2021年5月1日
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11:45 松本から岡田宿へ進んでいきます。今にも雨が降り出しそうでしたので少し先を急ぎます。
善光寺名所図会に描かれた浅間温泉
浅間温泉は、698年の日本書紀に登場する束間温湯(つかまのゆ)であろうと推定されています。江戸時代には、初代松本藩主の石川数正により「御殿湯」が置かれ、城主や臣下の武士たちの別邸も建ち並び、「松本の奥座敷」と呼ばれるようになりました。この御殿湯の詰所跡が現在の「枇杷の湯」がある場所になります。明治時代になると、正岡子規や伊東左千夫からなるアララギ派発祥の地とされ、竹久夢二、与謝野晶子、若山牧水、田山花袋ら多くの文人が訪れています。南木戸跡の地蔵堂
地蔵堂の地蔵は1721年(享保6)造立、大日如来は(天保15)、馬頭観音は文政2年と3年の銘があります。貞享騒動(加助騒動)
1686年(貞享3)、松本藩主、水野忠直は農民に無理な増税を強要、当時の周辺地域の1.5倍ほどの税としました。困窮した農民たちは多田加助をリーダーとし、松本城に詰めかけ、農民は1万人にも膨れ上がったともいわれます。岡田宿からは検地役人「橋爪善七」が頭領として先頭に立ちました。当時、藩主水野忠直は参勤交代で不在であり、困った城代家老達は農民の要求を受け入れると約束し、その場を納めました。しかし、後日手のひら返して約束を反故にし、藩主の許可を得て多田加助ら8人を磔、家族ら30名を獄門の極刑に処しました。橋爪善七は弟勘太郎と共に出川の刑場で磔、家は絶家、他の一揆に比較してとんでもなく重い刑となりました。橋爪善七の墓所などは現在も不明です。江戸海道
江戸海道は保福寺道とも言われ、稲倉峠、保福寺峠を経て北国街道、上田宿へ抜け追分より中山道を経て江戸へ至る街道です。岡田口番所
現在の道標の街道を挟んで向かいにありました。1725年(享保10)松本藩主水野忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こし、改易となったため松本藩領であった麻績、会田は幕府領となり、岡田は幕府領と松本藩領との境界になりました。女性、白木、麻、穀物、塩、馬などの出入りを監視していました。番所は所家が務め、明治2年に廃止されました。蓮台場
地蔵堂があり、岡田宿の北の木戸があったあたりです。またこの場所は旅人の無縁墓地として「連台場」と呼ばれていました。前庭は葬礼場で棺桶を乗せる台がありました。その台を仏や菩薩が座す蓮の花の形をした台座になぞらえて蓮台と呼ばれたことから「蓮台場」と呼ばれました。 地蔵は1721年(享保6)、蓮台は嘉永2の造立、六字名号碑は、江戸時代初期、弾誓上人が大願寺、西浄院に授けた碑を廃仏毀釈に伴い1872年(明治5)に移設しました。(大願寺は岡田の村山酒店辻の大門小路を西へ入り、160mの右手、寺跡に小さな堂があります) 安政4年と安政7年の馬頭観音や寛永4年の庚申塔などもあります。西浄院住職の墓碑は、圃場整備に伴い1989年(平成元)に西浄院跡より移設しました。西浄院は大願寺から南へ100mほどの道の西側にありました。今は何も残っておらず、民家が建っていますが、手前の道角に小さな不動明王が残っており、これが唯一の西浄院の名残です。松が見事な旧家
道祖神と庚申塔
伊深城
伊深城(古くは井深城)は、1180年(治承4)に岡田冠者親義が築いたと伝えられますが、実際には親義の末裔にあたる井深氏が室町時代に築いたと推定されています。その後は後庁氏が城主になり、1550年(天文19)武田軍が信州に入った後は小宮山氏が城を管理しました。戦国時代における松本北部を守る重要な山城でした。慶弘寺跡の石仏
慶弘寺は室町時代に後庁氏が菩提寺として築いたとされ、「信府統記」には武田信玄が出陣の際に参拝し、寺を保護したと記されています。大きな寺でしたが1862年(文久2)に焼失し、1870年(明治3)廃仏毀釈により廃寺となりました。松本の廃仏毀釈
発端は、新政権が出した太政官布告「神仏分離令」と1870年(明治3)に出された「大教宣布」にありますが、あくまでも神道と仏教の分離が目的であり、寺を打ち壊す目的ではなかったとされますが、これが拡大解釈され寺院を破壊する者が現れました。廃仏毀釈の強弱は地域差が大きいとされますが、特に水戸・松本・富山・岐阜苗木・伊勢・津和野・高知・宮崎・鹿児島においては激しい廃仏毀釈運動が起こったといいます。 松本藩では、最後の松本藩主戸田光則の新政府に対する「忖度」が背景になって、壮絶な廃仏毀釈が吹き荒れました。1870年(明治3)の1年間で、164カ寺のうち124カ寺が廃寺になっているといいます。戸田光則は、幕末、新政府につくか幕府につくか大いに迷ったとされ、最終的には新政府に付きますが、これ以降急速に新政府に対して忠誠心を持ち、新政府へのアピールとして廃仏毀釈を激化させたとされます。 岡田宿の大願寺、西浄院も廃物希釈により廃寺となっていますし、この慶弘寺も廃寺となっています。倶利伽羅峠合戦の図
岡田冠者親義
清和源氏と言われる清和天皇の六男、貞純親王を祖とし祖父は源頼義、父は新羅三郎義光と言われています。親義には太郎重義、小次郎久義、井深三郎某という男子がいました。源氏一族であったため木曽義仲と同様、平家追討の「以仁王の令旨」を受けました。木曽義仲へ迎えられ、義仲の初戦「麻績・会田の戦い」では信濃国府を出発した義仲軍の案内役として先頭に立ち奮戦したと伝えられます。その後も各所の戦いに従軍しましたが1183年(寿永2)越中国と加賀国境の倶利伽羅合戦で平家の武将、平知度と戦い闘死しました。岡田の町を見守る観音様
14:00 今日はここでゴールとします。本日も松本へ宿泊しますので、松本まで戻りたいのですが・・・ 国道へ出てセブンイレブンの横のバス停に「ほしみバス」がきますが、こちらは17:43分までありません。また1kmほど西へ歩いてそば屋六助近くの「六助」バス停にはアルピコの四賀支所からくるバスがあるのですが、こちらも17:00過ぎです。 交通機関はタクシーしかありませんので、浅間温泉の「メトバタクシー」さんに迎車をお願いしました。配車センターの女性には「慶弘寺公園」の場所がわからなく・・グーグルマップも見られないらしいです。住所を調べて伝えても、タクシー会社の地図には載っていないそうで・・他にどう伝えればいいのか・・困り果てました。 運転手さんに「慶弘寺公園」を知っている人を探すと、一旦電話を切り・・暫く慶弘寺公園の四阿で休憩していました。雨と風が強くなり、高台の四阿は雨がどんどん吹き込んできます。寒い・・ ようやくコールバックが来て、慶弘寺公園を知っている運転手さんが向かっています、と返事をいただき、ほっとしました。10分くらいで来てくださいました。よかった〜寒くて我慢できなくなってきた所でした。 松本市内の『ドーミーイン松本』までは3,300円くらいでした。