2021年5月4日
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猿ヶ馬場峠を越え、坂を下ってきました。中原無人墓地を過ぎたあたり、中原集落より
間の宿桑原へ向かって進んでいきます。
道標
『右 山みち 左 いせ道』
道筋が少し変わったのか、道沿いではなく少し奥まった場所にありました。
開眼寺
1651年(慶安4)開創、本堂は1691年(元禄4)の建立です。
七曲りの松・長野銘醸
信濃の御家人を祖とする
和田家は、江戸時代には松代藩屈指の豪農、酒造業で繁栄し苗字帯刀が許されていました。七曲の松は往時から素晴らしく、現在も健在です。銀行の設立、小学校建設、信州りんごの導入などこの地の近代化の中心的な役割を担いました。
石仏群
周辺から集められたものでしょうか。
道祖神・庚申塔
さらに進むと、突き当り左の角に番所があったとされます。
天満宮
桑原氏先祖が古谷の館近くに998年(長徳4)に鎮守として創建、恵心僧都作の坐像が御神体です。明治41年に治田神社へ合祀されますが、昭和50年に現在地へ再建されました。
天満宮の枡形を曲がると間の宿「桑原宿」に入っていきます。
桑原宿に残る旧家
クワバラクワバラ
雷が鳴ったとき「クワバラ、クワバラ」と言えば雷が落ちないという呪文を聞いたことはないでしょうか。この話は「桑原宿」から起こったものと言われています。(大阪、兵庫にも同様の伝説があります。)
昔、雷の鬼が桑原に落ちたことがありました。ちょうど通りかかった領主、桑原左近将藍が捕まえたところ、「今後は桑原には決して落ちませんから許してください」と謝ったので許してやりました。それからはいくら雷が鳴ったとしても桑原村には落雷がなかったということです。ここから「桑原、桑原」と唱えれば雷が落ちないという呪文になったとされます。
謡曲観世流宮崎一先生之像
明治28年、桑原宿生まれで農業の傍ら能楽を学び、また謡曲、仕舞を数多くの弟子に伝承し、その徳を讃えて昭和51年に門弟一同によって建立された胸像です。
桑原村道路元標
公民館前の消防倉庫横に桑原村の道路元標がありました。
桑原宿本陣
柳澤家の住宅で、
松代藩主や家臣などが休憩、宿泊する施設として使われました。間の宿では基本的に宿泊はできませんが、隣の稲荷山宿は
上田藩となるため、松代藩は桑原に本陣を置きました。幕末の1864年には京都へ向かう松代藩主真田幸孝以下595名の一行が宿泊したとされます。(全員が本陣へ宿泊したのではないでしょうが・・・)幕末に建てられた建物は平成13年に取り壊され、現在は一般的な住宅になってしまいました。
伴月楼(新右衛門屋敷)
松代藩の在郷武士
関家を藩士や巡見使は宿泊施設として使用していました。現在は記念館となっており、時々訪れた佐久間象山の資料を中心に公開しています。
新右衛門長昭の長子、
関長堯は佐野薬師境内に文久の初頭に上野の国学者飯塚久敏を招いて
「西行法師旧跡の碑」を建立しています。
浄光庵
寛永年間(1624〜1643)千曲市稲荷山元町に龍洞院の末寺がありました。1765年(明和2)龍洞院十五世が地蔵堂を建立し、浄光庵として元町にあった寺を現在地に再興したようです。
治田神社上の宮の鳥居
治田(はるた)神社は桑原に上の宮、稲荷山元町に下の宮があります。
創立年は不詳ですが、665年(白鳳5)再建、1183年(寿永2)及び1436年(永亨8)兵火により焼失、1451年(宝徳3)再建の旨口碑により伝えられているそうです。とても古い神社です。
この鳥居より300mほどで本殿があります。
桑原宿の家並みを過ぎると、しばらくは単調な国道を進みます。
稲荷山一里塚跡
木製の支柱が1本建つだけの「稲荷山一里塚跡」
更に単調な街道を1.3kmほど進むと『西京街道道標』があり、左へ曲がると『稲荷山宿』となります。
西京街道道標
『右西京街道 左八幡官道』 西京は京都を意味し、明治期に建てられたものです。
上八町の地蔵と更級郡稲荷山町道路元標
蟹沢川に旭橋が架かっており、この川の砂揚場に1718年(享保3)この地蔵が祀られました。蟹沢川をゴロゴロ転がってきて安置されたとも伝わります。線香台には「水野家」とあります。
上八町の地蔵で左へ曲がると治田神社一の鳥居があります。
二十三夜塔・治田神社一の鳥居
治田神社下の宮まで1km近くもありますので、本殿はスルーします。
上八町の地蔵まで戻り、街道を越えて奥へ進みます。
町屋敷東蔵小路
蔵が立ち並ぶ細い路地は往時の城下町の雰囲気ですね。
極楽寺
稲荷山城の鬼門の守りとするため小坂から仲町東裏に移転しましたが、洪水被害が続き1642年(寛永19)に現在地に移りました。
鐘楼に「天正十一年須崎三河守(稲荷山城将)建立」の棟札が残っています。
城小路の井戸
稲荷山の井戸の中では一番水質が良いとされ、住民や楽市楽座に集う人々、善光寺参りの旅人の喉を潤し、憩いの場となっていました。
管谷医院
素敵な意匠の建物がありました。デザインからすると大正時代の建築だと思われます。看板も出ていたので現在も現役の病院のようですね。
稲荷山城址の碑
1582年(天正10)上杉景勝によって築かれた平城で、銅鑼(どら)山とも呼ばれています。城を築いたときに白狐が飛び込んだ伝承から稲荷山と呼ばれたそうです。
裏通りの小路を抜け、
問屋小路を進むと「本陣」の門がありました。街道に面していない本陣は珍しいです。
稲荷山宿本陣
稲荷山城の本丸跡地と考えられ、上杉家が会津へ移封後、代官所となりその後に松木家の所有となり、本陣・問屋を務めていました。善光寺道名所図会でも紹介された本陣門は門口九尺の
四脚門で、稲荷山城本丸の裏門を移設したものとされましたが、弘化4年の
善光寺地震の火事にて焼失。その後現在の
冠木門となりました。
谷街道稲荷山起点
谷街道は稲荷山を起点に八代宿で北国街道と交差し、松代道を綿打で分かれ中野・飯山から千曲川沿いを北上し、新潟県十日市町まで至る道です。明治期になってから「谷街道」と呼ばれるようになりました。
裏通りの小路を進んできましたが、「谷街道稲荷山起点」で北国西街道へ合流し、更に北へ進んでいきます。
旧醸造蔵
日本酒を作るための「こうじ」ですが、こうじには白こうじ・黄こうじ・黒こうじの三種類があるそうです。通常、日本酒には黄こうじを使用するようですが、最近は白こうじを使って日本酒を作ることもあるそうです。白こうじは焼酎に使用されるようで、黒こうじは泡盛などを作る際に使用されるようです。
山丹(旧呉服商)
県下屈指の
呉服反物商として繁盛していました。建物は明治10年頃の建築で蔵は1号〜8号まで完全に残されています。
城見橋
下の川は西川となっていますが、この川が中町と荒町の境で、稲荷山城の堀跡と言われています。
製糸用繭問屋「旧高村家」
衆議院議員で、労働・農林・法務の大臣などを歴任した「倉石忠雄」の生家です。高村家も生糸により大変繁栄しました。
蔵し館・松源製糸
稲荷山宿は生糸の集散地として幕末から大正期は繁栄しました。その生糸輸出の先駆者となったのが松源製糸でした。主屋と土蔵を公開しています。
長雲寺
仁和寺良言上人を中興開祖とし、京都醍醐寺から寄進された本堂には、本尊の不動明王、五大明王が、また1673年(寛文13)に京都の仏師久七作の愛染明王座像が保存されています。
旧料亭松葉屋
昭和14年まで料理店を営み、当時は三味線の音が聞こえ繁昌していました。とても立派な建物です。高級な料理店だったと思います。角のあたりに明治27年の姨捨山冠着宮遥拝所の碑があったそうです。
善光寺道標
『左ぜんこうじ道 右東京并屋代道』 明治以降に設置されたものだそうです。「并」は「並」で「東京並びに屋代」への道ということのようです。
長谷観音道標・常夜灯
北国西街道と長谷寺参道の分岐点にあります。長谷寺は
善光寺参りの帰りに立ち寄る風習があり、善光寺からやってきた旅人はここで長谷寺へ向かっていました。長谷寺はこの参道をおよそ1kmにあり参道は杉並木であったそうです。
天用寺・譜代松平旧領主位牌所
天用寺は長谷(長野市篠ノ井塩崎)にありましたが、火災で焼失し、1574年(天正2)領主赤沢修理大夫信重が現在の地に再建しました。1798年(寛政10)に領主松平氏が位牌安置所としました。1847年(弘化4)には善光寺地震のため倒壊しましたが、1863年(嘉永6)に再建されました。
渋谷芳雨の碑
詳しくはわかりませんでしたが、本名は渋谷弥右衛門、号が「芳雨」のようです。1827(文政10)の資料によると、当時は塩崎村の庄屋だったようです。碑文に『千曲之水 洋洋而清 更級之月 皎皎而明・・・・』とありますので、漢詩を嗜む人物だったのではないでしょうか。また「弟子」ともありますので、そういったことを教えたりしていたのでしょうか。碑文によると1875年(明治8)に亡くなっています。撰文は上田藩士の櫻井純造、筆は上田藩士で書家でもあった恒川重遠のようです。
塩ア村道路元標
塩崎陣屋跡
1730年(享保15)上田藩主松平忠愛は、弟忠容に更級郡内の飛地4か村五千石を分知し、
「潮崎旗本知行所」が誕生しました。その後、1774年(安永3)
陣屋がこの地に設けられ、明治の廃藩まで領内4か村を統治します。後に
今里郷学校校舎となり、この古い門柱はこの学校の建築当時のものです。
大庄屋清水家
塩崎の庄屋であった清水家は現在も大邸宅で、大きな蔵が目を引きます。
本日はここまでとします。左へ曲がり、稲荷山駅まで約600m、もう一息です。
稲荷山駅
17:15 ようやく稲荷山駅に到着しました。今日は長い道のりでした。距離的にはそう長くもないのですが、5日間の峠越えの連続で疲れていたのでしょうね。今日は最終日のため自宅へ戻ります。