2021年4月30日
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宿泊した
『ドーミーイン松本』にタクシーを呼び、今日のスタートする岡田宿の先までタクシーで向かいます。
洞(ほら)にあるセブンイレブンの少し先に
「ほしみバスの伊深」というバス停がありますが、時間が遅いのでタクシーにしました。
天気の関係で「松本〜岡田」と「岡田〜刈谷原」の行程を逆にしました。本日は峠越えでしたのでお天気が良い今日にして、雨の降りそうな昨日を松本市内にしました。今日はとても良い天気で、青空が広がっています。
8:30 国道254「洞」という交差点でタクシーを下りて、北国西街道歩きのスタートです。洞の交差点までは3,000円ちょっとでした。
洞の交差点から100mほど西へ行き、進路を北へ進めて民家の間の緩い坂を登って行きます。
今日は快晴です。
道祖神と道標
右手の小さな石碑が道標になっています。『左 松本道』 『右むら?道』彫りが浅く読みにくいです。
堂田遺跡
伊深新池の東側辺りで発見された遺跡で、縄文・平安時代の複合遺跡です。縄文時代中期の集落、住居跡、少量の土器、平安時代以前の炭焼窯が発見されています。
問屋跡
1604年(慶長9)善光寺道が整備されたことにより、翌年松本藩は所(ところ)氏を問屋職に任命し50年間この地で問屋職を務めました。1656年(明暦2)岡田が宿場となったことで、所氏は岡田宿へ移転し引き続き問屋職を務めました。
問屋原と問屋原の池
所氏が問屋職を務めていたため、こり辺りは「問屋原」と呼ばれています。
大久保翁之碑
伊深村の大久保政吉の顕彰碑です。明治になると宿駅制度が廃止され、新たな陸運業として「中牛馬会社」が設立され始めました。
小諸の魚類乾物・醸造業を商う小山五左衛門をリーダーとする「中牛馬会社」の創業活動は 1870年(明治3)より開始され、大久保政吉は中牛馬組合総代として「中牛馬会社」の創立に尽力した人々の一人です。
石碑群
百八十八番供養碑・忠魂碑など多くの石仏が並んでいます。
信濃百○○と六十六部廻国塔
百から下は埋まっていてわかりませんが、「信濃百番観音」あるいは「信濃百番巡礼」でしょうか。六十六部廻国塔は仏像を背中に背負い全国六十六カ国を巡礼し1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める行者が建立したもので、江戸中期に建てられたとされます。
馬飼峠口
右は刈谷原峠へ至る「北国西街道(善光寺道)」、左は馬飼峠道で、刈谷原峠が急峻であったため1881年(明治14)に60mほど標高の低い馬飼峠道が開かれ、全国初の有料道路となり、馬車が通れるようになりました。刈谷原宿の手前で善光寺道と合流します。
鎧塚
武田勝頼の家臣が逃亡中に落命した、武田信玄が信濃を平定した際に犠牲となった武士たちを葬った、古びた鎧を埋めた、あるいは天文年間、伊深城が武田勢に攻められ落城し、戦死者の鎧を葬ったところなど色々な説があります。塚からは古銭と鎧が出土しています。
ゲート
さらにしばらく進むと野生動物の侵入を防ぐゲートがありました。開けたら閉めましょう。
ゲートから更に進むと樹木が鬱蒼としてきました。古い石垣などが残されていました。水田だったのでしょうか。
電電公社の建物
電電公社時代のマークが付いていました。旧北国西街道沿いに電話ケーブルが埋設された当時の建物だと思うのですが・・何が入っていた施設なのでしょうか。
石切場跡
1593年(文禄2)松本城主、石川玄蕃頭康長が天守築城にあたり、太鼓門の石垣に大石を使っています。大岩(玄蕃石)の産地は伊深説が有力で、古老の話によると道に竹を敷き、村人総出で運んだといいます。昭和20年代まで石を切り出していました。
西峠の池
岡田は田んぼの水不足に悩まされていたといいます。そのため岡田周辺には溜池が多く、この池も溜池のようです。ここから岡田の方へ水路をつたって流れていきます。
念佛供養塔
1779年(寛政9)「井深村中」によって建立されたものです。地名の「井深」が「伊深」と使われるようになったのは1726年(享保11)からですが、その後も一部では「井深」が使われていたようです。
念佛供養塔の向かいには、茶屋が一軒あったとされます。
馬頭観音
街道から見上げると、大きな岩の上に小さな馬頭観音がありました。
商人石(あきんどいし)
昔、このあたりに拳くらいの石の群があり、小石の群れは物価が高くなったときは高く積み重なり、安くなったときは崩れているのが常だったといいます。商人が追い剥ぎにあい、その怨念が石に残っていると伝わります。「相場石」とも呼ばれていました。
馬頭観音と橋跡
馬頭観音は1866年(慶応2)建立。
∧に六の銘が入っていますが屋号ではと書かれていました。馬頭観音横の沢には石垣があり、かつては橋が架かっていました。電話ケーブル埋設工事の際に管が埋設され、橋はなくなってしまいました。
仇坂(あだざか)
刈谷原峠まであと少しというところにあるのが「仇坂」と呼ばれ、難所でした。急峻な道には石畳が敷かれていましたが、昭和30年代の地下ケーブル埋設の際に破壊されてしまいました。
馬頭観音群
峠道の各所に百体余りの馬頭観音があったといいます。多くが持ちさられたとされ、残った13基をここへ集めました。この付近には「蔵王権現の石像」もあったそうですが、無くなってしまいました。
刈谷原峠
仇坂を越えると刈谷原峠へ到着です。刈谷原峠はかつて
仇坂峠とも呼ばれていました。明るい広場にでますが、樹木が生い茂り眺望は開けていません。峠から東へ尾根道を進むと
「稲倉峠(しなぐらとうげ)」へと至ります。
古代東山道は、稲倉峠を通っていたといいます。両峠間には茶屋や井戸跡が残っているとされます。
茶屋跡の石垣と井戸跡
刈谷原峠には茶屋が3軒あったと伝えられています。また茶屋跡の石垣と井戸が残っています。
峠で一休みし、今度は下って行きます。
地蔵
丸彫りの地蔵は江戸時代の作、浮き彫りの地蔵は「苅谷原町」の銘があります。地蔵の脇には「地蔵清水」があり、貴重な水場でした。
弘法大師像
3つのうちどれが「弘法大師像」なのでしょうか・・・資料には「頭を丸めた弘法大師の坐像を浮き彫りに・・」となっていますが、どれも坐像には見えないですね。
○七の馬頭観音
刈谷原峠の南の馬頭観音には∧に六の銘がありましたが、北側にあるこちらの馬頭観音は○に七の銘が入っています。
刈谷原峠一里塚跡
山側の一里塚は残っていましたが、山崩れでなくなってしまい、標柱が建つのみです。
スギ林と沢に挟まれた道を下っていきます。スギ林が終わると旧道がなくなっています。
暫く行くと完全な車道になってしまいました。旧道はこの車道の右側の斜面下を通っていたようです。
丸い筒を並べたような砂防ダムができたため、旧道が寸断されました。ガードレールの切れ目から下の残っている旧道へ下りてみました。フェンスは小さな肩開き扉がありましたが、開け閉めにくく大変でした。
道なき斜面を無理やり下ると旧道がありました。斜面に階段を付けてほしいですね。危険なため、迂回路の舗装路を進んだほうがいいです。
刈谷原峠側へ振り向くと、旧道は
砂防ダムで寸断されているのがはっきりわかります。
旧道から一旦、車道へ出ます。車道は左に大きくカーブしていきますが、旧道は雑草がありますが、真っ直ぐに残っています。右手は小さな沢になっています。
刈谷原の庚申塔と道祖神、馬頭観音
庚申塔(青面金剛像)は1689年(元禄2)建立、古い割に像の彫りがはっきり残っています。文字道祖神、西国巡礼供養塔などが並んでます。
庚申塔を過ぎると刈谷原宿です。
宿場の面影はほとんどなくなっていますが、「北国西街道」と書かれた行灯が掲げられた住宅がありました。
玉成学校跡
1972年(明治5)に開校した学校で、現在は松本市立四賀小学校に統合されています。開智学校よりも1年早く開校しており、当時の校札は開智学校も開いた筑摩県権令永山盛輝が筆を執り、錦部小学校に掲示されていたそうですが、四賀小学校に統合されましたので、現在はどこにあるのかわかりません。
隣のプレハブかもしれないのですが・・こちらの建物のほうが雰囲気ありますね。
刈谷原宿本陣跡
本陣と上の問屋を兼ね、中澤家が務めていました。奥に
本陣井戸が残っています。
脇本陣中沢家
本陣の隣が脇本陣、中沢家です。脇本陣と下の問屋を兼ねていました。現在は空き家のようです。
道祖神
刈谷宿の北端、国道へでる直前に大きな道祖神がありました。
12:15 刈谷原峠は思ったよりも楽々な峠越えでした。青空のもと楽しく爽快に歩けました。刈谷原宿をあとに会田宿へ向かって進んでいきます。