2021年5月2日
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宿泊した
『ドーミーイン松本』を出発し、飯田町バス停より
9:42発のアルピコバス四賀支所行きへ乗車しました。今日も晴れて気持ちいい青空です。
10:20頃に四賀支所へ到着しました。会田宿へ向けてスタートします。今日から宿が変更されますので、全ての荷物をザックに入れていますので重いです〜
善光寺道標
『左ぜんかうし道』『右いせ道』の折れた道標は、修復してありますが途中「ぜん」の部分がなくなり、「かうし」となっています。
殿村遺跡方面には前日に行きましたので、道標の交差点を左に曲がり会田宿へ入っていきます。
会田宿
鎌倉時代、小県地方の豪族海野氏は中信地方へ進出し、次男の会田小次郎以下の兄弟をこの地へ配し、治めさせました。地頭としての会田氏は虚空蔵山に城を築いて居館を殿村の台地に定め、その城下が発展していきました。
戦国時代の1581年(天正9)、会田氏は小笠原貞慶によって滅ぼされましたが、徳川幕府によって諸国の街道が整備されると会田宿は、
立峠への険路を控えた善光寺道と上田・明科・筑北の各方面への交通の要衝として栄えました。
しかし、1902年(明治35)鉄道が西条(にしじょう)−松本間に開通すると人馬の往来はほとんどなくなってしまいました。
会田小学校跡
2013年に四賀小学校と統合され、記念の石碑が建立されています。「学」と書かれた鬼瓦も記念碑の横に保存されています。
補陀寺(ふだじ)跡
補陀寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となり、その後会田小学校となりました。室町時代製作の木造阿弥陀如来立像が伝わり、行基や弘法大師の伝説がある岩井堂は奥の院です。補陀寺にあった石塔のいくつかは、長安寺跡に残っています。
会田宿本陣跡
横田家が務めました。「善光寺道名所図会」には『本陣横内家の林泉は佳景である』と記され、池を配した庭園が見事だと書かれています。会田には脇本陣も置かれ、この「中町」にあったそうですが、どのあたりなのかは判りませんでした。
1863年(文久3)の記録によると、家数は117軒、本陣・脇本陣の他に旅籠14軒、木賃宿4軒、茶屋3軒、牛馬宿3軒、馬稼23軒だったとされます。
善光寺道道標があった場所
ここにも道標があったはずですが、なぜかなくなっています。コンクリートの土台の角にあったようなのですが・・・どこへ行ってしまったのでしょうか。
ここから北国西街道(善光寺道)は進路を北へとり、立峠へ続く坂道が始まります。
安曇電気点灯記念道標
下問屋跡の前にあります。道標にもなっており、碑の下部には「善光寺道 松本市へ四里 会田街道明科駅へ二里」と彫られています。大正4年に建立されていますので、その頃に電気が来たと思われます。
天王社
牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社を「天王社」と言うようですが、残されている石碑は劣化して全く文字が読めません。
上問屋
堀内氏が務めました。問屋は半月交代で伝馬役を果たしていました。江戸後期には本陣も務めています。門前の立派な松は伐採されてしまったようです。
若松屋
防火用の天井から上下できる壁があるらしいのですが・・よくわかりませんでした。
善光寺常夜灯
安政2年の建立、石工は高遠の流れを汲む伊那郡福島村の銘が入っています。善光寺街道では最も優れた一対の常夜灯である、と紹介されていました。
会田の双体道祖神
文字道祖神が2基と新しい双体道祖神が覆屋の中に並んでいます。
馬頭観音
2つに折れた馬頭観音は修復されて覆屋の中に納められています。
広田寺参道
戦国時代の豪族会田氏の菩提寺、「広田寺(こうでんじ)」に寄っていきます。
広田寺(こうでんじ)
広田寺は、もとは知見寺にあり海野氏の開基です。1511(永正8)に、山辺の広沢寺四世の中興開山。1583年(天正11)に小笠原氏に攻められて会田氏滅亡の際には兵火にあっています。
善光寺道名所図会に描かれる広田寺
庚申塔
1740年(元文5)の銘があります。
総門付近の筆塚
総門付近には大黒天1基、石祠1基、筆塚2基、記念墓碑1基、禁札1基、万霊塔1基があります。
総門と本堂
総門は1783年(天明3)の再建、本堂は1803年(享和3)の再建で、参道両側には江戸時代末期から明治初期にかけて、亡くなった幼児を供養するために建立された115体の石仏が並んでいます。
会田氏は真田氏と同族で、住職は代々真田姓。本堂屋根には
「六文銭」が掲げられています。
会田塚
会田氏滅亡の際、具足や刀剣が埋められたと伝えられる塚です。会田氏は1582年(天正10)小笠原勢に攻められ、菩提寺である「知見寺」は火を放たれたため、開基である岩下豊後守の位牌を持って広田寺へ逃れました。
松沢家長屋門
松沢家は寺子屋と剣術指南をしていました。茅葺屋根の立派な長屋門です。
無量寺大門
ここから無量寺への参道がありました。弘法大師袈裟掛け松の石碑や弘法堂があります。
芭蕉句碑
『身にしみて大根からし秋の風』
「更科紀行」の旅の途次、立峠付近で詠まれたと案内板にはありますが、北国街道坂木宿西念寺にもこの句碑があり、ねずみ大根の「おしぼりうどん」を食べてこの句が詠まれたとされます。この句碑は幕末頃に建立されました。
右側が弘法大師袈裟掛け松の石碑です。松は何代目になるのでしょうか。
松沢喜一筆塚
先程の立派な長屋門の松沢家の方の筆塚です。寺子屋と剣術指南の門弟が幕末に建立しました。
恵比寿さまの笑顔がとっても素敵です。
無量寺
「長野県町村誌」によると創建は不明ですが、1620年(元和6)三世、久山和尚が中興したとありますが、松本市によると「弘法大師空海を開祖として、弘仁10年(819年)年に仁科5代和泉守が開いた真言宗寺院を前身とし、天正2年(1574年)に仁科25代武田五郎盛信が父信玄の菩提のため曹洞宗に改宗して再興したと伝わります。」と紹介されています。
双体道祖神
建立年はわかりませんが、彫りがはっきりしており、顔の表情もとても穏やかな道祖神です。
岩井堂集落
会田宿から立峠までの道のりは中世の東山道支線として、江戸時代は北国西街道(善光寺道)として賑わっていました。
道標
「左 〇〇寺道 弘法大師?」摩耗してよくわかりません。おそらく岩井観音堂への道標でしょう。昔はここから上へ上がる道があったようです。現在はもう少し登ってから左へ入ります。
岩井堂炭鉱記念碑
明治末に建立された記念碑は上部が折れています。
1879年(明治12)、紀州の金森信一郎は善光寺参りの帰り道に岩井堂観音山に露出する石炭層を発見し、1883年(明治16)より石炭の掘削が開始され、索道(リフト)で西条駅まで運ばれていました。
岩井観音堂
「長野県町村誌」によると天平勝宝の頃(749〜757年)、行基により一宇を建立し像を彫り安置するとあり、後に弘法大師が巡礼し、大日像を刻み供養塔、百番観音を勧請したとあります。善光寺街道筋の信濃三十三番中二十番札所であり、善光寺参りの参拝者が多かったといいます。
岩井観音堂の石仏
中央の石仏が並ぶ後ろの岩は、下部にぽっかり穴が空いています。ここが
炭鉱跡の抗口とのことです。
岩井観音堂の磨崖仏
11体の磨崖仏があり、地蔵、大黒天は大きく近隣では見られない貴重なものだそうですが、大黒天はどこにあるのかわかりませんでした。
善光寺道名所図会の岩井観音堂
これを見ると
大黒天は、岩山を北の方へ回り込んだあたりですね。そこまで行かなかったのでわかりませんでした。
「加持水」なる湧水もあったようですね。
加持水は、「長野県町村誌」が編纂された明治時代には岩下より清水が湧出していたようですが、現在はありません。
岩井堂の砂岩層
岩井堂から善光寺道へ戻る坂道を少し下り、右手のほうへ入っていくとこの景色があります。滑らないよう足元には充分気をつけてください。
四賀化石館のホームページでは
「四賀キャニオン」と書かれていましたが、まさに小さなCanyon、ちょっとびっくりする景観ですね。周囲は山深いのに突然この景色ですから!!
岩井堂一里塚跡とうつつの清水跡
馬頭観音などの石碑と水溜め石がありました。
「うつつの清水」は虚空蔵山の麓に湧き出る弘法大師ゆかりの清水で、地域の人々はお盆にはこの水を汲み、盆棚へ供えていました。大正時代は現在地より東方約50mから竹筒で水溜め石まで引水し、さらに下の岩井観音堂まで引水していました。
水溜め石は、大正2年に有志8名によって設置され、平野忠助夫婦によって管理されていました。昭和初期に使用を廃止し、宮本の神明宮に保管されましたが、元の場所へとの声があり、平成5年に元の位置に戻りました。
この場所は
一里塚跡でもあり、大正時代までは茶屋もあり、旅人はここでのどを潤し、立峠へ向かいました。
虚空蔵山登山口
「会田富士」とも呼ばれる虚空蔵山には会田氏の「中ノ陣」と呼ばれる山城があり、頂上には砂岩の岩穴を利用した懸造り建ての「岩屋神社」があります。1時間ほどで1139mの虚空蔵山山頂へ至るようです。
馬頭観音
会田宿27名の名前が彫られ、文化14年の建立、右側が少し欠けていますが、顔の表情もよく残り大きく素晴らしい彫りです。北国西街道一の大きさ、
最も精巧だとされます。舗装路から見ると後ろ向きですが、馬頭観音前が旧道で薄っすらと未舗装の旧道跡が残ります。
会田宿から少しずつ標高を上げてきましたが、ここから最後の難関、未舗装の峠道に入っていきます。ここは標高850mほど、ここからから標高1000mの立峠まであと150mほどを一気に登っていきます。
立峠は北国西街道、最大の難所でした。旅人も馬も大変難儀したといいますが、現代も結構大変でした。かなり道が狭く、幅30cmほどしかないような場所もありました。この幅では牛車などは通れないような・・江戸時代と道が変わっているのでしょうか。
立峠
峠には茶屋が4軒あったといい、「みたらしや」が一番大きな茶屋と書かれていましたが、正しくは「見晴屋」だったそうです。確かに「見晴屋」のほうがこの場所にふさわしい名前ですね。
唐鳥屋城跡
立峠の茶屋跡の案内板の後ろからもう少し登り、尾根道を東へ500mほど進むと「唐鳥屋城(からとやじょう)」があった場所です。唐鳥屋城は藤沢帯刀が寛正年中(1461〜1466年)に築き、天文年間(1532〜1555)に小笠原貞慶により滅ぼされました。藤沢氏は小県の海野氏一族にあたり、この地を拝領し守護を務めていました。
空は雲に覆われ、北アルプスが見れなくて残念でした。
地蔵原の地蔵
1709年(宝永6)建立の地蔵が佇む「地蔵原」では地蔵の手前少し右へ行ったあたりの木の根元より清水が湧いています。
地蔵原から南西に登ると標高1036mの
「古峠」へでます。東山道支道は古峠を越え、地蔵原で善光寺道と合流していました。
立峠の石畳
将軍が代替わりするたびに巡見使がやってくるため、峠道の普請(維持修繕)をしなければなりませんでした。毎回普請を行うのは負担が大きいと、石畳にしたそうです。
松尾芭蕉は木曽から善光寺へ抜ける際には『立峠などは四十八曲がりとかや、つづらおり重なりて・・』と更科紀行に記されています。現在は「芭蕉の小路」と名付けられています。
一旦、アスファルトの林道へ合流し、150mほどで再び未舗装の旧道が残っています。
筆塚
峠を下りてきて、最初にあった民家に大きな「筆塚」がありました。
お茶坊様と双体道祖神
隆明霊神(りゅうめいれいじん)は、村人からは
「お茶防様」と呼ばれ乱橋の西方の山にあるため、里でも参拝できるように遺品を収め祀っているそうです。隆明は文化6年武蔵多摩郡生まれ、高尾山で修行し20年余りを日本各地の霊山で修行し、乱橋と西条の境、鷹巣山の岩穴に定住し明治19年、77歳で亡くなったとされます。
14:00 厳しい上り坂をなんとか登り立峠を越え、ようやく
『間の宿乱橋』(みだればし)に入っていきます。