2020年8月14日
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9:30 宿を出発します。本日は晴天、最高気温は31度くらいです。新潟県に入ってからは最高気温がだいぶ下がりました。
スキー神社
大正時代に日本で最初のスキー犠牲者を慰霊するために建てられました。当初はスキー場の一角に鎮座していましたが、1940年(昭和15)の豪雪で社殿が倒壊したため、翌1941年に現在の星野公園へ移されました。社殿正面にはスキー板が掲げられています。田切一里塚跡
一里塚跡の標柱は妙高北小学校に設置されていますが、一里塚は深沢川北側にあったようです。白田切川
妙高山の南地獄谷から流れ出ているため、温泉成分により水が白濁しています。 昭和53年5月、妙高山中腹の南地獄谷で地すべりが発生、白田切川を土石流が流下し赤倉温泉などを巻き込みながら下流側の信越本線の橋梁などを押し流す大規模な災害となり、13名が犠牲になりました。田切宿問屋
問屋を務めた郷戸家は信濃国郷戸村(飯山市)の出身で、上杉謙信の臣下となり川中島の合戦に参加しました。1580年(天正8)、上杉景勝は田切宿の問屋に郷戸源助を指名し伝馬・宿送、さらに武田氏の印判状を持つものを関山宿まで継送るよう命じたといいます。現在は宿場の面影は全くなく、問屋がどこかもよくわかりません。田切古道(郷田切川迂回路)
田切を越えるためには上流側へ迂回するのが通常ですが、郷田切川は例外的に下流側へ迂回していました。その迂回路が残っていますが、草がかなり生えており中に入っていくのは躊躇されました。草のない秋から冬には歩けると思います。わずか200m〜300mほどの古道ですが、郷田切川を越える橋が無くなっています。筆塚と馬頭観音
二俣宿
二俣宿は田切宿との合宿で、大田切川と郷田切川に挟まれた交通の難所にありました。1816年(文化13)赤倉温泉の開湯によって、温泉場入口の宿場として栄えました。1878年(明治11)9月11日、明治天皇は午前7時に関川の行在所であった大石家を出立、二俣宿の脇本陣畑山三十郎家で小休されたということです。二俣宿脇本陣に「明治天皇御休所跡」の石碑が建っています。赤倉温泉の開発
妙高山麓に温泉が湧くことは古くから知られていましたが、宝蔵院領であったため開発は難しかったといいます。1814年(文化11)田切村庄屋、中島源八らは温泉を開くこと、その残水を使って新田を開発すること、宝蔵院と交渉することを高田藩に願い出ました。結果、宝蔵院へ迷惑料、冥加金(みょうがきん)を支払うことで合意しました。温泉場と一本木新田が開かれ、1824年(文政7)には旅籠屋13軒となりました。二俣宿脇本陣
問屋を兼ねていた畑山家には『畑山先生碑』が建てられています。畑山三作は幕末に寺子屋を開いていました。また傍らには『歌開始海の碑』も建てられています。畑山正隆は、昭和42年歌開始魚で佳作、昭和52年、海で選歌十作に入選したそうです。『温泉の町の流れに熱帯魚年どし殖えて群なし泳ぐ』(昭和42年・佳作)
『蛍いか魚津の海にひしめきて星なき夜のうねり明るし』(昭和52年・選歌)
昭和42年の歌開始魚では、堀口大学も参加しています。『深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり』
歌開始とは
人々が集まって共通の題で歌を詠み、披講する会を「歌会」といいます。「万葉集」にも記載があり奈良時代には行われていたようです。宮中では年中行事としての歌会などのほかに、毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会として催しになる歌会を「歌会始(うたかいはじめ)」といいました。二俣宿馬寄場
昔は二俣宿全ての馬を洗えるほど大きかったといいます。防火の役目もありました。馬寄場の上には石仏が佇んでいます。御館の乱
1578年(天正6)、越後の龍と言われた上杉謙信は春日山城で急死してしまいます。脳溢血ではないかとも言われていますが、はっきりとした原因はわかっていません。謙信に実子はなく、跡継ぎについての遺言もありません。謙信の養子となった上杉景勝、上杉景虎、この2人の間で後継者争いが起きます。上杉景勝は、坂戸城主長尾政景の息子で謙信の甥でもあります。一方、上杉景虎は北条家からの養子でした。景虎は景勝の妹を妻に迎えており、2人は義理の兄弟の関係にもありました。越後を二分した内乱は景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となりますが、この内乱は軍事力の衰退、恩賞を巡っての対立など謙信時代に培われた上杉家の勢力と威信を大きく後退させました。