2020年9月21日

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旧師団長官舎

旧陸軍第十三師団の第三代師団長、長岡外史中将が「師団長官舎」として明治43年に建てたものです。

南城町3丁目(高田高校西側)にありましたが、老朽化したため初代と2代目が居を構えていたという「旧市長公舎跡地」に移築・復元したものです。

長岡外史中将

明治44年当時のオーストリア・ハンガリー帝国軍人レルヒ少佐に将校へのスキー術伝授を要請し、レルヒ少佐によるスキーの指導が始まりました。これが「日本スキー発祥の地・上越」となりました。

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お馬出しの辻

江戸時代、高田城と城下を結ぶお城の玄関口として最も賑わった町の中心街でした。

通りは『雁木の町並み』が続いています。雁木は、冬の積雪時に通路を確保するために、家の道路側 に出した庇の呼び名で、豪雪地帯ならではの生活の知恵です。 雁木の下の通路は、各家の私有地でありながら、共用通路と して全ての人に解放されています。江戸時代前期から整備され、かつては日本海側の各都市 で見られましたが、明治以降は減少しました。市内に現存する 雁木は日本一の長さを誇っています。

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お馬出しの辻には、四角役の森、磯野、池田、四家の大きなお屋敷がありました。森家は薬を商い、江戸時代中城下で一番の権力を持ちました。吉田家の敷地には「時の鐘」が設置され、吉田家が城下の時を守ってきました。
お店がたくさんある繁華街なのですが・・シャッターが閉められたお店が多く、人もまばらです。

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平出修旧宅

明治33年9月より翌年1月まで妻ライと新婚生活をおくった家です。

1878年(明治11)新潟県中蒲原郡石山村猿ヶ馬場(現東区)の名主の家に生まれました。1900年(明治33)、高田の弁護士・平出善吉の妹ライと結婚し、平出家に入籍後、3か月この地で新婚生活を送り、上京して義兄の母校明治法律学校に入学し弁護士になります。大逆事件の弁護を行う一方、短歌の才能も発揮し、石川啄木、吉井勇らと「スバル」を刊行しました。また、大逆事件の幸徳秋水、菅野スガをモデルにした短編小説「逆徒」を発表しますが、内務省により発行禁止となった経緯もあります。

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町奉行所跡

松平光長時代は今の榊神社の所にあり、のち暫く高田郵便局の場所に移りましたが、稲葉正通時代この地に移り廃藩となりました。

奉行所には、藩主から任命された二名の町奉行のほか訴訟・徴税・治安などを担当する係がいて、管下の町年寄を督励し町政を運営しました。

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馬出し堀の一部

お馬出し公園内にある「馬出し堀の一部」だそうです。往時は土塁だったと思いますが、後に雑割石積みを行ったと思います。

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高田まちかど交流館

1931年(昭和6)に百三十九銀行本店として建てられた鉄筋コンクリートの建物で、1943年(昭和18)から2009年(平成21)まで第四銀行高田支店として使われてきました。中には入りませんでしたが、吹き抜けの素晴らしい意匠のようです。

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書状集箱

上越市出身の「郵便の父 前島密」を讃えて、日本で最初に郵便ポストとして使われたものと同型のものを復元して展示してあります。

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町会所跡

旧町名「呉服町」に高田の町会所がありました。町年寄が町政をとる役所です。

初めは町年寄が順番で自宅を町会所にあてていましたが、1744年(延享元)ここへ独立の建物を設けました。明治になると高田町役場、高田市役所に変わり1971年(昭和46)上越市が誕生したことで新庁舎が建設されるまで行政の中心地でした。現在は雁木通りプラザになっています。

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小栗美作住居跡

松平光長時代の筆頭家老で、寛文地震のあと執政の重責を負い、震災後の城下復興、用水開削、新田開発などに手腕をふるい、高田藩最盛期を築きました。特に『中江用水』においては、松平光長時代から開発が始まっていましたが資金難となり中断していましが、小栗美作が総指揮にあたり、藩費を投じて用水路の開削に取り掛かりました。また、維持管理費用を捻出する「余荷(よない)制度」(相互扶助制度)を作りました。しかし、美作の施策に反対する家臣があり、「越後騒動」となり切腹を命じられ、高田藩は改易となる厳しい処分が下されました。

越後騒動

1662年(寛文5)、高田地震により藩政を執っていた家老小栗五郎左衛門・荻田隼人が倒壊家屋により圧死してしまいます。

息子小栗正矩(小栗美作)が父親の高田城代を継ぎ、荻田隼人の跡は息子荻田本繁(荻田主馬)が清崎城代を継ぎます。

美作は藩政を主導するようになると、幕府から5万両を借り受けて高田の町の復興にあて、また藩士の禄を地方知行制から蔵米制に改めました。地方知行制は地方に土地を与えそこで収穫したものが禄となりますが、蔵米制とすると藩の蔵から米を与える、いわば給与になるわけです。こうすることで損をする者も多かったといいます。

そんな折、藩主光長の嫡子が死亡してしまいます。光長はすでに60歳、すぐに世継ぎを決めなくてはならず、家中では小栗美作が自身の子を世継ぎにしようとしているとの噂が流れ、890名におよぶ藩士らは自らを「お為方(主の為になるよう務めるもの)」と称し、小栗美作の一派を「逆意方」と呼び、美作の隠居を要求しました。小栗は隠居し、大六に家督を譲るが、それでも対立と騒動は収まらず、光長は幕府大老の酒井忠清に裁定を訴え出ました。この時はお為方が敗れ、一方の美作派に処分者は無かったのですが、1680年(延宝8)家綱が死去し、綱吉が5代将軍に就任すると一変します。お為方は騒動の再審を願い出ます。綱吉が出した裁定は小栗美作とその子大六は切腹、お為方は八丈島、三宅島などへの遠島処分、高田藩は改易となる喧嘩両成敗の厳しいものでした。

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榊神社

高田藩が明治政府の廃藩置県により廃止された1871(明治4)、家臣たちが徳川四天王といわれた藩祖・榊原康政を祀るため、広く領内から寄付を募って建立した神社です。

境内には雙輪館があり、榊原氏代々の遺品が展示されています。

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対面所跡

松平光長は、対面所とよばれる別邸を建てました。その後、一時は町役所などに転用されましたが復活し、この地に移しました。

越後騒動で一旦は高田藩が無くなり、幕府領となっていましたが1685年(貞享2)稲葉氏が高田へ移封し高田藩が復活します。その後戸田氏、久松松平氏、榊原政純と藩主が変わっていきます。1742年(寛保2)、将軍吉宗から隠居を命ぜられた榊原政岑は政純の後見人として高田へ移り、ここで蟄居して亡くなりました。

二度の大火にあいましたが再建され、明治維新後高田藩知事となった榊原政敬は、城を出てここで政務をとりました。

榊原政岑(まさみね)

榊原政岑は、8代将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備し、吉原では高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請けし、さらに太夫のために3000両をかけた豪勢な酒宴を開いたとされます。これらの行いが享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買い、懲罰的な転封として越後国高田へやってきました。処罰を受けたことがこたえたのか、高田藩に移ってからは子の政純の後見人として藩政の再建に努めたとされますが、1年ほどで亡くなりました。31歳の若さでした。

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国友末蔵胸像

国友末蔵は、関川水源に残した発電所と、それをもとに発展した農業、工業の基盤をつくり、「上越地域電源開発の父」と言われ、上越市の名誉市民第1号です。関川最初の水力発電機も一緒に置かれています。

国友末蔵

国友末蔵は、1881 年(明治14)生まれ、先祖は、近江の「国友鉄砲鍛冶」であり、父は明治維新後に京都へ移り鉄砲商を営んでいました。

京都帝国大学電気工学科を卒業すると、上越電気株式会社に技師長として着任します。最初に手がけた のは関川水系の落差を有効に使った「蔵々発電所」の建設でした。 その後も大正から昭和 20 年代にかけ、大谷・田口・鳥坂・第二大 谷・板倉など次々と発電所建設をすすめ、早川や佐梨川にも発電所を建設しました。 中でも、1934 年(昭和 9)に建設した日本最初の「池尻川揚水式発電所」は、冬季揚水期には湖水を落水して発電をし、春季豊水期には下流発電所の余剰電力で高さ75mをポンプアップし湖に還流させ、1年周期の発電サイ クルを考えたものでした。「一本の関川を二本に利用するもの」と称えられ、「水田約1万町歩が水不足から救われた。」といいます。

また、1907 年(明治40)、高田町は悲願であった第十三師団の誘致に成功しましたが、電気があったことが決め手になったといいます。

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相馬御風歌碑

『にひゆきを手づかみにしてほほはりしかの日はるかなり老いておもふも』

昭和25年建立の歌碑です。

相馬御風

御風(本名相馬昌治)は、明治16年、お隣の糸魚川町で生まれました。父は町長も務め、代々社寺建築を生業とした旧家でした。相馬家一族による建築物は糸魚川市内に数多く見られます。

中頸城尋常中学(現高田高等学校)から早稲田大学へ進学し、詩歌や短歌を発表していきます。小川未明とは中学以来の学友です。早稲田大学校歌「都の西北」、日本初の流行歌「カチューシャの唄」、童謡「春よこい」など今も日本中で愛されている名曲の作詞、生涯で七千首以上といわれる作歌活動、ライフワークとして良寛研究など幅広い活躍をしています。昭和25年、脳溢血で倒れ、66歳で亡くなりました。
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高田城大手橋跡

城の表側正面を大手といい、大手から外郭へ通した道路を大手道と呼び、城と城下町を結ぶ 最大の通りでした。

高田城

高田城は1614年(慶長19)に、加賀前田氏、米沢の上杉氏など13の大名による「天下普請」(必要経費を大名に負担させる)で築城された平城で、徳川家康の六男、松平忠輝の養父伊達政宗が普請総裁として指揮をとり、大坂の陣を目前としてわずか4ヶ月足らずで竣工しています。築城には、高田菩提ケ原が選ばれました。一方が日本海、三方が頸城(くびき)連山に囲まれた高田平野の中央に位置し、関川・青田川・儀明川(ぎみょうがわ)が流れ城にとっては最適の地でした。松平忠輝は福島城(上越市港町)を廃し五郎八姫(いろはひめ)と高田城に入りました。

1871年(明治4)に廃城され、城や池は 陸軍省の所有となりました。1890年(明治23)、政府は軍事費を得るため、 高田城の売却を決め旧藩主である榊原家に払い下げることになりましたが、旧高田町は1907年(明治40)に第十三師団誘致のため榊原家から城や池を買い戻し、陸軍に献納しました。
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松平忠輝

松平忠輝は、1592年(文禄元)に生まれ、8歳の時に伊達政宗の娘五郎八姫(いろはひめ)と婚約、1610年(慶長15)堀氏に替わって越後福島城に入りましたが、福島城を廃して高田城を築きました。しかし在城わずか2年の1616年(元和2)改易となり、伊勢朝熊へ配流の身となりました。改易の理由は諸説ありますが、強気な気質が災いしたといいます。 その後高田城には御三家に次ぐ家格を持つ松平光長が入り、高田藩最大の賑わいを迎えることになりました。

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高田城址公園

公園や周辺を含めて4,000本の桜が植えられています。春は多くの人で賑わいます。

夏は外堀約19haを埋め尽くす蓮の花が咲き乱れ、東洋一と言われます。
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高田城 三重櫓

1614年(慶長19)、高田城は築城されましたが、天守閣は造られませんでしたので、当時は「御三階櫓」と呼ばれて天守閣に かわる城の象徴になっていました。廃城後の1886年(明治19)頃に取り壊されました。

上越市発足20周年記念事業として、1993年(平成5)に絵図や古文書を元に復元されたものです

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極楽橋

1614年(慶長19)、高田城を築城した際に、二の丸から本丸に通じる木橋として設けられました。

1908年(明治41)には、高田城に入城した陸軍第十三師団によって土塁が切り開かれ、堀を埋め立てて陸続きとなった結果、極楽橋は姿を消しました。現在の橋は、高田公園開園50周年及び市制30周年を記念して平成14年に復元されたものです。

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本丸跡

本丸には天守閣は造られませんでしたが、城主の御殿や多くの建物が建てられていました。

本丸の大部分は「上越教育大学附属中学校」の敷地となっています。

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歴史博物館

春日山城・福島城・高田城の三城の変遷やその時代背景、そしてその後の地域の発展の様子を学ぶことができます

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小川未明文学碑

現在、小林古径記念美術館のあたりが工事中で中に入っていくことができませんでした。

なぜか小林古径記念美術館脇にありますが、高田公園南には「小川未明文学館」もあります。

小川未明

1882年(明治15)、旧高田藩士の家に生まれ、中頸城尋常中学校(現 高田高校)へ入学。卒業後は小説を執筆するかたわら童話を発表し続けました。1961年(昭和36)、79歳で死去するまで1000点以上の作品を送り出し、代表作に「金の輪」、「赤い蝋燭と人魚」、「月夜と眼鏡」、「野薔薇」などがあり、「日本のアンデルセン」といわれます。没後、「小川未明文学賞」が創設されています。

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西堀橋

東洋一と称される蓮の起源は、1868年(明治元)戊辰戦争当時、新政府軍の基地となったことや、凶作の影響で藩の財政が困窮していたため、1871年(明治4)、戸野目の大地主保坂貞吉が外堀にハスを植え、レンコンを売って藩の窮状を救おうとしたのが始まりです。その後、レンコン掘りは1962年(昭和37)まで続けられました。

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上越和裁学院

レトロな建物が目にとまりましたが、1976年(昭和51)の建築だそうで、古いものではありません。レトロ調にデザインされたもののようです。

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無量庵

江戸時代後期の漢学者の屋敷と伝えられていますが、図面や記録は残っていません。

昭和初期に一帯の敷地と共に購入し、改修を施しながら住居として使用してきたそうです。高田城が平城であったことから殿様より高くてはならない、また床下に賊が忍ばないように基礎も低くしているそうです。第二次世界大戦中には、「日本憲政の父」と呼ばれ る尾崎行雄の疎開先になり、その庭には薬草園があったそうです。「無量庵」は尾崎行雄の命名によるものです。

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二本公孫樹

「村上のイチョウ」といわれ、高田藩当時、榊原家の家臣村上将監邸の門前にあったといいいます。

明治維新後は鳥籠を作り小鳥を飼い生活費とし、この大樹の枝に滑車を付けて鳥籠を上下したので、カラカラと音がして付近に鳴り響いたといいます。明治32年には、この地に師範学校が創設されました。
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青田川

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四九市場碑

朝市「四・九の市」は、1920年(大正9)に始まりました。一時消滅したものの、1924年(大正13)の夏に現在の場所に復活され現在まで続いています。雁木の道沿いに新鮮な野菜や果物を扱う露店がずらりと並びます。

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芭蕉宿泊地跡

1689年(元禄2)芭蕉は高田の町医者細川春庵宅で3泊し、句会を開きました。春庵宅の見事な薬草園の花に寄せて「薬欄にいづれの花をくさ枕」と詠んだそうですが、「奥の細道」には記載がないそうです。

金谷薬師参詣(金谷山の医王寺薬師堂)と眺望を踏まえ、「雲に嵐の隅々はいかなる所ならむ、・・・・・・」ではじまる謡曲「金谷詣」を作ったといわれています。謡われた旧跡は、金谷山の明神、妙高山、高田城、塩荷谷虚空蔵菩薩、滝寺毘沙門天など十七か所に及んでいます。

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桶屋町

この街に住む9割以上が桶職人だったことから名がついたといわれます。

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旧金津憲太郎桶店

幕末に建築された町家で、高田で現存しているものとしては非常に古いものです。

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高田駅

お城のような駅前アーケードは雁木を取り入れたデザインとなっておりとても素敵ですが、閉まっているお店が多く、人もまばらで寂しい感じでした。お腹が空いたので食事のできるお店を探しましが、開いているお店が全く見つからなかったです。
12:50 今日はここまでです。えちごトキめき鉄道は1時間に1本程度のため、待ち時間に駅のコンビニでパンを買い、駅前広場で食べました。

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小竹のサンドパン

上越市民のソウルフード「小竹のサンドパン」を購入してみました。

小竹製菓は1926年(大正15)に菓子店開業した老舗です。 コッペパンにバタークリームがはさんであります。コッペパンは昭和の給食時代、あまり好きではなかったのですが・・食べてみると、昭和時代のコッペパンとは全く違いますね。ぱさついてなく、ほどよくふかふか、バタークリームも濃厚で美味しいです。レトロなデザインの袋も令和時代だからこそカッコよく見えます。

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小竹の笹だんごパン

これもつい買ってしまいました。このアイディアがスゴイ!新潟名物笹団子とパンが同時に食べられるなんて。そしてこのパッケージが秀悦!

これはパンなのか・・団子なのか・・味も美味しいですが、食感がいいです。パンのもっちり、さらに噛んでいくと餅のもっちり・・もっちり二重奏
高田駅よりえちごトキめき鉄道で上越妙高駅まで戻りました。

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上越妙高駅の上杉謙信像

北陸新幹線開通記念として作成されたもので、30代の若々しい謙信公をイメージしているそうです。

本日は上越妙高駅より車で10分ほどの『神の宮温泉 かわら亭』へ宿泊します。