2022年9月21日

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車は再び柏崎駅南のコインパーキングへ駐車します。

8:05 柏崎駅前の2番バス停より「椎谷」行きのバスがでます。1時間近く乗車し、椎谷バス停に到着しました。

9:00 椎谷バス停を出発します。今日もお天気はどんよりですが、午後から晴れてくる予報です。バス停から200mくらいで「椎谷岬トンネル」へ入っていきます。

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椎谷岬トンネル

2007年(平成19)の中越沖地震により国道でもあった北国街道は不通となり、椎谷トンネルが新設され、2009年に竣工しました。延長864mあり、出口まで結構長く感じました。排気ガスを吸わないようマスクをして足早に通り抜けました。
椎谷岬トンネルを出るとすぐに通行止めの旧北国街道と合流します。その合流点に「机立観音堂跡」があります。

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机立観音堂跡

1300年ほど前、第46代孝謙天皇の御代の泰澄大師の建立した堂がありました。海から漂着した十一面観音像を土地の人が机上に立ててお参りしたことから名がついたと言われています。また、木喰上人が作成したと言われる十三仏像も祀られていました。
1801年(寛政13)に再建された堂は2007年(H19)の中越地震により被災したため取り壊され、御本尊と木喰仏は大崎の真蔵院に安置されています。

昔は椎谷灯台の1km先あたりまで陸続きで自然港(安藤の間)として、宮川の麻ロープや網、椎谷瓦などを佐渡ヶ島や北海道へ北前船で運んでいましたが、椎谷地震で陥没してしまいました。現在も当時の階段や井戸、さらに船の係留石杭5本が海の中にみえるそうです。 また周囲には上の茶屋、中の茶屋、机立観音堂の脇には下の茶屋がありました。

1846年(弘化3)の二十三夜塔があり、2基の馬頭観音がありますが、かつて置かれていた場所は不明です。

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通行止めとなった旧北国街道は壁が立ち、通行できなくなっています。
TOO001 なんとなく道がありますね・・人だけでも通れるようにならないかしら。

左手は海、右手は山の国道となっている北国街道を670m進むと海岸は砂浜となり、「長浜海水浴場」があります。小さな川を渡る手前で右手に曲がり、県道を200m、左手鬱蒼とした笹の中に石仏が4体並んでいます。

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六助のイボ地蔵尊

この地蔵尊に祈願するとイボが無くなると伝えられていますが、どの石仏がイボ地蔵尊なのでしょうか・・
北国街道へ戻り、橋を渡ると右手に「石地わさび園」がありました。こんな海辺でわさび栽培?とちょっと驚きました。後で調べてみるとハウスによる水耕栽培で天然の地下水を汲み上げて育てているそうです。

石地わさび園を過ぎて450mほど右手の小高い丘に「真蔵院」があります。

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真蔵院

創建は不明ですが、古文書によると1735年(享保19) 「江戸四箇寺円福寺の評席において、醍醐三宝院末、出雲崎町相田薬師寺の末寺として免許された」とあるそうです。当初は机立にありましたが、度々の火災により寛政年間に現在地へ移動したとされます。 机立観音堂の御本尊と木喰仏はこちらに移されています。この木喰仏は1804年(文化元)に彫られたとされますが、経緯はわかりませんが後に顔料が塗られてしまっているとのことです。

真蔵院から100mほど進むと右手に「大崎城跡」の案内板がありました。かつて案内板の後ろの標高103mの岩根山(現愛宕山)に大崎城がありました。

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大崎城跡

上杉氏の末裔という大崎筑前守高清がに大崎城を築きました。現在、城跡には愛宕神社が建立されています。大崎高清は上杉二十八将の一人で「後構の大将」と言われ、春日山にも居館を持ち「鳴る環が池」の伝説が伝わっているそうですが、どのような伝説なのかわかりません。
大崎城跡までは上らずに先へ進んで行きますが、突然雨が強くなってきました。ちょうど「大崎」のバス停があり、小さな小屋になっていたので中に入りしばらく雨宿りです。

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15分ほどで雨はやみ、再び歩き出し300mほど進んで右手の旧道へ入っていきます。
大崎の集落へ入るとすぐ右手に「大崎神社」の参道があり、参道を100mほど奥へ進むと拝殿があります。

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大崎神社

創立年不詳。治山・治水・殖産・海上の守護を司ります。元は熊野神社でしたが、1900年(明治33)大崎神社と改めます。1961年(昭和36)第二室戸台風で社殿が倒壊してしまいましたが、再建されています。 少し変わっている拝殿ですね。風などで傷まないようにしているのでしょうか。

大崎神社から北国街道へ戻り、すぐ先右手には墓地があり、入口に石仏が並んでいます。

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馬頭観音・米山塔

大きな文字馬頭観音には「嘉永7年」(1854)と彫ってあります。米山塔、六地蔵などが並んでいます。この場所にはお寺でもあったのでしょうか・・
この上のほうには「雪割草の里」という公園があります。3月初旬には春を告げる花「雪割草」が咲き誇るそうです。

200mほどで国道へ合流します。交差点には「雪割草の湯」という温泉施設があります。左手は「大崎海水浴場」の砂浜です。

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大崎海水浴場

今の時期は誰もいませんが、夏場はきっとたくさんの海水浴客で賑わっているのでしょう。
海岸線をさらに1km進み、「百庚申」を探しに北国街道を離れ右手の県道へ入ります。300mほど進むと左手に藁葺き屋根の「吉野茶屋」がありました。

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吉野茶屋

藁葺き屋根の趣ある古民家は宿泊施設と食事処だったのですが閉業されたようです。いずれは建物も取り壊されてしまうのでしょうか・・
「百庚申」がどのあたりにあるのか、事前にはっきりつかめていなかったのですが、行けども、行けどもないですね〜。そして北国街道から曲がってから600mほど二股の手前、左手にようやく見つけました。

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百庚申塔

江戸時代から1980年(昭和55)までの庚申塔、青面金剛像が一箇所に集められています。多くは1854年(嘉永7)から1861年(文久元)に建立されたものです。青面金剛像10基、庚申塔97基が並ぶ姿は圧巻です。
北国街道へ戻っていきます。街道へ出る少し手前に先程は気づかなかった小さな稲荷神社が左手にありました。

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稲荷神社

社殿がコンクリート造りの小さなお社でした。
北国街道へ戻ると石地海水浴場で、広い駐車場、民宿や飲食店が立ち並んでいますが・・シーズンオフでほとんど開いているお店はありません。 370mほど進みニュー大磯という民宿の向かいの空き地に石碑が2つありました。

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本願寺御門主御休跡碑

石碑には「本願寺御門主御休跡」と彫られていて、1823年(文政6)の建立のようです。本願寺住職の長がここで休憩されたということでしょうか。この場所に寺院か屋敷があったのでしょうか?

その横には1909年(明治42)に建立された「馬名 遠路」と記された碑があります。1904年(明治37)に馬と共に戦死した金子氏の碑のようです。日露戦争だと思われます。

さらに200mほど右手に「閻魔堂」、奥に「羅石尊」、「懸橋寺大日堂」があり、その向かいの海側に「一等当選海水浴場碑」があります。

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閻魔堂

ここには岩に彫られた弘法大師の爪彫り地蔵もあったと言われていますが、恐らく奥の岩盤に彫られていたのではないかと思われますが、詳細はわかりません。お堂周辺では「えんま市」が開かれていましたが、いつの頃からか途絶えました。2008年(平成20)より復活し、「石地海のえんま市」として現在も継続しているようです。

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羅石尊

「羅石さん」として昔から子宝・安産・育児などの子育てにご利益があるとされています。御神体は海上に建つ男根そのままの奇岩でしたが、船の衝突により折れたため、渚に打ち上げられていた頭部のみを祠に祀ったのが始まりとされています。

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懸橋寺大日堂

大日如来は鎌倉時代の仏師、快慶の作とされ、傷みが激しく1965年(昭和40)に修復、塗替えがされているそうですが・・とてもピカピカで真新しいものに見えます。

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経塚

以前は一文字づつ経文を書いた小石が収められていましたが、度重なる移設のため現在は空っぽとのことです。数百年前、懸橋寺の住職が長い年月をかけて納経したとされます。
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一等当選海水浴場碑

1927年(昭和2)新潟毎日新聞主催で近県海水浴場の選定を行った際、石地海水浴場が一等となりました。碑は以前、波打ち際の岩礁の上に建っていましたが移設されています。

左の写真の「一等当選海水浴場碑」は、新たに砂浜に建立されたもののようで、右の写真は古いもので閻魔堂の向かいの道路沿いに移設されています。

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かけはし岩「恋のかけはし伝説」

「いもりの神」にはとても美しい「なぎさ姫」という娘がおり、「ながその神」はなぎさ姫を妻にしたいと思いました。いもりの神は、一夜で佐渡まで石橋を架けたら姫を嫁にやると約束してしまいました。ながその神は夜になると山から岩を海へ投げ込み、どんどん橋を伸ばしていきます。これを見たいもりの神はこのままでは姫を嫁にやることになってしまうと考え、一番鳥の鳴き真似をしました。ながその神はその声に騙されて、夜が明けたと思い、絶望して海に身を投げたといいます。

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石地フィッシングブリッジ跡

グーグルマップの航空写真には今でも大きなフィッシングブリッジがあるので、どこにあるのだろう・・とキョロキョロ探してみましたが、見当たりません。2020年に解体されたようですね。 これは刈羽原発の「原発立地対策交付金」で造られた施設のようですね。色々考えさせられます・・・

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羅石尊を過ぎると住宅も増えてきました。住宅の間を450m、小さな川を渡ると石地宿へ入ります。すぐ先右手に「御島石部神社」があります。

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御島石部神社参道

参道は高低差はないのですが距離は350mほどあり、とても長い参道でした。
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御島石部(みしまいそべ)神社

創建は不詳ですが、927年(延長5)に編纂された「延喜式」に記載のある古社です。現在の社殿は1846年(弘化3)の再建。 境内社として、神明宮、金毘羅神社、八坂神社、湯殿山神社、諏訪神社、厳島神社、稲荷神社が祀られています。

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拝殿の彫刻

拝殿の子持ち龍は諏訪の「立川和四郎」、本殿の鶴や鳩、鯉などの彫刻は幕府のお抱え木彫師の名工、「熊谷の小林源太郎」の作と言われています。

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御島石部神社のシイの樹叢

神社の奥に椎の木の原生林が広がっています。椎の木の原生林としては日本海側の北限となっています。1954年(昭和29)に天然記念物として指定されています。

再び参道を歩き北国街道へ戻り、120mほど先の三叉路を右へ曲がり、突き当りの二股の手前左手に「大聖寺」、その隣に「高善寺」があります。

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大聖寺

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高善寺

北国街道へ戻り100mほど進み、極楽寺の手前で左へ曲がり石地港のほうへ向かい、海岸へ出ると「善法寺さん」と呼ばれる赤い小さな石祠があります。

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善法寺さん

海上の安全のため建立された石祠のようです。 1695年(元禄8)の記録では村内には37艘の船があり、農業よりも漁業が盛んだったようです。また江戸時代、石地には船番所が設けられていました。

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石地宿は江戸時代初期から長峰藩、高田藩、幕府領、高田藩と支配層がコロコロ変わり、1710年(宝永7)より幕府領に落ち着きました。
1695年(元禄8)の記録では家数189軒、人口1179人、うち漁師50軒、馬持50軒、商人70軒と記録されています。

北国街道へ戻るとすぐ右手に「極楽寺」、入口に「巡難碑」、さらに100mほど進むと左手に大きく立派な長屋門があり、「久寛荘」となっています。

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極楽寺の巡難碑

1902年(明治35)船で漁をしていたところ、水難事故があったようです。碑は1904年(明治37)、内藤久寛の撰文で建立されたようです。
極楽寺は慶長の初めころ、加賀国に創立したようですが、その後は富山県などを転々とし、1625年(寛永2)頃、西山町灰爪に草庵を建て蔵如上人より十字名号等を授与され安置、「称名寺」としました。1683年(天和3)現在地へ移り、一如上人より木造阿弥陀如来を賜り「極楽寺」と改めました。

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内藤家の長屋門

内藤家は江戸時代より廻船業を営み、全国的に「石地の内藤」と言われるほど有名だったといいます。現在も残る長屋門が当時の繁栄を物語っています。
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明治天皇行在所・駐輦碑

1878年(明治11)明治天皇北陸巡幸の際に内藤家が行在所となりました。往時、行在所として使用された部屋は現在でも当時のまま残されているそうです。

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久寛荘

日本の石油王「内藤久寛」の生家です。 内藤久寛は内藤家12代当主、1859年(安政6)刈羽郡石地に生まれ、1888年(明治21)日本石油の前身、「有限責任日本石油会社」を興し初代社長となりました。1891年(明治24)石油の機械堀に成功、県議、衆議院議長、貴族院議員を歴任し石地のために多大な貢献をしました。

久寛荘は群馬県内の臨海学校として利用されてきましたが、2021年(令和3)その役目を終えました。

久寛荘のすぐ先右手に「形蔵院」、さらに100mほど右手に「石井神社」があります。

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形蔵院

1336年(建武3) 北朝軍に敗れた井伊家の残党が日本海へ逃れて北上し、この地に中国岡山城主・井伊侯の菩提寺を移したとされます。その後、藤原秀郷の後裔内藤家により復興され、内藤家の菩提寺になっています。

「歴史の道調査報告書」には高倉天皇御物蓬莱鏡と源義経が後白河上皇から下付されたという駅鈴を蔵していると記されていますが・・現存していれば重要文化財となっているはずですからどうなのでしょうか・・

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鐘楼門

形蔵院の伽藍、この竜宮城のような鐘楼門も内藤久寛が寄進したものです。

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石井神社

創立年は不詳ですが、漁民が海中から光玉を見つけ海上の岩場に祀り「岩居神社」としたのが始まりとされ、その岩場は「畳岩」と言われているそうです。1092年(寛治6)越後の海岸一帯を襲った大波により海上の社殿が倒壊したために石井山に社殿を移し、「石井神社」に改めました。1845年(弘化2)石井山山頂から麓の現在地へ社殿を移しました。

石井神社に伝わる神楽、「大和舞」は柏崎市の文化財に指定されています。
13:30 石地宿をあとにいよいよ北国街道の最終地「出雲崎宿」へ向かいます。