2020年10月25日

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9:30 宿泊した『松代荘』を出発します。どこまでも青い空の秋晴れの中、松代探訪の続きです。

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浄福寺

1471年(文明3)、上杉の部将で海津城主になった須田満親が開基しました。1592年(文禄元)に現在地に移り、古くはもっと山際の長礼地区にあったといわれます。尼巌山を背景にした本堂の瓦屋根が美しく、墓地には満親の墓と言われる五輪塔や豪商八田家の墓もあるようそうです。

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長國寺

1547年(天文16)、真田幸隆が真田郷松尾城内に一族の菩提寺として長谷寺を開山しました。1564年(永禄7)に松尾城外へと移されました。1622年(元和元)信之の松代移封に伴い、上田市から現在地へ移され、「長國寺」と改称されました。屋根の立派な鯱は松代城大御門から移されたもので、高さ2mあるそうです。

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長谷川五作銅像

長野県をエノキタケ一大生産地に発展させる礎を築いた長谷川五作の菩提寺は長國寺で、お墓もあります。

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開山堂

三代藩主、真田幸道の霊屋でした。1727年(享保12)建立で、元は信之の霊屋の横に造られましたが、明治5年に本堂が焼失したためこの霊屋を移築し本堂としていました。明治19年に本堂が再建されましたが、霊屋を後ろにずらし「開山堂」として今日に至っています。

霊屋は本堂の裏手、堀を巡らせた中にあります。柵がされて自由に入ることはできません。本堂右手の庫裏に係の人がいらっしゃいますので、一人300円を支払うと鍵をあけて案内してくださいます。丁寧に説明もしていただき、300円では申し訳ないような気分でした。

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真田信弘霊屋

四代藩主、真田信弘霊屋は、1736年(元文元)の建立で、初代藩主信之の霊屋に対して質素なつくりです。
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真田家墓所

歴代の霊屋の南にあり、白土塀に囲まれています。墓碑は宝篋印塔21基、地蔵型碑2基のほか12基の献灯が並び、特に松代藩祖真田信之の墓には石の鳥居が加えられています。

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真田信之の墓

大峰寺にもお墓がありますが、大峰寺で荼毘に付し遺骨はこちらへ、が大峰寺へ収められているそうです。300年近く経つと思われる墓石ですが、あまりにも綺麗です。野ざらしにも関わらず、全く風化していないことに驚かされました。何か霊力的なものを感じざるを得ません。

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信繁、大助供養塔

11代当主、真田幸正によって大正3年に墓所内に建立されました。信繁、大助親子は大阪夏の陣に共に出陣しますが、大助は落城する大阪城内で切腹とも刺し違えたとも言われ亡くなっています。信繁は四天王寺近くの安居神社の境内で休んでいるところを討ち取られたとされます。

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信綱・幸隆・昌幸供養塔

建立年代は、説明では八代将軍吉宗の時代とおっしゃっていたと思います。そうであればとても感慨深いものがあります。真田家の始祖とも言える真田幸隆、その嫡男信綱と信綱が亡くなり真田家を継いだ昌幸、徳川を窮地に陥らせたこの3人の供養塔を建立することをよく許してくれましたね。

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真田信之霊屋

現在修復作業中のため中に入ることはできません。仕上がるのは3年後だそうで、残念です。

霊屋は没後2年目の1660年(万治3)に建築されました。角天井絵は二条城の大広間の襖絵なども手掛けた狩野探幽の筆と言われ、写真で見ると見事なものです。破風(切妻屋根についている装飾板)の鶴は左甚五郎作、左甚五郎は日光東照宮の「眠り猫」の作者ですね。3年後、綺麗に復活した霊屋を見に来たいですね。現在、漆塗りが始まるところだそうです。漆は直接さわらなくても漆を含んだ風をうけてもかぶれる人もいるそうです。この日はまだ始まっていなかったのですが、肌が敏感な方は暫く行かないほうが懸命です。

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長国寺境内案内図

明治の初めまでの霊屋は初代から四代までの藩主のものと歴代藩主の側室がたの位牌を安置したもの一宇、計五宇がありましたが、後に二代藩主御霊屋は林正寺(松代町清野)へ移設され現存しています。側室がたの御霊屋は向陽寺(孝養寺)の本堂として移築されましたが、1891年(明治24)に焼失しました。また、長国寺には恩田杢工の墓、幕末の家老真田志摩の墓、中級武士長谷川昭道の墓、囲碁の名人関山仙太夫の墓、早撃ち銃考案の片井京助の墓、エノキタケの栽培に成功した長谷川五作の墓などがあります。

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児宇大明神

由緒などは不明です。

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梅翁院

真田信之の側室、右京局を祀る寺で、魚濫(ぎょらん)観音が安置されています。魚濫観音は三十三観音の一つで、手に魚を入れる魚籠(びく)をもつ像と大魚に乗っている像があり、邪気の害を除くと言われています。右京局が深く信仰し、信之の冥福を祈ったといいます。

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「見てござる」歌碑

松代出身の山上武夫が作詞しました。1945年(昭和20)の秋、戦後松代に戻っていた彼は少年時代に遊んだ長国寺付近の田んぼの景色を思い浮かべていました。田んぼ道に続く古寺の境内にぽつんと立つ地蔵尊、あの地蔵様はいつも子供が遊ぶ姿を黙って見ておられた・・すると「見てござる」というフレーズが頭に浮かんできたといいます。

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西念寺

元は西応寺といい、1365年(正平20)海津城の大手門南の辺りに建立されていましたが、1600年(慶長5)現在地に移りました。その後、花井吉成が寺を再興したため、中興開基とされています。

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君ケ嶽助三郎の墓

1814年(文化11)東寺尾の半農半商、若林伴蔵(若松屋)の子として生まれました。稲出川市右衛門(浦風部屋)に見込まれ、江戸大相撲力士となります。最高位は前頭筆頭、小兵ながら大関・鏡岩濱之助や小結・常山五良治を倒したそうです。三代目境川の養子となり四代目境川となり、年寄と現役力士とを兼ねる「二枚鑑札」力士でした。

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花井吉成の墓

花井吉成は、1603年(慶長8)、家康六男の松平忠輝が松代城に入ったときに松代の行政に当たった人物です。北国街道の整備、裾花川の改修、新田開発などを行い、人々に感謝され「花井神社」(篠ノ井小松原)として祀られています。1613年(慶長18)大久保長安事件の煽りを受けて自害したとされます。

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問屋杭全家

松代宿には本陣は置かれませんでした。問屋は屋号「嶋屋」の杭全(くまん)家が務め、対藩折衝や対外的交渉、宿駅伝馬の割り振りなどを行う町年寄も務めました。松代の町年寄は4名いました。この建物は明治の大火後に再建されたものです。

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高札場

復元したものです。松代では問屋が高札場の管理を行い、火災時には「高札場堅め」を行い、中町全体で高札場を守ったとされます。

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中町の市太神

江戸時代には御馬出し通り沿いにあり、築造年代は不明ですが、古くは東条尼巌城下(後の東条荒町)にあったものを中町へ移されたと言われています。寛文年間(1660年代)には「六斎市」が中町、伊勢町、荒神町で開かれていました。

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本因坊秀策二十番碁対局の碑

松代藩士で囲碁の名手、関山仙太夫が晩年の1851年(嘉永4)、江戸の若手最強といわれる本因坊秀策を20日連続で対局しました。対局が行われた旅籠梅田屋(現割烹梅田屋)に碑が建立されています。結果は7勝13敗でした。
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松代活動館跡

1913年頃(大正)に開館された映画館がありました。1階は枡席、2階は椅子席で定員800名。洋画、邦画の無声映画を上映していました。1974年頃(昭和40頃)に閉館しました。

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日本電信発祥地碑

1849年(嘉永2)佐久間象山が日本初の電信機を作り、鐘楼と御使者屋敷との間で通信実験が行われ成功しました。昭和42年に日本電電公社(NTT)が建物を買収し、「日本電信発祥遺構」としました。
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松代藩鐘楼

最初に建築されたのは、真田氏が上田から松代に移封されて間もない1624年(寛永元)、以後2度の大火にあい、1801年(享和元)に再建されたものが現在も修復されつつ残っています。鐘楼は藩政時代には昼夜の別なく一時(いっとき・2時間)毎に時刻を知らせ、また隣には火の見櫓があり城下に起きた火事を知らせました。

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懸(あがた)宮稲荷大明神

1820年(文政9)に松代藩預所が勘定し、明治維新後に民間に払い下げられ社も含めて永島新兵衛に渡り、屋敷の鎮守となりました。昭和初期、永島家が松代を去り稲荷大明神は佐藤楳治郎に渡り西木町のお稲荷さんとして親しまれてきました。鳥居は1807年(文化4)建立、石造手水鉢は1867 年(慶応3)に水内郡高井郡16ケ村、権堂村他が奉納しました。

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八田家

御用商人菊屋八田家。町人町八町の最上位の役職である町年寄を代々務めた家で、かつては酒造業、呉服屋を営み、藩を財政面で支えました。松代藩のみならず、岩村田藩や飯山藩にまで大名貸しをし、赤倉温泉開湯にも資金提供をしています。

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山上武夫生家

山上武夫は、「お猿のかごや」「みてござる」などの童謡作詞家として知られています。

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御使者屋敷の跡

松代藩政の時代、他の藩の使者を宿泊させた松代藩の公的宿がありました。佐久間象山が一時期この屋敷を借りて住み、1849年(嘉永2)鐘楼との間の約60mを電線で結び、日本初の電信実験を行いました。
11:40 駆け足での松代城下探訪はこれで終わりです。松代にはまだまだ見るべきものがあります。信之霊屋が見られず、松代荘の露天風呂に入れなかったのが残念です。文武学校や真田邸、真田宝物館などもゆっくり中を見学したいですね。信之霊屋の完成する3年後にもう一度と来たいと思います。

最後の「御使者屋敷の跡」に長国寺入口のバス停がありましたが、時刻表を見るとバスがなさそうでした。仕方なく八田家まで戻り角を曲がり、けんしん銀行松代支店前の「木町」バス停より長野駅へ戻りました。ここからは30分ごとにバスがでていました。長野駅で車をピックアップし帰宅します。