏族で、諏訪社の最高位神職
「大祝」を務めていました。近世になり、大祝諏訪家と藩主諏訪家に分かれて以降、明治維新を迎えるまで信濃国高島藩の藩主を代々務めました。
中世以来、上原城近くの賴岳寺が菩提寺でしたが、温泉寺が建立されて以降は、こちらが菩提寺となりました。
温泉寺
本堂は、1827年(文政10)高島藩主八代の忠恕(タダミチ)の時に、高島城内に建てられた能舞台を1870年(明治3)の火災の後に移築されたものです。同時に山門も
高島城大手門を移築したものです。
本堂の右手に経蔵と守屋貞治の石仏があります。更に山側の墓地へ上っていくと
「鉄塔」があります。

経蔵(転輪蔵)
1780年(安永9)初代、立川和四郎冨棟の手になる八角八面の輪蔵があり、その中に黃檗板大蔵経(おうばくだいぞうきょう)が納められています。昔、文字を読めない人のために、これを一回転させれば経文を読んだと同じ功徳があるとしたものです。
守屋貞治の延命地蔵と佉羅陀山地蔵大菩薩
高遠石工として有名な守屋貞治の作品です。佉羅陀山地蔵大菩薩は文政年間とあります。

温泉寺鉄塔
「鉄塔」というものの石造りの多宝塔であり、元々は諏訪大社上社の御神体とし、拝殿の奥に安置され信仰の対象でした。鉄塔は弘法大師が建てましたが、腐朽したため源頼朝が再興したと言われています。その後、1631年(寛永8)高島藩主、諏訪忠恒が石造りにて復興しました。明治の神仏分離により、藩主の菩提寺である温泉寺へ移され、現在の堂に納められたのは1979年(昭和54)でした。この堂の中に納められていますが、扉が閉まっており見ることはできませんでした。
鉄塔からは一度、アスファルト舗装の道へ出て坂道を上っていきます。50mほど上り左手の墓地へ入っていくと
「和泉式部の墓」と言われる古い墓石があります。

和泉式部の墓
和泉式部は平安中期の歌人ですが、他にも墓と言われるところが多く残っています。
もとのアスファルト舗装の道へ戻り、急な坂道をさらに上っていくと正面の広い一角が
「諏訪家墓所」となります。
諏訪家墓所
墓所には2代藩主の忠恒から8代忠恕(タダミチ)までの藩主と妻や子の墓、家臣が奉納した灯籠が並んでいます。2代藩主忠恒の墓石は御霊屋に入っているため、見ることはできません。それ以降の藩主の方々の大きな墓石は御霊屋の左右に並んでいます。
諏訪家墓所
家臣が奉納した
灯籠は110基ほどあり、全て六角形のものです。かつて、この形は藩主諏訪家専用のものであったとされます。

諏訪家墓所をあとに、急坂を下っていきます。温泉寺の門前へでて西国三十三所観音像の手前で右へ曲がります。児玉石神社の裏を通り、次の角を左へ曲がっていくと児玉石神社の入口があります。
児玉石神社
創立年代は不詳ですが、1486年(文明18)以前の創立と伝えられています。1238年(嘉禎4)の「諏訪上社物忌令」の中には七石の一つとして
「小玉石」が記されています。境内には5個の大石があり、「諏訪の七石」の一つに数えられています。拝殿前にある大石が
「児玉石」で、
「いぼ石」とも呼ばれています。
「上諏訪宮神徳記抄」には「神が諏訪湖より大石を取り上げたが、神は濡らさなかった。中に2個の大石があり兒玉石大明神と称した」とあります。
「兒玉石大明神」(大石)は祭神の御霊代となっています。大石には多くの凹部があり、常に水をたたえて乾くことがなく、この水で「イボ」を洗うと必ず治癒すると伝えられています。
境内には3社の無格社が鎮座しています。
児玉石神社をあとに甲州街道方面へ向かいます。甲州街道を100m余り進んだ左手の路地へ入り、1つ目の路地を右へ入ると
「千貫溝」と呼ばれる泉があります。
千貫溝
1868年(慶応4)以前よりこの地に良質な清水が湧出しており、飲用水、生活用水として利用されていました。稲作にも重要な水路で、現在も地下を通り諏訪湖へ流れています。

千貫溝の地図
往時は水田地帯で収穫した米を運搬する手段として、諏訪湖独特の「泥船」に乗せる港でもありました。泥船は泥でできた船ではなく、丸木舟のように細長い簡易な船のことです。
甲州街道へ戻り、すぐ先右手の細い路地へ入ります。さらに右手の急な階段を上っていくと
白山社の小さな社があり、
「全快地蔵尊」も祀られています。
白山社
詳しいことは不詳ですが、1800年(文政年間)頃作成された「甲州道中分間延絵図」には
「白山権現之社」として記載があります。
全快地蔵尊
あまり広くはない境内ですが、多くの石仏が残されています。
甲州街道へ戻ります。250m進むと右手に
「先宮神社」があります。
先宮神社
創建は古事記の
「国ゆずり」の神話の一説となっています。先宮神社の祭神である高光姫命は、諏訪神社の祭神「建御名方命」が出雲より州羽(諏訪)の地に遷御された以前より既に産土神でした。しかし「建御名方命」が諏訪神社に遷座した当時、国ゆずりの為、抵抗しましたが遂に服従し、現在の社地に鎮座することとなったとされます。

先宮神社
建御名方命がこの地から外へ出ることは許されず、現在でも境内の小川には橋を架けないと言われています。
先宮神社の別名として鷺宮社、鵲宮社、先新開社、真海社、新海宮などとも称されました。
天龍上人の幟旗
先宮神社の例大祭などに掲げる8mほどの幟旗があります。この幟旗の文字を書いたのが
天龍上人です。1800年(寛政12)、上人83歳の時に揮毫したもので、諏訪大社にも上人揮毫による幟旗が現存しています。
静かな旧道を500mほど進むと左手に大きなケヤキの木があり、その後ろ側に古い石仏が並んでいます。更にその先80mほどの右手路地へ入っていいくと
「寿量院」があります。
津島牛頭天王跡
「津島牛頭天王」と彫られた石碑には「彌五郎殿・居森殿 村中安全」と彫られています。「彌五郎・居森」というのは津島神社の摂社の名称のようです。
双体道祖神と「大六天」の石碑があります。「甲州道中分間延絵図」を見るとこの場所には「蔵王権現」が描かれています。
寿量院
「諏訪郡諸村並旧跡年代記」には、1582年(天正10)に建てたと記されています。古くは諏訪湖の水岸にあったため、洪水の際に現在地へ移したとされます。この時の旧地は諏訪湖底の先史時代の遺跡として有名な
曽根の地だという伝承もあります。
1876年(明治9)の書き上げには、1692年(元禄5)僧、大徳が開山創建したとありますが、寺を移して再興した年ではないかとされています。
寿量院の枝垂れ桜
1615年(元和元)大阪夏の陣に2代藩主、諏訪忠恒公出陣、戦勝記念に桜を持ち帰り移植したものがこの枝垂れ桜と伝えられています。温泉寺、貞松院にも植えられています。
寿量院から甲州街道へ戻らずに、さらに坂を少し上ると、
「鎌倉街道」が残っているということで、そちらを回っていってみました。
鎌倉街道
鎌倉街道は、旧甲州街道よりもさらに標高の高いところを通っていたようです。

鎌倉街道
途中から舗装がなくなり、草地の道となります。往時の鎌倉街道的でいいですね。

だいぶ上ってきました。寿量院の先の角を曲がって鎌倉街道へ入ってから350mほどの場所に案内板があり、休憩施設もあります。諏訪湖がよく見えて気持ちいい場所です。このあたりに鎌倉時代、「御社宮司社」があったとされます。

御社宮司社跡
諏訪大社の前住の神といわれている洩矢(モレヤ)神と繋がりがあり、原始農耕土地神の説があります。いずれにしても大和は古い村であったことを示しています。「甲州道中分間延絵図」には「社宮神」と記されていますが、1908年(明治41)大和地区の無各社の御社宮司社・熊野神社など5社が先宮神社へ合祀しました。

この小さな沢を上っていくと「大和城跡」に行けるようですが、草が茂っていて行けそうもないですね、冬に行くのがいいと思います。
「鎌倉街道」と彫られている石碑もあります。
大和城跡(高木城跡)
海抜942m、築城は明らかではないですが、1469~1555年の86年間、諏訪大社下社の大祝の金刺氏の一族である
大和監物氏(高木氏)の居城であったと伝えられています。諏訪下社の神役人中に高木刑部左衛門尉、高木嘉兵衛の名が見られます。大和城がいつ、なぜ廃城となったのかは明らかではありません。地元の方はこの山を「城山(じょうやま)」と呼んでいます。
下る道
大和城跡には寄らずに、沢に沿って下っていくとすぐにアスファルト舗装の道へでます。さらにアスファルト舗装の道を進み、最初の四つ辻で甲州街道へ戻ります。右へ曲がり、甲州街道を450mほど進むと左手に素敵な外灯が印象的な建物があります。
橋本政屋(中の茶屋)
明治初期の建築とされる建物で、江戸時代は茶屋でした。明治初期までは料理屋であり、現在はドーナツ屋さんのようですが、ユースホステルだった頃もあるそうです。
橋本政屋の下へ回ると
「殿様おひねりの松」があります。

殿様おひねりの松
この赤松は、諏訪藩主が高島城で長い間愛育され、時折「橋本政屋」を訪れ、この風景を大変気に入られた殿様が石灯籠とともに贈られたものとされます。
温泉?!
さらに40mほど下り、左の細道へ入っていくと路上に水が出ていてちょっと触ると「あっつ!!」温泉でした。諏訪はやっぱりいいなぁ~家に温泉引きたい!
すぐ先が
「杉の木神社」です。
杉の木神社
諏訪明神が
大蛇あるいは
竜の姿をしていることは、「諏訪大明神画詞」に記載があり、口碑などでも伝えられています。伝説に諏訪明神が大蛇となって訪れた時に、この木に尾をかけ「尾はどこにあるのか」と聞かれ、「尾は(わ)高木の尾掛松」と答えたことから大和(おおわ)と高木の地名が起こったとされます。
現在、松は枯れています。尾掛松も
諏訪社の七木信仰とかかわり、一種の勧請木として意識され、ここに諏訪明神が寄ったものと考えられてきたと思われます。
「甲州道中分間延絵図」には
「尾掛松明神」として記されています。

双体道祖神
甲州街道へ戻り、170mほど進むと左手に双体道祖神がありました。道祖神にも小さな御柱が建てられています。
すぐ先を右手の路地へ入っていきます。左手に歌人・島木赤彦の家であった
「柿蔭山房」があり、さらに上っていくと
「高木津島神社」があります。

柿蔭山房(しいんさんぼう)
アララギ派歌人であった島木赤彦(本名 久保田俊彦)の住居跡です。
久保田家は高島藩に仕えた散居武士でした。「散居武士」とは平時は農業に従事し、戦時や非常時には兵として出動する武士です。家伝によれば1653年(承応2)高木に移り住み、農業をしながら藩に仕えました。
赤彦は明治から大正にかけ教員をし、1914年(大正3)に上京し、短歌誌「アララギ」の編集に携わるとともに、歌人として後進の指導にあたり、この家が活動の本拠でした。1926年(大正15)この家で亡くなりました。
この柿蔭山房で多くの優れた歌を残しました。「柿蔭山房」の名前の由来は、古くからこの地には柿の木が多く、歌を発表するとき、赤彦自ら「柿の村人」と号したことからといわれています。
柿蔭山房の庭には久保田不二子の歌碑、島木赤彦の歌碑があります。

久保田不二子歌碑
『天つ日は時雨の雲のあひだより ひかりわかれて湖をてらせり』
島木赤彦の最初の妻は出産後の体調不良により26歳の若さで亡くなっています。その妹が久保田不二子で、姉の産んだ子供の面倒を見るために赤彦の後妻となりました。

島木赤彦歌碑
『湖の氷はとけてなほさむし 三日月の影波にうつろふ』
高木津島神社
創建は不明ですが、2007年(平成19)の社殿改修時の棟札に1752年(宝暦2)の年号が見られたこと、諏訪地方にある多くの津島社が江戸時代初期、疫病流行時に創建されていることから江戸時代初期の創建と考えられています。
高木津島神社入口左手に
「岩本木外句碑」があり、本殿右手奥に
斎藤茂吉と
伊藤左千夫の歌碑があります。

岩本木外句碑
本名は岩本永正。1872年(明治5)諏訪の高木に生まれ、1897年(明治30)正岡子規に師事し、ホトトギス派の俳人となりました。諏訪の俳句革新をめざして二葉会をつくったり、島木赤彦らと「氷むろ」を創刊したりしましたが、1910年(明治43)39歳の若さで亡くなっています。

斎藤茂吉歌碑
『諏訪のうみに遠白く立つ流波つばらつばらに見んと思へど』
斎藤茂吉は、歌人であり、医者でした。伊藤左千夫門下として大正から昭和前期にかけて活躍したアララギの中心人物でした。

伊藤左千夫歌碑
『夕日さし虹も立ちぬと舟出せばまた時雨くる諏訪の湖』
伊藤左千夫は、明治から大正時代にかけて活躍した歌人であり小説家です。歌人としては正岡子規の門下として近代短歌に大きな影響を与え、「馬酔木」や「アララギ」を創刊・主宰しました。小説家としては映画にもなっている『野菊の墓』などの小説を著しています。
高木津島神社入口左側にも島木赤彦の歌碑があります。

島木赤彦歌碑
『高槻の木末にありて頬白の さへつる春となりにけるかも』
1954年(昭和29)石投場に建立されましたが、1981年(昭和56)現在地へ移設されました。

島木赤彦墓所への道
高木津島神社をあとに、島木赤彦の墓地まで行ってみることにします。高木津島神社の西側の道を更に奥へ上っていきます。途中から未舗装の道となっていますが、くねくねと道なりに進んでいきます。250mほどで墓地へと至ります。

島木赤彦墓所
1926年(大正15)、胃癌のため柿蔭山房で亡くなったとのことです。享年51歳と早逝でした。隣りにあるのは不二子の墓です。
津島公園で一休みし、少し西へ向かうと
「殿村遺跡」、さらに坂を下ると甲州街道へ戻ります。

殿村遺跡
1948年(昭和23)の発掘調査により縄文中期の住居跡2箇所が発見されました。後に1箇所が発見され、隣接の諏訪養護学校の工事の際には先住民遺物が多数出土しました。1972年(昭和47)の発掘調査では、竪穴式住居跡から魚網のオモリが多数発見されました。
1987・1988年(昭和62・63)には北側地域が造成されることとなったため、大規模な発掘調査が行われ、集石墓群、カワラケ、陶磁器などが多数出土しました。
甲州街道を400mほど進み、カーブの途中、右手の石積み擁壁の上に
「南信八名所石投場」と彫られた供養塔と
「明治天皇駐輦跡碑」があります。ここは
「石投場」と呼ばれていました。

南信八名所石投場碑・明治天皇駐輦跡碑
昔は石を投げれば諏訪湖に届くような所だったことから名づけられたとされます。
1880年(明治13)明治天皇の巡幸の折には、ここから漁夫たちの投網の様子をご覧になったといいます。
左手に住宅がない場所からは諏訪湖が一望できます。600mほど進むと
富部一里塚跡があります。
諏訪湖
諏訪湖
諏訪盆地の西北の隅にある湖、標高759m・面積13.3km2・周囲16.3km、最大水深6.8m、長野県内では最大の湖です。流入する川は上川・宮川・砥川など39河川あり、逆に水源として流れ出しているのは
天竜川のみです。
絵図には
「鵞(ガ)湖」と記されていますが、他に洲輪之海、須波海、諏方ノ海等の書き方もあります。内陸の信濃にとって、諏訪湖の漁業は古くから重要であり、鎌倉時代の終わり頃からの史料に記載が見られます。
1590年(天正18)に入部した日根野高吉は漁村を固定し、入魚の年貢を定め、湖辺10ケ村が明海漁業の年貢を負担することになりました。1642年(寛永19)2代、高島藩主忠恒により諏訪湖の検知がなされ、畝歩を設けて石盛を定め下田扱いとした津高をかけ、年貢を米で納めることになりました。5ケ村4浜の漁業特権が認められその特権は幕末まで続きました。

富部一里塚跡
両塚ありましたが、全て取り壊され、石碑が建立されています。「宿村大概帳」によると木立は榎と記されています。
200mほど進むと右手に
「若宮神社」と彫られた石碑があります。こから参道で300mほど上ると若宮神社がありますが、寄り道はしません。若宮神社のあたりは鎌倉街道です。

若宮神社入口
「甲州道中分間延絵図」には「若宮明神」と記され、鎌倉街道から石段を登った場所にあります。創建は不詳ですが、924年(延長2)の「和名類聚抄」に諏訪七郷の一つに「土武(とむ)」があり、若宮神社はその内の旧富部村の産土神とされ、「若宮さま」と親しまれていました。2016年(平成28)に社殿が再建されました。
さらに240mほど進むと小さな
「承知川橋」があります。現在の承知川は巾3mほどの小さな川です。さらに70mほど進むと、右手の石積のなかに承知川橋の石がはめ込まれています。また石積前に
「承知地蔵尊」があります。
承知川橋石・承知地蔵尊
この一枚石は長く甲州街道の承知川に架かっていた橋石です。伝説によると1561年(永禄4)武田信玄が川中島の戦いにおいて諏訪明神と千手観音に戦勝祈願として社殿の建て替えと千手堂に三重塔の建立を約束して出陣したといいます。戦いは不利となり、帰路この橋を通過したところ、馬が動かなくなりました。信玄はふと約束を思い出し、馬上より下りて「神のお告げ承知仕り候」と申し上げ、帰国したといいます。
以来、「承知川」と呼ばれるようになったと伝えられています。
「甲州道中分間延絵図」では「小知川」となっています。一枚岩のレンガ模様は防滑とも、信玄埋蔵金の隠し図とも言われてきました。1977年(昭和52)新橋架替えのためこのようにして保存されました。
承知地蔵尊
お花で案内板の下の方が見えなくなっているので、よくわかりませんが、明治の頃、掘り出されて辻角に祠を建て祀っていましたが、道路拡幅工事により現在のようになった・・というようなことが書かれています。
承知地蔵尊のすぐ先四つ辻を左へ曲がり、土田墓地へ入っていきます。その入口付近の右手に石仏がたくさん並んでいますが、一番手前に
「黒田可久翁頌徳碑」、奥の方に
「春芳軒弥勒菩薩」があります。さらに奥へ入っていくと渋川家の墓地内に
「天龍道人の墓」があります。

黒田可久翁頌徳碑
黒田可久(黒田清兵衛)は、江戸時代に高島藩で、綿織物の一種である「諏訪綾織」の創始者・普及に貢献した人物です。 当時下級武士の副業として行われていた小倉織の技術を改良し、高品質な綾織物を開発しました。この織物は「諏訪綾織」として知られ、高島藩の重要な産業として奨励されたとのことです。

春芳軒弥勒菩薩
春芳は武田勝頼の命を受けて、下社神宮寺の千手堂を再建しました。願掛けのためこの像を造り堂前に奉納しましたが、1868年(明治元)神宮寺破却の際に現在地へ移されました。
春芳は武田氏の経済を支えた資産家で、この像が俗人風なのは彼が密かに自らの姿に比したものと考えられています。
1575年(天正3)の銘があります。銘文の確かな石像としては諏訪で最も古いとされます。

天龍道人の墓
天龍道人は1810年(文化7)93歳で没しました。この碑は上人が生前に自書して建てた寿碑で、側面の詩句はその志を述べたものです。諏訪に移り住んだ文化人として最も影響力の大きかった名士です。
甲州街道へ戻り、反対側の路地へ入っていくと石仏が一角にまとめられています。

石仏群
秋葉大権現、道祖神、蠶(蚕)玉神、得大勢至菩薩、馬頭観音などが祀られています。そしてそれを取り囲むよう御柱が建っています。
細い道を道なりに進むと、諏訪大社下社秋宮の社務所南側へでました。右へ曲がっていくと
神宮寺跡にある
「いいなり地蔵」へ至ります。いいなり地蔵の坂の下に
は「明治天皇下諏訪御前水(徳孝泉)」があります。
いいなり地蔵
誰の願いも言うなりに叶えてくれるといいます。元禄年間(1680〜1709)諏訪神社の神宮寺の境内に安置され、お参りする人が絶えなかったとされます。
この付近は元々
「神宮寺」がありましたが、1868年(明治元)の神仏分離令により神宮寺が廃され、言成地蔵は萩倉の薬師堂へ安置されましたが、毎日少しずつ前にあった場所へ移動するので、元の位置へ戻されたということです。
神宮寺
下社の別当地、本尊は千手観音で、下社秋宮の本地仏とされました。開山は
弘法大師空海とされますが、年代については不明です。鎌倉時代には栄えており、室町時代に統括していた院坊が30余りあったという大寺院だったとようです。
戦国時代になると
大祝金刺家の没落とともに一時荒廃しましたが、武田氏の統治下で再び興隆しました。信玄は1564年(永禄7)以来、千手堂を再興するため寄進し、1574年(天正2)勝頼のもとで千手堂は完成し、直ちに三重塔が起工されました。千手堂は1864年(元治元)焼失しました。
明治に入ると神仏分離令のため廃寺となり、三重塔などの建物も全て破却されました。
明治天皇下諏訪御前水(徳孝泉)
1880年(明治13) 北陸・東海道方面を約2ヶ月掛けて巡幸した際、旧本陣岩波家にて休憩された時に献上された御前水です。
諏訪大社下社秋宮の社務所南側まで戻ります。諏訪大社の駐車場に
「霞ヶ城(手塚城)」の案内板、
「金刺盛澄像」があります。
霞ヶ城(手塚城)跡
金刺光盛の居城跡です。城主、光盛は木曽義仲に従い、1183年(寿永2)義仲の火牛の奇襲戦法で有名な
倶利伽羅峠の合戦に源氏方で参戦し、続く加賀篠原の戦いでは、敗走する平家群の中にあってただ一騎踏みとどまって奮戦する武将、斎藤別当実盛と一騎打ちに及びました。古式に則った一騎打ちは能「実盛」の題材となって今に伝えられています。激闘の末、光盛が首を打ち取りますが、そのひとこそ幼少の義仲(駒王丸)の命の恩人、
斎藤実盛であり、義仲が号泣する戦乱の世の悲劇としても知られています。

金刺盛澄像
生没年不詳ですが、鎌倉時代の諏訪下社大祝(神官)でした。義仲の討伐後、源頼朝によって捕縛され、梶原景時に預けられました。
頼朝は処刑を命じましたが、盛澄が藤原秀郷流弓術を継承する名手であったことから、景時は頼朝を説得し、鶴岡八幡宮での流鏑馬で技量を見ることになりました。この時頼朝はわざと暴れ馬を与えた上、的のみならず、的を立てかけた串を射抜くよう難題を押し付けましたが、盛澄は見事に全て射抜いたため赦免されました。一族郎党達も許され、御家人に列しました。
隣接の
諏訪大社 下社秋宮へ入っていきます。いよいよ甲州街道も最終盤です。ここまで安全に旅をしてきたお礼をしていきます。
諏訪大社 下社秋宮
下社は上社とともに信濃国一宮です。下社は秋宮と春宮に分かれており、北西1kmほどの場所にあり、
「万治の石仏」で有名で、中山道を歩いた時に寄りましたね。
全国各地にある諏訪大神を祀る神社の総本社であり、最も古い神社の一つです。諏訪大社の創建は不詳ですが、古事記国譲りに反対した建御名方神が出雲から諏訪へ移ったとされ、新たに信濃国を築き治められた神さまです。
拝弊殿は、1781年(安永10)に立川流初代の
和四郎富棟により造営されたものです。
神楽殿の工匠は立川流2代の
和四郎富昌で、1835年(天保6)に上棟式を行っています。
「木曽名所図会」下諏訪秋宮
諏訪大社 下社秋宮から甲州街道へ出ると向かいには
「専女社」があります。
専女(とうめ)社と専女の欅
「甲州道中分間延絵図」には
「白狐之祠」となっています。
「専女」は狐を指すそうです。いつからか名前が変わってしまったようです。
「専女の欅」は古くから諏訪社外苑の専女社内にあり、秋宮社叢の一部で町内有数の古木です。遠く下筋からも見えて、芽吹きや紅葉で気候を占う陽気木として知られています。
中山道合流地点方面へ進むと
千尋池を境に二股となっていますが、どちらの道も往時からありました。下諏訪宿本陣を目指して、右手側の道を進みます。

千尋池
神社の御手洗川の清流が入り込む池で、池の底は遠く遠州浜松の近くの海に続くと言われ、そこから千尋の名前がついたと言われます。「甲州道中分間延絵図」には全く描かれていません。
下諏訪宿 番屋跡碑
ここに番屋があったようですが、「甲州道中分間延絵図」には記載がなく、いつ頃あったのかもわかりません。
番屋跡碑から25mほど進むと右手に
「鎌倉街道」と記されています。さらに20mほど進むと右手に
「新鶴本店」、そのすぐ先に
「天龍上人住居跡」。そしてその先30mで中山道と合流します。

新鶴本店
新鶴本店では、店の外までお客さんがいます。
ここで「もちまんじゅう」を購入する予定でしたが、なんと売り切れ!!塩羊羹のみ購入しました。

天龍道人住居跡
天龍道人は1718年(享保3)肥前鹿児島藩の家老の子として生まれ、育てられましたが、一家が改易となり浪人となります。
仏門に入り、僧侶として活動しますが、勤王の志士と交わり、王政復古、倒幕運動に加わります。
41歳の時、王政復古を画策しますが失敗に終わり、仲間の多くが死罪などに処せられました。
50歳頃に諏訪を訪れたようです。諏訪での生活は平穏で、絵を描き、詩を作り過ごしました。高島藩からも厚遇され、高遠や伊那まで足を伸ばして作画していたとされます。
諏訪家で
御家騒動が起こり、これを鎮めたことから藩の勧めにより諏訪に一家を興し、渋川貫之と称して
諏訪の渋川家始祖となり、1810年(文化7)93歳で亡くなりました。
甲州道中中山道合流之地
甲州街道のゴールです。中山道で通過した時は、この後ろの
旧本陣の「かめや」さんに宿泊しました。あれから約6年ぶりに同じ地に立ちました!
下諏訪宿は、1665年(寛文5)の記録では、家数82軒、問屋2軒、庄屋2軒があったそうです。
「木曽名所図会」諏訪温泉
「諏訪駅中に三所あり。旅人及び駅中の人みな平生入浴す。本陣の際にある八中を隔て、高貴あるひは男女を別つ。往来の雑人は上に覆ひなし。衣類の洗ひ物等此流にてする也」と記されています。この絵は木ノ下町、立町附近を描いたもので、中央が問屋場、左上が下問屋、左下が丸屋。右上が上問屋(本陣)です。
ここから下諏訪駅まで760mほど歩いて駅近くのコインパーキングまで戻ります。

下諏訪町道路元標
15:40 コインパーキングに到着。一路帰宅します。
武蔵、甲斐、信濃と歩んできた甲州街道の旅路は、本日で終了しました。様々な歴史にふれ、たくさんの思い出ができました。山梨県では富士山がたくさん見られるかと思っていましたが、あまり見られなかったですね。天気次第なのでしょうか。
小仏峠や犬目、笹子峠は旧道らしさがあり楽しかったですね。有名な観光地「猿橋」、そして武田信玄の本拠地「甲府」、最後は雄大な諏訪湖がある諏訪、どこにでも歴史や自然、人々の暮らしがありました。次の街道へ進みたいと思います。今度はどこへ旅をしようかな・・