2022年9月18日

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10:50 鯨波駅を出発します。駅を出て西へ50mほど行くと線路下をくぐるガードがあり海側へ抜けます。ここから「嫁入坂」の緩い坂道を上っていきます。

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嫁入坂

鯨波戦争で主戦場となった嫁入坂、桑名藩の陣屋が柏崎にあったため、官軍の進路に当たる鯨波が戦場になりました。

現在のアスファルト道は往時の「嫁入坂」ではありません。本来は家並みのさらに上の斜面に嫁入坂がありましたが、現在は法面工事などで道が無くなっています。坂を上り切ると左手に「御野立公園」があります。

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御野立公園

海岸段丘の上部にあり柏崎の海岸を眺望する景勝地が公園となっています。

鯨波戦争(戊辰戦争の一つ)では東軍が松林を利用して総司令部を置きました。また、明治天皇北陸巡幸の際には御野立所として立ち寄られました。
駐車場部分は鯨波小学校旧グラウンドだったそうです。鯨波に土の広場がなかったため青年有志が整地をはじめ、地区の人々で作業を続けて1949年(昭和24)にグラウンドが完成しました。

公園内へ入り、左手の斜面に「宮川久平顕彰碑」「忠魂碑」があり、さらに右手に上っていくと「谷干城詩碑」がありました。

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宮川久平顕彰碑

宮川久平は東京の済生学舎で学び、医者となり1887年(明治20)帰郷し医院を開業。産科衛生が普及していないことを痛感し、再上京し学び、産科婦人科を開設。さらに産婆を育成するため私立病院と産婆学校を設立して校長となりました。この碑は産婆学校で教育を受けた人達により1929年(昭和4)に建立されました。

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忠魂碑

日露戦争、太平洋戦争で亡くなった方々の忠魂碑です。1906年(明治39)に建立されました。

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谷干城(たにたてき)詩碑

雑草がボーボーで近寄ることができませんでした。
『左望米山右太平洋 天然景勝慰君主 怒涛何事 声悲怨便是当年古戦場』と刻まれているようです。 谷干城は土佐藩士で戊辰戦争の際は官軍の将として会津若松城の攻撃に参加、1887年(明治10)西南の役では熊本城を守り通しました。後年は政治家となり、1879年(明治12)柏崎を訪れこの詩を詠みました。

駐車場左手の細い階段を下り、海岸へでると可愛らしい鯨の親子トンネル、その横に「鬼穴」があります。

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鯨の親子トンネル

大きい鯨は車道、小さい鯨は歩道になっています。可愛いですね。
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鬼穴と魚藍観音

海食崖にできた洞窟は、昔はもっと深かったといいます。穴には1913年(大正2)の魚藍観音が祀られています。魚藍観音に念ずれば、羅刹・毒龍・悪鬼の害を除くと言われています。

鬼穴の伝説

昔、この穴に赤鬼が住んでいました。赤鬼は娘をさらっては食べ、村人を苦しめていたので下宿(今の番神)の番神さんにお願いしました。番神さんは29人の仏様を従え、うちわ太鼓を打ち鳴らし、声音と仏様の声に赤鬼は穴から逃げていきました。

下りてきた細い階段を上り御野立公園へ戻り駐車場から展望台へ向かいます。今日はいいお天気。素晴らしい景色が楽しめます。

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米山福浦八景御野立

とても綺麗な景色が広がっています。鯨波海水浴場や柏崎マリーナが見えています。うっすらと佐渡も見えています。

TOO001 さらに北側の丘へ上っていくと途中左手に「大場遍路句碑」、さらに頂上まで行くと「明治天皇駐輦碑」があります。

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大場遍路句碑

『能登岬はろけし月のかりわたる』

第二次大戦中、柏崎に疎開し、柏崎俳壇の中心人物となり、彼のもとに集まった俳句仲間が1953年(昭和28)に建立した句碑です。

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明治天皇駐輦碑

1878年(明治11)明治天皇北陸巡幸の際にここで野立をされ、風光を賛美されたそうです。
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駐輦碑から下っていくと「田中角栄顕彰碑」があります。

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田中角栄顕彰碑

田中角栄が初めて大蔵大臣に就任した翌年の1963年(昭和38)に建立された顕彰碑です。田中角栄は新潟県刈羽郡二田村(現柏崎市)出身で、後に内閣総理大臣となり、日中国交正常化など大きな功績を残しました。碑を建立した人の中に駐日アメリカ大使であったライシャワーの名があります。
御野立公園をあとに北国街道を柏崎へ向けて進んでいきます。500mほど進むと右手角に「薬師如来」、その横に「六地蔵」があり、さらに路地を奥へ入り右手に「薬師堂」、さらに一番奥の右手に稲荷社がありました。

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薬師如来と六地蔵

薬師如来は1785年(天明5)建立、六地蔵とともに地蔵菩薩像、妙高山塔、供養塔などが並んでいます。

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薬師堂

妙智寺の末寺で1801年(享和元)創立、開山は僧大英とされます。
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薬師堂の2匹のネコ

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駒木根元一墓

稲荷社へ入る右手に墓石が10基くらいあります。手前から2番目が戊辰戦争の一つ、鯨波戦争で亡くなった桑名藩士の駒木根元一のお墓だそうです。
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稲荷社

1910年(明治43)毎夜、狐が鳴くというので稲荷様を祀りました。1922年(大正11)に現在地へ社が建立されました。

稲荷社から北国街道へ戻り120m、民家横の細い路地を入っていくと「塔の輪心礎石」があります。

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塔の輪心礎石(万福寺跡)

塔の心柱を支える礎石である「心礎石」と推定されています。この地は古来「塔の輪千軒」と呼ばれ、海岸山大乗寺・法修山妙行寺・求法山明蔵寺・金峰山龍泉寺の前身万福寺があり、また法敬院地蔵尊・ねまり地蔵・立地蔵(薬師三尊)などの故地と伝えられ、附近から300余の石塔婆が出土しています。穴の大きさから18mほどの三重の塔であったと考えられています。
北国街道をさらに300mほど進むと番神堂の入口があり、番神堂へ向かいます。

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番神堂入口

道の両側に大きな常夜灯と巨大な題目碑が日蓮上人旧跡の番神堂へと導きます。
左折して120m、右手の路地から諏訪神社境内へ入りました。裏口のようです。奥へ進むと「与謝野晶子歌碑」「お光吾作の碑」が並び、正面の小さな小屋に人形が展示してありました。

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与謝野晶子歌碑

『たらい舟 荒海もこゆ うたがはず 番神堂の灯かげ頼めば』

与謝野晶子は明治時代の歌人です。歌集『みだれ髪』や日露戦争に従軍した弟を嘆いて謳った『君死にたまふことなかれ』などで知られています。

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お光吾作の碑

寿々木米若の浪曲「佐渡情話」で全国に紹介され、柏崎の船頭藤吉と小木のおべんとの悲恋の物語として知られています。この諏訪神社が逢瀬の地であり、小さな小屋にたらい舟や人形が展示してあります。

お弁の悲恋物語

柏崎の船大工藤吉は、仕事で佐渡に滞在中、お弁と恋仲になりました。しかし藤吉には柏崎に妻子がいました。柏崎へ帰った藤吉を忘れられないお弁は「たらい舟」に乗り、毎晩、藤吉に会いにきました。お弁の一途さに恐ろしくなった藤吉は嵐の夜、お弁が目印にしていた番神岬の灯火を消してしまい、お弁は目印を失い・・・・亡骸は青海川の海岸に打ち上げられました。

悲しいお話です・・・「雁子浜の人魚伝説」に似たお話ですね。

諏訪神社境内の中央あたりに大きな石碑がありました。

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後藤泰之丞顕彰碑

草に覆われて碑文が読めない状況で、どのような方なのか詳細がわかりません。ただ所々読める部分に「木曽義仲」、「信州諏訪」、「大正十一年没」などが刻まれています。
1900年(明治33)開業のかつて番神岬にあった「北溟館」という旅館を建設する際、地主であり、取締役でもあったという記載、また「1878年(明治11)下宿村の後藤泰之丞が大隈大蔵卿と井上参議を柏崎港に案内、修築を願い出た」という記載しか見つかりません。この2つのことから往時、名主的な存在だったと思われます。また、この「北溟館」は現在のホテルエリアワン番神岬の西側の廃屋だと思われます。

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裸石大明神

諏訪神社境内の中央あたりに鎮座しています。由来は不明ですが、男女の信仰が厚く縁結び、子宝に霊験あらたかとされているそうです。とっても御利益ありそうです(笑)

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諏訪神社

番神岬の高台の上にある諏訪神社は柏崎港を一望できる景勝地にあります。創建年は不詳ですが、柏崎史に書かれる口伝によると、1183年(寿永2)木曽義仲の平家追討に従軍したものが義仲の無道(極悪非道)を目にし、このまま従うべきではないと陣中を抜け出し、風光明媚なこの場所を安住の地と定め、先祖の祖神、諏訪大明神を勧請し土地の鎮守としたといいます。1217年(健保5)のこととされます。
諏訪神社の参道を出ると目前が「番神堂」です。本堂奥の斜面を上ると景色もよく、日蓮上人像があります。境内には「五十嵐與助の銅像」もあります。

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番神堂

妙行寺の境外仏堂で「普益殿(堂)」とも呼ばれ、1274年(文永11)佐渡から赦免された日蓮上人が30の神仏に感謝して祀ったものと伝えられます。1871年(明治4)の大火で類焼、1878年(明治11)に再建されました。 棟梁は4代目篠田宗吉、石工小林群鳳、彫刻は出雲崎の原篤三郎、脇野町の池山甚太郎、直江津の彫富、飾り金具は大久保の歌代左次兵衛の鋳造です。

彫刻の中に一頭のがおり、これを見つけると幸せになると言われていますが・・・しばらく探してみましたが、カバーがあり見えづらく、見つけることはできませんでした。残念!

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日蓮上人像

恰幅が良い日蓮上人ですね。佐渡へ3年流されていた日蓮上人は人里離れた古刹で厳しい生活を送っており、命からがら番神岬に漂着したので、恐らくガリガリになっていたと思いますが・・

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竹内鬼外句碑

『道芝やふまれながらも春の色』

竹内鬼外は若い頃より俳諧、雅楽、横笛など多方面に優れていました。1847年(弘化4)江戸築地の桑名藩邸から柏崎陣屋詰となると柏崎の俳諧が盛んになり、彼が亡くなったあとの供養の歌会の寄せ書きには荻原鶴眠、4代篠田宗吉、鋳物師の小熊東園ら12名の名があります。

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五十嵐與(与)助銅像

五十嵐與助は柏崎出身の実業家で、大成した後は故郷に数々の慈善事業を行った人です。「五十嵐記念館」で詳しく記載します。
番神堂前の細い階段を下りていくと、坂の途中に「波切不動尊」があり、番神岬に行くことができますが、昨日ホテルエリアワン番神岬に泊まり、部屋からずっと見ていたので、下には下りませんでした。

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番神岬・番神神社

ホテルの部屋から撮影した番神岬の写真です。流罪を解かれた日蓮上人は佐渡から寺泊へ向かいましたが、暴風のため番神岬の十院坊岩に漂着しました。現在は碑が建っています。

コンクリート枠のような部分は「水族館の跡」らしいです。毎日新聞によると水族館といっても自然の岩場を利用し、コンクリートで仕切った「いけす」のような水族館で、地域の有志が1932年に整備、戦時中は休止し、戦後の1950年に再開されましたが、波による侵食で岩がくずれ、1954年にはその役割を終えたとあります。

番神堂をあとに北国街道へ戻り100mほど進むと左手に「地蔵堂」、その先90mを左折し20m先に「毘沙門堂」がありました。

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地蔵堂

創立年、開基不詳ですが明蔵寺の末堂とされます。高さ2.5mのとても大きな石造り地蔵菩薩像が本尊です。梁が渡されています。地震で倒れないようにしてあるのでしょうか。

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毘沙門堂

貞心尼の旧跡、「閻王寺」がここへ移ったとも言われ、貞心尼を指導した眠龍(みんりゅう)・心龍(しんりゅう)の墓があったと伝えられています。小堂の一段上に無縫塔(むほうとう)もあったので、これが眠龍・心龍のお墓でしょうか・・・
毘沙門堂からは坂を下り県道へ合流します。合流してすぐ左手に「下宿村道路元標」があり、さらに県道を60mほど進むと右手に「閻王寺跡」があり、その一段上に「順之木稲荷」があります。

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下宿村道路元標

下宿村は柏崎町へ編入され、大字下宿となり途中「岬町」と改称され、現在は番神と東の輪となっています。

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閻王寺跡(貞心尼剃髪の地)

貞心尼が剃髪して出家したとされる閻王寺の跡です。眠龍(みんりゅう)・心龍(しんりゅう)という姉妹の尼の弟子となり、姉の眠龍は縁があり穏やかな尼でしたが、妹の心龍は縁がなく随分とやかましい人だったと言われています。貞心尼はこの心龍のもとで厳しく仕込まれました。1827年(文政10)貞心尼30歳の時、長岡福島の閻魔堂へ移り、初めて島崎に良寛を訪ね弟子になりました。
その後、閻王寺は先程通った「毘沙門堂」のところへ移ったと言われています。眠龍・心龍姉妹は閻王寺で生活し、1838年(天保9)に 眠龍尼が、1840年(天保11)に心龍尼が亡くなりました。 この場所については、明治維新後は一時役場が置かれ、閻王寺は無住となったため本尊の阿弥陀如来などの仏像は西光寺で引き取ったといいます。

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順之木稲荷

閻王寺跡から曲がりくねった北国街道を450m、右手の路地へ入り信越本線のガード下をくぐるとすぐ先に「與助道路」と彫られた石碑があります。

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與助道路碑

裏には「寄贈者 五十嵐與助氏 工事完了 昭和十七年六月 柏崎市」と彫られています。往時この近くに陸軍療養所が建設され、これを迂回するため延長4kmの道路を五十嵐与助が私財を投じて作りました。
北国街道へ戻り100m進み右手路地へ入ると「弘法大師御茶之池」と呼ばれる旧跡があります。

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弘法大師御茶之池

現在は池ではなく、井戸があり井戸端会議ができるような場所になっています。池は枯れたのか・・埋め立てたのか・・

弘法大師の伝説

昔、貧しい風体をした旅僧が一杯の水を乞いました。すると親切な老人が「この辺は海が近いので塩水ですが、それでよければ差し上げましょう。」と言いました。旅僧は長旅で喉が渇いて仕方がなく「その水で結構」と言い、老人は赤いお椀で水を差し出しました。旅僧は旨そうに飲み、その余りの水を庭に静かにあけ、礼を言って立ち去りました。その捨てられた水のところから、こんこんと水が湧き出し、その水は塩水ではなく真水でした。この旅僧が弘法大師であったと言われています。

北国街道へ戻り100mほど進むと左手に「豊洲神社」、右手に「勝願寺」があります。勝願寺裏の墓地には「桑名藩士戦没墓」があります。

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豊洲神社

創建年は不詳ですが、はじめは諏訪神社でした。桑名藩主松平定敬が孝明天皇に願いでて、1865年(慶応元)社号を諏訪神社から「豊洲神社」に改称しました。これにより社殿の屋根に菊の紋が掲げられました。現在の社殿は中浜出身で現在の清水建設の前進である清水組の専務であった内山熊八郎が多額の寄付と設計をして昭和初期に建築されました。

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豊洲神社の稲荷

狛狐がなんだか面白い顔していますね。

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勝願寺(しょうがんじ)

勝願寺は松平定敬の本陣となったお寺です。 松平定敬は幕末の桑名藩主で1864年から数年間、京都所司代を務め15代将軍徳川慶喜や実兄で京都守護職の松平容保、新選組とともに動乱の時代を駆け抜けました。 鳥羽・伏見の戦い後、江戸へ脱出した定敬は桑名藩の分領である柏崎に入り、ここ勝願寺に本陣を敷いて鯨波戦争が開戦。さらに会津若松や函館五稜郭へ転戦しました。

勝願寺の茶室

本堂が再建された1847年(弘化4)の10年後に建築された「環翠軒」と呼ばれる茶室があります。松村宗悦 (1791〜1855)が同寺の大藤環翠のために築造したもので、席額は宗悦と親交のあった大徳寺大綱の筆です。

松村宗悦は、柏崎町の豪商奈良屋に生まれ、通称規右衛門、積翠庵と号し、壮年、京に出て千宗室に茶儀を学び、1855年(安政2)、65歳で没しました。墓は西光寺にあります。

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桑名藩士戦没墓

鯨波戦争で戦士した藩士の追悼に桑名藩主・松平定敬は3度勝願寺を訪れ、戦没碑を建立しました。 また勝願寺の山号額をはじめ、柏崎小、比角小の校名額も松平定敬の揮毫で、晩年は日光東照宮宮司を務めました。
勝願寺をでてそのすぐ先を右へ曲がり、大洲小学校の校門に向かいます。校門左手の五角形のちょっと変わった建物が「五十嵐記念館」です。その横に五十嵐與助の銅像と案内板があります。

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五十嵐記念館

五十嵐與助により大洲小学校に寄贈された図書館でしたが、1996年(平成8)の小学校の改築に伴い、取り壊されることになりました。與助の子孫により初代の遺志を継ぎたいと5400万円の建築資金が提供され、現在の五角形の建物が建設されました。

五十嵐與助

1878年(明治11)中浜で生まれた與助は往時の大久保尋常小学校(現大洲小学校)へ入学しますが、父の米相場の失敗で奉公にでることになります。その後上京し八百屋を開店させ、輸入直後の青いバナナの色付け方法を開発、店は大繁盛しました。後に水産加工に進出、1922年(大正11)には日米水産株式会社を設立、自ら考案した「粕漬鱈」がヒット商品に。1948年(昭和23)には五十嵐冷蔵株式会社に改称し、一代で大成をなしても質素倹約を旨とし、柏崎市の赤坂の山道の市道(與助道路)の建設や柏崎港の整備など故郷の産業・教育に貢献、1957年(昭和32)80歳で亡くなりました。

大洲小学校をあとに北国街道へ戻り120m、右の路地へ曲がっていきます。ここから暫く寄り道コースへ行きます。右折して70m、案内板がある場所が「原琢斉・原得斉生地跡」、その横のゴミ置場の奥に蓋がしてありますが、丸い井戸が2つあり、これが「二ツ井戸跡」です。

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原琢斉・原得斉生地跡

大久保(大窪)鋳物に新しい活路を開いたのが原兄弟でした。琢斉は、江戸の小幡道斉に蝋型技術を学び帰郷すると、弟の得斉とともに、茶器や文具等の美術工芸品としての銅器、いわゆる斑紫銅(はんしどう)製品の製作に活躍し、大久保蝋型鋳金工芸の始祖となりました。琢斉はその後家督を弟の得斉に譲り、39歳頃に佐渡へ渡り佐渡鋳金の基礎を築いています。

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二ツ井戸跡

夫婦井戸とも呼ばれ、大久保や中浜では地下水が低く井戸があまりなかったため、往時は1400軒もの人々が利用していたといいます。
さらに奥へ進み、T字路を左へ100mほど進むと右手に「大久保鋳物原惣右エ門工房」があります。

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大久保鋳物原惣右エ門工房

大久保鋳物には蝋型鋳造、割込型鋳造、惣型鋳造、生型鋳造などがあります。中でも蝋型鋳造の技法は蝋を素材とし、一品制作であることから1978年(昭和53)、新潟県の無形文化財に指定されています。

さらに100mほど進むと極楽寺の参道が以前はありましたが、現在は信越本線で分断され、跨線橋で渡るようになっています。跨線橋を渡ると極楽寺の山門があります。石仏を眺めながら奥へ進むと右手に「経蔵」、さらに奥に本堂があります。

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極楽寺山門

2011年に山門、経蔵、本堂、鐘楼、庫裡が国の文化財に指定されています。
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経蔵

可愛いお顔の龍の「鏝絵」が残されています。かなり綺麗なので補修されているのでしょう。

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極楽寺本堂

849年(嘉祥2)高野山の学僧、羽州湯殿山(出羽三山・山形県)参詣の折りこの地にとどまり、真言宗として極楽寺を造営、1300年(正安2)浄土宗の僧、岌阿という僧が住み改宗したといい、別の資料では1300年(正安2)創建、開基普教坊法印、中興藤田持阿ノ門人、岌阿廓呑、浄土宗に改めるとあります。
現在の本堂は1758(宝暦8)建築、1809年(文化6)増築、大正7年・平成22年に改修されているそうです。

本堂の先右手、墓地へ上る階段を上っていき、お墓が並んでいる中を右手のほうへ進んでいきます。所々に青い看板があるので、その通りに行くと一番奥の突き当り付近に「渡部勝之助の墓」があります。周囲には桑名藩士の墓が散在し、その一段奥に「原松洲墓所・原修斎墓所」が並んでありました。左が原松洲の墓で、右が原修斎の墓です。

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渡部勝之助墓

「柏崎日記」を著した渡部勝之助の墓です。墓石の「平太夫」は父の名ですが、勝之助の墓とのことです。 柏崎は桑名藩の飛地でしたが、勝之助は転勤で柏崎へやってきました。父の平太夫は勝之助の息子、平太夫にとって孫を桑名に置いていくように勝之助を説得し、その代わりに生活のことや息子の成長を手紙で知らせ合うことを条件としました。この手紙のやり取りが「柏崎日記」として残されています。

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原松洲墓所・原修斎墓所

原松洲の父は仙台藩士で槍の達人でしたが、松洲はわけあって浪人となり、姓を原と改め高崎で私塾を開きます。師の亀田鵬斎の推薦で1810年(文化7)に柏崎を訪れ、私塾「十六堂」を開き儒学・漢詩・書を教えました。塾生は商人が多かったとされ、待遇は桑名藩士並であったといいます。1829年(文政12)没。

原修斎

松洲の長男で、15歳で父を亡くしますが、20歳で江戸へ出て書や朱子学を学び、25歳で柏崎へ戻り父の開いた「十六堂」を継ぎました。門下生に醤油業を営み明治初年に町役人となる西巻逐処、初代刈羽郡長となり「刈羽郡蹟志」を著した山田八十八郎、自由民権運動を掲げた政治家で初代県会議員の松村文次郎など時代の転換期に大きく貢献した人物を数多く輩出しています。

墓地から下りて本堂前を通りもと来た道へ、跨線橋を渡り往時の極楽寺の参道を振り返ります。

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極楽寺参道

ここが極楽寺への参道だった場所です。石仏があり往時は旅人や参詣者を出迎えた石仏です。
石仏から北へ向かい、最初の路地の右手に小さなコンクリート製の祠がありました。

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小さなお地蔵さまを右へ曲がり、西光寺へ向かいます。
西光寺の参道を入ると右手に大きな顕彰碑、「関矢君之碑」があり、その先右手に「松村翁之碑」があります。松村翁之碑を過ぎると西光寺の朱色の鐘楼門が目を引きます。

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関矢君之碑

後ろの大きな碑だと思いますが、樹木にさえぎられよく見えません。 東北日報の記者であった関矢儀八郎は1889年(明治22)沿海州サケマス漁業と対岸貿易の必要性を説きますが行政には無視され、自力で魁丸を調達し3県事業(新潟・富山・石川)の名目で出漁し、貿易を成功させました。さらに日露定期航路の必要性をとき、1903年(明治36)衆議院議員に当選、日ソ漁業条例締結など北洋漁業の先駆者として知られています。

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松村翁之碑

松村文次郎は先程の極楽寺に墓があった原修斎の門人でした。自由民権を掲げ県会議員となり初代議長になりましたが、政治活動のため家が傾き1898年(明治31)財産を整理し東京神田で印刷業を始めますが、経営不振のため廃業しました。最期まで清廉な政治家であったといいます。
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西光寺

1467年(応仁元)創建、時宗(じしゅう)の最光寺が柏崎横山から現在地へ移った際に改宗し「西光寺」と改名。朱色の鐘楼門から見下ろす鵜川河岸は「鏡が淵」と呼ばれ、境内には「いぼとり地蔵」、「上方詣りの松」などの伝説が残っているそうです。

本堂前を通り過ぎ、そのまま直進して墓地へ入るとすぐ目前に「松村宗悦の墓」があります。

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松村宗悦の墓

勝願寺の茶室「環翠軒」を築造した松村宗悦の墓です。1855年(安政2)、65歳で没しました。
西光寺をあとにもと来た道を戻り、小さなコンクリート造のお堂の路地を左へ、右手の階段を上ると公園にでます。ここは柏崎陣屋跡の東端あたりになります。公園の東角に3つの石碑が並んでいます。

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3つの石碑

右の石碑には「柏崎陣屋跡・柏崎県庁跡・郷土教学発祥跡・皇大神宮遥拝所跡」、中央には「皇大神宮遥拝所」、左のものは篆書で書かれており読めません・・ 伊勢神宮を遥拝する施設があったのでしょうか・・全く資料がなくわかりません。

「郷土教学発祥跡」は柏崎県庁として使用されたと同時期に学校制度が新設されたことにより、新潟県内3か所に行政庁直轄の県立学校が開校され、下長屋跡に柏崎学校が新設されたことを指していると思われます。

公園から西へ伸びる小路を進みます。かつては左手が長屋、右手は役所建物の裏手にあたります。陣屋入口の方へ回ります。

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陣屋跡入口・陣屋絵図

1741年(寛保元)奥州白河へ領地を移された松平定賢はこれまでの扇町陣屋を廃止し、この大久保の高台に柏崎陣屋を移しました。以降、126年間陣屋として存続しましたが、明治に入り廃止されると柏崎県庁がおかれましたが、柏崎県は1873年(明治6)に新潟県に統合されました。

陣屋から北国街道へ戻るとすぐ左手に「金毘羅山虚空蔵寺」の入口があります。

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金毘羅山虚空蔵寺

1658年(万治元)柏崎大火の折り、小町永徳寺の本尊、虚空蔵菩薩を相沢市兵衛家に避難させ、その時に一体を分置し中浜新田に一庵を建てたといいます。その後の1789年(寛政元)相沢典三郎が開基となり、虚空蔵寺を創建、神仏習合のお寺です。金毘羅さんは参詣者が多く、お祭りは大変賑わっていたといいます。

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鵜川

金毘羅山虚空蔵寺から80mほどで鵜川に差し掛かり、鵜川橋で渡ります。渡った先の右手に「御嶽山神社」があります。グルッと回り北側から入ります。
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御嶽山神社

創建などは不詳です。柏崎史にも記載がないです。

15:10 東柏崎駅まで行くつもりでしたが断念し、ここで本日は終了。ちょっと遠いですが柏崎駅まで歩き、車をピックアップし、本日は『ルートインコート柏崎』に宿泊します。残りは後日、歩きます。