2020年8月12日

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8:50 宿の方に牟礼宿入口まで車で送ってもらい、歩きはじめます。今日は少し曇り気味ですが、気温は引き続き36℃くらいまで上がる予想でした。

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牟礼宿の碑

平成14年に建てられた碑です。

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穀留番所跡

穀留番所跡があったとされるあたりは普通の住宅になっていました。牟礼宿はほとんど古い建物は失われ、街道の面影はほぼありません。

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古間鎌問屋

本卯建のあがる山本家は幕末の建築で、古間鎌の問屋をしていました。鎌は古間を中心に柏原、牟礼で造られ鎌問屋が広く販売していました。問屋制家内工業の発展を象徴する鎌問屋です。

信州鎌

信州北部の北国街道添いの牟礼、小玉、古間、柏原などで作られてきた鎌を指します。鎌の背が厚く、刃は非常に薄くつくられているため、強靱でありながら良く切れます。一説には、川中島の戦いがあった1560年代にこの地を往来し武具・刀剣類の修理をしていた刀匠から郷里の人々が鍛冶技術を習い、それ以来信州鎌が作られるようになったとされます。1818年(文化15)ころ信州鎌の元祖といわれる荒井津右衛門、小林重左衛門、荒井平右衛門が鍛造技術の向上に努め、その後熊坂村から移り住んだ佐藤要八らが古間鎌を発展させたとされます。1982年には国の伝統工芸品に指定され、2007年には特許が取得されています。

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牟礼神社

元は諏訪神社で1651年(慶安4)、矢筒山から牟礼宿へ移設されました。御柱祭があり、牟礼神社が長野県の御柱の北限にあたります。上杉景勝制札、森忠政定書、大久保長安定書があり、いずれも牟礼からの横道を禁じ、長沼・松代道への通行を命じているものです。

次の左手路地が「明神小路」で、元牟礼神社の参道であり戸隠道の起点でした。
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本陣養蚕社・市神・明治天皇行在所碑

本陣は、県道で分断されてしまいました。

1878年(明治11)の明治天皇北陸巡幸は、8月30日から11月9日までの2か月余りを要し、北陸・東海道地方を巡幸されました。牟礼へ来られたのは9月10日。田子御小休所→鍛冶ヶ窪御野立所→牟礼行在所→清水窪御野立所→柏原御小休所→野尻御小休所と回られたそうです。一日でこんなに回ったようです。

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本陣跡

集落は元々、矢筒城の南側にありましたが、戦国時代末期に矢筒城が廃城となると鳥居川と八蛇川に挟まれた水利のよい現在地に移されたとされます。1610年(慶長15)当時の領主、松平忠輝は牟礼を正式な宿場として定めました。江戸後期には家数143軒、寺4軒、人口746人の記録が残っています。1835年(天保6)からは、東組、西組に別れ幕末まで宿場業務を半月交替で行っていました。現在本陣の土地は県道で分断されてしまいました。
加賀藩脇本陣の加賀屋は、現在の牟礼郵便局にあったとされます。

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上ノ酒屋

上ノ酒屋(かみのさかや)は、本陣よりも広い間口をもつ屋敷で、文政の頃、宿内の東組(本陣組)西組(上ノ酒屋組)が対立し、それぞれに庄屋を置き伝馬役も分割されました。宿内機能は低下し、加賀藩は柏原宿を利用するようになりました。

上ノ酒屋には梅鉢の紋(加賀前田家の紋)がある酒蔵が残されていると書かれていますが、酒蔵を確認できませんでした。もう残っていないのかもしれません。

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徳満寺と鐘楼門

1223年(貞応2)覚善の子隼人了玄によって榮部安養道場(徳満寺)の庵を建立します。1289年(承応2)、榮部隼人了玄はこの草庵を去り、牟礼に清水山龍宮院徳満寺を建立しました。鐘楼門・本堂とも善光寺地震以前の1755年(宝暦5)頃のものでしだか、2013年(平成25)火災のため本堂・庫裏を全焼してしまいました。2016年(平成28)本堂・庫裏を再建。鳥居川から引いて境内を流れる徳満寺用水は、街路の用水になっています。

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證念寺

善光寺地震で大きな被害を受けたため、富くじを売り出し、この資金で本堂が再建されました。当時の抽選箱や木札が残されているそうです。また境内には1804年(文化元)に作成された火袋が木製の珍しい石灯籠が残っています。左側のボタモチ積みの石垣は1847(弘化4)の善光寺地震でも崩れなかったといいます。右側は崩れてのちに修復されました。「ボタモチ石」と呼ばれる大きな丸石と組みは北信地方で見られる石組みの技術だそうです。
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十王坂

西の枡形を曲がると「十王坂」です。十王坂付近はわずかに往時の面影が残る急坂です。

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十王堂

十王像は、十王坂の由来となっています。十王は、亡くなったときに仏の世界へ入っていくとき生前の罪業の量刑を裁判し、次に生まれてくる世界を決定する冥土の裁判官です。堂と十王石仏は明治天皇北陸巡幸のとき一時撤去され、 1990年(平成2)元の場所の斜向かいに再建されました。明治天皇に見られてはいけないものなのでしょうか・・・

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観音寺

創建年代等の詳しいことは判りません。門前の六地蔵は牟礼宿「上ノ酒屋(かみのさかや)」小川家一門の造立とされます。

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金附場跡

金附場は江戸時代、佐渡で採掘された金銀を江戸まで輸送する途中に設けられた中継地点です。宿場手前の小玉境に設けられた広場でしたが、南を北国街道に面し鳥居川までの間に300坪の芝野でしたが、鳥居川に浸食され、現在はわずかな畑地を残すのみです。『街道の日本史』には牟礼の金附場跡には土蔵が残されていると書かれています。この本が書かれた2003年頃までは土蔵が残っていたのかもしれません。

金銀輸送

北国街道は、佐渡からの金銀輸送の大動脈でした。野尻湖畔の御金蔵で一夜を明かした金銀荷物は午前中に牟礼金附場で新しい馬の背に付け替え、昼までに善光寺宿へ継ぎ送るのが慣例でした。産出量の多かった江戸初期から中期には2箱に約70kgを馬1疋にのせ、馬には一人ずつの馬子がつき、行列をなして運ばれました。馬60疋分を年に3回輸送していたとされます。牟礼宿の人足と馬だけでは足りず、黒川や小玉など周辺の村々などにも人馬の割当がありました。鉱山労働者としての無宿人(囚人)の護送にも携わっていました。

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黒柳沖之助寿蔵碑

小玉の鎌鍛冶元祖の一人、黒柳沖之助(1854年・安政元生)を称える碑です。

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真龍院歌碑

『住みすてし跡の名残を思ひ出のそでに露そふたびの中道』

1838年(天保9)、真龍院、江戸から加賀金沢への生涯2度目の長旅の途次、旅程の中間に至った感慨を詠んだ歌です。揮毫は真龍院と出自を同じくする善光寺大本願上人、鷹司誓玉大僧正台下です。

真龍院の旅

真龍院(鷹司隆子)は、関白鷹司政熙の息女であり、21歳で加賀藩主第12代前田斉広の正室として嫁いでからはずっと江戸暮らしでした。夫、斉広に先立たれたため出家し、真龍院と称しました。ようやく幕府から帰国の許しを得て江戸を旅立ったのは1838年(天保9)、人生2度目の長旅でした。

「村つづき梺の坂を越え侘びてゆくえも知らぬ今日の山みち」

平出より善光寺平を眺めて詠んだ句です。

「明らけき光をそえて黒姫や飯綱のひまにむかう遠近」

北信五岳を眺めての歌でしょう。 金沢へ着いた真龍院は、兼六園内巽(たつみ)御殿へ入りました。明治維新、加賀藩の最後を見届け、1870年(明治3)、84歳の生涯を閉じました。

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武州加州道中堺碑

江戸時代初期の建立と推定されているこの碑は、江戸(武州・武蔵国)と金沢(加州・加賀国)を結ぶ北国街道の道程の中間にあたることから加賀大名、前田家が建立した碑と言われています。前田氏は参勤交代の途次、ここへ到着すると江戸屋敷と金沢城へ早飛脚を立てて旅の無事を知らせたと言われています。元々は東20mの「立石」の街道沿いにありましたが、明治時代に街道の向かいに移され、1999年(平成11)に現在地に移されました。

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加賀藩小休所

幕末の1856年(安政3)より加賀藩主の小休所となった小玉の豪農黒柳家には当時の庭園が残っています。中には入れませんが、往還からちらりと見せていただきました。

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国道18号線の下をくぐると上へ戻る階段があります。

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高札場

近年再建された高札場ですが、小さめに再現されています。

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玉連寺

越後松平家の家臣田宮春則が出家して開基したと伝わります。徳川家康の位牌をお祀りしているため、寺紋は三ツ葉葵です。加賀前田侯も参勤交代の折、門前に駕籠を止めて拝礼したといいます。

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『隣村落影村まで三十余丁のところ、惣名小玉坂と唱えそのうち極難場に石洗い坂・観音坂・赤坂・金坂などの場所あり。雨天の節は大滑り相立ち、その上洗石多く人馬の通行差し支え候ほどの土地柄・・・』 1846年(元治元)小玉村百姓代儀右衛門「道中奉行への嘆願書」が残っています。当時の小玉村の人々の負担がよくわかります。
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小玉坂

小玉坂は北国街道では碓氷峠に次ぐ急坂と言われた難所でした。

『さのみ嶮しき路には非ず大きなる坂なり、眺望最も興多し』

『春は四方の高山に山桜を見 夏は茂山に涼月を見 秋は紅葉野辺の千種に鶉(うずら)の鳴を聞 冬は雪の梢に花を見る』

加賀前田藩の家臣、浅加久敬が1711年(正徳元)に記した「東武道中輯録(しゅうろく)」にある歌です。「東武道中輯録」は金沢から江戸までの名所を記した道中記です。

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新道と古道の分岐点

舗装のしてある道は、明治9年に竣工した旧国道です。右手の小玉古道へ進んでいきます。
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観音平の馬頭観音

このあたりの地名を「観音平(かんのんびら)」といい、かつては道の守り神、馬頭観音を祀る観音堂がありました。現在はその跡に街道周辺に散在していた馬頭観音などの石仏が集められています。

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小玉一里塚跡

峠の茶屋があった場所に一里塚の標柱があります。

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黒柳清八顕徳碑

1839年(天保10)この峠の茶屋に生まれた黒柳清八は、鍛冶屋に転業し野鎌から古間鎌(小玉鎌)への改良に貢献した小玉鎌鍛冶元祖のひとりです。

このあたりには上杉謙信が名付けたと言われる伝説の「馬止め清水」があるそうですが、全体的に湿地でまた草に覆われており、どのあたりかわかりませんでした。

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戸草道

小玉の山中には古代から越後と信濃を結ぶ官道「東山道(支道)」が通っていたとの説があります。この地点から信濃町戸草に通じる道(戸草道)があり、途中に「見坂」「見坂平」の地名があり、古代の国境の峠「御坂」「神坂」に因むと考えられています。右手が戸草道であり、戸草道の一番高い場所が見坂平です。

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明治天皇御野立所跡

1878年(明治11)北陸巡幸の明治天皇一行はここで休憩されました。地名から「清水窪御野点立」とも呼ばれています。標柱のある場所に天皇の休憩棟「玉堂」、左手平地に右大臣岩倉具視らの休憩棟「随行員棟」が建てられていました。野立ての御膳水は落影集落の旧家井戸から運んだそうです。

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小玉・落影の間女郎花(おみなえし)多し

『秋風をうらみもはてず女郎花うたてもなびく花の色かな』荒木田久老の「五十槻園旅日記」に記されている歌です。ちょうど開花の時期ですが、現在の古道に女郎花は全く見かけなかったです。

荒木田久老

荒木田久老(麻生口六太夫)は、伊勢山田の生まれで、伊勢神宮神官、国学者、万葉学者として知られ、号を五十槻園(いつきのその)といいます。1786年(天明6)御師(おし)として檀家めぐりに出発します。御師とは、伊勢神宮参拝を檀家に勧め、初穂料を募ることが重要な務めでした。伊勢山田を出発した久老は、中山道へ入り、馬籠宿を通り善光寺や松代へ向かっています。5ヶ月余りの旅の記録である「五十槻園旅日記」を記しました。女郎花の歌は小玉坂を越えて北陸へ向かっていた時のものです。

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庚申塔、池中開田記念碑

庚申塔は「文化十三年」(1816年)と刻まれています。池中開田記念碑は、池中と呼ばれていた湿地を水田に改良されたときの碑です。これより西の山裾を迂回する古道もあったようですが、伊能忠敬はこの湿地の道を測量しているそうです。

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落影立場の家

落影は古間宿と牟礼宿の中間にあたり、旅人達が休憩する立場茶屋がありました。十字路の家は「立場野家」と呼ばれています。

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坂中道道標

飯綱町古町の枕石山願法寺を案内するこの道標は、善光寺方面の近道となる坂中道との分岐点に建てられていました。頭部が欠けています。坂中道は、江戸時代に開かれた道です。ここで荷物の積み替えが行われていたと言われます。

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一茶句碑

普通のお宅の前にも一茶の句碑があります。

『後供は霞引きけり加賀の守』

加賀百万石の参勤交代大名行列がとても長く、後ろの従者には霞がかかるほどに見えたのでしょう。
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坂上神社と高札

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四国西国秩父坂東供養塔

江戸時代後期に、四国八十八ヶ所、西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所を巡礼してきた人たちが記念に建てたもので、一緒に行けなかった村人も、この巡拝塔をおがむことで、お参りしたのと同じ効力があると考えられていたようです。

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明治天皇清水窪御前水碑

個人宅の庭に石碑があります。小玉古道、明治天皇御野立ての御膳水は、落影集落のこちらの旧家井戸から運んだそうです。
落影集落より国道18号線を500mほど進み、左手の旧道へ入ると小古間集落へ至ります。

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馬頭観音

小古間集落入口に祀られています。頭上に馬が彫られた小さな馬頭観音は、文久2年の銘が入っています。

小古間(こふるま)集落

小さな盆地で、湿地が多く古沼が語源とされています。戸数20戸ほどの小さな集落で、集落内は交通量が少なく、アスファルトに変わっていますが昔の急な坂道は当時のまま残っています。集落内からは坂道を登りながら見たであろう北信五岳(黒姫・妙高・飯綱・戸隠・斑尾)の壮大な景色を見ることができるそうですが・・・今日は曇っていて残念ながら見えません。
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大悲院

小古間集落で大切にされてきたお寺です。延命地蔵、子育六地蔵が集落の人々を見守ってきました。

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小古間神社

小古間神社は平成21年に延命地蔵尊の横に移設されました。

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高橋助作酒造店

「千曲之真砂」には、『古間村酒の名物也』と記されています。宿内には3軒の酒屋がありましたが、明治初期創業の高橋酒造に受け継がれているといいます。「古間音頭」には、『人情こまやか古間の里は鎌と酒とで名が高い』と唄われているそうです。

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清水の水鉢

一里塚の傍にあった茶屋はこの清水を利用していたそうです。周囲は変わってしまいましたが、当時の水鉢が残っています。

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古間一里塚

1821年(文政4)1月、一里塚に植えられていた松の木が雪の重みで折れ、その下にいた人馬が圧死した事故があり、一茶はこの事故を哀れんで句を詠んでいます。

『一声に此夜の鬼は逃るかな』

左手にある句碑は一茶の句と白飛の句が並んで彫られています。

『ぬかるみに尻もちつくなでかい蝶』

一茶が小古間の湿地がぬかるみ、尻もちをついた跡が大きな蝶のように見えたのでしょう。諦めて引き返したようです。

『こんな村なんのと行か渡り鳥』

白飛の句です。木田白飛は、古間で信州鎌を扱う問屋でした。一茶の熱心な門人で俳句にも熱心でした。
一里塚を経て枡形を曲がると『古間宿』です。

古間宿

古間宿ははじめ越後の上杉氏によって開かれましたが、江戸時代には入ると隣接する柏原宿と鳥居川を境にした合宿になり、月の後半のみ人馬の輸送を行いました。伝馬屋敷は35軒分で御免許屋敷と呼ばれていました。1818年(文化15)の家数は85軒で、商人9人、鍛冶屋6軒、旅籠5軒が軒を並べていました。信州鎌(古間鎌)の製造が盛んで、白飛・雪居(せっこ)は熱心な門人で、一茶もしばしば古間宿へ立ち寄っていたそうです。

「短夜を古間の人のたくみ哉」(一茶)

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古間鎌問屋

明治時代には「古間鎌」として全国に知られていました。古間周辺で作られる鎌を古間宿の商人が問屋として生産者を支配する問屋制家内工業として発展しました。現在宿場内に3軒の鎌問屋があるようです。古間鎌は、現在は「信州鎌」と呼ばれているようです。

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古間宿本陣跡

案内板では「本陣」となっていますが、古間宿では本陣は置かれていませんでした。上段の間をもつ「古屋」に上級武士は宿泊したそうです。母屋は切断され、半分残っているそうです。
古間宿本陣を過ぎてしばらくすると急に雨が降ってきました。次第に強くなり民家の庇で雨をよけ、5分ほどの短時間で弱くなってきました。

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古間鎌の碑

鎌は江戸後期から作られ始め、明治後期には全国に普及し最盛期を迎えます。最盛期の3人の鍛冶職人、佐藤要八、山崎素郷、山崎専之助を讃える碑です。
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鳥居川と馬頭観音

鳥居川には水量が多いため、江戸時代には橋脚のない刎架橋の「寿橋」が架かっていました。

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柏原諏訪神社と一茶最古の句碑

柏原諏訪神社の創建は不明ですが、1634年(寛永11)の頃には既に創建されていたとされます。祭礼のときには歌舞伎や相撲が催され、近在の人々で賑わい、一茶も見物に訪れていたといいます。

この一茶句碑は、1829年(文政12)一茶の三回忌に弟弥兵衛や門人たちによって柏原宿の入口に建立されましたが、明治天皇巡幸の際、幕府の善政を詠んでいるため、明治天皇の目に留まってはいけないと、諏訪神社内に移されました。

『松蔭に寝てくふ六十よ州かな』

「七番日記」(1812年、文化9)の作で揮毫は柏原村を支配していた中野代官所手付、大塚庚作によるものです。

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一茶の弟弥兵衛(仙六)の屋敷

1827(文政10)の大火直後に間口4間半の小さな町屋が再建されました。後にこの家に住んだ大工の米蔵は2階を増築し、1861年(文久元)金沢藩の参勤交代の際、20人と馬1疋が宿泊した記録が残っています。

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弟弥兵衛宅

小林一茶の過酷な人生

一茶は1763年(宝暦13)柏原で生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳で生母を亡くし、新しい母が来ますが折り合いが悪かったようです。一茶を可愛がっていた祖母も14歳で亡くしたため、義母との仲は更に悪化し、15歳で江戸へ奉公にでます。苦しい奉公生活の中でも葛飾派で俳句を学び、30歳から6年余りに渡り俳諧修行のため関西・四国・九州を廻りました。この旅でようやく俳人として認められるようになりました。再び江戸へ戻り、夏目成美に師事し、房総地方などを巡回する生活を送りますが、39歳で父が亡くなると継母、腹違いの弟と遺産相続を巡り、13年間も争ったため、この間江戸と柏原を何度も行き来し、北信濃に多くの門人をつくりました。50歳で帰郷した一茶は父の遺言通り、家屋敷や田畑を弟と分け、屋敷の北半分が一茶、南側が弟弥兵衛のものとなり、間口9間の家を仕切って暮らしました。屋敷の半分の他に土蔵も譲り受けました。52歳でようやく隣村の28歳の菊という女性と結婚し、三男一女を設けましたが幼くして次々と亡くし、更には妻をも亡くし、失意のどん底に落とされますが、わずか半年後には再婚したようです。どうしても跡取りが欲しかったのでしょう。しかしそれも数ヶ月で離縁。さらには離婚後1ヶ月も経たないうちに中風(現在の脳血管障害)が再発し、言語障害が残ってしまいます。しかし知的障害は残らず、俳人としての活動は続けています。後に連れ子のいる女性と3度目の結婚をします。一茶は64歳になっていました。更に1年後の1827年(文政10)6月の柏原宿の大火で屋敷を失い、残った土蔵で仮暮らしを始めますが同年12月にこの土蔵で急死しました。没後、身ごもっていた3度目の妻に女子が生まれ、一茶家を今に伝えています。

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小林一茶旧宅

小林一茶は生涯にわたり2万句にも及ぶ俳句を残したとされますが、最後はこの小さな土蔵の中で亡くなったとは気の毒でなりません。
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小林一茶旧宅

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一茶位牌堂

旧宅の裏には小さなお堂があり、一茶の位牌堂となっています。一茶没後に生まれた女子が建立したといいます。

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一茶句碑

句碑があるあたりが母屋のあった場所です。

『門の木も先つつがなし夕涼』

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柏原宿

古間宿との合宿で、月の前半を柏原、後半を古間宿で分担し人馬の輸送を行いました。この付近は雪深い信越国境に位置し、古間・牟礼・野尻・越後の関川・田切・二俣・関山・二本木を『中山八宿』と呼ばれ、宿場の業務を分担する形で合宿としていました。南北の土手の内側に52軒分の伝馬屋敷と街道の中央に用水と松並木がつくられました。1819年(文政2)旅籠10軒、茶屋4軒、酒屋2軒などがありました。1827年(文政10)大火のため一茶家を含む92軒が焼失しまし、また1847年(弘化4)の善光寺地震においても多くの家屋を失いました。宿場はその後復興し江戸末期には再び加賀藩などの参勤交代の宿所となりました。

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柏原宿本陣

本陣前に高札場がありました。本陣には門や御殿が設けられ、御殿の天井には加賀藩の紋所「梅鉢」の格天井で飾られていました。代々、中村六左衛門が世襲し、中村桂国(利和)、中村観国(利賓)は俳句をたしなみ、一茶と親しく交流していました。本陣中村家は、黒姫山麓の新田開発に取り組み、一茶の顕彰に務めました。問屋業務も兼ねていた流れから郵便局も行っていました。
脇本陣は街道を挟んで向こう側の中村家だそうですが、はっきりどちらの家かわかりません。本陣隣の中村家が庄屋でしたが、享保期以降は名主と改称されました。

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戸隠山道標

1657年(明暦3)建立の道標には「従是戸隠山道」と彫られています。これより西へ分岐し、仁之倉、湯ノ入川、鳥居川沿いに戸隠神社奥社、中社に通じる山道で、古くから戸隠村々との交流や信仰の道として利用されてきました。
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中村家住宅

茅葺屋根の建物は江戸末期から明治初期に建てられたとされ、1993年に84歳で亡くなった野鍛冶職人、中村与平さんの住宅兼作業場でした。明治40年頃に与平さんの父、中村治平さんにより野鍛冶が始められ、その後親子2代に渡り、昔ながらの手法で信州打刃物が作られてしました。現在は町が管理しています。

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中村家住宅の一茶句碑

『朝霜に野鍛冶が散火走る哉』

朝、霜が降りている早朝に鍛冶場から打刃物を打つ鍛冶の音が聞こえてくるような一句です。
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中村家住宅内部

ふいごや松炭を使っていた明治時代以前の古い鍛冶場が残っています。

14:00柏原宿をあとに野尻宿へと進んでいきます。午前中は曇り、一時的に雨が降っていましたが、青空になりましたが、気温も上昇してきました。