2020年9月20日
「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。
KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
宿泊した
赤倉温泉「香嶽楼」をでて、
岡倉天心堂などへ寄り道していましたので出発が遅くなってしまいました。
北陸新幹線の停車駅でもある
上越妙高駅近くのコインパーキングに駐車し、妙高はねうまラインで二本木駅まで向かいますが、運悪く、新井止まりはすぐあるのですが、二本木駅まで行く電車は1時間後になることがわかりました。仕方ないので新井まで電車で行き、新井駅から地元のタクシーを呼び、二本木駅まではタクシーで向かいました。余計な出費がかかりましたが、朝の寄り道で時間を取られましたので、これ以上は時間を無駄にできません。2,000円くらいだったでしょうか。
11:30 ようやく二本木駅へ到着し、新井宿へ向けて出発します。
青面金剛像
庚申塔は三猿なども彫られているので、これはただの青面金剛像?でしょうか。左は馬頭観音です。
馬頭観音
綺麗に彩色され、頭上に馬を乗せている馬頭観音です。とても綺麗に残されています。石仏に何かを塗りつける行為は、よりご利益を受けられるとしてあちこちにみられる風習です。
藤沢一里塚
西側は第二次世界大戦の食料増産のため破壊されてしまいました。残っている東塚は街道が掘り下げられたため1段高い位置にあります。
板橋新田の馬宿
右は以前の写真、
茅葺屋根の馬宿が残っています。左は現在の馬宿です。
春日新田の
馬市で売買する馬を引く馬喰が利用する
馬宿が7軒ありました。建物は新しくなり、面影はありません。
石仏
かなり砕けてボロボロです。大日如来でしょうか・・・
神明神社
馬頭観音
お顔の彫りが摩耗してつるっとしているのですが、温かみのある作品です。
立場茶屋跡
峠の茶屋は屋号「かしわもちや」で、加賀藩の休憩所となっていたため「加州立場」と呼ばれ、柏餅が名物でした。このあたりだと思いますが、今は何もありません。
馬頭観音
馬宿で栄えた板橋新田から馬頭観音をよく見かけます。馬が生活の糧であった往時が伺えます。
小出雲坂
「越後見納め小出雲坂よ、ほろっと泣いたをいつ忘られよ」と里謡に歌われました。往時は小出雲(おいずも)坂からは高田平野を一望出来たといいます。現在は木々が茂り、眺望はほとんどありません。
竹田勝頼陣場
上杉謙信が死亡すると上杉景勝と北条からの養子、上杉景虎、2人の養子により家督を争った「御館の乱」、竹田勝頼はこの争いに首を突っ込み、越後へ出兵しました。このときに陣を張ったのが「陣場」と呼ばれる一帯です。
加茂神社
小出雲の産土神であり、古来は
斐太神社の末社だったとされます。もとは「加茂大明神宮」と称し、祭神は賀茂別雷命です。「小出雲」の地名や石澤の出雲大社、斐太神社などの地名が出雲大社の地名と結びつき、古来から出雲との関係性があったのではないかとも考えられています。
湧き水があり名水として利用されたといいますが、現在は枯れてしまったのではないでしょうか。手水には水がこんこんと出ていますが、恐らく井戸水だと思います。張り紙にはこれが
「医者いらずの清水」と書かれています。
明治天皇御製
加茂神社境内にあるものです。「御製」とは 一般に歴代の天皇が詠んだ和歌をいいます。『国民の力のかぎり尽すこそ 我が日の本のかためなりけれ』と彫られているようです。
池の跡?
加茂神社境内には池があったと思われます。地理院地図にも池が描かれていますが、今は水がありません。やはり湧水が枯れてしまったのでしょうか。
筆塚
加茂神社内に顕彰されている寺子屋師匠は、馬場述一郎(天保年間から安政年間)、建部要助(天保年間〜文久年間)、水野北溟(寛政年間〜文化年間「春日館」)、水野北斎(文政年間〜天保年間「春日館」、)饒村平八(文化年間〜天保年間)らの、5名がいらっしゃるようですが、この1つの筆塚が全てなのか、見つけられなかったのですが、あと4つの筆塚があるのか・・・詳しくはわかりません。
のっぽの消火栓
塩尻湖付近では高さ1mほどの消火栓でしたが、新潟県妙高市に入ってからはこのような2m近い消火栓になりました。妙高市は一晩に50p以上の積雪を記録することもあり、このような消火栓になっています。上下に開口部があり、雪のない時は下を雪が多く積もっている時は上の開口部を使用できるようにしています。
高蓮寺・興雲寺
照光寺の末寺であり、上杉氏家臣が出家して開いた寺です。
照光寺
信濃国古海(野尻湖北)から上杉謙信時代(1550年〜1578年頃)に移ってきました。十二光仏名号本尊が残っています。
飯山道道標
北国街道と飯山街道(富倉街道)との分岐点に建つ道標です。「右 善光寺、左飯山道」と彫られた明治時代初期の道標です。信濃では「高田街道」とも呼ばれます。
新井宿
上杉謙信は1575年(天正3)
和田六郎右衛門を荒井町の問屋に任命し、伝馬・宿送りを管轄させました。
「荒井」と記すことが多かったのですが、1838年(天保9)に
「新井」に統一されました。
上町延命地蔵尊
明治に堂が建てられ、大正9年に堂の改修が行われました。
昭和7年に上越日報社の「寺社効験顕彰投票」で当選し、ご利益のある地蔵尊として知られるようになりました。昭和9年に石垣を改修しも翌10年に荒井町、小出雲町、姫川原村の人々の寄進により堂を改修し玉垣が新設されました。
上町延命地蔵尊の由来
江戸時代の初め、地蔵堂の尼僧が溜池で人を呼ぶ声が聞こえ、上町の住人に頼み池をさらってもらった所、二体の地蔵が見つかりました。尼僧は洪水で死亡した夫と子供の身代わりとして池のそばに安置し供養しました。やがて子供の夜泣きや夜尿症が止まり、病気が治る、乳の出がよくなると噂が立ち信仰を集めるようになりました。今は池がありませんが、昔はこのあたり、池だったのだしょうか・・・
奉賀大禮記念碑
大正天皇即位記念とともに新井小学校の校舎改築記念をも合わせてこの碑を建立したようです。大正5年建立。ここには以前は「新井小学校」があったようです。 平成25年に矢代小学校統合、平成27年に斐太南小学校、姫川原小学校と統合し現在は「妙高市立新井小学校」としてここより300mほど西にあります。
極生寺
1608年(慶長13)現在の三俣(三俣村)に開基し、祐圓が初代住職です。その後1655年(明暦元) に寺地を新井(中町)に移転し、現在に至っています。
地蔵院の六地蔵
極生寺とともに江戸時代この地に移ってきたとされます。本尊は
弘法大師が自ら刻んだと伝わる地蔵菩薩立像。道路端の六地蔵には1814年(文化11)の銘が刻まれ、この地方で語り継がれてきた
「笠地蔵」のモデルになったといいます。(笠地蔵のモデルは各地にたくさんあります)
市神社
新井の市の歴史は古く、天正年間(1573〜1592)と言われています。江戸時代には十の付く日と六のつく日の月に六回市が開かれる六斎市となりました。江戸時代には六斎市が上越地方の物価の基準となっていたそうです。市神社は、六斎市の商人が守ってきた神社です。
陣屋小路
1701年(元禄14)から1809年(文化6)の間、幕府代官所の荒井陣屋が置かれていました。幕府領の大崎郷54カ村、上板倉郷40カ村、下板倉郷3カ村の計97カ村、合計五万石あまりを支配しました。陣屋は白山町1-5あたりだと思いますが、遺構的なものは何もありません。
蔵を改良したたばこやさんは営業していないようですが、和洋折衷な感じで素敵です。
君の井酒造
1842年(天保13)創業、「田中酒舗」として営業、屋号は「田中屋」「酒田中」、昭和26年には「君の井酒造株式会社」となります。妙高山麓からの名水と良質の新潟産米を原料に新井は酒造りに最適の地となっています。
新井別院
1685年(貞享2) 第16代
一如上人により、異安心事件のため
牟礼の證念寺へ追放となった願生寺跡を掛所(休泊所)に充て上越地方末寺を管理させたのが新井別院のはじまりです。1747年(延享4)に暴風雨で本堂破損しましたが2年後に再建。しかしその後も何度も火災や暴風雨で倒壊、再建を繰り返しました。
明治天皇新井行在所
北陸東海巡幸の際、明治11年9月11日、新井別院を行在所としました。本堂右手の庫裏に御座所の間があり、杉の各天井のある上段8畳と次の間があり、裏には庭園もありました。
本堂
現在の本堂は明治28年に再建したものです。
報恩講と親鸞聖人、恵信尼公を偲ぶお祭り、通称「おたや」は、上越地方最大の仏事とされ、約150店の露店が立ち並び賑わうそうです。
恵信尼堂
親鸞聖人の奥方、恵信尼終焉の地と思われる「とひたのまき」が崇敬地域内の板倉町と言われており、更に新井市の若島家に親鸞聖人真筆と伝わる光明本尊が恵信尼ゆかりのものと考えられるところから、その遺徳顕彰の趣旨により、昭和31年建立されたものです。堂内には親鸞聖人御在世の頃からといわれる樹齢七百余年の老杉(板倉町別所)にて彫まれた恵信尼公の尊像を安置しているそうです。
芭蕉句碑
「人聲や 此道かへる 秋の暮れ」
(ひとごゑや このみちかへる あきのくれ)
亡くなる一ヶ月余り前の句とのことです。
森蘭斎の墓
1740年(元文5)に荒井村に生まれ、23歳で長崎の神代熊斐(かみしろゆうひ)の門人となりました。後に千人余りの門弟から選ばれて師匠の家督を相続しました。1774年(安永3)大阪へ出て、関西画壇で名声を博し、1872年(天明2)「蘭斎画譜」8巻を京都、大阪、江戸で発売しました。
徳川御三家の御用を務め、加賀前田藩のお抱え絵師にもなったと言われます。墓は浅草の妙清寺にありましたが、昭和5年に移されました。
集団疎開学童の碑
太平洋戦争の悪化に伴い、1944年(昭和19)8月より翌年11月まで東京都葛飾区奥戸国民学校、3年生から6年生125名は新井別院に集団疎開し、親元を離れ寝食を共にしました。碑は2005年に当時疎開した児童一同より送られたものです。
14:15 新井宿をあとに高田宿へ向かい進んでいきます。