2021年4月30日
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12:15 刈谷原宿をあとに会田宿へ向かって進んでいきます。
昭和公園の碑
揮毫は鳩山一郎となっています。総理大臣だったあの鳩山一郎でしょうか・・・それにしても「昭和公園」がどこにあるのか・・全くわかりませんでした。
横山不動尊
急斜面を少し登った場所に小さな覆屋があります。
1801年(享和元)の不動明王が祀られていました。覆屋に守られているためか、彫りがしっかり綺麗に残っていました。
筆塚
長野県はとても筆塚が多いです。明治時代の就学率は全国35%のところ、この筑摩郡は72%で、全国一位でした。
神明社
「長野縣町村誌」によると、元は6町(654m)ほど東のほうにあったようですが、祭典に不便なことから現在地へ移ったようです。
木曽義仲の兜石
洞光寺のホームページによると木曽義仲の初戦である会田・小見の合戦の際、義仲が兜を置いたという伝説があるそうですが、「長野縣町村誌」では新田義貞の?石(ぼうせき) となっています。「?」とは頭を保護する防具となっていますがら兜と同じ意味のようです。木曽義仲VS新田義貞・・・・どちらですかね?
洞光寺
武田晴信(信玄)が攻めて来た時に洞光寺も放火されたのですが、地元に伝わる雨乞いの鐘を打った所、雨雲がわきおこり大雨となって、薬師堂だけは焼けずに済んだといわれています。
犬石
洞光寺境内の昔の本堂の左横には犬石が祀られています。この犬石は山で狼が暴れて住民が困っている時にこの地を訪れた弘法大師が、狼の頭を触った所、石になったという伝説の石です。なぜ「狼石」ではないのでしょうか。
犬石横の切株は
「弘法大師袈裟掛けの松」と言われてたいたようで、天然記念物にもなっていたようですが、現在は伐採されています。いつ頃伐採されたのでしょうか。
太田弥助(太田長門守資忠)と中澤監物資盛の墓
手前が刈谷原城主・太田弥助、奥が豪族・中澤監物の墓のようです。「長野縣町村誌」によると太田弥助の墓は正面に梵字、右側に氏名、中澤監物の五輪塔は表に梵字と死日、右側に氏名と妻の名が記されているそうです。
太田弥助(太田長門守資忠)と中澤監物資盛
「信府統記」によると1552年(天文21)、川中島の戦いの際、刈谷原(鷹巣根城)城主・太田弥助は武田晴信に攻められます。武田軍は保福寺口より攻め入りましたが、城兵は矢(鉄砲とも)を備えており激しく抵抗しました。(鉄砲となっている資料もありますが、間違えのようです)
武田軍は
竹束を矢避けとして詰めより、太田氏は後援を
小笠原氏に乞いますが間に合わず、3日で刈谷原城は落城したとされます。「長野縣町村誌」によると太田弥助は
太田道灌の一族で、孫に当たるとあり、また中澤監物資盛は太田道灌の第三子とあります。
中澤監物は上州吾妻郡中澤城で過ごし、北条氏綱に従っていたようですが、氏綱の死後(天文10)以降に刈谷原城主・太田弥助のもとへやってきたようですが、その経緯はよくわかりません。武田氏が攻めてきた時は、深志の小笠原氏へ応援を頼みに行き、夜を徹して馬飼峠を越えて竹の鼻へ至ると土寇(敵兵)が既におり、応戦しますが傷を負い民家で休んでいるときに落城したようです。落城後は竹田氏家臣となり、竹田氏より降伏の士36騎を預かり、北越の押さえとしての命を受け、以後はこの地に住み続けたとあります。
水田が広がっています。中央にあるのは「圃場整備竣工記念碑」
シガマッコウクジラ化石発掘地
保福寺川で魚釣りをしていた少年がここでマッコウクジラの歯の化石を発見しました。これが後にクジラの全身化石(穴沢のクジラ化石)の発見に繋がりました。穴沢のクジラ化石も見に行きたいところですが、少し遠いので車で来たときにします。
長野県は大昔、海の底でした。300万年前からプレート同士がぶつかり隆起が始まり、北アルプスができてきました。そのため、山であるのにクジラや貝類の化石が発見されています。
庚申塔・道祖神
油坂バス停の横あたりにある「庚申塔と道祖神」、「油坂」という地名が気になりますが由来がわかりません。
石仏群
左から2番目は恵比寿様が彫られています。今まで長野県で歩いてきた中ではあまり恵比寿様を見かけませんでした。立峠手前の無量寺大門でも恵比寿様がありましたね。
大きな文字道祖神
板場一里塚跡
塚はなくなっており、標柱が建つのみです。
二十三夜塔と石祠
石祠には
「板場講中安全」とあります。左手の倉庫は山車がしまわれているのでしょうか。
善光寺道標
コンクリートで補修されています。元々の石は1/3くらいしか残っていませんが、きちんと補修され大切にさてれいることがわかります。
保福寺橋
保福寺峠から流れてくる保福寺川を渡ります。
浄雲寺本堂と石仏
立派な鐘楼門が目を引く浄雲寺は1616年(元和2)、僧岌生成阿開祖、創建とあります。江戸時代前半の漆黒の阿弥陀如来立像は松本市重要文化財に指定されています。
ふるさと四賀公園
立派なトイレもある公園には水車がありましたが・・・壊れているようでした。
災害復興記念碑
ふるさと四賀公園にありました。昭和34年8月14日、台風7号が長野県を直撃しました。 当時の四賀村では、会田地区を中心に豪雨により大規模な土石流が発生し、 6名の死者と1名の行方不明者が発生しました。
四賀支所
14:20 四賀支所に到着してしまいました。この先は交通機関も宿泊できる旅館やホテルなどもありませんので、唯一の交通機関である「アルピコバス」で松本市内まで戻りますが、午後のバスは16:40までありません。
2時間以上あるので少し会田宿を見に行きます。
先程まではよく晴れていましたが、徐々に天気が怪しくなってきました。
石仏群
馬頭観音や双体道祖神が並んでいます。周辺から集められたものでしょうか。
会田大橋
「大橋」・・というほど大きくはないですが、会田大橋で会田川を渡ります。
会田宿は虚空蔵山の麓に開けた谷あいにあり、古代においては官道である東山道から分岐して越後に向かう支道だったと推定されています。信濃の南北を結ぶ交通の要衝として賑わっていましたが、1902年(明治35)鉄道が開通すると往来する人は激減し、現在は静かな町並みとなっています。
古井戸
釣瓶式の古井戸が残されています。蓋がされておりわかりませんが、今でも水をたたえているのでしょうか。
善光寺道標
『右いせ道 左ぜんかうし道』
半分に折れているようで、その間の10cmほどは欠損しているようで、一部コンクリートに置き換えられ繋げているようです。本来は『左ぜんかうし道』『右いせ道』だったのでしょうが、「ぜん」の部分がなくなり、「かうし」となっています。
宿場の水屋
壊れているのでしょうか。水が出ていません。
千本松道祖神
「千本松」と呼ばれていた変形のアカマツは幹が12本に分かれ、さらに32本に分枝した壮大な樹形でしたが、マツクイムシの被害にあい、平成25年に伐採されました。年輪から樹齢350年ほどであったといいます。この幹を利用して道祖神が彫られ、根元部分が展示されています。
会田中学校跡
1953年に開校した中学校は、平成14年までこの校舎で授業が行われていましたが、老朽化に伴い移転しました。現在は坂道のもう少し上に新しい白亜の洋風校舎が建てられました。石碑には、50年間で学んだ学生は6200名余りと彫られています。
殿村遺跡
室町時代(15〜16世紀)の遺跡で、古式の石積、掘立柱建物、築地塀などの遺構、地元産の皿、瀬戸の茶碗、中国の天目茶碗や青磁碗、茶臼や硯なども出土しました。信仰に使う道具が多数見つかっていることから寺院ががあった可能性があげられ、また会田氏の館とも考えられています。
長安寺参道の石仏
長安寺跡へ向かう角にある石仏は、お地蔵様だったのでしょうか・・風雨にさらされ、すっかり形がわからなくなっています。
長安寺跡
会田氏の祈願寺として、1265年(文永5)に鎌倉建長寺から蘭渓道隆(大覚禅師)を招いて開いたと伝わります。平成25年に老朽化により取り壊されていますが、長安寺本尊虚空蔵菩薩坐像は長安寺の奥院とされる虚空蔵山岩屋神社へ祀られているそうです。
長安寺跡の石仏
長安寺跡にあるいくつかの石塔は会田宿の中程にあった補陀寺(ふだじ)にあったものです。
長安寺の旧参道
左は「不許葷酒」の石碑、右は「三界萬霊塔」
バスの時間にはまだ1時間以上ありますが、四賀支所へ戻ります。曇ってきて風も強くなり、かなり寒くなってきました。今日は平日で四賀支所が開いていましたので、四賀支所の玄関ホールで暖かく待たせてもらいました。
16:40のアルピコバス、松本駅行きで松本市内へ戻り、本日も昨日と同じく
『ドーミーイン松本』へ宿泊します。