2019年9月16日
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昨日に引き続き、戸倉駅前のコインパーキング、「システムパーク戸倉駅前」へ駐車します。最大500円と格安です。今朝は旅館でのんびりし、上山田温泉街を散策の後に戸倉駅までやってきました。
10:20戸倉駅前を出発します。
下戸倉宿本陣跡(宮本家)
こちらは柳沢家より代わって本陣となった宮本本陣跡地です。千曲市の保存樹木となっている樹齢300年の立派なクロマツが往時を偲びます。
姥捨道道標
正面には「南無阿弥陀仏」、側面に「左おばすてやはた道」と刻まれています。1764年(明和元)の建立。千曲市八幡の式水別神社へ向かう6kmほどの「八幡街道」の起点に建つ道標です。ここから八幡小路ら入り、上徳間、千本柳、小船山を経て中村の渡しで千曲川を渡り八幡へ通じていました。
御嶽行者碑
木曽の御嶽山信仰の歴史は古く、平安時代からと言われ、最初は修験道の場として独自の山岳信仰として発展して行ったのではないかといいます。御嶽参りを行った行者が建てた碑であろうかと思います。私有地のため近くで見ることができませんので、詳しいことはわかりません。
前回、北国街道を歩いた1ヶ月前は青々していた水田は、黄金色にかわってきました。
百萬遍供養塔・信濃宮古跡道標
「信濃宮古跡迄二町」と彫られています。明治14年再建。「信濃宮古跡」とは、信濃宮と呼ばれた
後醍醐天皇の皇子宗良親王のことで、
宗良親王髻塚のことを指していると思われます。宗良親王は、南朝軍を率いて越後・信濃を転戦しましたが、この地で病にかかり鬢(びん)を供物に神に祈ったところ全快し、その鬢を埋めた塚が柏王神社にあります。鬢とは、頭の左右側面の髪をいいます。
道祖神・二十三夜塔・念仏塔
点在していたものを近年まとめたものでしょう。
このあたりは柏尾村になると思います。既に看板は掛かっていませんが、造り酒屋があったのでしょうか。
一里塚の踏切
一里塚は無くなり、この踏切の「一里塚踏切」の名前だけが残っているのみです。しなの鉄道では懐かしい東海道線の湘南カラーが走っていますよ!!懐かしい!
鷹!?
水田の上を飛んでいる鷹がお米を守っているのですね。鳥よけだと思いますが、結構効果があるんでしょうか。
青麻大神(あおそだいじん)
初めて見る神様です。広報誌によると「中風(中気)除けの神様」ではないかと考えられています。中風とは脳血栓などによって起こる半身不随、手足の麻痺などの症状を言うそうです。
寂蒔水除土堤
千曲川の氾濫から田畑や家屋を守るために1693年(元禄6)寂蒔、鋳物師屋、打沢、小島の四カ村によって築かれたものが一部残っています。土手の横には地蔵堂があったそうですが、今はありません。
二十三夜塔・道祖神・地蔵
宮坂柏二句碑・寄香園蘭頂句碑
『月田毎 我はひとりの 影ぼうし 宮坂柏二』 宮坂柏二は、蘭頂の友の一人です。
『花に酔い 月に醒めたる むしろ哉 寄香園蘭頂』
寄香園蘭頂は、寂蒔の宮坂市郎左衛門で、天保14年、17歳で江戸へ上がり俳句や漢学を学び、嘉永元年22歳で寂蒔へ戻りました。地蔵堂隣の自宅で寺子屋を開き手習師匠として幕末から明治時代まで漢学と俳諧の道を教えました。
松風塚
『名月や 児(ちご)達ならぶ 堂乃掾(えん) 翁』
芭蕉は門人と共に木曽路、洗馬より北国西街道へ入り、猿が馬場峠を経由し姥捨の長楽寺で月を眺め、善光寺へ向かいます。善光寺からは北国街道を江戸へ向かい、その途中にここにあった地蔵堂の縁側へ座り、子供たちの遊ぶ姿を詠んだとされます。
『ひと時も 大事なせたれ 木槿(むくげ)咲く 舟山』
『暮れて行く 月日あらわに 秋の山 松風』
「舟山」は戸倉の人で、本名を宮本八郎といいます。
「松風」は寂蒔の人で地蔵庵主浄海といいます。周辺の道祖神や馬頭観音は近隣の溝中により建立されたものです。
民家のお庭にりんごの実がたくさんついています。薄っすらと色づいてきていました。
名主の家
寂蒔村(じゃくまくむら)は、宮坂さんばかりです。名主も宮坂家でした。以前は「板木」が掛かっていたといいますが、現在は無いようで・・見つからないだけかもしれませんが、恐らくこのあたりだと思うのですが・・・
寂蒔茶屋本陣
間の宿として、宮坂家が茶屋本陣を務めていました。往時は千曲川対岸の姥捨山など更級の名所を遠眼鏡で見せていた「眼鏡場」がありました。家は新しく建て直されていますが、「眼鏡場」は保存されました。
天天皇子神社(あまおうじ)
ケヤキの大木が目を引く神社です。祭神は第十一代垂仁天皇の第十四王子、鳥取の王子と言われた「伊豆志和気命」であり、境内はこの地で亡くなったとされる命の陵墓でもあります。古くは「王子の宮」、「王子(ひのみこ)神社」、「王子大明神」とも言われていました。かつては「王子守祭」が行われ、選ばれた王子守のもと近郷よりねり物が出され、盛大な祭りが行われていました。今でも秋の例祭の行列には「御陵祭」と書かれた旗が加わり、往時を偲びます。
永昌寺
北国街道分間絵図には、「永正寺」と記載されています。間違でしょうか。あるいは名が変わったのか・・わかりません。
寂蒔の集落には「木綿サナダ、イロイロアリ」と書かれ、真田紐が売られていたようです。
宮坂喜昌翁之碑
1805年、鋳物師屋村に生まれ、父は宮坂家の跡を継ぎ医者でした。喜昌は幼少より和歌狂歌を斉藤月彦に、算学を須坂藩士、土屋修蔵に学びます。星暦測量にも通じ寺子屋師匠として多くの門弟がいました。1890年(明治23)、享年86歳で亡くなっています。1892年(明治25)に門弟により碑が建立されました。「従四位勲三等巌谷修書笄篆額」と彫られており、巌谷修(一六)が上部の篆額(篆書で書かれた題字)を書いたようです。上塩尻にも巌谷修書の碑がありました。巌谷一六は、本名を「修」、1834年(天保5)近江生まれの書家、官僚(内閣書記官)、漢詩人、特に書家として名高く、一六はその号です。
小嶋村のあたりは街道が拡幅され、往時の面影は全くなくなってしまいました。
どのような碑であるのか、全くわかりません。「神」、「宮」という文字、「友松」などは読めるのですが・・なにか神社の跡かとも思いましたが、分間絵図には何もないですし、友松さんの筆塚か何か・・?
筆塚・道祖神
屋代小学校旧本館
1888年(明治21)の建築で、1978年(昭和53)まで屋代小学校の本館として使用されてきました。
小川柳翆先生碑
1862年(文久2)屋代町に生まれた南画家(なんがか)で、青年の頃上京し当時の南画家の巨匠、福島柳圃の門に学び、各地に多数の名作を残し、1929年(昭和4)に亡くなっています。南画とは、南宗画を中心とした元、明、清の中国絵画の影響を受け、日本で江戸時代中期以降に興った絵画ということです。
生蓮寺
創建などは判りませんが、立派な本堂、駐車場も広く校倉造りの蔵が目を引きます。分間絵図では矢代宿東側に位置していますが、宿場の火事で何度も焼けたため、現在地へ移転しています。駐車場にある新しい燈籠はとても変わっており、周囲にやかん、ボールに泡立て器(だと思う・・)などが彫られていて不思議でした?お料理好きの和尚様?
新村兄弟の墓
屋代の豪農に生まれた兄弟の弟忠雄は、皇太子の暗殺を企てたことにより処刑、兄の善兵衛は幸徳事件(明治天皇暗殺計画)で懲役8年の刑、1915年出獄し亡くなります。生蓮寺住職が戒名を与え、連名でお墓が建てられています。
鬼足袋代理店
自宅1階の道路側に面した一角がガラスで覆われたショールームのようになっています。現在は営業していないのでしょうが、博物館のように当時の看板などが展示されています。鬼足袋は、東京の寺田淳平商店で作られていたコール天製の丈夫で温かい足袋で、人気がありました。
藤屋旅館
ふじや佐治衛門の看板が掲げられています。北国街道らしい建物ですが、明治以降に再建されたものです。現在も旅館を営んでいるようです。
須須岐水神社
創建はわかりませんが、古来より近隣18郷の総社であり、やがて千曲川の十夜河原を揚水口とした屋代用水の水神となります。屋代用水は18郷に灌漑生活用水を提供しています。1645年(正保2)現在地に鎮座し、古くは国照神社と言われたようですが、1781年(安永10)現在の名になったとされます。1843年(天保14)矢代宿の大火により社殿を焼失しますが、1851年(嘉永7)たまたま近郷の式水別神社の建築で滞在していた宮大工立川富昌を棟梁として再建されました。彫刻の美しい本殿となりました。洪水を避けるために本殿も末社も高い石垣の上に設けられています。
烏帽子岩
社殿が創建される以前より神を招いて祭祀を行った石(磐座・いわくら)と考えられています。一般的には「降臨石」、「影向石・ようごういし」などと呼ばれています。
矢代宿へ入ってきました。1611年(慶長16)江戸幕府により北国街道が制定され、伝馬宿として矢代宿が作られました。当初は散村でパラパラしか家がなかったようですが、30年ほどかかり、軒が並ぶようになったとされます。慶長16年には
「屋代宿」でしたが、やや後世の寛文期(1661〜1673年)には
「矢代宿」と改められているのですが、なぜ改称したのか・・その理由は全く不明です。
矢代宿柿崎脇本陣
柿崎脇本陣と柿崎本陣の両柿崎家は、文政10年に発刊された「諸国道中商人鏡 中山道・善光寺之部全」に略画が描かれているそうです。
松代通り(川東通り)追分
北国街道が成立した当初は松代通りが本道であり、善光寺向かう道は通行を禁止されていました。善光寺へ向かう道の通行が許され繁こちらのほうが繁栄し、事実上の本道となってからも松代通りも対等の「北国街道」です。
今回は、ここから松代通りへ入っていきます。
矢代宿柿崎本陣跡
矢代宿には本町組と新町組があり、1ヶ月を等分して伝馬役を務めました。柿崎本陣は、新町組の問屋を兼務していました。本町の問屋場は松崎平左衛門が務めていました。
このまま北へ進む街道が善光寺道です。今回は追分から東へそれて、松代通りへ進みます。
御前水
明治11年9月8日の明治天皇巡幸の際、柿崎源左衛門邸で小休止され、この井戸水でお茶を立てたのでしょう。
道祖神
多くの宿場の悩みも同じですが、矢代宿の悩みも「火事」でした。本陣家系の柿崎多善が江戸末期に書き残した「屋代期」によると、30回もの火事の記載が見られるそうです。中でも出火最中に加賀の殿様が通り、矢代宿で昼休と決まっていましたが、出火のため篠ノ井の唐猫神社に暫く待ってもらいましたが、なかなか鎮火しないため、本陣柿崎源左衛門が小島村へ案内したといいます。屋根は瓦、土蔵造り、卯建をあげる、秋葉神社(火防の神)を祀るなどの工夫をしていったようです。
屋代高校前駅
13:45 しなの鉄道「屋代高校前駅」到着。本日はここで終了とします。しなの鉄道で戸倉駅まで戻り車をピックアップ、今日も駐車料金は500円でした。この後、再び「万葉超音波温泉」で入浴し帰路につきました。
【番外編】
朝、上山田温泉を出発し、北国街道へ戻る前に立ち寄った場所を記録しておきます。
戸倉上山田温泉
約 100 年前から善光寺詣りの精進落としの湯として発展レトロな昭和風な温泉街です。
戸倉上山田温泉
温泉街西の城山には、「戸倉上山田温泉」の大きな文字が設置されていますが、夜は赤いネオンがついていました。より一層、昭和のレトロ感がありました。
足湯
「水と緑と潤いのある公園」やファミリーマートの前、万葉超音波温泉にも無料の足湯がありました。湯量が豊富な戸倉上山田温泉、源泉は50以上もあり温泉が贅沢に使用されています。
坂井量之助の碑
元々、千曲川の河原に湯が湧いていました。明治6年、これを温泉にしようと境井量之助によって開湯されました。開湯当時は、河原に二間四方の男女別温泉と一見四方の特等浴槽、2つの「かめ乃湯」が始まりです。
畑山三郎の碑
畑山国三郎は、明治8年上水内郡牟礼村に生まれ、明治30年、22歳のときに長野市で消防ポンプ金庫製造販売、自動車修理工場を経営していました。戸倉温泉は度重なる千曲川の洪水に悩まされ、経営は困難となっていましたが、温泉開祖の境井量之助により後事を任された畑山氏は、堤防築造、温泉掘削、盛土、地割、温泉入口の架橋など全財産を投入し、現在の戸倉温泉の礎を築き、昭和6年、56歳で亡くなられました。
津村信夫詩碑
津村信夫は、よく信濃、追分を旅していたようです。石碑に彫られている詩は「千曲川」です
『 その橋は まことながかりきと 旅終りては人にも告げむ 雨ながら我が見しものは 戸倉の燈(ひ)か 上山田の温泉(いでゆ)か 若き日よ橋を渡りて 千曲川 汝が水は冷たからむと 忘るべきは すべて忘れはてにき』
佐良志奈神社
若宮様で親しまれ、志賀直哉の短編小説「豊年蟲」にも登場する由緒ある神社です。社伝によれば、黒彦王(允恭天王の子)の勧請とあり、1450年(宝徳2)以前の創建とされます。正平年中(1346〜1370)には、宗良親王(後醍醐天皇第八皇子)が隠れ住んでいたと言われています。
逆修塚
この宝篋印塔は、南北朝時代、南朝方の宗良親王に従い戦に出る従徒45名の逆修塚と伝わっており、明治初期に八王子山から境内に移されたとされます。1376年(永和2)建立。「逆修」とは、生前に自分の死後の冥福のために仏事を行うことをいいます。