2020年11月21日
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午前中、かなりの雨・・・天気予報ではお昼くらいには雨が上がるとのことでしたので、午前中は直江津を中心に街道から少し遠い場所を車で回りました。
お昼前頃に直江津駅裏のコインパーキングに車を停め、はねうまラインで高田へ向かいます。1時間に1本しかありませんので少々時間をロスしましたが直江津発12:36に乗ることができました。
12:50 高田駅を出発します。相変わらず駅前は立派ですが、人はまばらで閉まっているお店が多いです。
町家交流館 高田小町
明治時代に建築された町家「旧小妻屋」を再生、活用した交流施設です。高田の町家の特徴である吹き抜けや土蔵が見学できるそうです。
小町問屋は藩から特権が与えられ、信濃へ送られる塩は必ず塩問屋を通したため、「高田塩」と呼ばれました。
高田塩
今町湊(直江津)で陸揚げされた
「高田塩」は北信四郡全域と小県郡の一部に供給されました。北国街道を通じて供給される高田塩は、天保郷帳で見ると信濃国七十六万石のうち、三十万石の地域におよび、
北国街道は信州最大の塩の道でもあったといいます。塩荷は他の荷物と同様、宿駅ごとにその馬に積み替えて次の宿へ送られます。途中、新井宿から富倉峠経由で飯山町へ送られますが、多くは善光寺宿の塩問屋へ、一部は上田方面へ送られました。
本町4丁目から6丁目は江戸時代の上小町、中小町、下小町でした。
加賀前田家の本陣は下小町の加賀屋、脇本陣は茶町の三国屋、糸魚川の松平家の本陣は下小町の中村屋が代々務めていたといいます。
しかし、その場所がどこなのかは、全くわかりませんでした。
また、佐渡から送られる金銀、
「御金荷」は鉢崎の御金蔵で1泊目の泊まり、次の日は高田城下の御金蔵で2泊目となりましたが、高田城下の御金蔵がどこにあったのかわかりませんでした。
高田世界館
1911年(明治44)に
芝居小屋「高田座」として建築されました。数年後に映画がブームとなり
「世界館」と改名し、以降現在まで上映を続けている
日本最古の現役映画館です。昔ながらのフィルム上映もされているそうです。
旧今井染物屋
江戸時代後期に建てられた町家です。茶の間は吹き抜けとなり梁組、小屋組み、屋根裏が見られます。一般公開されていますが、補修作業のためか、今日は閉まっています。
下職人町(大町五丁目)
高田城下は職業ごとに町が形成されていました。下職人町には研屋、刀の鞘師、金具屋、畳屋など様々な職人が居住していました。
雁木は江戸時代初期に高田で生まれたものですが、庇だけを外に張り出す
『落とし式』と雁木の上に部屋がある
『造り込み式』があります。造り込み式は数が少ないですが、この今井染物屋が造り込み式として残る建物です。
私は見たことがないのですが、
映画「ふみ子の海」のロケ地となったそうです。
産毛屋(うぶげや)
1614年(慶長19)、元祖小林七郎右衛門は越前から移り高田で創業しました。江戸時代から14代続く毛抜き職人の技や品々をショーウィンドウで紹介しています。平鍬のさび残ったものを利用して造られていたため、鉄質が柔らかく弾力があり評判が高かったといいます。初代高田城主・松平忠輝も愛用していたといい、江戸時代から粟飴と並び高田の名物として知られていました。
コンクリートに大きく「信」の文字、目立つ建築です。明治25年創業の呉服卸商、カクシンという会社でした。この文字は創業当初から受け継がれているロゴだそうです。
北国街道追分
厳密に言えば「北国街道」の終点になりますが、一般的にはさらに東へ「北国街道奥州道」として出雲崎まで伸びています。私達も北国街道の終点は出雲崎としています。西へは「加賀街道」が分岐し、加賀藩の大名行列はここからは西へ向かっていました。
宇賀魂神社と追分道標
追分にあった道標は、昭和10年頃に宇賀魂神社境内に移設されています。
「右於う志う道 左加かみち」と彫られていますが、この石は
福島城の石垣を用いて造られたものです。
小川未明生誕の地
日本のアンデルセンと呼ばれる童話作家小川未明は、1882年(明治15)、高田藩士小川澄晴の長男としてこの地に生まれました。父の澄晴が春日山城に春日山神社を建立したため、未明は15歳から家族とともに春日山城の社務所で暮らすことになりました。
大仙寺の名号碑
室町時代の1429年(永享元)、曇?(どんけい)により開祖。春日山時代は吉田周防守(諏訪入道)の菩提所でしたが、後に酒井家の菩提所になりました。
名号碑は徳本(とくほん)上人が大仙寺にて教化を行った記念として文化14年に建立されました。
瞽女ミュージアム
高田瞽女(ごぜ)の文化を紹介するとともに、瞽女を鮮烈な赤で描いた洋画家、斉藤真一の作品や記録映像を展示しています。
高田瞽女(ごぜ)
盲目女性の旅芸人、「女盲目(おんなめくら)」などとも言われたようです。新潟を中心に北陸地方を転々としながら三味線や胡弓(こきゅう)を弾き唄い、語り物音楽として説経節の『小栗判官』や「くどき」などを独特の語りと歌により数人で演奏することも多かったそうです。娯楽の少ない当時の農村部にあっては歓迎されました。新潟では大きく分けると「高田瞽女」と「長岡瞽女」とに分類されるようですが、現在でも数人の瞽女が活躍しているそうです。
青田川
住下橋を渡り、青田川を越えます。青田川はこの先1kmほどで関川へと合流します。
東本町雁木通り
雨がまた降って来ました。傘はありませんが、雁木がありますので雨に濡れません。雁木の有り難さがよくわかりましたね。
直江町(東本町4丁目)
福島城下、直江津から移住してきた人々が多く、「直江町」となったとされます。関川を上がってくる舟の荷を取り扱う問屋の特権を与えられていました。また、東頸城などからの蝋や油類を扱う山問屋が置かれていました。
直江八幡宮
創建は不明ですが、当初は早苗村福島(関川河口付近)に鎮座し、「延喜式」の「江野神社」(頸城郡十三座の一)であると伝えられています。康平年間(1058〜1064)、奥州に向かう源義家が社殿を再建し、八幡神を合祀したとも伝えられ、1612年(慶長17)松平忠輝の高田築城にともない城下に移されました。
稲田鍛冶町(東本町5丁目)
北国街道の稲田口に近いため、町筋の南北には武家屋敷、また北側に寺社を置くなど防備が考えられていました。また、町の一部は受人町と呼ばれ、武家奉公人を紹介する口入業者が多くありました。
鍋屋町(東本町5丁目)
現在の東本町5丁目にあたります。1661年(寛文元)には越前国足羽郡山岸村土肥佐兵衛と11人の鋳物師、補助役10名ほどがこの地に開業しました。
瑞泉寺の時の鐘は1669年(寛文9)に松平光長の母、高田姫の命により左兵衛がこの地で鋳造したものです。
稲田口番所跡・銭座跡・坂口勤一郎博士誕生の地碑
全国で7箇所ある銭貨の鋳造発行所である「銭座(鋳造所)」の一つがこの地にありました。松平光長時代(1624〜1681)に鍋屋町にあり、幕府は民間に鋳造を請け負わせました。また稲田口番所が置かれ、北国街道奥州道への出入りを取り締まっていました。
坂口勤一郎博士誕生の地碑は、2018年博士の生誕120周年を記念し、有志によって建立されたものです。生家は上越市頸城区鵜ノ木にある「坂口記念館」へ移築されています。
坂口勤一郎
1897年(明治30)鍋屋町で生まれ、中学までは高田で過ごした後上京し、東京帝国大学農学部を卒業します。
発酵・醸造の世界的権威であり、酒造業界では「酒の神様」、「酒の博士」と称され、数々のお酒に関わる書籍を発行しています。
昭和6年頃、
寿屋(現サントリー)の鳥井社長から国産のぶどう酒製造の相談をうけ、ぶどう酒の製造には風土に適したぶどうの栽培から出発しなければならないと説き、明治20年代からぶどうの製造とワイン醸造の研究を行っていた川上善兵衛の指導を受けることを薦めました。
1970年(昭和45)、雑誌「世界」4月号に沖縄の泡盛を題材とした論文、
「君知るや名酒あわもり」が発表されました。東大では教授であり、定年後は名誉教授となりました。1994年(平成6) 97歳で亡くなりました。上越市頸城区には
「坂口記念館」が建てられています。
関川を渡り左へ曲がっていきます。雨は更に強くなりますが、雁木がまだ所々にありますのであまり濡れずにすみます。
松之山街道口
右へ向かうと松之山(新潟県十日町市)を経て三国街道、塩沢宿(新潟県南魚沼市)へ通じています。
稲田の稲荷社と神明社
神明社には大きな松の木がありました。
雪囲い
公園の樹木、個人邸の樹木などほとんどの樹木に
「雪囲い」がなされています。小さなドウダンツツジなどにも雪囲いをするのですね。全く知りませんでした。これはかなり大変な重労働ですね。やはり雪国に居住するということはかなり大変なことなのだと思いました。
十二神社
豪雪地域の筆頭に越後の魚沼、古志、頸城の三郡が挙げられるそうですが、雪とともに多いのが「十二神社」といいます。全国には700余りの十二神社があるそうですが、その中の7割が越後に集中しているそうです。
大日一里塚跡
地元の方は「地蔵堂」と呼ぶようです。一里塚は残っていませんが、祠に納まる地蔵と名号碑があります。昭和中期まではエノキが残っていました。
名号碑
念仏聖徳本と義賢独特の六字名号を並べて刻まれています。側面には「四国八十八ケ所」とあり、四国霊場巡礼碑です。1つの塔に2人の行者の名号を刻んだものは珍しいそうです。
少し晴れてきたと同時に虹がかかりました!
若宮八幡宮
後ろに虹がかかっています。幻想的です。
記念碑
農地改革や富岡堰廃止・水路完成、耕地整理などの記念碑が並んでいます。
1968年(昭和43)から始まった国営関川農業水利事業整備により櫛池川に子安頭首工と大道子安幹線用水路が昭和47年に完成し、富岡堰用水に替わる子安用水路4kmが1982年(昭和57)に供用され、富岡堰が撤去されました。
飯塚哲郎記念碑
明治42年に頸城郡新道村の村長だった人です。教育や耕地整理に尽力し、村民に慕われていたようです。大きな志を持っていたということですが、明治45年に肺結核を患い39歳の短い生涯を閉じました。没後30年の昭和15年、住民により飯塚邸跡地一角に記念碑を建立しました。現在、飯塚邸跡地は「富岡公園」となっています。
大道用水の碑
大道用水路は、1664年に開削されたと古文書には記されています。三郷地区新長者原地内で開削を行ったのは高田呉服町の町年寄の森繁右衛門です。開削当初は別所川と関川の合流点で用水を取り入れていましたが、1762年と1783年の計2回で別所川をさかのぼり、三郷地区本長者原地区に用水の取入口を設置しました。なお、当時は大道郷用水と言われていましたが、現在は大道用水と呼ばれています。
荒海治郎吉之碑
上部に「相撲」と彫られているので、力士なのでは・・?といろいろ調べてみましたが、全く名前が出てきません。頸城郡史にもありません。どういった人でしょうか・・・
15:40 春日新田宿にはあと2kmほどありますが、本日宿泊する
『門前の湯』に到着しました。今日はここまでとします。
2020年11月22日
9:00 『門前の湯』を出発します。今日は昨日とうってかわり晴天です。
雪をかぶった山は
白馬でしょうか・・
関川
関川の関所で最初に出会った「関川」、直江津が河口で海へ注がれます。関川は今町湊(直江津)から高田城下を結ぶ約10kmの舟運として重要な機能を果たしていました。
←カワウ
春日新田宿
1614年(慶長19) 高田城の築城により福島城は廃城となり、多くの施設が高田へ移りました。それ以後、高田を起点とした街道が設けられ、稲田大橋を渡り稲田から富岡・藤野新田・下門前・春日新田へと通じていました。
本陣1件、旅籠6件、角の茶屋、中の茶屋、蔵番などの名前が残っています。往時、道路上にはいくつかの井戸があり、馬つなぎ場も造られていました。
春日新田駅跡
1894年(明治27)、民営の北越鉄道株式会社が設立され、1898年(明治31)には春日新田から沼垂(新潟市)まで開通しました。当初は春日神社の東側に春日新田駅が設置され、関川には鉄橋が無かったため直江津には舟で渡っていました。その後、関川に鉄橋がかかり、黒川駅が設けられたことにより春日新田駅は廃止されました。1907年(明治40)国有鉄道となり、信越本線に変えられました。
北越鉄道駅名の歌
長野下りの客人は、直江津駅に乗りかえて、
本社線にぞ入りそむる、荒川の渡り対岸は、
春日新田駅にして、犀潟の町過ぎゆけば・・・・
当時の
「関川」は、「荒川」と呼ばれていたようです。往時は
春日新田駅が終点で、船で関川を渡り、直江津にむかいました。
春日神社
春日神社にちなみ、春日山城といいますが、福島城や高田城の築城に伴い分社され、各城下町にあります。こちらの春日神社は福島城下の春日神社になります。
春日神社の手水
手水に洗面台が設置されています。かなり珍しい手水ですね。
力士像
春日神社の石垣の左右に阿吽一対の力士が彫られています。珍しいもののようで、災害から守る意味があると考えられています。
「刈羽郡悪田村 石工 渡部重一 伜(せがれ)直廣」と彫られていますので、
悪田村の渡辺親子によって石垣が築かれたようです。刈羽郡悪田村は現在の柏崎市、鯖石川河口付近にあたります。
春日神社参道
街道側に石碑があり、ここが本来の参道だったようです。線路で分断されてしまい、現在は通行できません。本陣は桝形の角にあったとされますのでこの参道の左手が本陣だったと思いますが、春日新田駅の工事で無くなってしまったといいます。
本陣跡といってもいいような立派な旧家です。春日新田宿に唯一残る往時の面影のある建築物ですね。
馬市跡
宝暦の頃、又左衛門(高浪忠太夫)という博労(牛馬の仲買商人)が東北地方から十数頭の馬を買い求めて売ったのが馬市の始まりで、当時、春日新田は天領であり秋田藩主、佐竹氏の預所のため又兵衛は許しを得て、市場に佐竹家の紋所の幕を張り、高提灯を掲げました。最盛期には千頭を超え、越後三大馬市(春日新田・椎谷・栃尾)の一つでありましたが、第二次大戦のため昭和18年に消滅してしまいました。
馬頭観音と高浪忠太夫墓
春日新田の馬市創始者、高浪忠太夫(又左衛門)の墓が馬市跡に建てられています。馬市反映の功績により苗字帯刀が許され、高浪忠太夫と名乗ったとされます。
覚真寺
太平洋戦争中、直江津捕虜収容所では虐待や拷問がありたくさんの亡くなった捕虜がいました。この時、捕虜の遺骨が一時納められたのが覚真寺でした。捕虜収容所は、現在の上越市川原町の「平和記念公園」となっています。
小町橋
戸野目川に架かる小町橋を渡ると春日新田宿とはお別れです。
北国街道分間絵図は高田で終わっていますので、出雲崎までの当時の詳しい道中図はほとんど無く、細かいことがわからないのが残念です。
9:50 春日新田宿を後に黒井宿へ向かいます。