2019年9月15日
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戸倉駅
車は、戸倉駅前のコインパーキング、「システムパーク戸倉駅前」へ駐車します。最大500円と格安です。戸倉駅より信濃鉄道で昨日のゴール、坂城駅へ向かいます。戸倉駅の中には朝早くから開店しているお店があるのですね。何かと便利です。
8:30 坂城駅を出発します。
葛尾城道標
新しい道標の裏に古い道標があります。葛尾城(かつらおじょう)は村上義清の本拠地です。
坂木宿本陣表門
本陣は宮原家が務めていましたが、1799年(寛政11)の火災により焼失してしまいます。脇本陣の中沢家が代わって務め、1833年(天保4)宮原家が再建され、参勤交代での加賀藩の本陣は交代で務めることになりました。表門のみが唯一残っている遺構です。
坂木宿本陣 ふるさと歴史館
建物は昭和4年、医院として建てられたものです。北国街道の宿場町として栄えた坂木宿、また戦国時代、甲斐の武田信玄と果敢に戦った村上義清の居城であった当時の様子や歴史と文化を紹介する資料が展示されています。
名主坂田家
坂田家は坂木村の名主を長く務めていました。
坂木宿は宿場救済を願い出て、飯盛女の設置が許され、1795年(寛政7)には27軒の旅籠に50人の飯盛女がいたといいます。
坂木は村上氏の屋敷村だったため、
城下町のように街道が5箇所で折れ曲がっています。
坂木と坂城
宿場名は「坂木宿」ですが、現在の町名は「坂城」、読み方は同じ「サカキ」ですが漢字が違います。これは、
中山道・坂本宿と漢字が似ているため、明治19年に「坂城」へ変更したということです。
村上義清居館跡
戦国時代、武田信玄を2度打ち払ったという東信濃の武将、村上義清が住んでいた館があったとされます。館は武田信玄に焼かれましたが、義清と共に越後に逃れていた息子、国清が海津城代になった際に、村上氏代々の菩提寺として跡地に満泉寺を建立したとされます。居館は南北160m、東西170mのほぼ正方形であったと考えられています。
満泉寺
村上義清を始め、村上氏代々の菩提寺です。天正年間、義清の子、国清により村上氏の居館跡に建立されたものです。石造りの本尊「石像釈迦如来像座像」は鎌倉時代後期(13世紀後半)の制作とされ、長野県宝として指定されています。確認していませんが、満泉寺には俳人藤沢雨紅の墓もあるようです。
如意輪観音
村上氏の葛尾城は眼下に千曲川を望む山城で、東側の尾根伝いにいくつもの堀切が残り、見晴らしがよく他の山城からも望むことができるそうです。葛尾城へは坂城神社北側の細道から徒歩で約1時間、車では北側から林道のアクセスがあり、駐車場から徒歩15分ですが、道路が細いようで実際車の通行が可能なのか・・
長谷川井戸
1651年(慶安4)、当時の代官長谷川安左衛門利次は北国街道工事の一端として、日常生活、共同生活のため、河水の飲用をやめ、立町・横町・新町(旧長谷川)の3箇所に井戸を設けました。また、宿場の美観のため街の中央にざくろ並木と用水路を設けました。用水を「長谷川用水」といい、井戸は「長谷川井戸」といわれました。河水の飲用を止めさせたのは衛生的な問題だと思われます。
善光寺常夜灯
坂端の高橋孫七を世話人に建立されました。昭和49年に高橋久馬を世話人に復元されました。
横吹八丁入口
坂木宿を抜け、苅屋原榎並木までを結ぶ北国街道は山腹の断崖を通る道で「横吹八丁」と言われていました。このあたりから横吹坂が始まっていました。中世においては極めて危険な細道でしたが、1611年(慶長16)北国街道の改修により道幅を広げますが、それでも細く往還の大名も籠から下りて通行したといいます。現在は登っていくことが出来ないようですので、迂回して国道を歩きます。
絵図によると横吹八丁には、「芭蕉句碑」、「地蔵」、「蘭更塚」、「クワニヨン?」(これだけは意味がわかりません・・)と記載があります。高桑蘭更が建立した芭蕉句碑と、高桑蘭更自身の句碑は苅屋原ミニパークに移設されています。絵図は高田から江戸へ向かって描かれていますので、私が歩いている方向に180度回転させてあります。
聖徳太子碑、道祖神
「聖徳太子」と彫られた石碑を時々見かけます。聖徳太子は一度に何人もの人から話を同時に聞けた、などの伝説を聞いたことはありますよね。こうした聖徳太子の伝説化は平安時代からほぼ完成されていたとされ、また、日本の「仏教の祖」という面からも
太子信仰が広く普及していったとされます。また、多くの寺院を建立したことから
「大工の祖」としても信仰され、江戸時代には、大工・左官・鍛冶屋・桶屋の間で盛んに講が行われるようになったとされます。
横吹八丁
北国街道最大の難所でしたが、1877年(明治10)千曲川沿いに新国道が開通し、横吹八丁は使用されなくなりました。横吹八丁、翫月亭(がんげつてい)跡に明治の石碑が残っているそうですが、そこへ続く道がありません・・・また、横吹八丁に
高桑蘭更が建てた
芭蕉句碑は現在、苅屋原ミニパークへ移されました。
翫月亭付近にあった
つるし仏は西仙寺へ移されたということですが、行かなかったので本当にあるのかは不明です。
つるし仏
つるし仏については、
「善光寺道名所図会」(1849年、嘉永2発行)に記載がありました。
『横吹坂を下る左の谷に、地蔵菩薩の丈五尺ばかりなる石像あり。つるし仏といふ。そのゆゑは、むかし径二尺五寸ばかりの鍋蓋ほどの鉄の観音の像を鋳着けて、鎖をもって木の枝につるしてありしが、今は坂木宿の入口なる西仙寺に納めて、その跡に右の石仏を建てて、つるし仏といひ伝ふとなり。往古の仕置場なりとぞ。』なお、善光寺道名所図会は、善光寺より江戸へ向かって進んだ方向で記載されています。左手は北の方向、江戸から善光寺へ向かっては右側になります。つるし仏は、75cmくらいの鉄製の観音様で、善光寺道名所図会が書かれた時には既に西仙寺へ移され、その場所に別の石仏が安置されていたようです。確かに分間延絵図では、「地蔵」と書かれています。これは、後に安置された地蔵のことでしょう。また、つるし仏がぶら下がっていた場所は昔は刑場だったと書かれています。
横吹八丁
翫月亭へ行くため、少しでも道らしきものが残っていないか探してみました。トンネル手前から奥へ行けそうな場所もありましたが、モノレールのようなものが敷設されていますので、私有地のようでした。
坂城のバラ
戦前より菊、カーネーション、トルコギキョウなどの切り花の産地として全国的に知られていた坂城町、昭和50年代よりバラの栽培が最盛期を迎え、バラを町花としたことから平成13年、千曲川のほとりに「坂城千曲川バラ公園」が完成し、330品種2300株のバラが毎年大輪の見事な花を咲かせるそうです。沿道のあちこちにバラが植えられています。
苅屋原ミニパークには、笄(こうがい)の渡し跡、高桑蘭更(二夜庵)の句碑、芭蕉十六夜塚(芭蕉句碑)、馬頭観音、姨捨山冠着宮遙拝所碑、小林一茶の句碑などたくさんの石碑が並んでいます。
笄(こうがい)の渡し跡
このあたりに「笄の渡し」と言われた千曲川の渡しがありました。笄橋を渡った対岸に渡場の説明板もあります。
笄(こうがい)の渡しの伝説
村上義清は
武田信玄との激しい戦いにより1553年(天文22)ついに
葛尾城が落城し、奥方とも別れ別れに城を出ることになりました。奥方は数人の腰元と共に暗い山道を下り、千曲川の川辺へたどり着きました。川を渡って支城である上山田の
荒砥城へ逃れようと舟の
船頭へ訳を話したところ快諾し、無事に向こう岸の力石につくことができました。身の危険を顧みず、舟を出してくれた船頭に感謝し、髪に刺していた
笄を手渡しました。村人たちは奥方をしのび、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになりました。笄とは、髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具で、かんざしのようなものです。
高桑蘭更(二夜庵)の句碑
『よこふきや駒もいななく雪あらし 二夜庵』1801年(享和元)に建立されました。元々は、芭蕉句碑と同じく、横吹八丁西側にあったものだと思われます。
高桑蘭更は、江戸時代後期の俳人で『落葉考』を著して松尾芭蕉やその門弟の作品や資料を復刻し蕉風復古を唱え、天明以降は京都に永住し東山の高台寺付近で芭蕉堂を営んだということで、熱烈な芭蕉信仰者だったようです。
芭蕉十六夜塚
芭蕉の更科紀行において、坂木で十六夜の月を詠んだもので、『いざよいも まだ更級の郡(こおり)かな』が碑の裏に彫られています。1774年(安永3)横吹八丁の山道に建立された句碑は、崖崩れで行方不明となったようですが、1843年(天保14)年に発見され現在地へ移設されました。
馬頭観音
ボロボロに劣化しており、最後の一字「音」の文字だけが読み取れます。右側面には連花を持った観音様が彫られています。
姨捨山冠着宮遙拝所
更級郡更級村初代村長の塚田小右衛門雅丈が、「実ノ姨捨山」は冠着山である事を周知させるために明治に碑を建てました。古代の歌人が詠んだ姨捨山や田毎の月に関する歌などの碑文が刻まれているらしいのですが、風化が激しく、何も読み取れません。他には麻績村遙拝所、稲荷山町遙拝所があります。
写真を取り忘れてしまいましたが、苅屋原ミニパークの階段下に
小林一茶の句碑もありました。小林一茶は何度も北国街道を通っていたといいます。
『横吹や 猪首(いくび)に着なす 蒲頭巾(がまずきん)』が彫られているそうです。
笄の渡し跡
笄橋を渡った先に「笄の渡し」の説明板があります。
筆塚と泉徳寺の石碑群
宮本虎杖(こじょう)の句碑
泉徳寺にある虎杖の句碑、正面には「虎杖翁」、裏面に「夜桜や 世に阿類ものの迎馬」と句が彫られています。1811年(文化8)建立。虎杖は、下戸倉の豪農に生まれました。加舎白雄へ入門し、共に北陸、関西などを行脚、蕉風の復古に力を注ぎます。後に江戸の松露庵烏明の元で修行し1784年(天明4) 虎杖庵と号します。
泉徳寺馬舎の馬
馬舎に入っていて馬は、木で作られていましたがとっても愛らしいお顔でした。
泉徳寺を後に国道18号線を戸倉方面へ進んでいますと、崖の上に何やら尖った石が乗っています。カメラの望遠で見ると絶妙なバランスで立っている岩でしたので、望遠で撮ってみました。帰宅後に調べてみました。
比丘尼石(びくにいし) (苅屋原の七不思議)
「戦国時代、
村上義清が葛尾城を自落させ、武田氏の侵攻から逃れる際、義清の奥方も姫城から脱出しました。しかし眼下の里人を思い、ここに立ち止まって、「自分はどうなってもよいが、里の皆は永遠に幸せであるように」と祈願を始め、そのまま石になった」という伝説の石です。地元の人は、この石が経を読んでいる奥方の姿だと信じ、
比丘尼石と呼ぶようになりました。
舟つなぎ石
千曲川を挟んで力石に行くには渡し船により行われ、舟つなぎ石で乗り降りし、舟をつなぎました。大水の際も舟つなぎ石に繋いでおけば流される心配はなかったといいます。現在は信越線の開通により、石も渡船場もなくなりました。
国道舗装記念碑
当時の長野県知事 林虎雄氏の筆で、在任期間は1947年〜1959年ということです。
後ろの踏切を渡り旧道へ入っていきますが、この岩の露頭している所で岩を触ってみますと、サラサラの砂岩だということが実感できます。この削れやすい地質が千曲川によって削られ、このあたりの地形を造った一因でしょう。
庚申塔
この辺りが上戸倉宿の東の入口だったのでしょう。
上戸倉宿
戸倉宿へ入って来ました。戸倉宿は元和元年、上戸倉宿と下戸倉宿に別れました。宿場としては、上戸倉宿が毎月22日から30日まで、下戸倉宿が1日から21日までを務めていました。
上戸倉宿本陣跡(玉井家跡)
上戸倉宿の本陣は、当初は玉井家が務めていましたが、幕末に小出家に変わりました。玉井本陣跡地のゴミ置場に宿場用水についての説明板があります。現在はU型側溝に代わり用水は見られませんが、往時は貝喰沢水(かいばんさわ)から引水した伏井戸があり、終戦時まで残っていたそうですが、県の水道を引き込むことにより、撤去されたといいます。伏井戸というものがわかりませんが、恐らく沈砂池的なものかと思います。引水した水を一次貯めて、不純物を沈下させて綺麗な水とするシステムでしょうか。
上戸倉宿本陣跡(小出家)
左手が幕末に上戸倉本陣を務めた小出家です。対面のお宅も立派な古民家です。
二十三夜塔・道祖神
右側の石碑は、何かわかりません。句碑のような・・歌碑のような・・表面が割れていますし、髭文字でよく読めませんが「佛」の文字がありましたので供養塔でしょうか・・?
聖徳太子碑と埴科郡戸倉村道路元標
聖徳太子碑は、大正時代の建立、起願者、金井二郎と彫られています。先程も聖徳太子碑がありました。このあたりは「太子信仰」が普及していたのでしょうか。
水上布奈山神社
諏訪大社より勧請し、鎮守としました。当初は「諏訪社」と呼ばれていましたが、1835年(天保6)現在の名に改称しました。寅と申の年には諏訪大社に習い、御柱のお祭りが行われています。現在の本殿は1789年(寛政元)、諏訪の大隅流大工、柴宮長左衛門矩重により再建されたものです。
飯盛女の献燈籠
1839年(天保10)下戸倉宿に働く飯盛女52名が旅籠屋主人らと共に稲荷神社前に献したものであり、台座にその名前が刻まれています。稲荷に向かって右手が飯盛女の献燈籠で、はつ、うめ、さとなど仮名で女性の名前が刻まれています。左手がその主人ら14名の献燈籠です。
下戸倉本陣(柳沢家)
下戸倉の本陣は柳沢家から宮本家へ変わっています。酒屋もしていたため、「上の酒屋」と呼ばれていました。明治天皇御昼休を記念して、行在所跡碑が建てられています。
下の酒屋(坂井銘釀)
酒井家は元々、信濃国屈指の大地主でした。15代坂井量之助は、明治時代に苦労して戸倉温泉を開いた人物でもあります。敷地内には「宝暦蔵」、「寛政蔵」、「慶応蔵」、「明治蔵」、「大正蔵」が残っています。中でも最も古い建物がこの茅葺きの主屋で、1760年(宝暦10)の大火の後に再建されたものです。
酒造資料室
蔵を利用した酒造資料室では実際に酒造りに使用していた古い道具や地域の歴史を垣間見る古文書などが展示されています。また、別の蔵では坂井家に訪れた加舎白雄、竹久夢二の資料や作品も展示されています。
@ 洗米 玄米を精白し、精米を洗う
A 蒸し米 こしきに入れ大釜に乗せ1時間ほど蒸しむしろに広げて冷やす。
B 麹作り 20℃に保たれた麹室で蒸した米を薄い麹蓋に1升ずつ盛り、麹菌をふりかけ混ぜて重ね、2昼夜おくと麹カビが広がる
C 仕込み 蒸米と麹と仕込み用の水とを混ぜ醗酵させるともろみになる
D しぼり もろみを3〜4升ずつ袋へ入れ、数百枚積み重ね圧搾し、その後濾過して貯蔵する。
坂井銘釀でお土産に買ったお酒達です。酒造は現在、長野市にある「よしのや」の工場で行われているそうです。ここでは販売だけです。お酒のほかにも地元のあんずを使ったジャムや名産品が売られています。また、お蕎麦屋さんも併設されていて人気です。ちょうどお昼時だったため、多くの人が待っていました。
ワインは山梨ワインなどと味はほぼ同じように感じました。ウイスキーは山崎などの高級ウイスキーほどの芳醇さはありませんでした。香りが少ないというか。そして最大の興味は「ねずみ大根焼酎」でしたが・・う〜ん。確かに辛口ですが大根の香りと味がやはりお酒にはどうでしょうか・・・そのまま飲むのはつらいです。なにか利用方法を考えないと。
天狗?
山の中に何かあると、望遠で撮影すると、大きな天狗でした。調べると「キティパーク」という公園のようです。楽しそうな遊具があり、春には見事な桜が見られるようですね。
11:50 今日の「北国街道歩き旅」はここで終了します。戸倉駅前で車をピックアップします。駐車料金は500円でした。
ここからは車で移動する
【番外編】です。ちょうどランチの時間のため、まずはGoogiesへ。
【番外編】
Googie's
Googie'sは、旧北国街道からわずか150m程度の国道沿いにありますので、徒歩でも寄ることができます。
有名人も結構来ていました。写真がずらっと貼ってあります。ライダーの人とか多いですね。皆さん
信州バーガーを注文していましたね。
サラダ
サラダバーとドリンクバー、ポテト、そしてお目当ての信州牛バーガーを注文しました。サラダバー、野菜の種類は少ないですが、野菜は新鮮で美味しいです。
信州牛ハンバーガー
ケチャプとマスタードが別にきますが、ケチャップをつけるとケチャップの味しかしなくなってしまいますので、私はパテに塩コショウをかけていただきます。お値段は1,200円と高めですが、肉汁いっぱいでほんと、美味しいです。また食べたいです。他にもパフェなども美味しそうで・・また食べられるチャンスがあるといいのですが。
象山砲術試射地
一里山へ向けて撃った砲弾は、屋代駅近くの満照寺近くへ落ちました。松代藩領から幕府領内へ飛んだため、騒動となりました。「大砲打ち損なってべそをかき、後の始末を何と象山」と狂歌に唄われ、からかわれました。
蕎麦の花
森将軍塚古墳館
古墳へは自家用車で登ることはできません。古墳館の駐車場へ停めて、古墳見学バスに乗るか、あるいは徒歩で登るかです。徒歩ですと20分程度、バスでは3分くらいでしょうか。バスは片道200円、往復は400円でした。古墳館の見学をする場合は、バス券と一緒に買うとお得です。
森将軍塚古墳
古墳は今からおよそ1600年以上昔に作られた全長100mの前方後円墳です。当時の
科野のクニを治めていた王の墓と考えられています。
森将軍塚古墳からは
「屋代の田圃」が一望できます。屋代の田圃は、千曲川の後背湿地であり、弥生時代から続く穀倉地帯で、中世から続く条里制の遺構が残っています。
バスは往復券を買っていたので、再びバスに乗り古墳館まで戻ります。
科野のムラ
長野県立歴史館の地下から発見された古墳時代中頃のムラを復元しています。
荒砥城
この地を治めていた村上氏の一族である山田信兼によって応仁時代(1467〜1468年)頃に築城さ、郭が連なるように並んでいます。荒砥城と千曲川を挟んだ対岸の山頂に築かれた葛尾城(かつらおじょう)の城主、村上義清は1548年、上田原の戦いや1550年の戸石城の戦いでは武田信玄との戦いに勝利し、領地を守ってきましたが、武田軍の圧倒的な軍勢の前に1553年、ついに葛尾城は落城し、荒砥城もこの戦いで城主を失い、山田氏は滅亡します。その後、川中島の戦い(1553年〜1564年)を経て荒砥城は上杉氏の治める城となりますが、海津城の副将であった屋代秀正は上杉方に背き、海津城を出て荒砥城に篭もります。1584年、上杉軍に攻められた荒砥城は落城し、廃城となりました。
園内には当時の山城の様子を再現した館や兵舎、櫓などが立ち並びます。荒砥城からは千曲川や遠くには北アルプスや戸隠山、飯綱山などの雄大な景色を望めます。
荒砥城門
NHK大河ドラマ「風林火山」では、海ノ口城として使用されていました。また、同じく大河ドラマの「江〜姫たちの戦国〜」では小谷城として撮影されました。
二の郭と本郭
建物の中ではビデオを見られるコーナーや展示物があります。ビデオがちょっと古いですね。現在の技術で作り直してほしいですね。
キティパークの天狗が全身よく見えました。写真は望遠で撮っています。
本郭、二の郭、三の郭、四の郭とあり、さらに本郭の背後、冠着山方面への尾根伝いに砦や證城(あかしじょう)を配置しています。
本日は、上山田温泉
『民芸の湯 中央ホテル』へ宿泊します。荒砥城を下りた場所が上山田温泉です。