2020年11月22日

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9:50 春日新田宿を後に黒井宿へ向かいます。

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表忠碑

ひときわ大きな石碑があります。昭和3年建立、書は東郷平八郎。表忠碑とは、特に戦没者の忠魂を讃えたというものでなく、忠誠心や郷土愛を訴えられたものといいます。

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第ニ中学校跡碑

1979年(昭和54)までこの地に「上越市立第ニ中学校」がありました。表忠碑・有田村碑も学校にあったということでしょうか・・・現在は上越市立直江津東中学校へ統合されています。跡地は県営住宅になっています。

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有田村碑

1889年(明治22)、 町村制施行に伴い中頸城郡春日新田村ほか15ケ村が合併し「有田村」が発足、1954年(昭和29)、中頸城郡直江津市に編入され有田村は消滅しました。この経緯を記した石碑です。昭和29年に建立されています。
この先は春日山公園が建設され、北国街道はなくなっていますが、公園内を通っていきます。

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鹿島稲荷

春日山公園内にあります。一里塚はこのあたりにあったといいます。土塁が残っていると資料にありますが、後ろの部分がそれにあたるのでしょうか・・

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鹿島地蔵

鹿島稲荷の隣りにあるのが地蔵尊。小さな覆屋に3体のお地蔵様が収められています。なんだかぎゅうぎゅうでかわいそうです。

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雅子妃の森

平成6年上越市が皇太子殿下(令和天皇)のご成婚を記念して建立しました。皇后雅子様の父、小和田氏は高田出身出身、祖父小和田毅夫氏は高田中学、高田高校の校長をされ、退職後高田市の教育長をされていました。

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奥州道道標

『右 さいみち 左 おう志う道』と彫られています。「さいみち」は、地元の人が利用する在所道を示しています。スポーツ公園から左内町付近は、街道が消滅しています。その中でもこの道標が街道を特定できる貴重な存在です。道標右手の石碑はどなたのものかわかりませんが、筆塚です。

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黒井駅前

黒い駅前には家が数件、付近は工場が大半を占めています。

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黒井駅

駅の跨線橋を渡り、黒井駅南口へ向かいます。

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新黒井駅跡の碑

北国街道とは反対側の南口側には、頸城鉄道線の起点駅である新黒井駅がありました。南口バスロータリー奥に「新黒井駅跡の碑」があります。

頸城鉄道線

中頸城郡北部の村々を東西に横断する約15kmの軽便鉄道、頸城鉄道線は1914年(大正3)に開業しました。駅舎はインターナショナル石油直江津製油所の外国人宿舎として使われていた通称「異人屋敷」のうち1棟を移築したものでした。全国でも有数の豪雪地帯を走る鉄道は、運休日年間100日以上あったとされます。1971年(昭和46)に全面廃止されました。廃線後も駅舎はタクシー待機場や同社の石材事業の工場などとして利用されましたが、老朽化のため撤去されています。頸城鉄道で使用された一部の車両は、「くびき野レールパーク」に保存されています。
黒井駅を過ぎると、周囲には民家はなく工場などが並ぶ味気ない道を進んで行きます。

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洞仙庵跡

詳しい場所はわかりませんが、現在の信越化学工業付近にあったと思われます。松平忠輝の家老を務めた長沢松平家の菩提寺でしたが、高田城ができると高田城下の南本町へ移動し、永樹寺となりました。信越化学工業の緑色の目隠しフェンスに「洞仙門」とあり、さらに100mほど進むと右手に「導仙道踏切」があり、名残がみられます。
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黒井神社

創建はわかりませんが、明治10年の黒井宿大火で焼失し、町内住民の浄財により昭和10年に社殿が改築され現在に至っています。

黒井大火

明治10年、町内東端より出火し、本敬寺、黒井神社近くにも飛び火し、黒井宿のほとんどが焼失しました。

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八千浦村道路元標

以前は、黒井宿桝形の伊勢屋前にあっそうですが、港湾開発に伴い移設する予定でしたが、行方がわからなくなりました。黒井神社前に電柱を建てるために穴を掘った所、原標が発見され現在地へ移設されました。
黒井神社を過ぎて桝形を右に曲がると黒井宿ですが、その前に左手に曲がり明治天皇碑へ向かいます。

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明治天皇碑

北陸巡幸時、新潟まで往復され往路も復路も黒井宿の旅籠屋関川家で休憩されました。関川家は小舟にタイやカレイを入れて泳がせたそうです。碑は、関川家前にありましたが移設され、現在は街道から少し離れた場所にあります。

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黒井宿

黒井宿は往時の面影はほぼなく、新しい家が立ち並んでいます。

冬用タイヤへ付け替えている姿をたくさん見かけました。地元の方は冬支度で忙しそうです。

黒井宿

黒井宿の始まりは天正年間(1573〜1572年)頃とされ、越後府中(直江津)と奥州を繋ぐ1番目の宿場でした。1681年から天領で1684年(貞享元) 代官所が設けられ、1725年(享保10)までの40年間続きました。本陣、脇本陣があったといいますが、どのあたりにあったのかは全くわかりません。旅籠、木賃宿もありました。福島城時代には牢屋が置かれ、また処刑場も黒井に置かれていたようです。道には井戸があり、馬に水を飲ませるために使われていました。
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本敬寺

1600年(慶長5)道場を建立したと言われます。明治10年の黒井大火により焼失し、明治14年に本堂、庫裏、鐘楼が再建されました。

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芭蕉句碑

『さびしさや花のあたりのあすならふ』

花が咲き誇っているそばに、明日はヒノキになろうと思いながら年を経ていくあすなろの姿がわびしいという意。1689年(元禄2)7月6日、松尾芭蕉「奥の細道」の旅では、黒井宿の旅籠屋伝兵衛で休憩し、今町(直江津)に向かいました。江戸中期、黒井宿の俳人熊倉平十郎幸亭らが建立しました。
十返舎一九は、越後に数回訪れています。最初は信濃から高田、柏崎、長岡、出雲崎、新潟、新発田を経て会津(福島県)に抜けています。そしてこの時の行程を逆さにした道中記「金草蛙」を出版し、高田の飴屋、高橋孫左衛門商店についても書かれていますが、黒井については、『白雪の越後の旅は日に焼けて、顔も黒井の駅につきけり』と詠んでいます。

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犀浜七里

関川(荒川)から柿崎川までの砂地は、『犀浜七里』と呼ばれていました。北国街道奥州道は、黒井宿よりこの「犀浜七里」と呼ばれた海岸と並走しています。足場が悪く民具として「浜下駄」が使われていました。

浜下駄

歯がなく、草履のような形で鼻緒の穴が前後に2つ付いています。砂浜で作業する時に使われていたそうで、引きずりながら歩き、そのためかかと部分が削れやすいようです。削れた場合には鼻緒を前後入れ替えて、向きを変えて使用できる、つまり、2倍使えたということのようです。

11:30 黒井宿を後に潟町宿へ進んでいきます。