2022年9月17日
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8:00 柿崎駅へ車を駐車し、まずは柿崎城跡へ向かいます。柿崎駅から北国街道を越えて南下し米山川を渡り、あけぼの公園南側から畑の中を進んでいきます。
柿崎城跡への道
柿崎インターチェンジからぐるっと回る高速道路導入路にぶつかるとフェンスがあり、T字路になっています。左へ曲がり少し行くと導入路をくぐる道がありました。ここをくぐると木崎山の中へはいります。登り口には案内板がありました。 少し上っていくと展望台がありました。せっかくの展望台ですが樹木が多く、あまり展望はよくないです。このあたりが本丸でしょうか。
柿崎城跡・展望台
柿崎城は別名「木崎山城」とも呼ばれ、標高25mの木崎山と呼ばれる砂丘上にありました。柿崎川、小河川、米山川によって三方が囲まれた要害となっていました。 柿崎城は柿崎和泉守影家の居城であったとされます。柿崎影家は上杉謙信の家臣で、直江氏に次ぐ重臣と言われています。1561年(永禄4)の第4回川中島合戦においては上杉軍の先陣として武田軍に突撃したことで知られます。
柿崎宿の絵図
1868年(慶応4)に作られた絵図です。絵図には「問屋」が描かれていないので実際のところはわかりませんが、この角に高札場があったようですから、「問屋」で間違えないと思われます。 元問屋の向かいの一角に親鸞聖人旧蹟の「扇屋渋々宿跡」があります。この奥に目を引く意匠の「浄善寺」の建物があります。
扇屋渋々宿跡
1207年(承元元)「承元の法難」で京都より越後国府に流罪となった親鸞聖人が扇屋に宿を求めましたが、扇屋夫婦は邪見の者で杖を振りかざして断ってしまいます。聖人はこの出会いも仏縁であることを話し、軒下で石を枕に念仏を唱えながら休みました。念仏を聞いていた扇屋夫婦は我が身を省みて、聖人を中へ招き教えを請いました。 翌朝、夫婦は聖人を見送り聖人から「川越十字名号」を賜われました。その後、扇屋夫婦は僧尼となり、扇屋は道場となり「川越十字名号」「扇屋渋々宿伝絵」「御枕石」が安置されるようになります。
浄善寺
浄善寺は扇屋夫婦の道場が始まりとなり、寺院へ発展していったようです。 「渋々宿扇屋跡」にインド風バゴダ様式の本堂が目を引きます。江戸時代、明治時代に度重なる大火により焼失したため、大正時代に設計され昭和3年に鉄筋コンクリートで建築されました。 浄善寺本堂前には「親鸞聖人歌碑」があります。
日蓮上人像
1274年(文永11)、佐渡流罪の赦免を受けた日蓮上人は柏崎の番神岬にたどり着き、米山峠を越えて柿崎へ向かい、雨池のほとりの渡辺藤兵衛貞義の家で昼食をとり、その縁で1394年(明徳5)玉沢妙法華寺の日誉上人がこの地に立ち寄り、妙蓮寺と名付けて開山しました。 この場所が往時、昼食をとった場所とのことです。日蓮上人はこの日、国府(直江津)まで歩き、宿泊しました。
妙蓮寺 本堂三十番神堂
1274年(文永11)創建。本堂三十番神堂は1784年(1784年)建築。本堂は寺の入口から下った場所にあります。往時はここが雨池の底だったといいます。 妙蓮寺をあとに少し浄善寺方向へ戻り、浄善寺西側の道を南へ進み「浄福寺」へ向かいます。
浄福寺
浄福寺には浄善寺と同じような話が残されています。 越後国府に流罪となった親鸞聖人が鎌倉武士の井上忠長家に一夜の宿を乞い、忠長は留守であると女房は断ったので、聖人は軒下で休まれ、夜更けに忠長が帰宅し、聖人を招き入れることにしました。女房はしぶしぶ聖人のお世話をし、忠長は聖人から念仏の教えと九字名号を賜り、弟子となり「善順」と名乗ったといいます。忠長は出身地の鎌倉扇ヶ谷の名をとって「扇谷」と名乗っていたとされます。 う〜ん・・酷似した内容ですね・・・
諏訪神社
諏訪神社をでて北国街道へ戻ります。北国街道を鉢崎方面へ向かうとすぐにY字路がありますが、そのまま直進して60m、左手の角に「道標」があります。
ようやく海が見えてきました。
左右ともに全く住宅はなくなり、静かな道を進み坂を上ると国道8号線に合流します。合流してから150mほど右手の土手の上に石碑がありましたが・・・
十二神社
十二神社をすぎるとすぐ右手に「慈眼庵」の入口があり、坂を上ると本堂があります。
慈眼庵
創建などは不明です。無住のようで、建物は屋根が崩れかけ廃屋になっています。
アスファルトの道を700mほど上ると右手から山道へ入ります。歩く場合はこちらを進むと距離は短くなりますので、こちらを進みます。車は真っ直ぐ進むと上までいけます。
1579年(天正7)上杉景勝が寄進したとされます。一対の金剛力士が安置されていますが、中越地震で損傷し阿形像は修復が完了し戻されていますが、吽形像は現在も修復中です。
「稲刈り仁王」の伝説
昔、柿崎の能登屋という家がありました。信心深い人で、毎月欠かさず大清水観音にお参りしていました。豊作の年、稲刈り前に能登屋の女将さん、息子夫婦共に病気にかかり困っていると、「観音に頼まれた」という仁王2人がやってきました。仁王達は黙々と稲刈りをすませ、お礼に渡された稲を担いで帰りましたが、途中で貧しい家々に配ったため観音様に渡す分がなくなってしまいました。観音様は怒るどころか、たいそう褒めたといいます。
西国三十三カ所観音札所の石仏
西国の地まで行かなくともご利益があるように、江戸時代に築かれた石仏です。
観音堂の正面から遠くの景色を見ます。飯縄社は観音堂の東南の石段を上がった場所に祀られています。
頸城三山展望
標高200mの山頂からは妙高山、火打山、焼山などの妙高連山や春日山、頸城野平野、柿崎町が眼下に広がります。空気が澄んでいる日、年に数回は能登半島まで見えるそうです。
飯縄社
近年作られた覆屋に収まっています。本殿は室町時代の建立と考えられており、覆屋の中に保存されています。 観音堂から駐車場方面へ向かうと小さな覆屋があり、中には「木喰上人木額」が収めてあります。
木喰堂の木喰上人木額
全国を歩いて千体の仏像を残そうと決めた木喰が2度目の越後入りをした88歳の時に彫られた子育て地蔵と木額が収められています。 大泉寺庫裡の前を通り、帰りは藪こぎも辛いので、アスファルトの道を下りましたが、やはりくねくねと距離は長く、ようやく北陸自動車道のフェンスのところまでくるとカーブのところに、上ってくる時には全く気づきませんでしたが、何やら石碑がありました。
国道を300mほど進むと旧道へ入っていきます。初老の方に声をかけられ、北国街道を歩いて旅をしていることを話すと、シャインマスカット頂きました。これは嬉しい「お接待」ですね。お遍路さんではよく聞きますが、ここ米山で「お接待」されるとは・・とてもありがたく頂き、ザックのポケットへ入れて再び歩きだします。
しばらく進むと学校の校庭となり旧道が一部なくなっています。右へ曲がり一旦、国道8号線へでます。






















