2019年8月9日
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お盆ということもあり、宿が取りにくかったため今回は車でやってきました。
『道の駅みまき』に車中泊しながら北国街道を上田へ向かって進みたいと思います。車内は以前から車中泊できるよう、リアシートをベッド状に改造してあります。大いに役立つときがやってきました。前日の仕事終了後に車で出発し、「道の駅みまき」に到着したのは23時頃でした。早々に眠りにつき、朝は4時に起床し、支度を整え小諸駅へ向かいます。小諸駅では駅前の駐車場へ駐車しました。ここは24時間まで500円と格安です。
小諸駅
しなの鉄道の軽井沢行き、5:46の始発で信濃追分駅へ向かいます。
信濃追分駅
6:01 信濃追分駅着。15分で到着です。電車で15分しかかからない場所を今日、1日掛けて歩きます。
追分宿は、中山道で歩いていますので、北国街道へ入る分去れを北国街道の起点としてスタートします。信濃追分駅より直接、分去れへ向かいます。
野生のキジ
途中、畑の中に野生のキジを見かけ、びっくりしました。望遠で撮影しましたので少し画質が悪いですが、なかなかよく撮れたと思います。野生のキジなんているのですね。
今日は天気予報では、晴れでしたがまだどんよりしていますし、霧が立ち込めています。本来はのどかな高原の畑という景色が広がっているのでしょう。
荻原養蜂園
「蜂ひげおじさん」が運営する養蜂園です。体中に蜂をまとい、蜂が髭のように見えるということから「蜂ひげおじさん」と言われ、テレビなどでも取り上げられています。
吉野太夫の墓
追分宿布袋屋の遊女、吉野太夫が勤皇の若い武士のために幕府側の情報を流して斬首されたと言われています。墓碑には「春貞善定尼 享保廿卯天三月十八日没」と彫られています。吉野太夫は元々、京都の太夫に代々伝わる名跡であり、初代から数えて10代目まであったと伝えられています。2代目以外は詳細がほとんどわかっていないらしいので、このお墓が何代目の吉野太夫なのか・・それとも別人なのか・・謎ですね。ただ、遊女が多かった追分宿ですから、遊女のお墓だということは確かでしょう。周りのたくさんの小さなお墓も遊女のものかもしれません。
旧下諏訪神社参道
吉野太夫の墓から追分宿へ向かって進み、吉野坂の途中の左手の未舗装の道は、下諏訪神社の参道だったそうです。
分去れ(わかされ)
左は中山道、右は北国街道へ至る追分です。北国街道は、善光寺を経て越後の高田まで続く街道です。道標には、「従是中仙道 従是北國海道」と刻まれており、京都白川橋の延宝6年の次に古い、1679年(延宝7)建立です。森羅亭万象の歌碑は、「世の中は ありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに 心とめぬれば」の唄が彫られ、安永年間に建立。森羅亭万象(桂川甫祭)は、多くの句歌を残し、平賀源内に師事しました。常夜灯は、1789年(寛政元)の建立。
ここから右の
『北国街道』へ入っていきます。前回追分を歩いたときは雨でしたが、今日もお天気が悪いです。赤報隊史跡、御影陣屋の刑場跡などは、『中山道』で見ましたので、通過して進んで行きます。
追分原
天仁の噴火後、火砕流の影響でススキが茂る原野が広がっていたということですが、現在はあまりススキの原っぱは見られません。
馬瀬口の一里塚
北国街道より400mほど外れた場所にひっそりと残っています。塩野村へと向かう塩野道のものと考えられています。
道祖神と石仏群
北国街道らしい家並みになってきました。やっと青空が見えてきました。
濁川(にごりがわ)
浅間山の南にそびえる石尊山の東側(標高1,500m)より流れ出ています。端集塊岩の奥からわき出る源泉は硫化水素の強いにおいを放ち、渋味があるそうです。水の色は、わき出た直後は澄んでいますが、硫化鉄や遊離炭酸を多く含んでいることから、数十メートル流下するうちに褐色に濁ります。
湧玉用水
1620年に建造され、水源はここより1kmほど北の御代田町塩野の大浅間ゴルフクラブ下方とする用水で、現在も田畑の作物作りに利用しているといいます。水源地には「湧玉用水水源地の碑」が建てられています。ここには小さな番小屋も建てられています。
子育弘法大師
古い土蔵の脇に「子育弘法大師」と彫られた大師像がありました。1947年(昭和22)の建立です。
馬瀬口、高山家
1878年(明治11)、明治天皇が東海・北陸の巡幸の折に高山家で休憩されました。当時の建物や庭がよく保存されています。提供された御前水の清水跡も北側斜面に当時のまま残されています。
馬瀬口村駐輦碑文
明治32年6月、公爵二条基弘題額により建立されました。明治天皇とともに随行者17名の名が刻まれており、岩倉具視や大隈重信などの名も見られます。
柵口(ませぐち)神社
塩野牧の入口の馬塞(ませ・馬の放牧地の境の垣)に柵を設けていたことから名付けられたようです。
信濃の国の牧
皇室が朝廷用の馬を供給する目的で設けた牧場を
「勅旨牧(御牧)」と読んでいました。平安時代、東国に設置された御牧三十二のうち、信濃に設けられた牧は16牧で、山鹿牧、塩原牧、岡谷牧、宮処牧、殖原牧、大野牧、平井手牧、笠原牧、高井牧、新治牧、大室牧、猪鹿牧、萩倉牧、塩野牧、中倉牧、望月牧でした。
塩野牧は、この御代田町にあり、東は濁川で長倉牧と接し、西は蛇堀川を境として小諸に接しており、年間80頭を朝廷に収めていました。現在は
馬瀬口、牧留、乗瀬、駒形神社など地名として残っています。
馬頭観音堂と繭を抱えた像
御牧だったことから馬の像があるのでしょう。1909年(明治42)に建立された繭を抱えた石像は、この辺でも養蚕との兼業農家が盛んだったことが偲ばれます。
長泉寺
1615〜1624年(元和年間)の創建と言われています。堂は1639年(寛永16)に火災で焼失し、1754年(宝暦4)、僧奠津が再建したものが現存しています。
古越石泉筆塚
漢文のため理解しにくいのですが、「信濃隠士」とあります。俗世を捨て静かに暮らし、書画や和歌、俳句をたしなみ、門弟も80名ほどいらしたようです。筆塚は、1902年(明治35)に建立されました。
十石坂
田切地形の崖を下っていく十石坂がありましたが、現在は草がボーボーで道が見当たりません。田切の下のほうには道が見えますので、草がない冬場であれば、下りる道が見つかるかもしれません。再び国道へ上がる道はアスファルトが敷設された道がありました。
田切地形
浅間山の噴火物が堆積した浅間山西側は、川によって両側が侵食され、垂直に削られた侵食谷が形成されています。これを「田切」と呼ばれていますが、谷底の平坦な部分は田んぼとして利用されていることが多いです。
平原一里塚跡
塚はなくなりましたが、道祖神が佇んでいます。
金山宮と馬頭観音
長龍寺
松代藩参勤交代の際、昼食などの休憩所となっていたそうです。屋根には真田家が家紋や旗印にした
六文銭が見られます。
十念寺跡
相模国藤沢清浄光寺の末寺、一遍上人が里に立ち寄り里人に念仏踊りを教えたとされます。その道場跡に1313年(正和2)僧大文が寺院を創建したのが十念寺です。十念寺に保存されている二十五菩薩来迎会は、奈良の当麻寺と全国に2つだけ残された貴重な踊念仏です。土蔵に菩薩面と衣装が保存されています。来迎会に使われる仏面は古いものは室町時代のものがあり、演技の所作も平原独特のものがあるそうです。
平原の松
黒松の立派な「門かぶりの松」です。ここまでするには手入れが大変だったと思います。参勤交代で通りかかった加賀の殿様も絶賛したといいます。
平原は北国街道が整備された時に周辺より散在していた集落が村寄せされました。平原は
間の宿として立場茶屋や旅籠もあり、牛宿・馬宿もあったとされます。名主・小林家には多くの資料が残っているそうです。
御影用水史料館と御影陣屋跡・御影新田記念碑
御影用水により、原野が美田となると、幕府は小諸藩よりこの地をとりあげて、1699年(元禄12)、幕府の
直轄地(天領)としてしまいます。ここは支配した陣屋の置かれた場所です。当初は臨時的なものとして置かれましたが、後に佐久郡の各地に陣屋が置かれますが、1749年(寛延2)整理されて、再び御影新田におかれ、明治維新まで幕府支配の拠点として存続しました。また、御影新田記念碑は御影神社に建立されましたが、平成12年に御影陣屋跡地に移されています。
林先生記恩碑
林観了(かんりょう)・林道記(どうぎ)の記恩碑のようです。観了は1844年(弘化元)頃、平原で寺子屋の師匠となります。道記は観了の子で、弘化元年生まれ、通称を秀山、号を尚風、あるいは千麿百錬舎(ちたえのや)といい、幼少より父から漢学を学び、当時の諸大名家へついて、詩・書・俳歌等を修め、1875年(明治8)平原成勤学校の教師となりました。村内子弟を20年教え、長倉・発地の学校を経て1904年(明治37)退職した後にも自宅にて「平原義塾」を開き、10年余り子弟を教育指導しました。
髭題目碑と田切
髭題目碑を過ぎ、国道18号へでて、左手北川沿いにも「田切」が顕著に見られました。
観音不動堂と芭蕉句碑
達筆すぎてなかなか読めないのですが、「ゆるもの」だけが判読可能でそこから検索した結果、「此あたり目に見ゆるもの皆涼し」のようです。観音不動堂では、庭木の剪定をされておられる方がいらっしゃいました。
柏木小右衛門生誕地
武田信玄に仕え、柏木村の郷士の家に生まれますが、士官をやめて帰農します。1649年(慶長2)小諸藩主青山候に願い出て、御影新田の開発と用水の開削を計画し水を浅間山麓の千ケ滝と湯川に定め、1652年(承応元)に千ケ滝を翌年、湯川用水を全通させ近隣村々にも分水させることに成功しました。小右衛門の妻は水漏れ箇所に綿を埋める工夫をし、現在も「綿うずみ」という地名が残っています。
四ツ谷の交差点を斜めに入り、坂を下っていきます。四ツ谷は立場茶屋や馬宿・牛宿などがあり、間の宿的な役割があったようです。
甲州道道標
ここが乙女の分岐点となります。この近くには乙女茶屋があったとされます。甲州道道標の正面には「南無阿弥陀佛」と彫られ、左には「江戸街道」、右に「甲州道」と刻まれています。この道標より南下すると中山道岩村田宿でふれた佐久甲州道へ至る脇往還でした。岩村田からは香坂峠、志賀越を経て女街道と合流し下仁田へ通じていました。(日陰街道)
後ろの斜面にはたくさんの石仏があったようですが、樹木に覆われ今は全く見えません。
加増稲荷神社
現在の内陣社殿は小諸城内にあったものを移したものと言われています。創建年代は不詳ですが、仙石氏が小諸城主の頃の建立と言われています。小諸城主牧野遠江守康哉存命中、厚く信仰されたため明治4年、康哉の子、康民により「兜全鍬形龍神前立」が、また「大神酒徳利」は牧野氏が幕府より拝領したものをここへ納めたとの記録が残っています。
小室(諸)節発祥の地碑
小諸馬子唄とも言われる小諸節は、小諸市周辺を発祥とする民謡です。碓氷峠を往来する馬子によって唄われた馬子唄が、中山道追分宿の飯盛り女によって、伴奏や囃子の入った「追分節」に発展し、北国街道を経由して広まっていきました。また小諸馬子唄(小室節)は江戸での流行歌ともなりました。
♪小諸出て見りゃ 浅間の山に 今朝も三筋の 煙立つ♪
明治天皇御駐輦址・観音像
戦没者及び満州開拓犠牲者を祀ったものだそうです。
唐松一里塚
昔はこのあたり1kmに渡り松並木があったとされます。仙石氏の頃、街道の整備に合わせて植えたとされ、街道東側も唐松林となっていましたが、1899年(明治32)売却されて、丹波島の架橋に使用されたそうです。道路拡幅で下のほうが少し削られてしまったようですが、両側残っています。そしてこの一里塚の間が北国街道かと思えばもう一つ左手の細い道が北国街道だということです。元々はこの塚の間が北国街道でしたが、江戸中期に街道筋が変わりました。
石経塔
「石経供養塔」と彫られています。「一字一石経」のことだと思われます。石経とは、法華経などの経文を平たい1つの小石に1文字ずつ書き、大きな穴を掘り、その中に埋めるもので写経の一種ですが、紙に書き写すよりも数倍の時間がかかります。ある調査では1つの石経塔下に6万個ほどの石経が入っていたそうです。
真楽寺道標・馬頭観音・お地蔵様
真楽寺道標は、北国街道より分岐する塩野道への道標とされています。
お城のような建物は、現在空家のようです。もったいないですね。
北国街道与良館
江戸時代は漆器屋で第二次大戦後は家具問屋、松屋が営業していました。戦時中、与良町へ疎開していた高浜虚子は松屋へ度々訪れてコタツの上で使うお盆や娘のための弁当箱を買い求めたそうです。「松屋は客に対してとてもいい感じの店である」と書いています。2006年に小諸市の施設として昔の建物の姿に修復され、交流やまちづくりの拠点となっています。
土蔵と祇園石
1596年〜1614年(慶長年間)の頃、「左衛門」という百姓が小諸に祇園様のないことを悲しみ、尾張国津島から祇園様を持ち帰りこの石へ祀り、村人達の祭り事や家内安全の祈願がなされたと伝えられています。
小諸城銭蔵
1726年(享保11)、牧野康周時代の建築です。1872年(明治5)他の建物とともに入札払い下げとなり、民間所有としてこの地へ移築されました。板張りの床下に141cm?95cm、深さ80cmの石室があります。車付きの一枚の平らな石が蓋で、これを滑らせて引き開けるように作られており、盗難や火災を防ぐためのものです。
高濱虚子記念館・旧居
昭和19年、激しさを増した戦火を避けて、ここ小諸に疎開しました。昭和22年10月までの4年間をここで暮らしました。記念館は、作品や資料を展示・保存する目的で平成12年に開館しました。
高濱虚子
女性の名前?とも思いますが、男性です。近代俳句の巨匠、高濱虚子は明治7年愛媛県松山市に生まれ、明治27年同郷の先輩、正岡子規を頼って上京しました。明治43年から没年までは神奈川県鎌倉に住んでいました。
名主小山家
江戸時代、与良町の庄屋を務めた家で、400年以上前に建てられた家ですが、当時のまま立派な玄関と庭に面した座敷があります。殿様がよく訪れていたということで、玄関には中からだけ相手が見える覗き戸やいざというときに殿様が身を隠す隠し扉や警備の人が隠れる部屋もあります。現在もお住まいで中を見ることは出来ません。
八幡神社
1608年(慶長13)仙石秀久が戦いの神として望月より勧請した神社です。境内には秀久の鎧も奉納されているそうです。
虚子句碑
『立科に 春の雲 今うごきをり』
八幡神社の土俵
戦いの神である八幡様に喜んでもらおうと、子供たちによる相撲大会
「八朔相撲」が江戸初期より今も続いています。
雷電為右衛門も子供の頃八朔相撲にやってきたと伝えられています。
呑龍(どんりゅう)上人旧跡(佛光寺)
上州新田荘(群馬県太田市)の大光院とその開山、生涯困窮者の子供の救済教育に尽くしたので「子育て呑龍様」として慕われていました。上人は親の病気を治すために当時、殺してはいけない鶴を殺し、その血を親に与えた孝子「源次兵衛」の一命を救うために地位を捨て、源次兵衛を伴い、寺を抜け出し密かにこの地へ隠棲しました。その草庵が佛光寺です。1621年(元和7)秀忠により許されて太田の大光院へ戻りました。
酢久商店
庵看板(いおりかんばん)が立派な酢久(すきゅう)商店。「山吹味噌」のブランドで全国的に有名な味噌屋で、建物奥に大きな工場があります。小山家は江戸中期より酢・味噌・醤油の醸造を始め、その後は関東をはじめ各地から仕入れた畳表、鰹節、茶、塩などを長野県内に卸す問屋業として成功しました。小諸藩の御用商人として藩にお金を貸し、武士に近い身分を与えられた旧家です。
海応院
1536年(天文5)、徳翁芳隆和尚の開創で、当時は小諸城内五軒町東端にあり、海翁庵と称しました。群馬の松井田補陀寺を本寺とします。1600年徳川秀忠は、関ケ原へ向かう道を真田昌幸によって阻まれていました。海応院の住職が間に入り和睦が成立したため、秀忠より「下馬札」などが与えられ、ここを通行する大名も馬から下りるようになりました。潜龍の松は、樹齢380年と伝えられています。
コモロスミレ
コモロスミレは、スミレの八重咲きの一品種で、1923年 (大正12)、海応院に下宿した小諸尋常小学校訓導の
中條正勝氏により海応院境内で発見されました。当初は、矢沢米三郎氏により「ヤエスミレ」とされていましたが、後に変化に富む八重咲きの特徴を持つスミレは他にないということがわかり、小諸で発見のスミレ、「コモロスミレ」と名付けられます。花は、春葉の間から花柄を出し、4月下旬〜5月上旬頃咲き、地上茎が無く束性する多年草、花の色は濃い紫色で八重咲きです。この八重咲きも花弁の数が二重から多重と変化が多く、葉は被針形で先はやや丸みをおび、縁は鋸歯状となり、葉元は、わずかに心形の切れ込みが、葉柄には翼があります。
光岳寺小諸城足柄門
光岳寺は1624年(寛永元)徳川家康の母「於大の方(伝通院)」を弔うために当時の城主、松平憲良により造営されたものです。足柄門は元々懐古園隣のキャッスルホテル前の道路のあたりにありました。往時は小諸藩の役人たちが城へ登る時に必ずくぐった門でした。
小諸町道路元標・旅籠つるや
北国街道が左に大きく曲がると問屋街だった「本町」です。江戸時代の建物が19軒、明治時代の建物が18軒、ほぼ原型に近い形で残っています。つるやは、1682年(天和2)、旅籠「つるや佐平治」として開業、現在も営業している老舗の宿です。島崎藤村、円山晩霞なども宿泊しています。
掛川家
江戸後期、脇本陣代として建てられた建物で、1806年頃のものとされます。入口の立派な玄関(向拝)が特徴です。現在は改装し、平成9年より土日にそば屋「そば七」として営業しています。
藤村の井戸・藤村旧栖地
明治32年、函館出身の冬子と東京で結婚し、小諸義塾に招かれ教師として赴任し士族屋敷跡のこの場所に平屋建ての居を構えました。井戸は、当時は釣瓶式の井戸で冬子夫人も水汲みに通ったそうです。1905年(明治38)藤村は、小説家として転身するため小諸を去り、上京しました。『信州の小諸で暮らした7年間のことを考えてみても、先ず自分の胸に浮かんでくるのは、あの小諸の住居の近くにあった井戸端です』と藤村自身も書いています。藤村が過ごした家は、現在は佐久市の貞祥寺の境内に移設されています。
ほんまち町屋館
本町で味噌・醤油の醸造業を営んでいた
「清水屋」を復元したものです。古い絵図などを参考に忠実に復元されたそうです。清水屋は1862年(文久3)、創業で、大正期の記録によると小諸で一番に味噌を醸造、出荷した店だということです。
ほんまち町屋館、みはらし庭より
小諸郵便局発祥地
明治5年、この地に小諸郵便取次所が開設されました。門と書状集箱が見られます。
小諸城 大手門
小諸城は、日本で唯一城が城下町より低い位置にある
「穴城」です。大手門は入口の城門ですが、ここから本丸に向かって迷路のような道と4つの門で敵の侵入を妨げています。また天然の地形を活かし、側面の田切地形と背後の千曲川に面した断崖で守りを固めています。戦国時代の
武田信玄軍師、山本勘助により縄張りがなされ、江戸初期に城主、
仙石秀久により城郭や門が整えられました。
仙石秀久
1552年(天文21)、美濃の豪族の4男として生まれますが、兄達が戦士したため家督を継ぎます。当時の美濃を治めていた斎藤氏に仕えていましたが信長に滅ぼされ、その後は
信長に仕え、信長家臣の
木下藤吉郎(秀吉)の配下に付けられます。当時、藤吉郎の家臣は農兵ばかりでしたので由緒ある家柄の秀久を家臣に持ち、大変喜び可愛がったといいます。秀久は
槍の使い手で数々の功名をあげ出世し、秀吉により
讃岐一国を与えられます。そして運命の九州征伐。秀吉は先鋒として秀久を九州へ上陸させ、本隊が到着するまで待つよう秀久に言い含めていましたが、戦火が激しくなってくると焦った秀久は攻撃に出てしまい
惨敗、自国の讃岐へ逃げてしまいます。これに激怒した秀吉は秀久を
改易、
讃岐を没収し
高野山蟄居となります。蟄居4年目の1590年(天正18)、いよいよ秀吉は北条氏を攻めるため、小田原討伐へでます。
徳川家康のとりなしでこれに参加できることになった秀久は3男と美濃で集めた家臣20名を連れて出陣します。
「無」の一文字を書いた
馬印(旗印)、白い房をつけた兜、さらに敵を引きつけるため鈴を陣羽織一面に縫い付けたド派手な衣装で、
「鈴鳴り武者」と呼ばれます。そして戦場では自ら槍を振るい
大活躍をします。秀吉も絶賛し、自らの金扇子を与え、小諸五万石を拝領し
小諸城主となったのです。仙石秀久の人生は劇的なものでした。伏見城中で大盗賊の
石川五エ門を捉えたのは仙石秀久だとする伝説もあります。
大手門からは、地下道を通りしなの鉄道を越え、懐古園へ向かいます。
小諸城 三の門
小諸城は慶長元和年間、時の城主仙石氏が築城しました。三の門、大手門も一連の中で創建されたものですが、1742年(寛保2)小諸城下を襲った大洪水(戌の満水)により、三の門は流出し、約20年後の明和年代に再建され、現在に至っています。題額は、徳川家達の筆によるものです。
石垣と二の丸跡
1871年(明治4)北国街道整備の際、ここにあった石垣は道路の端縁に用いられ、その後長い間火山灰の崖のままでしたが、1984年(昭和59)当時より大きな石を用いて復元されました。天然の田切地形に囲まれた二の丸は、1585年(天正13)、沼田城を巡る真田氏との戦いである第一次上田合戦、1600年(慶長5)関ケ原の前哨戦となる真田氏との戦いである第二次上田合戦の際、徳川の本陣となりました。
二の丸御殿には、主屋、矢倉、台所、
氷餅晒所(こおりもちさらし)などがあったようです。氷餅晒所とは、将軍家へ献上した「かきもち」を作った処です。なぜかきもちを作っていた場所がここなのか・・なぞですね。
小諸城石垣と桜は映画
「博士の愛した数式」ポスターとなっている博士(寺尾聰)と杏子(深津絵里)が桜の下を散歩するシーンのロケ地だそうです。
貞明皇后行啓記念碑(右手)、東宮行啓記念碑(左手)
『千久ま川 古城にそひていにしへを かたりがほなる 水の音かな』 入江為守は、明治から昭和初期の貴族議員であり、歌人でした。御歌所所長をかね、「明治天皇御集」などを編纂しました。1923年(大正12)の東宮行啓の記念として建立されました。
『夏の日の ながき日くれし 桑畑に桑きる音の まだたえぬかな』 貞明皇后は、大正天皇の皇后様です。1949年(昭和24)の行啓記念として建立されました。
牧水歌碑
番所跡の二の丸石垣に若山牧水の歌が刻まれています。1910年(明治43)、牧水が小諸滞在中の代表作で、歌碑は1934年(昭和9)の建立です。
『かたはらに 秋草の花語るらく ほろびしものは なつかしきかな』
懐古園稲荷神社
元禄15年、藩牧野公が越後の国与板藩から小諸に入封された際、共に与板藩より遷座されました。小諸城にはもうひとつ、戦国時代竹田氏由緒と言われる稲荷社が祀られていましたが、合祀されて現在へ至っています。
懐古神社
明治13年、廃藩後荒れ果てた小諸城跡を整備し、懐古園とするにあたり本丸東北に城の鎮守として祀られていた天満宮、火魂(荒神)社の二社を藩主牧野公歴代の霊とを合祀した懐古神社を創建しました。『懐古神社』と彫られた名石は、1806年(文化3)、
笠取峠へ置かれた
小諸藩の領界石として使用されていたものでした。明治維新後に裏に「懐古神社」と彫られ再利用されていました。裏には『従是東小諸領』と彫られています。
佐々木如水盛信筆塚
1803年(享和3)小諸藩御持筒役小竹半太夫の長男として生まれました。文武両道に秀で特に弓術、和歌の才能に優れ、門弟千人を数えたといいます。1863年(文久3)、幕末騒乱時江戸へ出て幕府の「新徴組」に参画し将軍警護の先鋒を承ります。明治を迎え門弟によって北国街道入口に筆塚が建てられましたが、平成7年に現在地へ移されました。題額は親交のあった山岡鉄舟、高橋泥舟の書が刻まれています。左手には勝海舟の筆による「懐古園の碑」が建っています。
徳川秀忠憩石
1600年(慶長5)、関ヶ原合戦出陣途次、徳川本隊は真田氏攻略のため、小諸城を本陣としました。その在陣中、秀忠公が腰を下ろした石と伝えられています。
牧野公遺徳碑
小諸藩主、牧野遠江守康哉は笠間藩主(茨城)、牧野貞幹の次男に生まれ、天保3年小諸藩九代藩主を養子相続しました。以来31年善政を行い、名君と讃えられました。種痘法の興業、治水開発の奨励、学問、洋式兵法の採用等、多くの実績を残し、また幕政に参与しては御奏者藩、若年寄を拝命して幕末の大局に手腕を示しました。文久3年、46歳で亡くなりました。
小諸義塾
アメリカ留学から帰国した木村熊二により1893年(明治26)私塾として開設されました。その後、一時小諸城大手門を教室として使用しましたが、1896年(明治29)現在地に2階建て校舎を新築、1901年(明治34)には4棟の校舎が並び立ちました。全国から鮫島普、渡辺寿、島崎藤村、三宅克己、丸山晩霞等優秀な教師を招きました。1904年(明治37)頃、日露戦争により社会の風潮が義塾の教育理念として受け入れることはできず、また財政難もあり、1906年(明治39)、13年の歴史を閉じます。校舎は市内の田村病院へ移築されていましたが、旧地の対面に移築復元されました。
15:00 本日の「街道歩き」はここまで。小諸駅横の駐車場へ戻り、車をピックアップし、本日の宿泊地
「道の駅みまき」へ戻ります。