2020年8月9日
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10:00 寄り道はこのくらいにして、遅くなりましたがいよいよ
『北国街道、松代道』を川田宿へ向かって歩いていきます。
荒神町(こうじんまち)交差点からスタートします。
荒神町道標
松代の城下町は西の馬喰町から北の荒神町までを「町八丁」と呼ばれていました。荒神町の追分に道標があります。昭和4年に荒神町の青年会により建立されました。
荒神堂
創建は不明ですが、海津城築城前にはこの地に存在し、荒神町の町名の由来となっています。現在の社殿は、屋根の鬼瓦に入っていた木札により1845年(弘化2)に屋根が葺き替えられたことがわかっていますので、それ以前と考えられます。
大石大明神
殿様の命で愛宕山より引き出した大石がこの地まで来たときに道の中央で動かなくなってしまいました。ほろ酔いの若者が「天下の道を通せんぼするとは・・」と大石へ小便をひっかけ、そのために目が見えなくなり、困っていると「大石をよく洗い、毎日お茶を差し上げるように」と夢枕に立った僧がいいました。若者は毎日よく洗い、毎日お茶を差し上げたところ、目が見えるようになりました。人々はこの大石を目の神様だと信じ、それ以降、ずっとお茶を差し上げているそうです。
千曲川通船船着場跡・荒神町窯跡
このあたりにはかつて、松代焼きの窯がありました。松代藩の藩政改革の一環として藩窯が造られ、後に民窯も20軒ほどできました。
松代焼
松代焼は江戸時代中期の7代藩主、真田幸専(ゆきたか)の時代に誕生し、造られるようになった焼き物です。当時は陶器も馬によって運ばれ、途中割れてしまうものが多いため地元作ろうということになったようです。写真はRoyalHotel長野のエレベータホールに飾られていたものです。松代焼の特徴は「青流し」と呼ばれるもので、下釉を掛けた後口元に少し付けると窯の中で溶け出し流れ落ち、2つと同じものはできません。
孝行猿の碑
昔、東寺尾から加賀井に通じる往来に猿回しを商売にしている家がありました。ある日子猿が逃げ出してしまい困っていると、長命寺の和尚がやってきて、「今朝、子猿が本堂へ入ってきて手を合わせていて・・・」猿回しの夫婦は驚いて「実は子猿の親は去年の今日亡くなり、一周忌の法要をと思っていたのです」親思いの心に感動した夫婦は手厚く法要をしたのでした。町の人達はこの往来を猿屋小路と名付けて末永く、小猿の親孝行を褒め称えました。
長明寺
古くは現在の千曲市屋代にあり、篠ノ井杵淵に移り、1592年〜1596年(文禄年間)に現在地へ移りました。蛭川を石橋で渡ると雄大な楼門があり、上層には文殊菩薩と四天王が安置されているそうです。
萬法寺
1259年(正元元)、伊藤兵部信俊は親鸞聖人に帰依し僧となり、萬法寺を創建しました。境内の太子堂は、1829年(文政12)、当時の藩主真田幸弘に仕えた藩士により太子額及び三尊仏軸が寄進され、その際に建築された太子堂があります。ご本尊は太子12歳の姿を1777年(安永6)、松代紙屋町七條流仏師、黒岩慶篤が彫刻したものです。
地蔵堂と石仏群
愛宕社・寺尾城址
往古より現在地へ鎮座されていたようですが、社殿の創建は1560年(永禄3)、その後社殿は焼失し、1708年(宝永5)、別当職愛宕山長福寺が現在の社殿を再建したとされます。石灯籠は真田信之の奉献。
文字道祖神
とても高い位置に祀られた祠があります。洪水から守るためなのでしょう。
えのきたけ人工栽培発祥地
えのき茸の人工栽培は京都伏見の森下彦三郎が菌床栽培法の創始者であり、これを長野県の屋代中学の長谷川五作教諭が教材として希望者に教えたことに始まります。1931年頃に山寺信らが瓶で生育させる方法を開発し、更には瓶の口に紙を巻き付け、暗室でもやし状の茎を栽培する現在とほぼ同じ栽培方法が開発されましたが、戦争などで本格的な生産は戦後になってからのことでした。
供養塔道標
川中島合戦の供養塔兼道標です。合戦から250年後に松代の商人が建立され、「右川田驛道・中柴弥陀道・左善光寺道」と刻まれているそうですが、草が伸びておりすべてを見ることは難しいです。裏に武田方の高坂昌信・武田信繁・山本勘助の墓の場所が記されているそうですが、それも見ることはできません。
山道へ入っていくとしばらくはアスファルトの道ですが、途中から未舗装の道になります。とんでもなく小さな虫が多く、常にくっついてきます。頭の周囲に30匹はいたでしょうか・・猛スピードで進んでいきました。せっかくの楽しい山道でしたが、全く楽しめなかったです。
松代藩刑場跡
1602年(慶長7)には、検地に反対した一揆の首謀者600人を磔に、1674年(延宝2)には二斗八升騒動の首謀者3名を処刑、1870年(明治3)には午札(うまさつ)騒動(松代騒動)の首謀者甚右衛門を斬首したなどの記録が残ります。大きな髭題目碑が祀られています。
二斗八升騒動
江戸時代、松代藩では籾1俵あたりの玄米を二斗八升から三斗に引き上げて年貢の増徴を図ろうとします。名主らは幕府に直訴することに決めますが、後難を恐れて願書を書こうとする者がなく、水内郡高田村(現長野県長野市)の18歳の助弥が筆を執り署名は首謀者を特定できないよう名前を円形(傘連判状)に記し提出しました。松代藩では首謀者を高田村助弥、堀村伝兵衛、西尾張村吉兵衛の3名とし鳥打峠で処刑しますが、このとき助弥は死に臨んで「二斗八だぞ」と叫んだといいます。後に年貢は二斗八升に戻されたということです。
午札騒動(松代騒動)
商品経済や流通に目をつけた松代藩は1869年(明治2)
「松代商法社」を設立します。翌年、大量の手形を発行し、生糸や蚕種等の諸産物を領内から独占的に
手形によって買い占めますが、松代商法社は破綻、手形は暴落してしまいます。明治新政府からは、過大な藩札の回収を厳しく命ぜられていたため、新政府発行の太政官札と交換を進めようとしますが、その交換比率はなんと、2割5分・籾4俵半。これでは手形(藩札)を引き受けた農民らの暮らしは成り立たなくなってしまいます。農民は千曲川へ集まり、その数3000人にも膨れ上がった大騒動へと発展してしまいました。首謀者とされた
甚右衛門は斬罪に処されましたが400人余りが牢入となってしまいました。
鳥打峠
眺望は全くありません。北西には金井山城があったようですが、樹木で全く見えませんでした。
鳥打峠越えの道が開かれるまでは700mほど東の可候峠(そろべくとうげ)を通行していました。花井吉成が可候峠に変えて鳥打峠を開き、大正5年に国道が開通するまで鳥打峠越えの道を利用していました。花井吉成は松代城代を努め、北国街道の改修や用水工事、新田開発などの土木工事を行い、農民にたいへん感謝されたといいます。
鳥打峠は標高400m程度で高低差は50mほどの小さな峠です。緑に囲まれた未舗装の道を下っていきます。誰一人歩いている人も車も見かけませんでした。
峠より300mほど進むとようやく眺望が開けた場所がありました。上信越自動車道の東寺尾トンネルの入口が見えます。正面の山が一番高い場所に寺尾氏の家臣だった金井氏が築いたとされる「金井山城」があったようです。
禅福寺
1534年(天文3)に大室氏の出身で宗察という僧が開山し、その後荒れていた寺を真田信之の次女まさ(見樹院)が中興開基となりました。屋根には六文銭の紋が入っています。
禅福寺の池
禅福寺の崖下の湧水は青みを帯びた美しい池です。
霞城跡大手石門口
大室城とも言われています。松代町大室を領した大室氏の居城といわれ、地元の人々が「向山(むかいやま)」と呼ぶ山の頂上にあり、また大室古墳群の中にあるため城域の中にも古墳が残っています。少々遠いため、城跡までは行きませんでした。
霞城竜の口の石仏群
「霞城竜の口」と呼ばれる霞城への入口のようですが、案内板にこの入口の記載はなく、山頂までは繋がっていないのかもしれません。昔は千曲川がこの崖下まで迫っていたそうです。岩盤の崖下に石仏群がありました。僧のお墓が数基ありましたので、元々はお寺やお堂があった場所ではないでしょうか。
井大室神社
関崎峠
山裾は千曲川に洗われていたため、松代道は廃線跡のトンネル手前から右手の関崎峠を越え、町川田神社あたりへ出ていたようですが、現在山道は整備されていないようで、歩くことは難しそうですので、一旦、国道へ出て迂回します。峠には歌碑や祠などもあるそうですが見られないのは残念です。
関崎峠「北国街道分間延絵図より」
関崎の渡し
川田宿と川中島平を結ぶため千曲川へ設けられた松代藩七渡しの一つです。当時は対岸で犀川と千曲川が合流していました。この渡しは川田宿から保科道を経て大笹街道へ通じ、江戸へ至る交通の要衝にあります。常夜灯は保科清水寺の観音講中が寄進したものです。関崎の渡しを照らす灯台でした。水天宮、亀岩堤防記念碑も残っています。
千曲川通船
千曲川通船は松代藩の支配下におかれ、川田河岸は関崎の渡しの舟場を兼用し、船荷は問屋、西沢家の荷蔵に収められました。越後から塩、砂糖、魚、海藻、お茶、金物、呉服等が運ばれ、飯山、中野、小布施、須坂、川田、松代の北信一帯から上田方面まで流通しました。
町川田神社
八丁村の豊田新治良さんは、関崎の渡し場で誤って千曲川に転落してしまいましたが、近くにいた人々によって助けられ、仏の功徳に感謝し長覚寺へ常夜灯を寄進しました。鳥居左の常夜灯が寄進した常夜灯ですが、いつ、なぜここへ移設されたのかはわからないそうです。
13:40 これ以上進むとタクシーも迎えが大変になると思いますし、【番外編 川中島合戦コース】の後半がありますので、この神社から松代タクシーさんへ電話しまして、配車をお願いしました。15分ほどで来てくださいました。タクシーで山本勘助の墓などをまわり、本日の宿泊先、
『Royal Hotel 長野』へ向かいました。
2020年8月10日
本日は、Royal Hotel 長野よりタクシーにのり昨日ゴールとした町川田神社へ向かいます。長野電鉄屋代線が廃線となったため、
松代の公共交通機関はバスしかありません。長野駅と松代間のバスは結構ありましたが、それ以外の交通機関は皆無です。松代近辺の北国街道歩きは、松代から村山駅まで16kmくらいですので一日で歩ける距離ですが、真夏のため少し距離は短く予定しておいたほうがいいと思います。そのため、昨日のうちに行けるところまで行っておいた訳です。
9:20 町川田神社を出発します。
りんごの木にはまだ青いですが、大きな実をつけています。10月に入るとりんごの収穫期になります。あと2ヶ月ですね。
古城山城跡
古城山(554m)の山頂にある城跡は天文年間(1532〜1555年)、武田氏が築いた砦と言われ、また一説には川田対馬守の居城であったとも言われています。山頂の本丸は東西15m、南北40mの平坦な台地であり、二の丸、三の丸は土や石で築かれた防壁です。曲輪は腰曲輪様式で、西北に5段、南西に1段が設けられています。南方の本丸下の曲輪の先端は大きな舟形で中が窪んだ薬研堀の空堀となっています。本丸北東下には虚空蔵菩薩祠や南西斜面の欠き取り(角欠け)跡は鬼門の位置に当たります。と、現地案内板にありますが、この虚空蔵菩薩祠は川田宿が古町宿より移転した1740年前後に古城山に祀られたとありますので、砦を築いた時に鬼門に建てられたというのは違うのではないのでしょうか・・・?それとも虚空蔵菩薩祠は2箇所あるのでしょうか。
錦ケ池
1561年(永禄4)川中島合戦の帰路についた
上杉謙信は喉が乾き、村人にこの池を教えてもらいました。馬を休めた謙信に家臣の和田喜平太は
錦の陣羽織で池の水を汲みあげて献じたことから
「錦ケ池」と名付けられたといいます。謙信ゆかりの名馬にちなむ
「駒爪の石」は池の中に姿を消してしまいました。
『武士(もののふ)の衣の錦池水に映して澄める花紅葉かな』
案内の石碑から右手に入り、20mほど進み更に右に折れます。戸建ての家の裏庭のような場所にあります。思ったよりも小さな池です。
松代藩口留番所跡
松代藩の設けた番所の一つです。川田宿は須坂藩との境、千曲川、関崎の渡し、大笹街道、保科道の起点であるなど、領内20箇所置かれた中でも特に重要な番所でした。番所では街道を通る人や物の出入り、特に女人の出入りと漆実の持ち出しなどを厳しく取り締まりました。
川田宿へ入ってきました。宿は下横町、本町、上横町からなり、南北の入口鍵の手に秋葉神社が祀られています。
西の秋葉社
長い自然石の竿石の中に1本の柱を埋め、その上に木造流れの龍、唐獅子、象などの精巧な透彫りの彫刻が施された社が乗っています。この社は善光寺山門の造営にも参加した高井の名工、亀原和田四郎の作と伝えられています。
川田宿本陣・問屋
江戸時代を通じて西沢家が努めていました。西沢本陣で宿泊や休憩をした大名は、松平賀守、松代藩主、須坂藩主、測量で訪れた伊能忠敬も昼食に立ち寄っています。その時の品書きが残っており、松代の名物ナガイモが出されたそうです。また、千曲川通船の河岸荷問屋にもなっていました。旧主屋は1869年(明治2)の火災で焼失しましたが、明治30年代に再建され風格ある書院造りの「上段の間」があります。
古町宿(旧川田宿)
当初の宿場「古町宿」は現在地から400mほど北にありましたが、度重なる千曲川の洪水の被害にあい、1739年(元文4)から約30年をかけて現在地へ宿場を移転しました。宿場の安泰を願って
古城山に虚空蔵菩薩を建立しました。1684年(貞享元)の宿控帳には、家数82軒、馬数47疋、旅籠71軒、宿場の長さ5町(約500m)と記されています。
高札場跡
昭和中期に復元された高札場です。
旅籠和泉屋
本陣向かい、東から和泉屋、中屋、扇屋の3軒の旅籠が軒を並べていました。二階壁に鏝(こて)塗りの屋号が残っています。高級武士の宿泊には部屋数も多く、設備の整った和泉屋がよく利用され、脇本陣に準ずる役割を担っていました。
北村邸
2つの土蔵を連結した長屋門は明治中期に建てられました。主屋は小布施の酒屋を移築したものと言われています。右手のむくり屋根は大正時代、郵便局舎として使われていた頃の名残だそうです。
東の秋葉社
川田宿には、東西に2つの秋葉社が残っています。造りは西の秋葉社と同じです。水害が多い地域のため、このような形になっていると考えられています。
二十三夜塔と双体道祖神
双体道祖神には文化10年(1813)11月と刻まれています。このあたりは、下横町の出入口にあたります。
線路の名残
遠くに信濃川田駅の駅舎が見えます。
古町宿庚申塔
かつての古町宿の土中から発見され、下横町入口である現在地に祀られました。庚申塔には「宝暦11年(1761)、川田宿講中、謹立」と刻まれています。
町川田の一里塚跡
1814年(文化11)、川田宿へ到着した第8次、伊能忠敬測量隊一行18名はこの一里塚から東にある領家・高橋地積の保科川の堤防を経て千曲川、犀川、落合、牛島の道筋の測量を行っています。
信濃川田駅
1922年(大正11)6月、河東鉄道、河東線の駅「町川田駅」として開業し、翌12年に信濃川田駅に改称されました。当時、駅前には郵便局、バス・タクシー発着所があり、繁華街が形成されていたといいます。当初は蒸気機関車でしたが、1926年(昭和元)に全線電化されました。しかし、車社会に勝てず、2012年(平成24)に廃線となりました。現在も駅舎は残り、バスの待合室として利用されています。
私達も駅で休憩させてもらいました。今日の気温は35℃越え、手元の温度計では37℃・・体温より高くなってきました。照りつける太陽を防いでくれる屋根付きの休憩スペースは本当に有り難いです。飲み物の自動販売機もありますし、トイレも綺麗でした。
10:00 次の福島宿へ向けて進んでいきます。