2021年6月20日

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洗馬駅

7:00 洗馬へ来たのは2年ぶりくらいでしょうか・・「北国西街道」を洗馬宿から松本方面へ進んでいきます。北国西街道は善光寺道とも呼ばれ、中山道洗馬宿分去れ(追分)より分岐しています。

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分去れにあった道標

本来の「分去れ」はこの先にありますが、道標は分去れから移設され、現在は二股の道路にあります。
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分去れの常夜灯

北国西街道はこの分去れから始まります。先程の道標はここにありました。北国西街道は北国往還、善光寺道とも呼ばれ、往時は善光寺参詣道として多くの旅人が行き交いました。

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石仏群

文化8年の名号碑や観音供養塔が並んでいます。
分去れから250mほどで左へ曲がり、北国西街道を離れて少し寄り道していきます。

TOO001 奈良井川が大きく蛇行するあたりの耕作地を奈良井川段丘上から眺めます。段丘をおり、畑の中を進み本洗馬方面へ向かいます。

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琵琶橋と琵琶橋石碑

もとは「久米ノ岩橋」であったようです。古くから洗馬郷の重要な交通路であり、江戸時代、二代将軍の隠し子(後の保科正之)の養育料として高遠保科氏に加増された地であり、高遠とを結ぶ重要な橋でありました。「琵琶の名手蝉丸伝説」により「琵琶橋」と呼ばれています。

蝉丸伝説

一条天皇の時代、盲目の法師が橋の近くでいつも琵琶を弾いていました。村人に「琵琶の弾奏で皇室に奉仕をしたいので諸国をめぐり琵琶を極めたい」と語っていました。ある日、天子様に差し上げるに十分な曲ができたと京都を目指し洗馬を去って行きました。後にこの岩橋を「琵琶橋」と呼び、盲目の法師こそ琵琶の名手蝉丸であったとされます。

蝉丸は平安時代前期の歌人であり琵琶の名手と言われています。逢坂の関にて隠居生活を送ったとされ、「蝉丸神社」がありました。「小倉百人一首」には歌が納められています。「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」

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石仏群

琵琶橋を渡った先の突き当りにある石仏群です。双体道祖神、名号碑、庚申塔、不動明王碑など寛政期や天保期の石仏が並んでいます。

突き当りを右へ進みます。

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この道は「仁科街道」にあたります。松本平、梓川より南の人々にとって仁科(大町)へと向かう街道です。松本からは「千国街道(塩の道)」として新潟県糸魚川へ至ります。

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軍馬記念碑

上組公民館は観音堂が併設され、石碑や石仏などが多く残されています。
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瑞松庵(観音堂)

天正13年頃、第三世康翁封泰和尚のもとへ菩薩を背負った紀州の六左衛門という修行者がやってきました。彼の話しによると、一人娘が病に冒され、見苦しい顔になり悲しんでいたが、菩薩像を授かり一心に礼拝を続けた所、病は全快し美しい姿となりました。以後、各地をまわりその功徳を讃えているといい、像を和尚に渡し立ち去ったといいます。

上組公民館より「氏神参道」として東漸寺前まで山道があるようですが、昨日の雨で濡れ、また急勾配なので迂回し、阿礼坂より東漸寺へ向かいます。

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阿礼坂

奈良井川の河岸段丘を登る坂を「阿礼坂」というようです。登り始めはヘアピンカーブのくねくね、半分ほど登ると直線になります。車は通行できない細い坂道です。

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上組の水場

阿礼坂を登りきった突き当りに水場がありました。木製の板に説明が書かれていたのですが、消えてしまって全く読めませんでした。

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東漸寺のシダレザクラ

花が咲いている時期ではないのがちょっと残念ですね。
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東漸寺

知恩院直末の古刹である東漸寺は、木曽義仲の一族であった長瀬半官代が文永年間(1264〜1275年)に祈願寺として西光寺を建立したのが始まりと言われています。義仲討死後は兵火にあい、暫くは跡のみでしたが長瀬半官代から5代目の武士で洗馬出身の僧、経誉愚底上人によって中興され、東漸寺と改められました。

また寺には「信斎館」があり、陶工奥田信斎が窯を開けるたびに最も気に入ったものを御本尊に供えたと言われる作品が収められているそうです。信斎は1821年(文政4)伝統ある信楽の陶工の家に生れました。放浪の陶工と言われ、1885年(明治18)まで洗馬で製陶し、越後、甲州勝沼へ移り、1902年(明治35)に亡くなられました。

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長瀬半官代

「源平盛衰記」によると長瀬半官代義員(よしかず)は木曽義仲の従兄弟であり、義仲とともに平家を追討し京へ進みましたが、1184年(寿永3)に三条河原で討たれました。宗賀の白山神社西側に墓が残っています。 東漸寺の前身、西光寺を建立した長瀬半官代は義員の後の長瀬半官代でしょうか?年号があいませんね。

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原家

塩尻市有形文化財として原家文書と住宅が指定されているようです。洗馬郷大庄屋と説明されていますので、「洗馬騒動」洗馬郷大庄屋、原熊三郎のお宅でしょうか。

洗馬騒動

洗馬郷は高遠藩の飛地であったのですが、1820年(文政3)高遠藩は財政が苦しかったことから、献金に応じた農民には帯刀・家格を向上させるとお触れを出しました。元々の村役人や庄屋はそれまでと同じ地位の保証を要望しましたが、却下されました。1822年(文政5)には15歳以上の者、男子は草鞋を一日に2足女子は1ヶ月に木綿一反をそれぞれ5年間納入するという特別奉仕が示されます。草鞋を作ったことがないのではっきりとはわかりませんが、農作業だけでも忙しいのに、毎日、毎日2足の草鞋を作るのは大変な労働だと思われます。伊那ではこれで騒動(草鞋騒動・興津騒動)になるのですが、洗馬は参加しませんでした。しかし、600両の御用金を百姓に割当て負担させるという噂が立つと一気に不満が爆発。寄付により帯刀を許された新興村役人は助郷刎銭の不正(今で言う中抜き?)、琵琶橋の架け替えの際の不正利得などからも恨みを買っており、この新興役人の家14軒と60余棟の家を打ちこわしする騒動へと発展しました。洗馬郷大庄屋・原熊三郎、小曽部村年寄・新倉伴右衛門、本洗馬村在仕送役・熊谷小平治らが一揆勢を解散させると藩庁に赴き、わらじ・木綿の新課税の廃止や、村方三役を三年任期の入札制、帯刀や新役の取り下げが認められ、騒動は収まりました。原熊三郎ら3名も一時期は牢へ入れられましたが、文政期、天保期の二度にわたって藩政改革に参画しています。

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阿礼神社

塩尻の阿禮神社から勧請されたものでしょうか。小さなお社です。
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福聚寺

小さなお寺ですが、詳しいことはわかりません。

福聚寺山門を出て左手へ入り、小川へおりていくと長興寺参道へでるための小さな橋がかかっています。橋の袂に「長興寺参道湧水」があります。

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長興寺参道湧水

「塩尻市ふるさとの名水20選」に選ばれている湧水です。冷たく綺麗な湧水で、水量もたっぷりあります。
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長興寺

1527年(大永7)洗馬城々主三村民部少輔源忠親公の菩提寺として創建されました。武田信玄より安堵され、江戸時代には徳川家光により朱印状を受け、学問寺として栄えましたが、1908年(明治41)に火災により本堂を除き全てを焼失しましたが、大正時代に再建されました。
長興寺山門左手には菅江真澄の民俗学記念碑・歌碑があります。

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民俗学記念碑・歌碑

『夜とともに行ふ法のともし火やたたぬひかりをみねの古寺 秀雄』

文人で紀行家の菅江真澄(秀雄)は1783年(天明3)故郷の三河を旅立ち、伊那谷を通り長興寺洞月上人を訪ねました。そして1年余りを釜井庵に留まり上人に和歌を学び、若者には教え、近郊各地を探訪し詳しく書き残しています。奥州へ旅立つ際には洞月上人により「和歌秘伝書」を授かりました。

柳田国男が昭和5年に民俗学の先駆者、菅江真澄ゆかりの長興寺を訪れ「民間伝承論大意」を3日間講義したことから、民俗学者折口信夫と共同の歌碑が建立されています。

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観音像

小枝御前の墓へ行くため、長興寺本堂左手から山道を登っていきます。斜面に無数の観音像が建立されています。50mくらいでしょうか。苔むした茶色い石祠が2つ並んでいるのが目印です。

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木曽義仲御母堂の墓

小枝御前は木曽義仲の母です。義仲(駒王丸)2歳の時、父の源義賢が甥の悪源太義平(頼朝の兄)に討たれたため、母とともに信濃の中原兼遠のもとへ逃れましたが、心労からか1年足らずで亡くなったとされます。宮ノ越の徳音寺にもお墓がありました。

長興寺をあとにして参道を戻り、T字路を左へ曲がるとすぐにあるのが「洗馬焼和兵衛窯跡」です。

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洗馬焼和兵衛窯跡

信濃では江戸時代後期から明治時代にかけて各地に窯が開かれ、この和兵衛窯も同時期に使用されていたものです。
更に北へ向かって進み、T字路を再び左へ曲がると「本洗馬歴史の里資料館」があり、その奥に「釜井庵」があります。

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釜井庵

戦国時代、妙義山城主三村氏の居館跡に18世紀中頃に建てられた庵です。江戸時代の文人・紀行家として知られる菅江真澄が1年余りを過ごしました。また寺子屋として丹羽花遥、大脇正蔵、小林源吾等の手習い師匠がこの庵で指導していました。

妙義山城

三村氏の山城で釜井庵より登ることができます。標高は895m、現在は山頂に妙義神社が鎮座しています。長興寺からも登り口があります。

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夜泣石

1555年(天文24)三村氏が甲府の一蓮寺で武田信玄に謀殺されてから、夜な夜なすすり泣くといいます。
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3つの碑

左 丹羽花径先生の碑

江戸で山形藩に士官していた丹羽花径は長興寺洞月上人の元に身を寄せたのち、釜井庵寺子屋師匠を40年近く勤め、文政3年、この地で没しました。碑文は同じ文政期に2度に渡り洗馬郷小曽部に逗留した江戸の漢学者・兵学者、加藤環斎によるものです。

中央 九月一三夜の碑

1783年(天明3)菅江真澄は本洗馬の文人と名月を眺めて歌を詠み合いました。

『待ちわびし木々の紅葉の梢より もりてさやけき長月のかげ 直堅』

『雲晴れて後の月こそさし出れしなとの風の神のめぐみに 永通』

『しらぎくのしらぬくまさへあらはるゝ 世に長月のけふのこよひは 秀雄(真澄)』

右 熊谷祐碩の狂歌

『いざゝ良ば筆をの故して 古の石にものいは寿るも月下の事 末廣』

熊谷祐碩は末廣、または夕夕と号し狂歌を詠みました。本洗馬で代々医者を営み、先代は菅江真澄を世話した可児永通であり、5代後が長野県初の文化勲章受章者である熊谷岱蔵博士です。

釜井庵をでると東へ進み、仁科街道を越えて500m、奈良井川の段丘崖をおり、県道292号を更に東へ進みます。

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太田の清水

『木曽どのと馬あらふ里よ水清し』

木曽義仲が馬を休めたとの伝説が残されています。 「塩尻市ふるさとの水20選」に選ばれていますが、水がでていませんでした。
更に県道292号を東へ100mほどで奈良井川の段丘崖を今度は登ります。その段丘崖に「御嶽神社」がありました。

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御嶽神社

天保14年、明治18年、村中の銘がある石碑などがあります。
段丘を登った道を南へ進むと四つ角に覆屋のある石仏群がありました。

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高遠石工馬頭観音

馬頭観音を過ぎて100mほどで、ようやく北国西街道へ戻ってきました。ここからは郷原宿を目指して北へ向かい進んでいきます。

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太田の一里塚跡

塚はなくなり、新しい石碑が建つのみです。
工場ばかりの面白みのない道を進んでいきます。中部電力の送電所を過ぎた交差点に馬頭観音があります。

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馬頭観音道標

馬頭観音には「左 志ほ尻」と彫られ、道標にもなっていました。郷原宿方面から来た旅人が塩尻方面へ向かう分かれ道になっていたようです。

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郷原宿

郷原宿の南木戸あたりにあたるのでしょうか。郷原宿は枡形がなく、直線に整備されているのが特徴的です。

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本陣山城屋

郷原宿には本陣は置かれていませんでしたが、大庄屋山城屋赤羽家は通称、本陣と呼ばれていました。北国西街道は原則的に大名の通行はありませんでたしので、幕府役人や勅使などが利用していました。
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上問屋(郷原簡易郵便局)

問屋業を受け継ぎ、現在は郵便局となっています。

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古井戸と歌碑

桔梗ヶ原台地であるため水には大変苦労したといい、奈良井川上流(琵琶橋付近)から引水した用水は現在も利用されているそうです。 飲用水は郷福寺、お茶屋付近、この問屋場の3箇所にあり、20mもの深井戸を彫り、維持管理にも苦労したといいます。

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郷原宿下問屋

昭和26年に郷原宿を訪れた「民藝運動の父」と言われる柳宗悦(やなぎ むねよし)は郷原の町並みを絶賛したと書かれています。前庭が残っている旧家も多く残りますが、洋風家屋も増え、古い家屋と洋風家屋が入り乱れ、かえってごちゃごちゃ感があるな・・・という状況で寂しい限りです。

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郷福寺

中世は桔梗ヶ原池の坊にありましたが、天文年間に武田氏の兵火にかかり焼失、慶長17年に現在地へ移転しました。しかし、1821年(文政4)には郷原宿の大火で焼け、建物はその後の再建です。

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芭蕉句碑

郷福寺本堂右手に芭蕉句碑がありました。

『野を横に馬曳む計よ郭公(ほととぎす)』

1775年(安永4)郷原住在の俳人、青柳露白が建立しました。
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高札場と明治天皇小休所跡碑

1880年(明治13)の明治天皇巡幸の際に郷福寺で小休しました。郷福寺の井戸は「御前水」となり、上段の間は現在も保存されているそうです。

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郷原古統(ことう)先生寿碑

広丘村出身、本名は郷原藤一郎。日本統治時代の台湾で活躍した画家であり美術教育者でした。碑は1962年、台湾時代の門弟によって建立されました。当時郷原先生はご健在だったため、寿碑となっているようです。

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医師古厩勇一先生頌徳碑

残念ながら詳しいことはわかりません。
TOO001 郷原宿には棟の頂に「雀おどし」を乗せた旧家が多く残っています。

「原新田」交差点で本日の街道歩きは終了です。交差点を右へ曲がり広丘駅へ向かいます。

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広丘駅

11:30 広丘駅到着

篠ノ井線が開通したのは明治33年ですが、広丘駅が開業されたのは20年後の昭和8年でした。 2008年(平成20) 駅舎が新築され、とても綺麗な駅舎です。