2021年11月6日
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稲荷山駅
7:10 稲荷山駅を出発します。稲荷山駅から北国西街道まで600mほどあります。まずはその途中にある「康楽寺」に寄っていきます。
康楽寺
1212年(建暦2)に塩崎の長谷組に報恩院が建てられ、その後康楽寺と称しました。弘治年中に現在地に移り堂を建立したといいます。開祖は
西仏坊とされます。
西仏坊
清和天皇の後裔である
海野小太郎信濃守幸親の子として1144年(天養元) 小県の海野に生まれました。
「平家物語」の作者、信濃前司行長は西仏坊であるとの説が有力です。青年期には木曾義仲の祐筆(文章をつかさどる武人、文官)として従い、義仲亡き後は比叡山へ入り、範宴(のちの
親鸞聖人)と出会いました。範宴と共に
法然聖人の弟子となります。1207年(承元元) 念仏禁止の法難に遭った親鸞聖人は越後流罪となり、4年後には赦免され、越後から東国布教に向い、西仏坊も親鸞聖人と共に旅をします。途中出会った者に法然聖人が亡くなったことを聞き、たまたま海野の近くであり一庵を建立し供養しました。親鸞聖人は「報恩院」と名付け、これが康楽寺の前身となり、その後塩崎の長谷組へ移ります。
善光寺名所図会に描かれた康楽寺
康楽寺からは参道を通り、北国西街道(善光寺道)へ向かいます。
聖人旧跡碑
北国西街道から参道への入口に聖人旧跡碑があります。この石碑が善光寺名所図会に描かれている石碑でしょうか・・・「高祖聖人 法然聖人」と彫られているのでそうなんだと思いますが、摩耗して随分と石の形が変わってしまいました。
ようやく街道へでました。ここからは一路、丹波島宿へ向けて進んでいきます。200m左手に「天満宮碑」、さらに100m右手に「浄信寺」があります。
天満宮碑・浄信寺
浄信寺の横には
「浄信寺川」が流れています。篠山(908m)、鬼山(649m)などの水を集め稲荷山駅付近を起点に塩崎地区のほぼ中央を流れ、田畑を潤していました。上流にはエビやシジミ貝、ホタルなどがいましたが、近年は改修が行われその面影はありません。
その先100m左手の山崎公民館に秋葉神社、筆塚、さんじょさんの案内板があります。
秋葉神社
筆塚?
「楽水○澤君碑」文政8年信濃国更級郡に生まれたそうですが・・あとの漢文は読めません・・
さんじょさん(三十三献燈祭)
雨乞いのお祭りで、三十三の燈籠を飾り付け、長谷観音まで掛け声をかけながら燈籠を担ぎ上げ献灯します。1726年(享保11)に例祭を定められて以来延々と伝承されています。
200mほどで聖川を渡り、上信越自動車道の下を通過していくとりんご畑が多くなり、右手に姫宮神社があります。
長野県はりんごの生産量、全国2位です。
姫宮神社
コンビニで買ってきたおにぎりを境内で食べて、朝食です。
姫宮神社から200mほど左手に一里塚の標識があります。
塩崎一里塚跡
地元の古老に寄るとこんもりとした土盛りに杉の木三本が植えられ、一里塚と彫られた石碑があったらしいのですが、現在は石碑もなくなり、案内板が建つのみです。
追分近くの町並み
塩崎一里塚跡から静かな町並みを400m、十字路右手に「篠ノ井追分宿跡碑」があります。
篠ノ井追分宿跡碑
右手からは千曲川の渡しを越えてくる北国街道が軻良根古神社の前をすぎ、この篠ノ井追分で北国西街道と合流する交通の要衝でした。
「右京いせ道 左江戸街道」とあり、昭和時代に建立された大きな碑がありますが、往時も道標がありました。「宿跡」となっていますが、宿場ではありませんでした。
善光寺名所図会に描かれた篠ノ井追分
篠ノ井追分には
「立石の茶屋」があり、
「柳屋」という茶屋があり、川中島古戦場の図や姨捨山の絵なども売っていたと書かれています。
篠ノ井追分を右へ曲がり、千曲川の渡船場跡へ行ってみます。
明治時代更級郡制の中心地
篠ノ井追分から右手に塩崎警察署、そのとなり千曲川側に更級郡役所がありました。
更級郡役所は、1879年(明治12)北国西街道沿いの欣浄寺に開庁され、明治24年にこの地に平屋の新庁舎が建築され移転、大正2年に水害のない篠ノ井町へ移転しました。
塩崎警察署は、1890年(明治23) 欣浄寺を仮庁舎として発足、明治24年にこの地に新庁舎が建築され移転、大正6年に篠ノ井町へ移転しています。
更級郡役所と塩崎警察署の向かいには宮崎邸があり、宮崎邸内には明治8年に地租改正取引所、明治22年には収税部塩崎出張所・租税検査院派出所、明治38年には蚕病予防事務所などが置かれました。
長野県更級農業高等学校発祥の地
明治21年より郡立高等小学校、明治25年組合立更級高等小学校、明治32年からは塩崎村他3ヶ村の組合立高等小学校、明治40年より大正12年まで郡立乙種農学校となり、篠ノ井町へ移り、これが現在の長野県更級農業高等学校となっています。
250mほど進むと千曲川へでます。ここが「矢代の渡し跡」です。
矢代の渡し跡
対岸の矢代より軻良根古神社あたりに千曲川を渡る渡し船がありました。1872年(明治5)に舟橋が完成したため渡し船はなくなったようです。
私達は矢代宿から松代通りを通り、牟礼宿へ向かったためここへは初めて来ましたが、矢代宿から善光寺へ向かう人々は千曲川を矢代の渡しで船に乗りここへ通じていました。
軻良根古神社
創建などは不明ですが、「永禄年間(1558年〜1570)武田家、村内篠野井組、産土神の神前に大平を祈願し一泊する」と伝えられていますので、それ以前からあったようです。軻良根古大明神と称していましたが、明治11年に軻良根古神社と改称しました。
軻良根古神社の伝承
大きな鼠がこの辺りで田畑を荒らしており、この大鼠を退治するために中国から大きな猫を呼び寄せました。(中国から来た猫なので「唐猫」)唐猫は大ネズミと戦い、大ネズミは苦しまぎれに千曲川を堰き止めていた上田と坂城の境の岩鼻を噛み切り湖は決壊し、大ネズミと唐猫は千曲川を流され、溺れ死んだ大鼠は坂城町に打ち上がりました。唐猫はこの篠ノ井塩崎に流れ着き、息絶えた唐猫を祀ったのが唐猫神社だと言われています。大鼠が打ち上がった場所は
「鼠宿」といい地名として残っています。
古来の渡来人を神として祀ったという説もあり、また鼠の地名についても「寝ず見」というかつて番所が置かれた土地に由来するとも言われています。
明治天皇御召喚碑
明治天皇北陸巡幸の折、明治天皇を輿にのせ軻良根古神社の宮司らがかついで千曲川を渡ったとされます。
篠ノ井追分まで戻り、丹波島へ向かうとすぐ左手に「欣淨寺」があります。
欣淨寺
明治時代、更級郡役所と塩崎警察署などが置かれたのがこの欣淨寺です。
150m先に篠ノ井線の踏切があります。頭上には北陸新幹線が走ります。
御神燈
踏切の手前に寛政12の御神燈、なぜかぽつんとひとつだけ残されています。
踏切から350m左手に舗装記念碑、さらに60m左手に順礼供養塔があります。
舗装記念碑・順礼供養塔
昭和33年頃、舗装化された時の記念碑です。
順礼供養塔から90mほど左手に「松陰斎一露翁碑」という筆塚があっようですが、家が建て直されて無くなっていました。徐々に古いものは無くなり、町は変わっていってしまいます・・・
筆塚
100mほどで岡田川へ差し掛かり、「見六の道標」があり、その右手数十メートルのところに大きな筆塚がありました。裏面にはいろいろ彫ってありましたが、彫りが浅く読み取れませんでした。
見六の道標
正面に「せんく王うし(善光寺)道」と彫られ、上部の円枠内に人差し指が彫られています。1849年(嘉永2)の建立ですが、無くなっていたようで、見六橋架替工事中に川の中から発見され、往時の設置場所は不明ですが、恐らくこのあたりだろうと、現在地へ設置されました。
「見六の道標」の橋を渡りすぐにY字路を左へ入っていきます。300m左手に「香福寺」があります。
香福寺・栄村役場跡・栄村道路元標
1605年(慶長10)、独立和尚により開山されました。長野市川中島町連光寺の末寺です。
明治22年の町村制実施により敷地の一部に栄村役場が昭和初期まで置かれていました。
筆塚
香福寺の向かいにも大きな筆塚がありましたが、詳しくはわかりません。
200mほど進んだ右手、立派なお屋敷の手前に大きな石碑、地蔵菩薩が祀られた一角があります。
宮入源之助頌徳碑
小学校での教師であり、1892 年には簡易図書館の必要性を説いて更級郡に通俗(一般的)文庫を作った人物です。信濃図書館創立事務員も務め信濃図書館設立、図書分類方法など図書館に大きく貢献した人物のようです。
宝昌寺
1607年(慶長12)群馬県安中市の桂昌寺の高僧、月巣玄鶴禅師が立ち寄った際、薬師如来の霊験を感じ、薬師殿と寺を建立し「薬王山宝昌寺」と称しました。
宝昌寺薬師堂
1742年(寛保2)千曲川の洪水、1847年(弘化4)善光寺地震にあいますが、再建されてきました。現在の薬師堂は平成18年に改築され真新しく綺麗です。
平維茂(たいらのこれもち)伝説
約一千年前の冷泉天皇の時代、京都から流刑により戸隠山中の荒倉山に
「紅葉」と称する鬼女が住みつき、人畜に危害を加え、悪事を働いていました。朝廷は
平維茂に鬼女を退治するよう命じ、維茂は見事に鬼女を退治し、その功により
越後守に任ぜられました。村人は鬼女の残党を恐れ、維茂にこの地に残るよう頼みますが、維茂は薬師の尊仏に甲冑を添えた木像を彫り「甲冑薬師如来」と称し、自分を信じるごとく、薬師如来を信じるように言って越後に戻りました。969年(安和2)村人は草堂を立てて安置したのが薬師堂の始まりとされています。
すぐその先、五叉路の左手に「歯瘡医殿」があり、その奥に「幣川(みことがわ)神社」があります。
歯瘡医殿(はくさんさん)
天明・寛政の時代、御幣川(おんべがわ)の小市家に信心奇特の人がいました。この頃、難病の苦しみを行力によって癒やしてくれた行者がいました。行者は歯瘡(現在の歯槽膿漏)がひどく、他の者にはこの苦しみをさせたくないと誓願を立て苦行をし、行人塚で生きたまま入定しました。小市家では宅内に石祠を建て「はくさんさん」として勧請しました。感銘した村人は1797年(寛政9)に小林元右衛門、宮入兵右衛門が領主となり、「諸法一万講」を作り社殿や灯籠を奉納、現在の社殿は平成初期に改築されています。
幣川(みことがわ)神社
慶長年間(1596〜1614)用水開削中に甲越戦争の名将の兜標に用いられたと思われる5寸くらいの
黄金の御幣が発見されました。御幣には八幡宮の三字が刻まれていました。ここから村名を「御幣川」と定め、産神を八幡宮としました。1845年(弘化2)から1848年(嘉永元)にかけて拝殿及び社殿を再建、明治11年に幣川神社と社号を改めました。
幣川神社の北東には戦死者の追悼と平和を祈るために建立された
大平観音堂もありました。
北国西街道へ戻り100m進み、ちょっと寄り道のため交差点を右へ曲がり500m右手に「可毛羽(かもは)神社」、可毛羽神社の向かいに「木曽義仲供養塔」、数m先に「竹内月国句碑」があります。
可毛羽(かもは)神社
創立年は不詳ですが古くからの神社です。1181年(養和元)木曽義仲の横田河原の合戦にて社殿を焼失、1467年(応仁元)〜1477年(文明9)の頃に再建されますが、1558年(永禄元)の川中島合戦にて再び焼失。以後の再建については千曲川の氾濫のため古文書が流出し不明です。元は諏訪大明神でしたが、1878年(明治11)可家羽神社と改称しました。
木曽義仲供養塔
義仲の子孫にあたる方が義仲公787年祭を行った際、菩提を弔う為に昭和45年に建立したそうです。
竹内月国句碑
『冬日庵月国 太箸や 吉野の旅も 一握り』
詳細な人物像はわかりませんが、月国さんは1784年(天明4)に篠ノ井にて生まれ、1866年(慶応2)に没しています。
表札に「宮司」と書かれたお宅がありました。可毛羽神社の宮司さんのようです。胸像もありましたがどなたのものか不明です。
さらに200m進み、路地を左へ曲がり100mで地蔵寺、原大隅守の墓は地蔵寺の隣、道沿いの墓地にありました。
地蔵寺と原大隅守の墓
原大隅守は、横田衆の一人で中間頭とされ、30人の寄子(よりこ・同心)を持ち、甲州口方面の奉行を勤めたとされます。「甲陽軍鑑」では1561年(永禄4)の川中島の戦いでは八幡原の信玄本陣に単騎で乗り込み、上杉謙信に向け槍を繰り出し、信玄の窮地を救ったと書かれています。川中島古戦場には原大隅守が槍で石を突き通したといわれる
「執念の石」があります。
地蔵寺からすぐ先の路地を左、すぐ右再び左、150mほど進むと「横田城跡」があります。こんもりとした小山は現在は稲荷神社となっています。
横田城跡(古殿稲荷)
平安時代末頃に築かれ、1181年(養和元)
木曽義仲が越後の平家方の軍と戦った時に利用し、北陸を攻め上がる際にもこの城を根拠地の一つにしました。1400年(応永7)には信濃守護
小笠原長秀が村上氏や大文字一揆と戦った大塔合戦の時も長秀はこの城に籠もりました。その後、川中島の合戦時には甲斐の
原大隅守が籠もったとされます。
ここから真っ直ぐ北国西街道へ戻ります。戻る途中の右手に「しののい公園」がありました。
しののい公園
県繭検定場だった場所が公園になっています。横断歩道や信号機などを設置した広場があり、小さな子どもたちが自転車で走り、交通ルールを学んでいました。こういう公園は珍しいですね。初めて見ました。
しののい公園から200m、ようやく北国西街道へ戻りました。
傳兵衛町開設記念碑
揮毫は「長野県知事富田健治」となっています。富田氏が長野県知事に就任していたのは1938年(昭和13)〜1940年(昭和15)となっていますので、その間に「傳兵衛町」という町が開設された・・・ということでしょうか。しかし、市町村合併の資料にも「傳兵衛町」という名は見られません。可能性としては「傳兵衛」は「お酒」を指す隠語でもあるそうですので、歓楽街を指していたのかもしれません。事実、この碑の向かいには「やすらぎ通り」という昭和時代のような飲み屋街が形成されています。
県道を越えて進み、芹沢本通りという商店街へ入ってきました。少々寂れた商店街を200mほど進むと右手に小さな祠があります。
芝澤の秋葉神社と天神さん
右側は火伏せの神様の秋葉神社、左側は学問の神様、菅原道真を祀る天神さんです。
庚申塔
天神さんから200m右手に庚申塔がありました。裏には「布施高田村」、側面に「萬延元年」(1860年)とあります。
さらに300m住宅が立ち並ぶ静かな道を進むと右手に小さな地蔵堂があります。
地蔵堂
石造りの地蔵菩薩と薬師如来が安置され、いずれも室町時代の作と考えられています。
東都道中分間絵図
魚都里(なつり)の東都道中分間絵図にはこの石造地蔵と薬師如来を
「親子地蔵」と記しています。また付近には
立場もありました。
原村役場跡
地蔵堂から400m右手の民家前に小さな標識がありました。1889年(明治22)今井村とともに中津村になり、原村は消滅しました。
150m右手に立派な旧家があり、右の路地へ少し入っていくと「小休跡碑」があります。
原村茶屋本陣・小休跡碑
原村は間の宿で、名主が茶屋本陣をしていました。明治天皇北陸巡幸の際には小休され、碑が建てられています。茶屋本陣東半分は南原公民館となっています。
その先すぐ左手に「蓮香寺」があり、境内に「オリンピックゲストハウス記念碑」、駐車場入口に「小林一茶句碑」があります。
蓮香寺
1367年(貞治6) 称蓮社名誉月秀善室上人によって川中島原の西畑沖に創建され、1596年(慶長元)現在地へ移転しました。
オリンピックゲストハウス記念碑
1998年の冬季オリンピック長野大会において、ドイツチームのゲストハウスとして蓮香寺が利用され、両国の親善に貢献したことを記念して建立された碑です。
小林一茶句碑
「雪の山見ぬ日となれば別哉」
1807年(文化4)北国街道を通り江戸へ向かう際、このあたりの南原にて弟子の滝澤可候と別れました。一茶は日記にこの句を書き留めていました。
御前水碑
蓮香寺のすぐ先左手の立派な旧家前に御前水碑があります。明治天皇北陸巡幸の際、原村茶屋本陣で小休された時の御茶の水はこちらの井戸からのものだったのでしょう。
御前水碑から800m右手の火の見櫓前に役場跡の案内柱がありました。
中津村〜昭和村役場跡
1889年(明治22)今井村・原村が中津村となり、1955年(昭和30)御厨村と中津村が合併し、昭和村が発足しました。
北原西の交差点を越え、立派な長屋門の前に
「今井村役場跡」の標柱、その隣には茅葺きにトタンをまいた立派な旧家、さらにすぐ先右手には茅葺屋根の家が残っていました。
藁葺き屋根の家
文化財などには指定されていないようですが、藁葺き屋根の家が1軒残っていました。
100m先を左へ入っていくと「北原延命大仏殿」です。
北原延命大仏殿
1800年(寛政12)江戸の大輪坊が薬師堂北側に阿弥陀堂を建立しました。1792年(寛政4)に江戸で寄進した大仏をこの阿弥陀堂へ遷座供養すると、善光寺詣途次の祈願所として連日賑わったといいます。
1872年(明治5)廃仏毀釈により阿弥陀堂は取り壊され、大仏は今井の「切勝寺」へ、終戦後現在地にあった地蔵堂を取り壊し、大仏殿を新築し大仏を再び遷座し、地蔵堂の地蔵とともに祀られています。
善光寺名所図会に描かれた大仏殿
「大仏接待所」として描かれています。周辺には旅籠や茶屋が軒を連ねていました。
菊花展
大仏殿ではちょうど「菊花展」が開かれていました。地元の人々が見学にきており、賑わっていました。秋ですね〜
北国西街道へ戻り、70mほど進むと右手に小さな社があります。
北原薬師堂跡
このあたりに大仏が安置されていた阿弥陀堂がありました。節婦おせんの顕彰碑、徳本念仏塔、三界萬霊塔、庚申塔、馬頭観世音、天満宮(天神社)、大輪坊の墓などがあります。
節婦おせんの顕彰碑
1871年(明治4)農夫の妻せんは東京から来た旅の僧にいい寄られましたが、貞節を守り殺された事件があり、「東京日日新聞第1号」(毎日新聞の前身)に掲載され明治政府から表彰、錦絵にもなりました。碑は1872年(明治5)に建立されました。
北原警察分署跡
明治14年、機構改革により塩崎警察分署がここへ移され、明治15年からは今井警察分署、明治22年からは中津警察分署、大正15年からは中津村巡査駐在所、昭和38年からは中津警察官駐在所となりました。
畑や住宅が入り交じる街道を1kmほど進み、国道19号線の下をくぐりさらに500m、右カーブを曲がると左手に唯念寺があります。
親鸞聖人旧跡碑
唯念寺の参道にあります。親鸞聖人が戸隠参詣の折りに唯念寺へ立ち寄られました。
唯念寺
開基、
和田義包(よしかね)は
鎌倉幕府重鎮の和田義盛嫡男、常盛の4男であり、1213年(建保元)の和田合戦において一族討ち死、常州筑波山へ逃れ麓の藤岡へ居住しました。同じく常州稲田へ居住した親鸞聖人の弟子となり「善入」と称しました。屋代の一重山に草庵を結び、後に氷鉋村(ひがのむら)に一宇を建立しました。
戦国時代には織田信長との
石山戦争に門徒16名が大阪へ僧兵として向かいましたが、8名は帰らなかったとされます。
上氷鉋村
このあたり往時は「上氷鉋村」でした。読み方が特殊で「かみひがのむら」と読みます。往時は上田藩の飛地でした。
唯念寺から400mほど進むと左手に古井戸があります。
新田共同井戸
明治10年代に新田組23戸の共同井戸として掘削されました。1955年(昭和30)県営上水道ができるまで使用されていました。
住宅が立ち並ぶ街道を750m、左手にお堂が見えてきました。そのすぐ先、丹波島宿の鉤の手に「於佐加神社」があります。
浄生庵 (観音堂)
本尊の地蔵菩薩は1722年(享保7)に江戸から運ばれる途中、この丹波島宿で根が張ったように動かなくなり、1748年(寛延元)に観音堂が建てられ安置されました。
明治時代から昭和40年代までは「浄生庵」と呼ばれていました。
境内には徳本名号碑がありますが、1816年(文化13)に上人が信濃行脚の折、立ち寄ったときのものだそうです。
於佐加神社
丹波島宿開設に合わせて、1662年(寛文2)諏訪河原の地から移され、境内には秋葉社など9社が祀られています。
東山道支路の亘理駅(わたりのえき)はこのあたりにあったとされます。
丹波島橋沓(支承)
犀川を渡るには江戸時代は舟綱渡し、明治初期には舟橋となり明治中期は木橋、昭和初期に鉄橋となりました。
この支承は「昭和7年制作」とありますから、初めて鉄橋に架け替えられた時のもののようです。
丹波島宿の古地図
平成13年建立の丹波島宿由来碑に古地図がありました。
於佐加神社をあとに丹波島宿へ入っていきます。すぐ左手の民家屋根に鍾馗様があります。
鍾馗様
宿場に入ってくる邪気を追い払うため、街道入口や脇道の突き当りの家の屋根の上に様々な形をした鍾馗様が乗せられています。4軒が残っています。
丹波島宿の町並み
犀川をこの付近では「丹波川」といい、丹波島と呼ばれ、戌の満水をはじめ、度々の洪水に見舞われました。
十返舎一九は「大江山ならねど酒の鬼殺し売る家もある丹波島かな」と詠み、化政期には「鬼殺し」という銘柄の酒が売られていたことがわかります。
鬼殺し
現在も各地に
「鬼ころし」というお酒があります。「鬼ころし」の由来は、平安時代に京都の大江山に住み着いていた酒好きの酒呑童子という鬼を退治する際、酒を飲ませ、酔わせて退治したという逸話から「鬼のような男でも酔い潰れてしまうぐらい美味しく、アルコール度数の高い酒」のことを「鬼ころし」と呼ぶようになりました。
なつかしいホーロー看板
オロナインのホーロー看板が登場したのは1963年(昭和38)のことだそうです。昨年放送されたNHK朝ドラの「おちよやん」はこの看板の女優、浪花千栄子さんをモデルにしたものです。
鉤の手から250m左手に高札場、その隣に脇本陣があります。
高札場跡
明治5年頃に撤去されましたが、平成23年、丹波島宿開設400年を記念して当時の場所に復元されました。
脇本陣・御前水碑
問屋を兼ねて柳島家が務めました。今も残る冠木門は松代藩より払い下げられたものを移築しました。1878年(明治11)明治天皇北陸巡幸の御前水碑があります。
脇本陣のすぐ先を右に曲がり丹生寺へ向かいます。門が閉ざされていましたので中には入りませんでした。小さなお寺です。
丹生寺
1490年(延徳2)生誉海底和尚により開山、知恩院の末寺であり、本尊は元禄年間に問屋柳島市左衛門寛休により寄進された阿弥陀像です。
明治時代には寺子屋明衷学校として使用されました。
街道へ戻るとすぐ左手に丹波島宿本陣、明治天皇小休碑があります。
丹波島宿本陣
本陣柳沢家は武田信玄の家臣として松代に入封し、川中島の戦いの後、松代城主の時は物見役を務めていました。三代目柳島太郎左衛門政雄は大久保長安に命ぜられ、丹波島宿の開設と本陣を務めました。
江戸時代、犀川では毎年千本と言われた鮭や鱒が捕れ、本陣から加賀前田家へ初鮭を献上していました。
明治天皇北陸巡行の際には小休されました。
丹波島宿本陣から250m、東の鉤の手を経て犀川へ向かいます。犀川の堤防に大きな丹波島渡しの碑があります。
丹波島渡しの碑
「市村の渡し」とも呼ばれていました。川留が長引きそうな時は、大名行列も矢代宿から北国街道松代通りへ向かいました。
善光寺名所図会に描かれた丹波島渡し
裾花川と犀川の合流点であるこの場所は瀬が早かったため、江戸時代は対岸に太い綱を渡し、それをたぐって船を渡していました。
13:15 丹波島宿をあとに犀川を渡り善光寺宿へ向かいます。