2021年11月6日
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13:15 丹波島宿をあとに犀川を渡り善光寺宿へ向かいます。現代は丹波島橋で犀川を渡ります。橋の先には両側に善光寺常夜灯があります。
犀川
東都道中分間絵図の「犀川」
往時は4つの流路に別れており、南側の2つは「舟、ツナゴシ」と舟で綱を伝って渡ることが書かれています。北側の2支流は「カリハシ(仮橋)」となっています。犀川を渡った先には「舟番屋」があったようです。赤馬頭観音
かなりのしかめっ面ですね。なぜ赤く塗られているのでしょうか。詳しくはわかりませんが、赤には魔除けの意味があるそうです。 100mほど進み、ホクト文化ホール南交差点を右へ曲がり200m、「姫塚」へ寄り道していきます。姫塚
熊谷直実が娘の玉鶴姫のために塚を築いたと伝わります。塚は古墳で五輪塔は室町時代の明応の銘があり、時代が一致していません・・・ここから東へ550mほどに「仏導寺」があり、熊谷直実が玉鶴姫のために開祖したお寺とされます。玉鶴姫の伝説
源平合戦一ノ谷合戦で平敦盛を討ちとったのち、この世の無常を知った熊谷直実は『蓮生』と名乗り出家。残された妻は悲しみのあまり幼い玉鶴姫を残して亡くなりました。 母を弔うため、また旅の途中で父にも会えるかも・・と考えた10歳の幼い玉鶴姫は侍女一人を連れ善光寺参詣へと旅立ったのでした。深谷では国済寺に宿を求め、住職は尼として旅を続けたほうが安心だとして、二人とも尼となりました。途中、玉鶴姫は病に冒されますが、なんとか犀川の丹波島渡しまでたどり着きました。 川は荒れ、綱を手繰り舟で渡りますが、玉鶴姫の意識は遠のき・・・気がついた時、犀川の先の粗末な小屋に寝かされていました。そこには侍女のほかに一人の僧、蓮生がいました。蓮生は唱えますが、玉鶴姫は安らかな表情で亡くなりました。父の声とわかったのか・・わからなかったのか・・観音寺・髻馬頭観音
源頼朝の守り本尊との伝承を持つ「もとどり観音」を祀っています。建久年間(1190〜1199)漆田氏が開基創建したとされますが、源頼朝が創建したとの伝承もあります。
源平合戦のさなか、善光寺は落雷によって焼失しますが、源頼朝が再建しました。1197年(建久8) 善光寺に参詣した源頼朝一行は、この土地に一泊し髪を束ねた髻(もとどり)の中に入れていた馬頭観音のお告げによって、この地に寺を建立して守り仏の馬頭観音を祀ったとの伝承があります。
14:30 長野駅南口の駐車場に車をおいていましたので、本日はここで終了します。
2022年7月2日
5:30 観音寺の近くのコインパーキングに車を停めて出発です。善光寺は常に混んでいますので早い時間に回りたいのと、最高気温の予想が35度を超えていますのでなるべく涼しいうちに進みたいと思います。 観音寺から100mほど進むと北国西街道は線路敷設のため、廃道となっています。左手の跨線橋で線路を渡ります。跨線橋を下りたところに「信越線工事犠牲者供養塔」があります。信越線工事犠牲者供養塔
正面は線路側ですが柵で取り囲まれ、裏側しか見れません。 この供養塔は信越線の完成前の1887年(明治20)に善光寺境内に建立されました。往時の大勧進、寂順大僧の撰文が刻まれています。1968年(昭和43)善光寺の工事で持ち主不明の塔は処分されることになりました。往時国鉄職員であった降幡利治氏がたまたま見に行くと塔は倒され、処分される寸前でした。なんとか供養塔を残そうと降幡氏は寄付をつのり、現在の場所へ移されたそうです。降幡氏の著書の中に「まさに仏の因縁」と記されています。信越線工事
1884年(明治17)高崎から着工し、翌年直江津から軽井沢へ向けての工事が始まりました。現在のような重機もなく、長野・新潟県境の山岳地帯を通る直江津線の工事は非常に難工事で、犠牲者は数十名となりました。追い打ちをかけるようにコレラの大流行が重なりコレラで亡くなった作業員は100名ほどと言われています。朝日山大蛇の塚・徳住上人六字名号碑
念仏行者、徳元上人の弟子「徳住上人」の文字が刻まれた六字名号碑です。朝日山大蛇の塚
1835年(天保6)朝日山に住む大蛇・小蛇はきこりの忠兵衛に古木と間違えられて斬り殺されて見世物にされたことから恨み、忠兵衛一族に祟り、忠兵衛は狂死、一族も奇病によって絶えてしまいました。この祟を鎮めるために大蛇に「畜轉善達信士」の法名が与えられ、小蛇は生存していると伝えられ、朱色で「得円妙了」と刻まれ、手厚く葬られたとのことです。刈萱道心と石堂丸像
「かるかや親子の対面」のシーンが銅像となっています。 顔も知らぬ父、苅萱上人を訪ねて高野山へ登った幼い石童丸が無明の橋にて父の上人と対面した情景です。 刈萱上人は石童丸を我が子と知りながら親子の名乗りはしないまま仏門に励んだとつれます。 「かるかや」の話は謡曲「苅萱」や説経節「かるかや」、浄瑠璃など中世以降、多くの芸能で語り継がれて来ました。一茶句碑・芭蕉句碑
『花の世は佛の身さえ親子哉』
小林一茶が西光寺を訪れて詠んだ句と言われています。『雪ちるや穂屋のすゝきの刈残し』
1743年(寛保3)芭蕉50回忌を期して多くの俳人によって建立されたもので、信濃では最古のものと言われています。苅萱塚
千里御前の墓、刈萱上人の墓、石堂丸の墓。 63歳で刈萱上人が亡くなると石童丸が父の菩提を弔うため訪れ、刈萱塚を建立しました。長野石炭油会社社員の墓・六地蔵憧
墓碑の横面には「石油会社詰合建之」と刻まれています。 長野県水内郡桑名川村(飯山市照岡)出身の石坂周造は、1871年(明治4)西光寺境内に石油精製所を作りました。「長野石炭油会社」として、日本初の石油会社が誕生しました。1872年(明治5)、社名を長野石油会社へ変更し機械を導入しアメリカ人技師を雇い、あちこち試掘しましたが原油がでず失敗が続き、また火災にも見舞われ、1878年(明治11)に倒産しました。 西光寺をあとに120m、右手に「栗田街道」入口、その先が「裁松院」があります。栽松院
名主であり、造酒屋の菊屋(山嵜家)が戦国時代に建てた観音堂から始まったお寺です。本堂は火災で焼失し、現在の建物は1902年(明治35)の再建で、扁額揮毫は江戸時代後期、大乗寺住職、愚禅が96歳の時に書かいたものといいます。 江戸時代後期の国学者であり紀行家でもあった菅江真澄も信濃遊覧の際に参拝したことが紀行文に記されています。裁松院の境内社と子育地蔵尊
さらに善光寺表参道を進んでいきます。道は広く綺麗に整備され道路の両側には木製の春日燈籠が並び、建物は建て直された新しいものが多いのでしょうが、デザインは往時のような蔵や町家を模したものとなっています。右手に「セントラルスクウェア」と名付けられた公園があり、その前の歩道に小さな標柱があります。往生院(権堂)
古くは蓮池があったため「蓮池庵」と呼ばれていました。807年(大同2)弘法大師が善光寺参りの折にこの地に寶(宝)乗寺を創建したのが始まりで、室町時代までは「西方寺」がここにあったといいます。西方寺は西町へ移っており、江戸中期にも西方寺が善光寺本尊の仮安置所になっていました。 1199年(正治元)法然上人が善光寺参りの折には、ここへ滞在し浄土宗へ改め初代となります。 境内には長野県内最古の「宇賀神九頭竜大弁財天」が祀られています。熊野神社
例祭日8月17日は長野の町で一番早い秋祭りとして広く知られており、また本堂の下には神聖な「神護石」があるそうです。 欄間の「龍と天女」の彫り物は、日光東照宮の「眠り猫」で有名な左甚五郎作と言われています。 さらに善光寺表参道を進み「大門」交差点には大きな常夜灯が建っています。善光寺宿として賑わった大門町へ入っていきます。交差点を越えるとすぐ左手に「善光寺郵便局」があり、ここが五明館跡になります。大門町
善光寺の門前町は鎌倉時代からありましたが、戦国時代、武田信玄に本尊を持ち去られ、争乱と本尊不在の間に衰退しました。その後本尊は巡り巡って、豊臣秀吉より本尊が戻されると、徳川家康から寺領千石を与えられ、さらに宿場町、九斎市の市場町として公認を受け急速に復興しました。 宿駅としての善光寺の本宿は「大門町」で、本陣・脇本陣・問屋があり、旅籠30軒ほどがあったとされます。 問屋は松井・小野・羽田・坂口・中沢の各家が務めましたが、1746年(延享3)から小野善兵衛家が務め、1849年(嘉永元)からは中沢与三右衛門家に変わりました。藤屋本陣
本陣は松井・羽田・藤井・中沢・坂口の各家が務めましたが、1776年(安永5)以降は藤井平五郎家が務めました。現在の「藤屋」です。 加賀藩主などの定宿として利用され、明治以降も皇族や福沢諭吉、伊藤博文などが宿泊していますが、火災のため往時の遺構は残していません。 1925年(大正14)、善光寺仁王門を手掛けた宮大工によって現在のアールデコ調に再建されました。 脇本陣は臼井清五郎家が務め、「山屋旅館」となっていましたが、現在はありません。