2021年6月20日
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分去れの常夜灯
北国西街道はこの分去れから始まります。先程の道標はここにありました。北国西街道は北国往還、善光寺道とも呼ばれ、往時は善光寺参詣道として多くの旅人が行き交いました。琵琶橋と琵琶橋石碑
もとは「久米ノ岩橋」であったようです。古くから洗馬郷の重要な交通路であり、江戸時代、二代将軍の隠し子(後の保科正之)の養育料として高遠保科氏に加増された地であり、高遠とを結ぶ重要な橋でありました。「琵琶の名手蝉丸伝説」により「琵琶橋」と呼ばれています。蝉丸伝説
一条天皇の時代、盲目の法師が橋の近くでいつも琵琶を弾いていました。村人に「琵琶の弾奏で皇室に奉仕をしたいので諸国をめぐり琵琶を極めたい」と語っていました。ある日、天子様に差し上げるに十分な曲ができたと京都を目指し洗馬を去って行きました。後にこの岩橋を「琵琶橋」と呼び、盲目の法師こそ琵琶の名手蝉丸であったとされます。 蝉丸は平安時代前期の歌人であり琵琶の名手と言われています。逢坂の関にて隠居生活を送ったとされ、「蝉丸神社」がありました。「小倉百人一首」には歌が納められています。「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」瑞松庵(観音堂)
天正13年頃、第三世康翁封泰和尚のもとへ菩薩を背負った紀州の六左衛門という修行者がやってきました。彼の話しによると、一人娘が病に冒され、見苦しい顔になり悲しんでいたが、菩薩像を授かり一心に礼拝を続けた所、病は全快し美しい姿となりました。以後、各地をまわりその功徳を讃えているといい、像を和尚に渡し立ち去ったといいます。 上組公民館より「氏神参道」として東漸寺前まで山道があるようですが、昨日の雨で濡れ、また急勾配なので迂回し、阿礼坂より東漸寺へ向かいます。東漸寺
知恩院直末の古刹である東漸寺は、木曽義仲の一族であった長瀬半官代が文永年間(1264〜1275年)に祈願寺として西光寺を建立したのが始まりと言われています。義仲討死後は兵火にあい、暫くは跡のみでしたが長瀬半官代から5代目の武士で洗馬出身の僧、経誉愚底上人によって中興され、東漸寺と改められました。 また寺には「信斎館」があり、陶工奥田信斎が窯を開けるたびに最も気に入ったものを御本尊に供えたと言われる作品が収められているそうです。信斎は1821年(文政4)伝統ある信楽の陶工の家に生れました。放浪の陶工と言われ、1885年(明治18)まで洗馬で製陶し、越後、甲州勝沼へ移り、1902年(明治35)に亡くなられました。洗馬騒動
洗馬郷は高遠藩の飛地であったのですが、1820年(文政3)高遠藩は財政が苦しかったことから、献金に応じた農民には帯刀・家格を向上させるとお触れを出しました。元々の村役人や庄屋はそれまでと同じ地位の保証を要望しましたが、却下されました。1822年(文政5)には15歳以上の者、男子は草鞋を一日に2足、女子は1ヶ月に木綿一反をそれぞれ5年間納入するという特別奉仕が示されます。草鞋を作ったことがないのではっきりとはわかりませんが、農作業だけでも忙しいのに、毎日、毎日2足の草鞋を作るのは大変な労働だと思われます。伊那ではこれで騒動(草鞋騒動・興津騒動)になるのですが、洗馬は参加しませんでした。しかし、600両の御用金を百姓に割当て負担させるという噂が立つと一気に不満が爆発。寄付により帯刀を許された新興村役人は助郷刎銭の不正(今で言う中抜き?)、琵琶橋の架け替えの際の不正利得などからも恨みを買っており、この新興役人の家14軒と60余棟の家を打ちこわしする騒動へと発展しました。洗馬郷大庄屋・原熊三郎、小曽部村年寄・新倉伴右衛門、本洗馬村在仕送役・熊谷小平治らが一揆勢を解散させると藩庁に赴き、わらじ・木綿の新課税の廃止や、村方三役を三年任期の入札制、帯刀や新役の取り下げが認められ、騒動は収まりました。原熊三郎ら3名も一時期は牢へ入れられましたが、文政期、天保期の二度にわたって藩政改革に参画しています。福聚寺
小さなお寺ですが、詳しいことはわかりません。 福聚寺山門を出て左手へ入り、小川へおりていくと長興寺参道へでるための小さな橋がかかっています。橋の袂に「長興寺参道湧水」があります。民俗学記念碑・歌碑
『夜とともに行ふ法のともし火やたたぬひかりをみねの古寺 秀雄』
文人で紀行家の菅江真澄(秀雄)は1783年(天明3)故郷の三河を旅立ち、伊那谷を通り長興寺洞月上人を訪ねました。そして1年余りを釜井庵に留まり上人に和歌を学び、若者には教え、近郊各地を探訪し詳しく書き残しています。奥州へ旅立つ際には洞月上人により「和歌秘伝書」を授かりました。 柳田国男が昭和5年に民俗学の先駆者、菅江真澄ゆかりの長興寺を訪れ「民間伝承論大意」を3日間講義したことから、民俗学者折口信夫と共同の歌碑が建立されています。観音像
小枝御前の墓へ行くため、長興寺本堂左手から山道を登っていきます。斜面に無数の観音像が建立されています。50mくらいでしょうか。苔むした茶色い石祠が2つ並んでいるのが目印です。木曽義仲御母堂の墓
小枝御前は木曽義仲の母です。義仲(駒王丸)2歳の時、父の源義賢が甥の悪源太義平(頼朝の兄)に討たれたため、母とともに信濃の中原兼遠のもとへ逃れましたが、心労からか1年足らずで亡くなったとされます。宮ノ越の徳音寺にもお墓がありました。 長興寺をあとにして参道を戻り、T字路を左へ曲がるとすぐにあるのが「洗馬焼和兵衛窯跡」です。釜井庵
戦国時代、妙義山城主三村氏の居館跡に18世紀中頃に建てられた庵です。江戸時代の文人・紀行家として知られる菅江真澄が1年余りを過ごしました。また寺子屋として丹羽花遥、大脇正蔵、小林源吾等の手習い師匠がこの庵で指導していました。妙義山城
三村氏の山城で釜井庵より登ることができます。標高は895m、現在は山頂に妙義神社が鎮座しています。長興寺からも登り口があります。3つの碑
左 丹羽花径先生の碑
江戸で山形藩に士官していた丹羽花径は長興寺洞月上人の元に身を寄せたのち、釜井庵寺子屋師匠を40年近く勤め、文政3年、この地で没しました。碑文は同じ文政期に2度に渡り洗馬郷小曽部に逗留した江戸の漢学者・兵学者、加藤環斎によるものです。中央 九月一三夜の碑
1783年(天明3)菅江真澄は本洗馬の文人と名月を眺めて歌を詠み合いました。『待ちわびし木々の紅葉の梢より もりてさやけき長月のかげ 直堅』
『雲晴れて後の月こそさし出れしなとの風の神のめぐみに 永通』
『しらぎくのしらぬくまさへあらはるゝ 世に長月のけふのこよひは 秀雄(真澄)』
右 熊谷祐碩の狂歌
『いざゝ良ば筆をの故して 古の石にものいは寿るも月下の事 末廣』
熊谷祐碩は末廣、または夕夕と号し狂歌を詠みました。本洗馬で代々医者を営み、先代は菅江真澄を世話した可児永通であり、5代後が長野県初の文化勲章受章者である熊谷岱蔵博士です。 釜井庵をでると東へ進み、仁科街道を越えて500m、奈良井川の段丘崖をおり、県道292号を更に東へ進みます。高遠石工馬頭観音
馬頭観音を過ぎて100mほどで、ようやく北国西街道へ戻ってきました。ここからは郷原宿を目指して北へ向かい進んでいきます。上問屋(郷原簡易郵便局)
問屋業を受け継ぎ、現在は郵便局となっています。古井戸と歌碑
桔梗ヶ原台地であるため水には大変苦労したといい、奈良井川上流(琵琶橋付近)から引水した用水は現在も利用されているそうです。 飲用水は郷福寺、お茶屋付近、この問屋場の3箇所にあり、20mもの深井戸を彫り、維持管理にも苦労したといいます。郷原宿下問屋
昭和26年に郷原宿を訪れた「民藝運動の父」と言われる柳宗悦(やなぎ むねよし)は郷原の町並みを絶賛したと書かれています。前庭が残っている旧家も多く残りますが、洋風家屋も増え、古い家屋と洋風家屋が入り乱れ、かえってごちゃごちゃ感があるな・・・という状況で寂しい限りです。高札場と明治天皇小休所跡碑
1880年(明治13)の明治天皇巡幸の際に郷福寺で小休しました。郷福寺の井戸は「御前水」となり、上段の間は現在も保存されているそうです。広丘駅
11:30 広丘駅到着 篠ノ井線が開通したのは明治33年ですが、広丘駅が開業されたのは20年後の昭和8年でした。 2008年(平成20) 駅舎が新築され、とても綺麗な駅舎です。