2022年7月2日

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8:30 善光寺の参道をでて左へ曲がり、新町(あらまち)宿へ向かいます。すぐ先右手にレンガの蔵がありました。

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八幡屋磯五郎レンガ蔵

大正時代に売り出したブリキ缶の七味唐辛子で知られる「八幡屋磯五郎」の蔵のようです。
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突き当りまで進むと「西宮神社」、ここを左へ曲がります。枡形ですね。

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西宮神社

恵比寿の宮としては長野県で最も古いと言われ、11月のえびす講祭は秋の風物詩とされ煙火大会などが行われ、1月には初えびす祭が行われています。

130mほどで県道へぶつかり、ここを右に行くのが北国街道ですが、直進した先、湯福川に架かる小さな橋の袂に石碑があります。

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田島式左衛門碑

碑の先、1887年(明治20)城山へ上る「城山県社新道(田島新道)」開設に尽力した田島式左衛門の顕彰碑のようです。碑は式左衛門の二女のかく子と孫の定三郎によって1920年(大正9)に建立されたものです。
北国街道を150m進み、左手斜めの道へ入っていき、すぐ先左手に一里塚地蔵とも言われた「柏崎地蔵」があります。

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柏崎地蔵(一里塚地蔵)

謡曲「柏崎」の物語に登場する越後国柏崎の領主、柏崎氏の子供「若花」の供養のため作られたものと伝わります。
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東都分間絵図「一里塚地蔵」

一里塚地蔵の近く、往還左右に道祖神と庚申塔が描かれています。この道祖神と庚申塔が現在も柏崎地蔵の左右に祀られている道祖神と庚申塔だと思われます。

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道祖神と庚申塔

柏崎地蔵の厨子の左右に絵図に描かれているものと思われる道祖神と庚申塔が祀られています。

さらに250m、左手の板金屋さんの横から細い階段を少し上ると「新町の赤地蔵」があります。

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新町の赤地蔵

周辺に散在していた無縁仏の石塔などをここに集めて安置し供養されたものと伝えられています。
階段を下り北国街道へ戻ります。このあたりの北国街道は現在「相ノ木通り」と呼ばれています。家はびっしりありますが、往時の面影もちらほら見えるなんとなく懐かしいような街並みを進んでいきます。大通りを横切り500mほど行くと左手に「時丸寺」があります。

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時丸寺(じがんじ)

善光寺縁起に登場する大和国の三輪時丸という若者は、両親よりも早く亡くなり地獄に落ちてしまいますが、善光寺如来の力で再生し、善光寺東の門、伊勢社付近に一寺を建立しました。
中世には「大乗寺」と称し、その後、三輪の現在地へ寺を建立し「観音寺」と称しました。1871年(明治4)本堂再建と同時に「時丸寺」と改称したとされます。

時丸寺より300mほど左手に「円通寺」、その先右手奥に「美和神社」があります。

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円通寺

1654年(承応3) 真田家の菩提寺である長国寺により創建。長国寺の隠居寺であったため、本堂に六文銭が見られます。
1873年(明治6)から1892年(明治25)まで三輪村洗心学校として使用されましたが、同年火災により焼失してしまいました。直後に再建され1923年(大正12)長野市合併まで三輪村役場として使用されました。

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三輪時丸塚

円通寺の西側に古墳のような小さな丘があり、これが「三輪時丸塚」でした。塚の上にあった石仏は1847年(弘化4)の善光寺地震で倒れたため、現在は円通寺境内の駐車場のような場所へ移しています。古墳は三輪時丸の墓とも言われています。

古墳を地図で探してみましたが、現在はなくなっているようです・・

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美和神社

創建は不明ですが、最も古い記録では866年(貞観8)の「三代実録」に「信濃国水内郡三和神部」が見られます。「延喜式」にも記載があります。古くは「三輪神社」でしたが、安永年間(1772〜1781年)に現在の「美和神社」と改称されました。

鳥居は「三つ鳥居」と言われるもので、珍しい形式のものです。現在の社殿は1793年(寛政5)の建築です。

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善光寺名所図会に描かれた「美和神社」

古北国街道は三輪神社の鳥居前の道だったようです。確かに北国街道側には参道がなく、ちょっと変わった作りだな・・と思っていました。

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百末社石祠

境内には百の末社があり、12月には「越年祭」が行われるそうです。この祭りは百末社石祠の全国一之宮の天神・地神に感謝する祭りですが、全国的にも稀な神事ということです。

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大青麻彦神社

明治年間、大須賀忠右衛門が中風にかかり、知人に青麻神社を信仰すれば良いと進められ、また当時美和神社に60末社を建設するという話が持ち上がったため、忠右衛門は青麻神社を勧請して美和神社境内に社を建てて信仰したところ中風が全快したとされます。

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奉納算額

1813年(文化10)に和算家、竹内善五郎度道とその弟子たちが奉納した算額のレプリカです。本物は拝殿内に現存しているそうです。 う〜ん・・・かなり難しい・・・
美和神社を出て北国街道を150m、左手に小さな「延命院」というお寺がありました。

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延命院

さらに750mほどで左手に「吉田神社」、その隣に「聖観音堂」があり、観音堂前に「芭蕉句碑」と「何丸句碑」が並んでいます。

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吉田神社

正式には「皇足穂吉田大御神宮(すめたるほよしだおおみかみぐう)」というようです。創建は不詳ですが、927年(延長5年)の延喜式に記載があります。「吉田のイチョウ」がある場所が旧境内地でしたが、浅川の氾濫が多いことと、北国街道の整備に合わせて慶長年間に現在地へ移ったとされます。

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吉田神社境内社

移転の際に周辺の神社を合祀し、境内社が100社にもなりました。

社務所横のトイレは開放されており、新築でとても綺麗でした。ありがたいですね〜。トイレをお借りしましたのでお賽銭は奮発しておきました!

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観音堂

立派なお堂ですが、無住でほとんど手入れがされていない状況です。ゴミ置き場のようになってしまっています。
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あごなし地蔵尊

観音堂の「あごなし地蔵」の云われは全く不明ですが、全国にはいくつか「あごなし地蔵」があり、歯痛や首から上の病にご利益があるとされるものがほとんどです。

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芭蕉句碑(左)・何丸句碑(右)

何丸『只涼し水ものぼらず月も来ず 月院社何丸』

1848年(嘉永元)建立の句碑で、背面には小青軒ら10名の俳名が刻まれています。

芭蕉『雲折ゝ人を休むる月見かな』

この芭蕉句碑は1824年(文政7)、何丸が建立したものです。

茂呂何丸

茂呂何丸は、1761年(宝暦11)信濃の吉田、この地で生まれ、俳句を京都の高桑闌更に学び、後年江戸浅草田原町に俳諧宗匠として暮らしました。松尾芭蕉研究で知られ、著書に「七部集大鏡」「芭蕉翁句解参考」をはじめ多数あります。1837年(天保8)没。小沢何丸、月院社何丸とも言われます。
芭蕉研究に生涯を尽くした何丸が建立した芭蕉句碑の横に、何丸を慕った俳人たちが何丸の句碑を並べて建立したのですね。

吉田神社境内にも「人丸も赤人もしらず菊の花」という何丸の句碑があるらしいのですが、見当たらなかったです・・・

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芳蘭句碑

芭蕉と何丸の句碑の後部には「芳蘭」と刻まれた句碑があるのですが、「芳蘭」がどのような俳人であったかは資料がなく、詳細が不明です。

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さらに北国街道を500mほど進み、T字路正面に「善敬寺参道」がありここを左へ曲がっていきます。最初の交差点「吉田三丁目」の手前右手に「口留番所跡」、交差点を渡った右手に「道標」があります。

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善敬寺

素敵なデザインの太鼓楼の階上部は、江戸末期の建立。太鼓には「1805年(文化2)、江戸同行中」と刻まれ、1995年(平成7)に改修工事がなされています。善敬寺は本願寺三世覚如上人(1270-1351)の弟子になった善教により現在地に草庵を創建したという歴史ある寺院です。

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口留番所跡

特に口留番所の標識などはないのですが、お蕎麦屋さんの看板に「北国街道口留番所」と書かれていましたので、このあたりが口留番所跡だと思われます。口留番所は松代藩が寛政年中に設置していました。

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道標

正面に「須坂山田温泉 長沼小布施」と刻まれ、裏面に「明治七年」と彫られています。
道標の交差点から60m、右手の天周院の参道に「茂呂何丸誕生之地碑」があり、さらに180m左手の北本町公民館に「何丸句碑」がありました。

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茂呂何丸誕生之地碑

何丸の没後百年を記念し、町内有志により碑を建立、揮毫は二条家の子孫、公爵二条弼基の筆によります。以前は生誕地にありましたが、2012年(平成24)に現在地へ移されました。実際の生誕地は吉田病院の北側あたりです。

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何丸句碑

『秋立や稲葉の雲の時めける』

何丸翁顕彰保存会により近年、建立された句碑のようです。
すぐ先、浅川に架かる他力橋を渡ると「真照庵の六地蔵」があり、すぐ先に「宮沢八郎顕彰碑」があります。

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他力橋

稲田区と吉田町の境を流れる浅川に架かる橋です。元々は橋がなく水が多い日は旅人などが難儀していたため、寄付や浄財により架橋されたため「他力」という名称になったとされます。架橋時期は不明です。

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真照庵の六地蔵と石仏

吉田押鐘盛伝寺の末派で、1766年(明和3)僧、祖月によって開かれたと言われます。1873年(明治6)檀家がいなくなったため廃寺となりましたが、1880年(明治13)再興しています。

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宮沢八郎顕彰碑

1888年若槻村稲田に生まれた宮沢八郎は1907年、19歳の時にカナダに渡り移民労働者として働きますが、人種差別や排斥に対し、1920年「日系労働組合」を組織、組合長として日本人の地位向上のために尽力したそうです。
碑に刻まれているのは彼が作詞した組合歌。太平洋戦争が始まると組合は解散させられたらしいのですが、バンクーバーにて94才で亡くなっています。

異国の地で大変ご苦労されたと思いますが、たいへんご長寿でしたね。

新町宿へ入っていきます。善光寺側から上新町・中新町・下新町となっていました。180mほど進むと右手に「新町宿本陣」の案内板があります。そのすぐ先左手には「稲田神社」があります。

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新町宿本陣・問屋・高札場跡

吉澤家は代々稲積村の問屋と新町宿の本陣を務めていました。往時の建物は1941年(昭和16)の長沼地震により損傷し取り壊されたそうです。
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「東都道中分間絵図」新町(あらまち)宿

新町宿は1611年(慶長16)に設置されました。当初は稲積村にできましたが、人馬継立の負担が大きく、1618年(元和4)徳間村と東条村が加宿され、三村で1ヶ月を10日交代で務めました。 徳間村は八木家、東条村は松田家が問屋を務めまたそうですが、現在どこなのか・・わかりません。

「東都道中分間絵図」を描いた魚都里(なつり)は「馬次三ケ所十日代」として上新町・中新町・下新町を記し、それぞれに高札場が描かれています。「寺アリ」は円通庵のことと思います。

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稲田神社

明治政府の一村一神社の指令により村内4つの諏訪社を1906年(明治39)に合祀し、稲田神社となりました。拝殿、奥殿などはそれぞれの社を移築したものです。

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境内社

村内に散在していたものを遷座されたもので、弥栄社(養蚕の神)、恵比寿社、社宮司社、天神社、二槻社、山王社、権現社、猿田彦大明神などが祀られています。

稲田神社あたりの往還を右に曲がり1kmほど東へ向かうと「稲積の一里塚跡」があります。

初期北国街道

1611年(慶長16)幕府は北国街道の道筋をこれまでの吉田大銀杏から稲積一里塚、三才長峯を経て吉の字佐美沢へ至るルートから新たに稲積村に設けられた新町宿を経て田子、吉を通り牟礼に至るルートへ変更しました。

「稲積の一里塚跡」は初期北国街道の一里塚跡になりますが、遠いため先に進みます。

稲田神社の先、100m左手に「円通庵」、サンロードという幹線道路を越え、稲田交差点の左手に大きな「筆塚」がありました。

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円通庵

創建年代は不明ですが、本尊は行基作の戦国時代の武将、村上義清の守護仏だったものと伝えられますが、1561年(永禄4)甲越戦争のため破壊され、大悲の像のみ残ったとされ、1587年(天正15)僧文浩が再興しました。 はじめは「観音堂」といいましたが、1776年(安永5)に観音寺と改め、1784年に円通庵と改称しました。1873年(明治6)廃庵となりましたが、1880年(明治13)再興、現在の堂は2006年(平成18)に再建したものです。

弁財天を祀る観音堂は当初は飯綱高原の大座法師池にあり、上松・壇田・下字木・押鐘・吉田・稲積・山田・徳間・東条の十ケ村水神としていましたが、遠いために宝永年間(1704〜10)に円通寺へ移し、もとの場所には石祠が建立されています。

境内には江戸末期に寺子屋を開いた金子美弥吉筆塚(写真奥左手)や江戸初期の庚申塔、1738年(元文3)の庚申塔などもあります。

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筆塚

筆塚の180mほど先、交差点の右手に「飯山道道標」があります。

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飯山道道標

「右 飯山 中野 渋湯 草津道」、「左 北国往還」と記されています。裏面には「慶応元年(1865)施主、当所野村弥平太、神代宿・藤屋藤蔵」と刻まれています。往時、善光寺参りの後、渋温泉や草津温泉に湯治へ向かった人が多かったことが伺われます。
11:00 新町宿をあとに松代道追分へ向かいます。かなり厳しい暑さになってきました。飲み物が心細くなってきましたが、徐々に街を離れ、自動販売機が見つからなくなってきてしまいました。