2021年11月6日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

13:15 丹波島宿をあとに犀川を渡り善光寺宿へ向かいます。現代は丹波島橋で犀川を渡ります。橋の先には両側に善光寺常夜灯があります。

TOO001

丹波島橋

丹波島橋は裾花川と犀川の合流点に架かっています。江戸時代は舟綱渡し、明治初期には舟橋、明治中期は木橋、昭和初期に鉄橋となりました。
裾花川は松代城の城代、花井吉成・義雄が善光寺宿を洪水から守るため、東へ流れていた川を南へ瀬替えしました。

TOO001

犀川

TOO001

東都道中分間絵図の「犀川」

往時は4つの流路に別れており、南側の2つは「舟、ツナゴシ」と舟で綱を伝って渡ることが書かれています。北側の2支流は「カリハシ(仮橋)」となっています。犀川を渡った先には「舟番屋」があったようです。

TOO001

善光寺常夜灯

街道沿いに11基残されているうち最古のもので、両側残されています。1820年(文政3)と1823年(文政6)の銘があります。
犀川を渡ると商店や住宅が多い市街地となってきました。常夜灯のすぐ先は、右手の細い道が旧道です。旧道へ入り500m、右手に小さな覆屋に入った馬頭観音があります。

TOO001

赤馬頭観音

かなりのしかめっ面ですね。なぜ赤く塗られているのでしょうか。詳しくはわかりませんが、赤には魔除けの意味があるそうです。

100mほど進み、ホクト文化ホール南交差点を右へ曲がり200m、「姫塚」へ寄り道していきます。

TOO001

姫塚

熊谷直実が娘の玉鶴姫のために塚を築いたと伝わります。塚は古墳で五輪塔は室町時代の明応の銘があり、時代が一致していません・・・ここから東へ550mほどに「仏導寺」があり、熊谷直実が玉鶴姫のために開祖したお寺とされます。

玉鶴姫の伝説

源平合戦一ノ谷合戦で平敦盛を討ちとったのち、この世の無常を知った熊谷直実は『蓮生』と名乗り出家。残された妻は悲しみのあまり幼い玉鶴姫を残して亡くなりました。

母を弔うため、また旅の途中で父にも会えるかも・・と考えた10歳の幼い玉鶴姫は侍女一人を連れ善光寺参詣へと旅立ったのでした。深谷では国済寺に宿を求め、住職は尼として旅を続けたほうが安心だとして、二人とも尼となりました。途中、玉鶴姫は病に冒されますが、なんとか犀川の丹波島渡しまでたどり着きました。

川は荒れ、綱を手繰り舟で渡りますが、玉鶴姫の意識は遠のき・・・気がついた時、犀川の先の粗末な小屋に寝かされていました。そこには侍女のほかに一人の僧、蓮生がいました。蓮生は唱えますが、玉鶴姫は安らかな表情で亡くなりました。父の声とわかったのか・・わからなかったのか・・

再び北国西街道へ戻り、少し進むと左手に吹上地蔵堂、そのすぐ先左手に藤原源四郎顕彰碑木留神社と続きます。

TOO001

吹上地蔵堂

吹上には茶屋があったとされます。

TOO001

藤原源四郎顕彰碑

天領であった荒木村を治めるために、1854年(嘉永4)に藤原源四郎邸内に荒木陣屋が置かれました。1871年(明治4)廃藩置県により廃止されました。顕彰碑は1910年(明治43)に建立されたものです。

TOO001

木留神社

善光寺再建のための材木を犀川丹波島の渡しで陸揚げし、境内に留め置いたことから「木留神社」という名称になりました。社伝では、正治年間(1199〜1201)以前の建立といわれていますが、1745年(延享2)の火災で古文書が焼失し、詳細は不明です。
ケヤキの大木が見事な木留神社から600m左手に観音寺があります。

TOO001

観音寺・髻馬頭観音

源頼朝の守り本尊との伝承を持つ「もとどり観音」を祀っています。建久年間(1190〜1199)漆田氏が開基創建したとされますが、源頼朝が創建したとの伝承もあります。

源平合戦のさなか、善光寺は落雷によって焼失しますが、源頼朝が再建しました。1197年(建久8) 善光寺に参詣した源頼朝一行は、この土地に一泊し髪を束ねた髻(もとどり)の中に入れていた馬頭観音のお告げによって、この地に寺を建立して守り仏の馬頭観音を祀ったとの伝承があります。

14:30 長野駅南口の駐車場に車をおいていましたので、本日はここで終了します。

2022年7月2日

5:30 観音寺の近くのコインパーキングに車を停めて出発です。善光寺は常に混んでいますので早い時間に回りたいのと、最高気温の予想が35度を超えていますのでなるべく涼しいうちに進みたいと思います。

観音寺から100mほど進むと北国西街道は線路敷設のため、廃道となっています。左手の跨線橋で線路を渡ります。跨線橋を下りたところに「信越線工事犠牲者供養塔」があります。

TOO001

信越線工事犠牲者供養塔

正面は線路側ですが柵で取り囲まれ、裏側しか見れません。

この供養塔は信越線の完成前の1887年(明治20)に善光寺境内に建立されました。往時の大勧進、寂順大僧の撰文が刻まれています。1968年(昭和43)善光寺の工事で持ち主不明の塔は処分されることになりました。往時国鉄職員であった降幡利治氏がたまたま見に行くと塔は倒され、処分される寸前でした。なんとか供養塔を残そうと降幡氏は寄付をつのり、現在の場所へ移されたそうです。降幡氏の著書の中に「まさに仏の因縁」と記されています。

信越線工事

1884年(明治17)高崎から着工し、翌年直江津から軽井沢へ向けての工事が始まりました。現在のような重機もなく、長野・新潟県境の山岳地帯を通る直江津線の工事は非常に難工事で、犠牲者は数十名となりました。追い打ちをかけるようにコレラの大流行が重なりコレラで亡くなった作業員は100名ほどと言われています。

跨線橋を渡り右手に迂回していくと長野南交差点付近で北国西街道と合流していきます。右の方に長野駅がありますが、商店が立ち並び現在はかなり広くなった北国西街道を北へ向けて進み300m、左手の歩道に小さな自然石の「蛇塚」があります。蛇塚から160mほど右手に「西光寺」があります。

TOO001

蛇塚

旭山の大蛇を見世物にした場所で、そのたたりを鎮めるために祀られました。この先の西光寺にはこの大蛇が葬られ供養されています。

TOO001

西光寺

周囲のビルや商店に埋もれるように西光寺の入口があります。早朝で門が閉まっており、入れないかな〜と心配しているとちょうど門があき、「どうぞ〜」と言っていただきました。西光寺境内へ入っていきます。
TOO001

朝日山大蛇の塚・徳住上人六字名号碑

念仏行者、徳元上人の弟子「徳住上人」の文字が刻まれた六字名号碑です。

朝日山大蛇の塚

1835年(天保6)朝日山に住む大蛇・小蛇はきこりの忠兵衛に古木と間違えられて斬り殺されて見世物にされたことから恨み、忠兵衛一族に祟り、忠兵衛は狂死、一族も奇病によって絶えてしまいました。この祟を鎮めるために大蛇に「畜轉善達信士」の法名が与えられ、小蛇は生存していると伝えられ、朱色で「得円妙了」と刻まれ、手厚く葬られたとのことです。

TOO001

西光寺本堂

1199年(正治元)刈萱上人が開山、「絵解き寺」として知られていました。「絵解き」とは多くの人々が文字を読めない時代に、絵により説明するもので『はるばると尋ねし我が子を前にして父と名のれぬはかなさよ・・』などと絵を見せながら語っていたようです。紙芝居みたいなものでしょうか。
苅萱上人は筑前(福岡)の国司、加藤左衛門重氏で、出家して僧となりました。

TOO001

刈萱道心と石堂丸像

「かるかや親子の対面」のシーンが銅像となっています。 顔も知らぬ父、苅萱上人を訪ねて高野山へ登った幼い石童丸が無明の橋にて父の上人と対面した情景です。 刈萱上人は石童丸を我が子と知りながら親子の名乗りはしないまま仏門に励んだとつれます。

「かるかや」の話は謡曲「苅萱」や説経節「かるかや」、浄瑠璃など中世以降、多くの芸能で語り継がれて来ました。

TOO001

一茶句碑・芭蕉句碑

『花の世は佛の身さえ親子哉』

小林一茶が西光寺を訪れて詠んだ句と言われています。

『雪ちるや穂屋のすゝきの刈残し』

1743年(寛保3)芭蕉50回忌を期して多くの俳人によって建立されたもので、信濃では最古のものと言われています。

TOO001

苅萱塚

千里御前の墓、刈萱上人の墓、石堂丸の墓。 63歳で刈萱上人が亡くなると石童丸が父の菩提を弔うため訪れ、刈萱塚を建立しました。

TOO001

長野石炭油会社社員の墓・六地蔵憧

墓碑の横面には「石油会社詰合建之」と刻まれています。

長野県水内郡桑名川村(飯山市照岡)出身の石坂周造は、1871年(明治4)西光寺境内に石油精製所を作りました。「長野石炭油会社」として、日本初の石油会社が誕生しました。1872年(明治5)、社名を長野石油会社へ変更し機械を導入しアメリカ人技師を雇い、あちこち試掘しましたが原油がでず失敗が続き、また火災にも見舞われ、1878年(明治11)に倒産しました。

西光寺をあとに120m、右手に「栗田街道」入口、その先が「裁松院」があります。

TOO001

栗田街道(しまんりょ小路)

裁松院は花井吉成の裾花川瀬替え以前は、南北に川が流れていたので、「島の寮(寺)」と呼ばれており、そこから「しまんりょう」と呼ばれるようになりました。裁松院南側の「しまんりょ小路」は栗田から善光寺表参道へ至る路だったので、栗田街道とも呼ばれました。今も道の下を旧流路が流れているそうです。
TOO001

栽松院

名主であり、造酒屋の菊屋(山嵜家)が戦国時代に建てた観音堂から始まったお寺です。本堂は火災で焼失し、現在の建物は1902年(明治35)の再建で、扁額揮毫は江戸時代後期、大乗寺住職、愚禅が96歳の時に書かいたものといいます。

江戸時代後期の国学者であり紀行家でもあった菅江真澄も信濃遊覧の際に参拝したことが紀行文に記されています。

TOO001

裁松院の境内社と子育地蔵尊

さらに善光寺表参道を進んでいきます。道は広く綺麗に整備され道路の両側には木製の春日燈籠が並び、建物は建て直された新しいものが多いのでしょうが、デザインは往時のような蔵や町家を模したものとなっています。右手に「セントラルスクウェア」と名付けられた公園があり、その前の歩道に小さな標柱があります。

TOO001

豊御所跡碑

鎌倉時代、ここに信濃国衙(こくが)が置かれ「豊御所」と呼ばれていたのが、このあたりの町名となったと考えられています。

TOO001

ながの表参道セントラルスクゥエア

長野オリンピック聖火台モニュメントがありました。1998年2月に行われた長野オリンピックの聖火台モニュメントです。聖火を持った伊藤みどりさんが白い能の衣装でせりに乗って聖火台へ上がっていく光景・・・今でも目に焼き付いています。とても感動的でした。

TOO001

権堂通り

1197年(建久8)源頼朝善光寺参りの際、善光寺再建を発願、秘仏善光寺如来を往生院へ移し仮堂としました。仮の堂のことを「権堂」と言われるため、このあたりは「権堂町」となりました。

元々の「権堂通り」は往生院の東側、南北の通りで、現在のアーケード街の通りは1953年(大正2)に新しく作られた道です。権堂は江戸時代には、水茶屋(遊郭に近い)が立ち並んだ場所で、現在でも1本裏に入ると怪しげな店が多いです・・・
権堂通りはアーケードとなっており、たくさんの買い物客で賑わっているとのことです。

権堂通りへ入りアーケード内を30m、左手に「往生院」の入口があります。小さなお寺ですが、境内には「宇賀神九頭竜大弁財天」も祀られ、「安本亮一君碑」もあります。

TOO001

往生院(権堂)

古くは蓮池があったため「蓮池庵」と呼ばれていました。807年(大同2)弘法大師が善光寺参りの折にこの地に寶(宝)乗寺を創建したのが始まりで、室町時代までは「西方寺」がここにあったといいます。西方寺は西町へ移っており、江戸中期にも西方寺が善光寺本尊の仮安置所になっていました。

1199年(正治元)法然上人が善光寺参りの折には、ここへ滞在し浄土宗へ改め初代となります。 境内には長野県内最古の「宇賀神九頭竜大弁財天」が祀られています。

TOO001

安本亮一君碑

安本亮一は1901年(明治34)東京浅草の人形師安本亀八の長男として生れ、1924年(大正13)東京美術学校を卒業、春陽会展、帝展等に入選後、東京朝日新聞社学芸部に嘱託となり漫画で活躍、戦時中妻の故郷である長野に疎開し、「信濃毎日新聞」等に作品を発表いていました。1950年(昭和25)長野市の自宅で亡くなっています。
往生院をあとに北国西街道へ戻るとすぐ左手に立派な建物の「北野文芸座」が見えます。

TOO001

北野文芸座

歌舞伎座のようなデザインの建物です。大きさは歌舞伎座に比べてだいぶ小さいようですが、歌舞伎、落語、演劇、狂言、歌などいろいろな演芸が催されているそうです。江戸時代の善光寺門前にも芝居小屋が軒を連ねていたといいます。
門前で興行できない役者は佐渡まで回り、これを「ドサ回り」と言うようになったといいます。

TOO001

大きなマンションなども建てられていまっていますが、1階部分だけは景観を重視した和風のデザインになっています。
TOO001

熊野神社

例祭日8月17日は長野の町で一番早い秋祭りとして広く知られており、また本堂の下には神聖な「神護石」があるそうです。 欄間の「龍と天女」の彫り物は、日光東照宮の「眠り猫」で有名な左甚五郎作と言われています。

さらに善光寺表参道を進み「大門」交差点には大きな常夜灯が建っています。善光寺宿として賑わった大門町へ入っていきます。交差点を越えるとすぐ左手に「善光寺郵便局」があり、ここが五明館跡になります。

TOO001

大門町

善光寺の門前町は鎌倉時代からありましたが、戦国時代、武田信玄に本尊を持ち去られ、争乱と本尊不在の間に衰退しました。その後本尊は巡り巡って、豊臣秀吉より本尊が戻されると、徳川家康から寺領千石を与えられ、さらに宿場町、九斎市の市場町として公認を受け急速に復興しました。

宿駅としての善光寺の本宿は「大門町」で、本陣・脇本陣・問屋があり、旅籠30軒ほどがあったとされます。 問屋は松井・小野・羽田・坂口・中沢の各家が務めましたが、1746年(延享3)から小野善兵衛家が務め、1849年(嘉永元)からは中沢与三右衛門家に変わりました。

TOO001

善光寺郵便局

元は「五明館」という旅館だったそうです。現在の建物は1932年(昭和7)の建築で旅館のフロント部分を改修して郵便局として使用されているそうです。
善光寺郵便局から60mほど進むと右手にモダンな外観の「藤屋」、そのすぐ先に七味唐辛子で有名な「八幡屋磯五郎」の本店があります。

TOO001

藤屋本陣

本陣は松井・羽田・藤井・中沢・坂口の各家が務めましたが、1776年(安永5)以降は藤井平五郎家が務めました。現在の「藤屋」です。

加賀藩主などの定宿として利用され、明治以降も皇族や福沢諭吉、伊藤博文などが宿泊していますが、火災のため往時の遺構は残していません。 1925年(大正14)、善光寺仁王門を手掛けた宮大工によって現在のアールデコ調に再建されました。

脇本陣は臼井清五郎家が務め、「山屋旅館」となっていましたが、現在はありません。

TOO001

八幡屋磯五郎

八幡屋は江戸中期に境内の高札場前で創業し、大正時代にブリキ缶の七味唐辛子を売り出しました。本陣横に移ったのは昭和中期になってからです。

TOO001

長野市道路元標

善光寺参道前の交差点右側にあります。道路の起点として市町村に1つ設置されていますが、銅板の元標は日本橋以外、見たことがありません。珍しいですね。
6:30 多くの旅人の目指した「善光寺」へ到着しました。