2020年9月20日
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14:15 新井宿をあとに高田宿へ向かい進んでいきます。
石塚の一里塚跡
一里塚はなくなり、石碑が建つのみです。
矢代川改修記念碑
1897年(明治30)、1898年(明治31)と2年続きの水害が発生し、特に明治30年の水害では浸水家屋は3,257戸にも達しました。1912年(明治45)には1,921戸が浸水しました。この付近は古くから霞堤(不連続の堤)が築かれていましたが、明治30・31・45年の水害を契機に、連続堤の構築が関川・矢代川の両岸に復旧工事として実施されるようになり、1920年(大正9)頃までに完成したという経緯が記されています。昭和12年に建立された碑です。
水神
矢代川堤防上に設けられています。恐らく水神様ではないかと思います。
土地区画整理記念碑
2010年頃の「石塚大崎土地区画整理事業」の記念に建てられたもののようです。周辺は土地が整形され、広い道路にかわり遊水池も設置されたようです。
大崎神社
小さな祠の小さな神社でした。
大崎の石屋
明治期以降に西頸城山地の山中において墓石や記念碑等の素材となる千草石の採掘が盛んになると、旧北国街道沿いの石塚町から大崎町の間に多くの石屋が集まり、石屋街が形成されました。
千草石
1884年(明治17)、近くの山から質の良い
「千草石」という石材が発見されました。千草石は、西頸城山地が海底から隆起する過程で地下のマグマが地層中を上昇し、そのまま硬化して出来た貫入岩です。角閃石という 黒い鉱物と長石という白い鉱物が混入した目の細かい
岩石(角閃石ひん岩)であり、墓石や石碑等に利用されています。地層から巨大な丸い礫となって出土しますが、これは岩の割れ目等に水が染み込み、タマネギ状に風化し、岩と岩の間が土壌化したためです。名前の通り
千草色(若草色・もえぎ色)で、時間が経つと薄茶色に変化します。新井市内の白山神社の石鳥居の他、高速道路の新井サービスエリアの敷地に並べられている石も千草石です。故・田中角栄のお墓にも使用されたということです。
筆塚
天保年間(1831年〜1845)〜明治期に寺子屋師匠としてまた、医者として活躍した1819年(文政2)生まれの小池蓮蹊の筆塚です。
金子伊太郎君遺跡碑
上越電気株式会社の創始者の一人です。「上越電気株式会社」は、明治39年に中頸城郡高田町、直江津町(現・上越市)、新井町(現・妙高市)など3町10ケ村を供給区域として事業許可を得ました。「上越の電力の父」と言われます。
諏訪社
詳しい由緒はわかりませんが、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社を総本社とする「諏訪神社」は全国で25,000社もあります。
お地蔵様
いちご模様のマスクが可愛いですね。
出雲大社 越後石沢講社
1884年(明治17)出雲大社分社として創建されました。1956年(昭和31)に社殿を改築し、1982年(昭和57)に除雪車からの損傷を免れるために社殿を移設しました。
出雲神社本殿跡地
社殿は元々ここにあったようです。1990年(平成2)に「成願大黒天」を建立しました。
明治天皇石澤御小休所跡・根切松碑
明治11年の北陸東海巡幸の際、9月11日に小休された場所です。路傍に小屋を建てての休憩だったようです。松は樹齢500年と言われ、根が街道へはみ出ていましたが、巡幸前に障りがあってはいけないと根を切られてしまった、という松は今はありません。
謙信くんとレルヒさんのバリケード
日本で初めて本格的なスキー指導をおこなった「レルヒ少佐」は、現在
ゆるきゃら「レルヒさん」として上越市のあちこちで見られます。
上杉謙信のバリケードも可愛いです。どちらも工事現場が明るくなりますね。
和田村道路元標
1901年(明治34) 中頸城郡下板倉村、大和村、大倉村、国明村が合併して、和田村が発足。1955年(昭和30)村を二分割し、新井市と高田市に編入し消滅しています。
頌徳碑
明治34年、国明、下板倉、大倉、大和の4村を合併して和田村となり、さらに高田市や新井市に変遷し、和田村が廃された歴史を回顧し、昭和30年に建立した記念碑のようです。書は和田村六代目村長、笠原公明氏。
瀬渡橋と矢代川改修記念碑
北国街道一の大橋といわれる瀬渡橋は、矢代川に架かる橋で古くは「今泉橋」とも呼ばれていました。貞享年間(1684〜1687)までは橋がなく、歩渡りでした。その後、1710年(宝永7)まで船渡しとなっていましたが、1711年(正徳元)に高田城主松平越中守定重の時に板橋が完成しました。
矢代川改修記念碑は、この付近は昔から水害の被害が絶えないため、大正3年より2年をかけて築堤工事が行われ完成を記念して建立されたものです。
北国街道分間絵図に描かれる瀬渡橋
絵図には「瀬端ノ橋」という名前になっており、「道中の大橋」とあり、往時は群を抜く大橋だったことがわかります。
16:15 高田宿はもう少し先ですが、今日はここまでとします。瀬渡橋を渡り
上越妙高駅へ向かいコインパーキングに停めている車をピックアップします。本日は上越妙高駅より車で10分ほどの
『神の宮温泉 かわら亭』へ宿泊します。
2020年9月21日
8:30 本日も上越妙高駅のコインパーキングに車を停め、瀬渡橋まで戻ります。秋晴れの清々しいお天気です。
富士櫻本舗 大嶋酒店之碑
平成21年、建立者は大島さん自身のようですが、酒店があったのでしょうか・・
今泉城
建武年間(1334年〜1336)の頃、後醍醐天皇の命によりこの地の地頭職であった村山義信一族の居城であったと言われています。当時の城は自然を利用して造られ、願清寺裏の高地や矢代川段丘を利用して造られた平城でした。その後は時代とともに城主が変わったと思われますが、明らかになっていないそうです。
大和神社
村人は城址に稲荷を祀り氏神様としていましたが、明治40年に旧大和村の各々の氏神様を合祀し、大和神社としました。神社境内の土手は当時の土塁と考えられ、これを取り巻く堀の跡も見られます。
願清寺
詳しい由緒はわかりませんが、境内に白蛇を埋め弔ったと言われる墓塔が白蛇教化の塔として残っているそうですが、見つけられませんでした。
白蛇教化の塔
むかし、矢代川と関川は、下板倉橋(瀬違橋)で流れが一つになり、深い淵となっていましたが、ここで水遊びをしていた一人の子供が、溺れて死んでしまいました。それからというもの子供達が、次から次へと深みにはまり死んでしまいます。不思議なことに、死体は一つも浮かびあがってきません。修験者に占ってもらうと、
「白い大きな蛇が住んでおり、この蛇に飲みこまれ死体があがらない」といいます。
ある日、
蓮如上人が願誓寺(願清寺)に泊まり、この話を聞いた蓮如は、願誓寺の本堂にこもって、21日
読経を続けたところ白蛇が水死して浮かびました。白蛇の死体は願誓寺へ埋め塔を建てたといいます。
弘法の清水
弘法大師が諸国行脚中、今泉で水を求めましたが、大変水が悪く人々が困っていることを知り、持っていた錫杖で土を彫ったところこんこんと清水が流れ出たと言われています。この伝説は全国に数多くありますね。
江戸時代は旅人に重宝され、休憩場所となっていたようですが、今は蓋がされており、水は全く出ていませんでした。
大聖歓喜尊天
「南方位山」の際、水谷家にある「歓喜堂」に寄ってお参りをするそうです。
江戸時代に代参一行(謙信の代理参拝)が関山村の人と争って殺してしまい、その騒動を水谷家のとりなしで解決したといいます。それ以来、水谷家に寄って無事代参することを誓い、帰路には報告することになったそうです。
南方位山(なんぽいさん)
1570年(元亀元)
上杉謙信が領地の安全を願って始めたとされ、春日神社の氏子らが謙信公から受け取った「倶利伽羅不動尊の御旗」と呼ばれる龍の旗を持ち、妙高山を登る伝統行事です。南方位山は、今でも毎年7月22日に行われています。参加者は白行衣で、まずは
水谷家の「歓喜堂」へお参りし、謙信公時代は徒歩だったと思いますが、現在は燕温泉までバスで移動し妙高山へ登山するそうです。
近藤清吉先生碑
1851年(嘉永4)生まれ、農業に精を出しながらも算術に堪能で100人あまりの門弟に算術や謡曲を教えていたようです。大正3年に病没し、大正6年に碑が建立されました。
日出拝地蔵尊
堂の中の額に色々書いてありましたが、薄くなっていて読み取れません。「日出拝地蔵尊」だけが読み取れました。
馬頭観音
高さ1.5mほどもある大きな文字馬頭観音です。
伊勢町一里塚の題目塔
高田城下の南と北の出入口にあたる伊勢町(南本町)と陀羅尼町(北本町)に一里塚が設けられ、口留番所も置かれ城下の出入りや荷物の改め、徴税が行われました。
題目塔は、弘化年間(1844〜1847)に建てられたものと推測されています。北の陀羅尼町にも題目塔が建てられました。「南の宝塔、北の宝塔」と称し今日まで市内の日蓮宗寺院で維持してきました。寒中修行の題目行脚ではこの題目塔まで巡拝しています。元はこれより北西30mにありましたが、道路改修に伴い移転されました。
陀羅尼町の「北の宝塔」は国厳寺の北にあったといいます。国厳寺は寺町へ移動したようですが、「北の宝塔」は現在どうなっているのかわかりません。
雁木通り
高田の豪雪は昔から有名で、雁木は斜めに突き出た雪国形の雪よけの屋根です。雪国の知恵ですね。
神明宮
関町・出雲町・伊勢町の産土神で、天照皇大神を祭神として祀っています。歴史は古く、1583年に春日山に一社を建立したのに始まると伝えられており関町神明宮と呼ばれ親しまれています。
青田川
青田川を高田城、城下町の外堀として内側に武家屋敷を、外側に北国街道を通し町人町としました。
金子大榮生家
親鸞研究家として知られています。1881年、最賢寺に生まれ5歳で得度(出家)し真宗大学で学び1904年に卒業しました。卒業後は高田へ戻り布教活動に従事するとともに、論文を発表し真宗学者として認められ、大谷大学(真宗大学)の教授に迎えられました。その後も真宗についての本を出版しますが、東本願寺の教義と異なるという理由で大学を追放、僧籍からも離れました。後に僧籍も教授職も復帰し多数の書籍を出版しています。
最賢寺の大いちょう
上越市内で最も樹齢の古い巨木です。
高橋孫左衛門商店
初代六左衛門が寛永年間(1624年〜)に粟を原料として「粟飴」を製造しました。1790年(寛政2)、4代目孫左衛門により原料を餅米に替え初めて琥珀色透明の水飴を製造しました。しかし、当時「粟飴」として知られていたため「粟飴」のままで販売しています。
1814年(文化11) 高田を訪れた十返舎一九が高橋孫左衛門家に世話になり、自著の『方言(むだ)修行金草鞋』に絵入りで粟飴を紹介しています。粟飴を「気のくすり飴」と呼び、風味の良さを褒めて「この飴を食べれば濡れ手に粟のごとく福運がつき身代が飴のように伸びる」と絶賛しているそうです。
笹飴
笹飴は文化文政の頃に売り出されました。
粟飴を白くなるまで練り、ちぎったものを
熊笹に挟みます。
夏目漱石のぼっちゃんには、乳母清が「越後の笹飴を笹ぐるみむしゃむしゃ食べている」と登場したことで有名になりました。
粟あめ
琥珀色がとても綺麗です。「粟」とありますが、原料は餅米です。
自宅に帰ってからスプーンでそのまま食べてみました。優しい甘さでした。また、パンケーキにメープルシロップの代わりにかけてみました。パンケーキのあたたかさで柔らかくなり、バターとの相性もとっても良かったです。
瑞泉寺の時の鐘
1669年(寛文9)高田藩主松平光長の母、勝子(高田姫)が鍋屋町(東本町5)大鐘屋土肥左衛門に鋳造させたものです。馬出町東角(大町2)の町年寄吉田家の屋敷に設置し高田城下に時刻を知らせていた「時の鐘」です。その音色は「世に高田に過ぎたるものの一つ」と謡われています。1876年(明治9)に瑞泉寺の梵鐘となりました。
越後高田にすぎたるものは・・・
『越後高田にすぎたるものは、犬、寺、同心、時の鐘』・・・・あちこちホームページ、文献、
「呉服町」の案内板もこのように書かれています。
高田城築城と同時に城下の整備も行われ、儀明川の西側に寺院を集中させました。これが寺町の始まりといわれています。現在も
63寺が通りをはさみ、整然と並んでいます。これが
『寺』です。
『同心』は意味が2つあり、一言でいうと「下級役人」と「一致団結」的な意味合いがあり、歌詞の説明では江戸時代末期から大正期とありましたので、後者の意味合いの方がしっくり来るのではないでしょうか。高田の人々は協力的で一致団結できる、ということでしょうか。
そして
『犬』ですが・・あまりにも唐突に犬なのであれこれ調べ、大元の
「越後いたこ唄」の歌詞を見てびっくり!!
『越後高田にすぎたるものは、大寺、同心、時の鐘』と書かれています。
「大寺」が「犬、寺」と間違って伝わっているようですが、発行されている本などにも「犬」となっていますので本当のところはどうなのか・・・「大寺」であればスッキリするのですが・・・・とりあえず、「呉服町」の案内板を出している「上越青年会議所」に問い合わせてみましたが、間違えなのか否か返信はまだありません。
春日神社
「高田城」の築城の際、城の守り神として築城1年前に創建された神社です。上の方で説明しました上杉謙信ゆかりの「南方位山(なんぽいさん)」で有名です。
西光寺
いけこみ石仏
妙高山麓でよく見かけた「いけこみ式(植え込み式)」と言われる下半身のない石仏です。平安末期に関山で造られ、春日山城下を経て寺とともに高田城下へ移りました。
札の辻
高田藩は十字路に高札場を設け、札の辻といい各地への里程の基準としました。豪雪のため町全体が雪の下に埋まり、『この下に高田アリ』の高札が雪の上に建てられたという逸話も残っています。
10:30 ここからは街道を離れつつ高田城下、高田城の見学に向かいます。