2021年5月4日
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宿泊した『シェーンガルテンおみ』にタクシーを呼び、タクシーで麻績神明宮まで行ってもらいました。
麻績神明宮
創建は平安時代末期の1038年(長暦2)とされ、伊勢神宮の御厨(荘園)として、伊勢神宮の分霊を勧請したのが始まりとされます。信濃国には多くの御厨がありましたが、麻績御厨は規模が大きく中心的な役割を持っていたとされます。
麻績神明宮の大杉
千年杉と言われますが、推定樹齢は800年とされ、県の天然記念物に指定されています。
麻績神明宮
本殿、仮殿、拝殿、神楽殿、舞殿は江戸時代中期の建築として、国の重要文化財に指定されています。
東山道の駅(うまや)
平安時代に都と越後とを結ぶ東山道支道の駅があった麻績郷は、伊勢神宮の荘園(御厨・みくりや)として毎年年貢を納めていました。官道は麻績神明宮前を通り、駅は麻績神明宮と善光寺道との間あたりと推定されています。
9:40 麻績神明宮を出発します。
北アルプスが綺麗に見えました!
麻績神明宮から約800m、筑北中学校の角へ到着しました。ここから北へ
北国西街道(善光寺道)を進んでいきます。
今日も峠越えの道。北国街道は東西2本ありますが、追分から分岐する東側北国街道は千曲川沿いの
『川の道』であり、ほとんど高低差がない道を進みますが、洗馬から分かれる北国西街道は
『山の道』です。刈谷原峠、立峠、猿ヶ馬場峠と連続して峠を越えて善光寺へ向かいます。本日は最後の峠、猿ヶ馬場峠を越えます。
道標跡
『右 うゑ田道 左 せんこう寺道』
本物の道標は聖湖畔東の聖博物館に移されているそうです。代わりに道標跡の標柱が建てられています。でも道標はそこに無いと全く意味がないですね。元に戻してほしいです。
羊がいた!
雑草が伸びないように羊が放されているようですね。ほっこりします。
順拝供養塔
西国、秩父、信濃、四国、坂東と彫られています。三十三観音を5つの地域となると165箇所になり、百観音よりも多いです。全て廻られたのでしょうか。凄いですね。
幅は細くなっていますが、なんとか歩けるほどの幅は残っています
桃源郷のような古道
じっと見つめられて・・よそ者と思われているんだろうな。
馬頭観音
享和の馬頭観音と文字馬頭観音
すぐ左手には国道403号が走っていますが旧道は残されており、快適に歩くことができます。
市野川番所跡
市野川(宮川)を渡った先は枡形になっており、ここに
松本藩領だった時代には番所があったとされます。現在は石垣が美しい立派な旧家が残っています。
題目碑
市野川一里塚碑と一里塚の家
塚は両方とも無くなっていますが、右手の民家前に一里塚の碑があり左手には
「一里塚の家」と呼ばれる民家があります。
市野川神社鳥居と高札場跡
市野川は、猿ヶ馬場峠を控え江戸時代は間の宿として栄え、明治時代には峠町として5軒の旅籠があったとされます。
渋い黒板塀の旧家脇を左へ曲がっていきます。
園林堂跡の題目塔
左下の小さな石碑に「園林堂跡」と彫られています。題目塔は1860年(万延元)の建立です。
国道を離れて未舗装の古道を登っていきます。右手には石仏が並んでいます。
国道の「そば処車屋」付近で一旦、国道を横切り、再び山道へ入っていきます。
馬頭観音と馬の水飲み場
左手の天保2年の馬頭観音を過ぎると馬の水飲み場がありました。今でも水が流れ出ています。
再び国道を横切り山道へ入ります。
ここから句碑がたくさんあります。一般の人のものでしょうか・・?
お仙の茶屋跡
茶屋にはお仙という美しい娘が住んでおり、旅人や村の若者の憧れの的だったといいます。その一節が麻績村、
番場節の一節に残されています。
『峠ナー恋しや 清水の茶屋のヨイヨイ 店にゃお仙が 待っている』
番馬節は、農民の草刈り歌でお仙の茶屋があった頃その美しい娘お仙を村の若者が慕って歌った歌です。
お仙の悲恋
ある日、旅の若い武士がこの茶屋に立ち寄り、お仙に一目ぼれしました。お仙も武士を慕い、必ず戻ると言い残して去りました。しかしこの若い武士は、木曽の山中で盗賊に殺されてしまいます。そうとは知らずお仙は武士を待ち続け、病に侵され悲恋の一生を閉じました。
芭蕉句碑
『さざれ蟹足這いのぼる清水哉』
1791年(寛政3)秋、麻績宿の歌人、鳥?、可吟、暁平らによって建立されたものです。
弘法の清水
元々は「一杯清水」という名でしたが、弘法大師がこの地を訪れて以降、「弘法の清水」と呼ばれるようになったといいます。水量は多くはありませんが、石の下から絶えず流れ出ています。
聖湖
旧名は「夜ケ池」、また「馬場池」とも言われていました。この湖もリゾート地開発により名前までもが変えられてしまいました。私は「夜ケ池」のほうが好きですね。古い地名は大事にしたいです。
竹久夢二歌碑
「番場峠の五月の花は 枝は東に根は西へ」
大正ロマンを代表する画家であり詩人の竹久夢二は、大正13年に猿ケ馬場峠を訪れています。
カナディアンハウスより少し上がったところを右に曲がると聖レイクサイド館裏手の一段高いロープ柵の道になります。
廃業したホテル?研修所のような建物を過ぎると10mほど
藪こぎになりますが、なんとか通れます。藪こぎが終わったーと思うと、今度はかなりの
湿地、足元を確かめながらなるべくぬかるんでいない場所を探してさらに進みます。湿地をこえると針葉樹林となり、
大きな村境碑がありました。
村境碑
麻績村と八幡村ではこの猿ケ馬場峠か、北に800mほど先にある馬塚で長く境界が争われてきました。手前にある小さな村境碑は明治28年に峠が境界と定められた時の碑です。大きな碑は昭和11年に建てられ、聖高原に山荘があった川島芳子(愛新覺羅顯?あいしんかくら けんし)の養父、川島浪速の筆によるものです。
善光寺道名所図会
猿ケ馬場峠周辺が描かれています。聖湖には
「夜ケ池」と書かれていますね。
一旦国道へ合流し、すぐに林道猿ケ馬場線へ入ります。さらにすぐに「北国西街道」へ別れます。案内がでていますので、わかりやすいです。
念仏石
夜になるとチンチンと鉦の音と念仏を唱える声が聞こえてくるという伝説が残ります。大きな石には「南無阿弥陀佛」と名号が彫られていたそうですが、摩耗して確認できません。
念仏石を過ぎるとすぐに林道猿ケ馬場線に合流します。
馬塚
境界争いのあった「馬塚」です。「麻績・永井・市野川三ケ村」と「八幡村」の間で争いが起こり、1694年(元禄7) 三ケ村は幕府へ訴状を提出、馬塚・水帳・年貢諸役の状況や湯光防が麻績村の末寺であったことから三ケ村の勝訴となりました。その後、明治28年に村境が
猿ヶ番場峠となるまではこの
馬塚が境界となりました。
碑は残りますが、塚は村道の整備により取り壊されてしまいました。
猿飛池
「善光寺道名所図会」に「サルトビ」と書かれている池です。堰き止めた溜池のようでした。
御即位紀念林碑
左右に寄進者の名前がズラッと彫られています。寄進された苗は立派な樹木に育ち、森を形成しています。
火打石茶屋跡(名月座寅蔵茶屋)
最盛期には9軒の茶屋があったとされ、内3軒は旅人の救済を目的とし
松代藩に命じられ、1000坪ずつの土地を与えられ開かれた茶屋でした。
名月座寅蔵茶屋(宮下家)は
茶屋本陣として黒門、屋根には六文銭が掲げられ
燧石(すいせき)を利用した建物であったといいます。燧石は火打ち石に用いられた岩石です。
芭蕉句碑
『をばすてはこれからゆくか かむこどり』
1688年(貞享5)芭蕉が更級紀行の際に猿ヶ馬場峠を越えて、火打石茶屋にて姨捨長楽寺へ通ずる八幡峠の間道の情景を詠んだ句です・・・と説明板にはありますが、芭蕉句集にはないそうで、真偽が問われます。
句碑も再建されたものです。元々の句碑は宮下家にあるのではないかと思います。
宮下家には
「姨捨十三景」の地図を茶屋で売っていましたが、今でもその木版が残っているそうです。是非、刷ったものを見てみたいですね。
姨捨棚田近道
芭蕉は姨捨長楽寺へ向かうため、この近道を通っていったのでしょう。この先に松代藩より1000坪を与えられたもう一つの茶屋、八幡百姓、諏訪氏の経営する「日の出屋の茶屋」があったとされます。
姨捨棚田までは近道といっても6kmほど・・寄り道できる距離ではないので、先を急ぎます。
松崎茶屋跡
松崎茶屋も松代藩から1000坪の土地を与えられた茶屋の一軒です。街道右手のスギ林は往時、水田や畑が広がり、桑も栽培し蚕を飼うなど農業を行いながら茶屋を経営していました。
明治35年、篠ノ井線が開通し旅人が減ると茶屋を経営していた人は皆麓へ下りていきましたが、松崎茶屋は最後まで残り、大正10年まで茶屋を続けまたした。
火打石の一里塚
西塚は昭和38年の村道整備により破壊されましたが、東塚はよく残っています。
馬頭観音
明治28年と明治32年の文字馬頭観音です。「大井」と入っていますのでのぞきにあった「大井の茶屋」の寄進かもしれません。
のぞき
ここには
大井の茶屋があり、
望遠鏡が備えられ善光寺の本堂が見えるようになっていました。旅人は有料で覗いていたそうです。今は樹木が生い茂り、善光寺平はほとんど見えません。
カーブ部分には旧道が残っており真っ直ぐ下るとくつ打ち場に出ます。
くつ打場
馬に草履を履き替えさせた場所で、旅人も履き替えていました。捨てた草履が山になっていました。岩の上には文久2年の馬頭観音が安置されていましたが、持ち去られてしまい、現在は和田実男と刻まれる「くつ打場」の碑が建っています。
くつ打場から下の梨窪へかかる坂を「女峠」と呼んだそうです。また一帯は50種のシダ植物が分布し、旧更級二郡では最大の群生地です。
廃屋
「梵天山猪犬訓練所」とあります。既に使用していないようです。「猪犬(ししいぬ)」とはイノシシを狩猟する猟犬のことだそうです。
廻国供養塔
八幡の浦沢家当主、良国が国内の霊地を巡礼した時の記念碑です。「良国、妙国、寛政九年」の銘が入っているそうです。浦沢家は武水別神社(八幡宮)の西側で「本浦澤屋」という旅館を営んでいました。
梨久保池
中原無人墓地
石見国(島根県)の弥七という旅人が初冬のこの地で病により亡くなりました。はるばる西国より善光寺参りに訪れ、亡くなった旅人を集落の人々と開眼寺住職が手厚く葬りました。墓石には1828年(文政11)の銘があります。
今でも花が手向けられ、弥七は感謝し静かに眠っているでしょう。
中原無人墓地を過ぎるとようやく善光寺平が見えてきました。
後半へ続きます。