2020年8月11日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

長野駅から長野電鉄長野線に乗り、昨日乗車した村山駅の1つ手前の柳原駅で下りました。北国街道は布野の渡しで千曲川を越え、千曲川左岸の村山へと進みますので村山に近い柳原駅としました。

8:45頃に柳原駅に到着しました。千曲川へ近づこうと東へ進みましたが、アップルラインの高架や国道406号を渡ることができません・・どこを行こうとしても行くことができず・・車も多く、突っ切ることもできません。仕方なく柳原駅方面へ戻りようやく横断歩道を見つけました。柳原駅から真っ直ぐ南下し、国道406号を渡るのが懸命です。

TOO001

村山用水・村山中堰

TOO001

名主小坂家

松代藩村山村の名主でした。現在も大きく立派な長屋門や茅葺屋根の主屋が残されています。1878年(明治11)に家督を相続した小坂善之助は政治家として活躍しながら信濃銀行(元みずほ銀行)を興し、長野県では初となる水力発電所を作りまた、信濃毎日新聞の基礎を作り、長野県における新聞の父とも呼ばれていました。孫の善太郎、徳三郎、曾孫の憲次は大臣を務めました。

TOO001

鳥魚獣供養塔

布野の渡しがあったとされるあたりにある供養塔です。あらゆる生物を供養しています。揮毫は「小坂憲次」とありますので、名主小坂家の小坂善之助氏の曾孫で大臣を務めた小坂憲次氏でしょうから建立年も最近でしょう。

TOO001

村山神社

1830年(文政13)村の産神諏訪大明神の社号を京都吉田家より貰い受け社流れ作り拝殿を作り、大遷宮祭が行われています。その際に村山神社と改称したと思われます。

TOO001

線刻地蔵道標

村山神社参道入口にあります。地蔵が線刻され、「東ハ北國ゑちご飯山・西ハ善光寺戸隠」と刻まれています。江戸時代後期の建立です。

TOO001

勝楽寺跡

1214年(建保4)信濃町(牟礼村)に開基、1343年(康永2)牟礼村平土より現在地(村山)へ移転しました。その後、慶長11年福島村に移転しました。昨日、福島宿で見た勝楽寺は慶長11年までこの地にあったということです。

TOO001

村山橋

美しいトラス構造の橋です。下流側(北側)には明治末期には有料の舟橋がかかっていました。

TOO001

村奈禰稲荷神社(村山一里塚跡)

明治時代に編纂されたの『上水内郡誌』には「塚上にひむろの古樹あり」と記されているといいます。戦後になり現在の稲荷大明神が祀られました。村山の人たちはよく一里塚で「榎の実鉄砲」で遊んだそうです。

TOO001

村奈禰稲荷神社の石仏

1800年(寛政12)の庚申塔や馬頭観音などの石仏も残されています。
TOO001

TOO001

大欅記念碑

樹齢500年の大ケヤキがこの場所にありました。川上社と地蔵の御神木でしたが、千曲川築堤工事のため昭和55年にやむなく伐採されてしまいました。

TOO001

川上社

1847年(弘化4)M7.4とされる善光寺地震のため、犀川がせき止められ堤防が決壊しました。貞心寺東から天神堂南まで約636mが切られ、低地の長沼地区には大きな被害が及びました。当時長沼を治めた中之条代官川上金吾助は災害に対する善政により領民から感謝され、生神として祀られたものです。

川上金吾助

日光奉行支配組頭として努めていた川上金吾助は、1845年(弘化2)中之条代官として赴任してきました。1847年(弘化4)の善光寺地震の折りには、中之条代官として農民の救済に尽力します。ついで1854年(嘉永7)の大飢饉には年貢の減免を行ったとされます。その後は1860年(万延元)まで、摂津・大坂谷町、陸奥・川俣、関東・岩鼻、関東・馬喰町の代官を15年間勤めています。また金吾助の四男和吉は、1860年(万延元)森田岡太郎によって遣米使節の勘定方組頭として随行するに先立ち、急遽婿養子に迎えられたとされます。

TOO001

秋葉社と土塁

南の枡形に右から養蚕神(明治29)、天神(文政2)、三峯神社(明治7)、秋葉社の石祠が並んでいます。1846年(弘化3)の大火災で地区の26軒が焼失しました。この事から御灯明番が組織され、現在も防火・防災を祈願し、交代で石灯籠に明かりを灯し続けているそうです。

TOO001

長沼神社

創建は長沼の里が開かれたという平安時代と考えられています。御神体は奇石。1568年(元禄11)武田信玄が社殿を再建し、木像・笛・獅子頭・薙鎌(なぎかま)を奉納しました。
境内には、一茶の句碑もあります。「綿散るや 小籔小社 小溝まで」また、西島禾堂(士英)の句碑もあります。「あやかりに 下戸でも通せ 菊の花」

長沼宿

1583年(天正11)上杉景勝は川中島を領有すると、春日山城から海津城へ通じる宿駅と伝馬を定め、牟礼から香白坂(神代坂)を経て長沼へ通るよう命じています。戦国時代には長沼城、海津城と続くこの道が本道で長沼城下に長沼宿が成立しました。長沼宿は南は宿場町、北は城下町のため街道が幾度も直角に曲がる道になっています。

大雨などで丹波島宿の「市村の渡し」は年に60日ほど川止めになったそうですが、そんな時でも長沼宿経由の布野の渡しは通行できたので、旅人は迂回し「布野の渡し」を経由しましたので、「雨降り街道」とも呼ばれていました。

長沼宿本陣は西島家が務め、林光院との突き当り長沼神社右手にあります。長屋門の奥に樹齢300年の松があるそうですが、確認できませんでした。問屋は西島家、丸山家、松井家が交代で務めていました。

TOO001

林光院

1606年(慶長11)、?笑寺八世の時の分寺で、本尊は薬師如来です。長沼宿はお寺の多い宿場です。現在は14のお寺がありますが、転出したお寺も17もあります。

TOO001

長沼の道標

林光院の門前に道標があります。「右ハゑちご道・左ハせんく王うし道」と刻まれた江戸時代中期の道標です。

TOO001

山門の上の十王

林光院の山門の上には十王像が安置されています。

TOO001

西光寺

西厳寺の塔頭(小院)のようです。西厳寺には塔頭(たっちゅう)が20あったとされますが、現在は4つの塔頭が残っているようです。塔頭とは、大寺院の敷地内にある小寺院や別坊のことを指します。

TOO001

西厳寺

1256年(建長8)現在の茨城県に創立した京都本願寺末寺です。1338年(暦応元)に長沼に移りました。西厳寺内に蓮如堂があります。蓮如上人絵伝を所蔵しています。

TOO001

蓮如堂

1449年(宝徳元)蓮如上人は吉崎御坊(現在の福井県あわら市吉崎)から草津温泉へ向かう途中、西厳寺に立ち寄り、また1472年(文明4)には2か月ほど滞在しました。その跡が「蓮如堂」として残っています。

TOO001

西島禾堂(かどう)の碑

1842年(天保13) 禾堂が59歳で没した翌年、跡継ぎの尚文や弟子の村松処信(春甫)らの願いにより菩提寺である西厳寺境内に建立されました。市川米庵の筆で彫られています。米庵は書の流派である江戸唐様派の大家で、幕末の三筆の一人です。

西島禾堂(かどう)

1784年(天明4)長沼大町に生まれ農業や酒造を生業とし、また江戸の書家、市川米庵に師事し書を学びました。近郷の人々に書を教え、門弟は数百人に及びました。俳諧は小林一茶に学び、士英と号し「長沼十哲」の一人です。小林一茶は、帰郷するたびに北信濃の門弟たちと交流していました。なかでも長沼は、以前から俳諧が盛んな地域であり、一茶との出会いは 更に活動を盛んにし、句会「月花会」を催し、句集の出版にもあたりました。「長沼十哲」と呼ばれる門弟らが一茶を迎え、晩年の一茶は、長沼で660日以上も滞在しています。西島禾堂、松井松宇、住田素鏡、村松春甫、中村掬斗、立花呂芳、佐藤魚淵、吉村雲士、白川月好、若槻 二休らが「長沼十哲」です。

TOO001

善導寺

1261年(弘長元)、鎌倉光明寺の禅師良忠の開基で、善導大師(中国浄土宗の僧)を本尊としています。知恩寺(京都市左京区)の末寺です。時の鐘として親しまれた鐘楼は、宝永年間に建てられました。

TOO001

村松春甫「菫(すみれ)庵記」碑

穂保(六地蔵町)の生まれ、号は胡庵、鴎巣。江戸で茶礼を学び、後に狩野了承に絵を学び画家としても知られています。巧みな色彩で花鳥の作品などの掛け軸が残されています。現存する一茶の肖像画は春甫の筆によるものが多く、一茶の門人第一号とされます。一茶と長沼の門人とを引き合わせたのも春甫によるものです。門人仲間の多くの句を集め、一茶の代撰で「菫草」を出版しました。
TOO001

農産社前の句碑

この道は長沼城があった頃は「おうま道」と呼ばれていました。農産社前の句碑には長沼十哲の椈斗、春甫、素鏡、師の一茶の句が並んでいます。

「菜の花や 門の雀も からさわぎ 椈斗(きくと)」

「はつ蛍町 一杯通りけり 春甫(しゅんぽ)」

「犬ころを 秤にかける 日永哉 素鏡(そきょう)」

「門に立 菊や下戸なら 通さじと 一茶」

TOO001

長沼城南外堀跡

南外堀は江戸時代の初期、佐久間因幡守勝年の屋敷堀として造られたと考えられています。検地帳には「南堀」の記述が見られます。勝年は、信濃国長沼藩主、佐久間勝之の嫡男ですが、父よりも先に江戸で亡くなってしまいました。

TOO001

貞心寺

北石村に創建された神宮寺を前身として、1630年(寛永7)長沼城下に移り?笑寺九代慶祝和尚の弟子、林鶩が寺を開きました。長沼藩主佐久間勝之の嫡男、勝年の墓塔と位牌が祀られています。三代、勝豊の妹の戒名から「貞心寺」となったとされます。

TOO001

長沼城復元図

本丸のあたりは現在堤防となっているようです。地形的にもだいぶ変わってしまっているようです。
TOO001

TOO001

長沼城跡・天王宮

このあたりは二の丸でした。本丸はこれより200mほどの場所であったとされます。右手が南三日月堀跡とされます。天王宮は塚の上にありますが、南三日月堀の土塁の西側に祀られていたとされます。三日月堀は城の入口や橋に攻め寄せる敵兵を三日月堀で留め、内側から鉄砲や弓矢で攻撃しました。武田氏の城に多く見られます。

長沼城

長沼は平安時代は太田庄として、早くから耕地として開かれていました。鎌倉時代からは島津氏が地頭として館を築いて治めていました。後に縄張りは山本勘助により、普請は高坂弾正により本格的な城として築城が行われました。(地元ガイド紙より、Wikiでは馬場信春となっている)戦国時代には松代の海津城とともに武田氏の北信濃統治への中心でした。江戸時代には佐久間氏が城主を務め、4代目城主の際に徳川幕府(綱吉)より御側小姓の任を命じられましたが、病と偽り江戸へ出向かなかったため、長沼藩は改易、長沼城も廃城となり1688年(元禄元)取り壊されました。以後は幕末まで天領になりました。佐久間象山は一族の子孫にあたります。

TOO001

長沼の里の歌碑

「信濃なる ちくまの川の さざれ石 うずら鳴くなる 長沼の里」

本朝藻塩草風土記の将軍歌合に詠み人知らずとして掲載されているものだそうです。万葉集に「信濃なる、千曲の川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ」という歌があり、「本歌取り」の技法を用いています。本歌取りとは、有名な古歌の1句もしくは2句を自作に取り入れて作歌を行う手法です。

TOO001

堤防決壊地

長沼城跡碑北側が2019年10月に千曲川の堤防が決壊し甚大な被害を与えた場所だと思われます。新しく盛土され、植生種つきマットが貼られています。

犀川と千曲川が合流し、濁流は北へ向かって流れています。そしてここで約70m決壊したと報道されています。今まで歩いてきた地域は被害が少なかっのですが、ここから下流の被害は甚大でしょう。あれから10ヶ月・・まだまだ完全な復旧はしていないでしょう。ここから先に進むのは少し怖かったです。
TOO001

吉祥庵・侍屋敷跡

1650年(慶安3)に建てられました。妙笑寺の末寺です。お堂は洪水の被害を受けたようで、ビニールがされています。1692年に(元禄5)に建立された六観音は長野県内ではあまり見られない貴重なものだそうですが、こちらは無事のようです。この辺りは「長沼城侍屋敷跡」でもあり、北国街道沿いには侍屋敷が並んでいました。

TOO001

吉祥庵の石仏

被害がなかった石仏もありますが、折れてしまっている石仏もたくさんありました。これから徐々に修復されていくのでしょう。

TOO001

吉祥庵の句碑

平成13年に建立された長沼十哲3人の句碑は流されずに残っていました。

「うめが香や まことに月は 一五日 雲士」

「春風や 犬も連れて ぬけ参り 魚渕」

「うたたねの いびきはにくし 梅の花 呂芳(ろほう)」

TOO001 長沼庁舎は完全に使用できなくなったようで、現在は仮設庁舎になっていました。仮庁舎の辺りが長沼城大手門があったあたりといいます。公民館入口に洪水の水位標があります。水位標では、2019年の洪水の水位は3.0mとなっていました。平屋ですと全て水に浸かったと思います。

TOO001

守田神社

901〜922年(延喜年間)以前に創建された古刹でした。1615年(元和元)洪水のため流出し、1644〜1647年(正保年間)この地に移りましたが、2019年(令和元)の洪水で再び社殿、鳥居など全てが流されてしまったようです。「道端の むくけは馬に 喰れけり」という芭蕉句碑、「今も猶 としどし花の うてなかな」の魚渕の句碑が鳥居の前にあったはずですが・・これも見当たりません。

TOO001

ストリートビューより拝借しました。守田神社は洪水以前はこのように立派な社殿や鳥居がありました。すべて流されてしまいました。広い空き地に小さな祠が再建されています。本当に・・悲しいですね。いつか再建されることを願ってやみません。
TOO001

体育館と消防団詰所

TOO001

長沼公園

公園も洪水の被害を受けていました。しかし他に日陰で休憩するような場所もなく・・半分土砂に埋まり、傾いたベンチで休憩しました。

長沼公園内には一茶、椈斗、士英、素鏡、春甫・・『長沼十哲』と呼ばれた歌人の句碑がたくさんありました。今は石碑が倒れ、あちこちに転がっています。トイレもありましたが倒壊し、藪の中に瓦礫が残っていました。洪水から10ヶ月、今は生活の基盤を整えるのが先決でしょう。公園の復旧は後回しになると思いますが、いつか元の公園に戻ることを願っています。

TOO001

魚渕・松宇句碑

長沼公園内でかろうじて残っていた句碑はこの1基だけでした。

「我庵を 狭しと牡丹 咲にけり 魚渕」

「はつ雪や 雀が羽で 歩く程 松宇」

TOO001

えちご道道標

大きな道標の上部に秋葉社が乗っています。『右 ゑちご道 左 さくば道』と彫られています。「さくば」とは、畑のことです。
TOO001

?笑寺の天狗堂と長屋門

1156年(正元元)鎌倉円岳寺一庵覚仙和尚が三水村に臨済宗の寺として創立、1580年(大正8)長沼城主島津淡路守忠直により現在地に移転し、島津家の位牌所となりました。 天狗堂前の灯籠や石仏もばらばらになっています。長屋門は漆喰が剥がれてしまっています。修復工事中のためあまり近くまでいけませんでした。?笑寺の長屋門には、元禄元年に取り壊された長沼城の表門の扉が保存されているそうです。

TOO001

洪水水位標と一茶句碑

幾度もの洪水の記録が柱に刻まれています。一番上が1742年(寛保2)の戌の満水であり3.4mほどもあり、下のほうが1847年(弘化4)、1896年(明治29)の洪水。そしてその中央が2019年(令和元)の洪水で3mほどと思われます。本堂の柱に歴代住職が墨書で記録していた水位を移したものです。本堂内には改築後も水位柱を残しているそうです。 一茶句碑には「春風や 犬の寝そべる わたし舟」と彫られています。

TOO001

津野公会堂前の句碑

「角力とりが 立って呉れけり 秋の風 一茶」

「鏡つきの 肱から出たる はつ日哉 二休」長沼の渡しで詠まれたとされます。

長沼宿が一日も早く復旧され、住民の皆さんが元の生活に戻られることを切に願います。

12:00 長沼宿をあとに神代宿へ向かいます。今日の最高気温は37.2℃、手元の温度計では38℃を越えています。汗は滝のように出ますし、かなりバテています。