2019年8月12日
「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。
KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
本日は一日、小諸、上田周辺を車で散策します。朝早く、5:30頃には道の駅みまきを出発します。まずは、道の駅みまきにほど近い場所から回っていきます。
布岩
断崖にくっきりと斜めに白い層が貫いています。白い布がかけらように見えることから布岩と言われています。黒っぽいのは布引層で、垂直に亀裂が入りその中に白い凝灰岩で埋められてできたものだそうです。
布引山釈尊寺入口
釈尊寺は布引渓谷内にあります。布引渓谷は、『信濃邪馬渓』ともよばれます。ここから渓谷を登り釈尊寺へ向かいます。南側の大久保からは車でも行けるようですが、徒歩で登ったほうが楽しいです。この駐車場は広く、トイレもあります。朝早いため誰もいません。
5:50 参道を登り始めます。参道脇に杖が置いてあるので借りていきます。ありがたいですね。
布引二段滝
布引渓谷は四季を通じて人々の目を楽しませてくれます。春から夏にかけてはグリーンに、秋は紅葉一色、冬は見事な氷滝に変化し、布引の景勝となっています。
馬岩
布引山の裏の台地を御牧ヶ原といい、平安時代朝廷直轄の官牧でした。紀貫之が詠んだ「望月の駒」は御牧ヶ原の産です。育てた駿馬を朝廷に納める際に唄われたのが、小諸馬子唄の原唄「小諸節」であったと言われているそうです。故に岩に馬が現れていると書かれていますが・・・どのあたりが馬なのか・・判りません。
「東京神田市場、萬惣信者」と彫られています。
牛岩
「牛に引かれて善光寺」の伝説発祥地として、岩に牛の姿が現れています。とありますが、どのあたりが牛なのでしょう・・全くわかりませんでした。
石仏にはまた「東京神田市場、萬惣信者」と彫られています。殆どが「東京神田市場、萬惣信者」です。
善光寺穴
長野の善光寺まで穴が通じているといわれています。昔、善光寺が火災の祭にこの穴からも煙が出ていたと伝えられています。
不動滝
滝となっていますが、ほとんど水が流れていません。ようやく観音堂が少し見えてきましたが、まだまだ遥か頭上です。
仁王門
以前は仁王門の先が参道で、ここから階段を登って観音堂へいけたようですが、現在は通行止めとなっていました。
石仏
こちらの石仏も「東京神田市場、萬惣信者」と彫られています。
6:25 布引山釈尊寺到着〜あちこちゆっくり見ながら進むと結構かかりました。どんどん登れば20分ほどで到着できるでしょう。
布引山釈尊寺
724年(元亀元)の創建と伝わります。1548年(天文17)武田信玄が楽厳寺入道、布下仁兵衛を攻めた時に兵火にかかり、焼失したものを1556年(弘治2)望月城主であった滋野左衛門左が再建しました。その後も1723年(享保8)に再び野火により炎上、現在ある伽藍(寺院の建物)の多くは小諸城主牧野周防康明によって再建されたものです。「牛に引かれて善光寺」の伝説で知られたお寺です。
南側の大久保から車で来ると、社殿左手裏に出るようです。
布引山釈尊寺観音堂
布引観世音の伝説
昔、信心の薄い老婆がおりました。老婆が千曲川で布を晒しておりますと、一頭の牛が現れその布を角にかけて走り出してしまいます。老婆は野山を越え牛の後を追いかけ、気づくと善光寺まで来ていました。牛は金堂のあたりで姿を消してしまいます。
疲れ果てた老婆はその場で佇んでいますと、日も暮れてきて、どこからか一条の光明をさし、その霊光の尊さに膝まずき、菩提心を起こし罪悪をわび家へ戻りました。 ある日、布引山を見ると、岩角に布があります。老婆はなんとか取りたいと思いますが、断崖絶壁のため取ることはできません。一心不乱に祈ると布は石と化してしまいました。
信州四大伝説の一つとして語り継がれています。
白山社
室町時代初期の建築で、当時の様式を伝える数少ない貴重な建物だそうです。
狛犬
江戸時代の狛犬とは少しデザインが違います。鎌倉時代のものでしょうか。
岩屋観音堂
宮殿は、1258年(正嘉2)に建立したとされており、観音堂の岩屋内に安置されています。和風建築の雛形というべきもので、鎌倉時代の様式よく現した国宝の建築物です。
観音堂の奥の小さなトンネルをくぐると展望台へ続く道がありましたが、今は通行できません。2005年に登った人のブログがありましたのでそれ以降に通行止めとなったようです。
武田信繁の墓
武田信玄の弟、信繁は1561年(元禄4)第四回川中島の戦いで、戦首級が小諸城主、武田信豊に運ばれ、大久保に安置されました。
ここで、朝食を食べるため
「道の駅 雷電くるみの里」へ向かいました。郷土食レストランが朝7時から開店しており、とても便利です。メニューも多く、地元の食材を使い、地元の方々が作ってくださいます。朝早くから大勢の人で賑わっていました。
くるみおはぎ定食(\420)
くるみおはぎに具だくさんの味噌汁やお豆腐などがセットになっています。くるみおはぎは、甘ったたるいものと思い込んでいたため、ひとくち食べてびっくり。なんとも絶妙に甘くてしょっぱいのです。すごく美味しいです。何個でも食べられそうです。
信濃のくるみ
1907年(明治40)北佐久郡小沼村三谷(現在の御代田町)の中山丈平、アメリカの生糸貿易商で、軽井沢のボアンカレー氏から、くるみを納めるよう依頼を受けました。中山丈平は 佐久地方でクルミを買い集めますが、丸型の小粒在来種(鬼ぐるみ、姫ぐるみ)がわずかに集まったにすぎなかったそうです。 翌年小県郡に足を運び、くるみの木のある家々を訪ねて買い歩きました。その際、当時
白米1升が12 銭であったのに対して、くるみ1升が18 銭であったため、栽培が盛んに行われるようになりました。栽培に適した長野県では特に力を入れ、外来2種の交配から、新たに殻の薄く、収穫量の多い
「信濃くるみ」という優良品種を作り出し、くるみ栽培が発展しています。
真田氏本城跡
真田氏本城は、松尾城、真田山城、住連寺城、十林寺の城山などとも呼ばれていました。
天白城と共に馬蹄形状に構築され、南西面に広がる緩斜面には
真田氏館跡や原の郷があり、さらに砥石城、矢沢城を望むことができます。本郭は東西8.6m、南北37m、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へ二の郭、三の郭と段差を設けながら延びだし、その北側は急崖となって厳重に防備しています。
上田城築城以前の真田氏本城であったと推定されています。
上田盆地の眺望が開け、眼下に小県と北上州を結ぶ上州道を押さえ、熊久保集落の上方の沢から山原を回して城内近くまで水を引いています。
長谷寺
1547年(天文16)
真田幸隆が真田本城内の種月庵跡地に伝為晃運(晃運字伝)を招いて創建しました。晃運は上野国後閑(群馬県安中市)の長源寺の僧で、幸隆とは旧知の間柄であったといいます。1600年(慶長5)上田合戦に巻き込まれて焼失し、1622年(元和8)には真田氏の松代移転と共に、長谷寺の6世住持が松代に移り、新たに長国寺を開山し、長谷寺は長国寺の末寺となります。1742年(寛保2)、
戌の満水により土砂災害に巻き込まれ、1757年(宝暦7)には再び火災で焼失し、更に1890年(明治23)の火災にあい、古い建物は残されていないそうです。現在の本堂は1978年(昭和53)の再建です。
真田幸隆・昌幸の墓
中央の大きめのものが幸隆、向かって右手のものが昌幸のお墓です。左手奥に最近建立された新しい供養塔が建立されています。信繁の供養塔です。
真田幸隆(幸綱)
幸隆以前の真田氏の記録が少ないため、出身はなぞが多いですが、
真田家の基礎を築いた名将です。1541年(天文10)現在の上田市蒼久保周辺で起こった海野平の合戦(神川合戦)で真田郷を追われて上野(群馬県)に逃れます。その後、武田信玄に従い信州先方衆として活躍、1551年(天文20)には幸隆の切り崩し工作により砥石城の攻略に成功します。智謀の士、武田24将に数えられた名将です。1573年(天正元)信玄は53歳で陣中にて没し、幸隆も翌年62歳で死去しました。幸隆が開祖となった長谷寺に埋葬されました。
真田昌幸
1575年(天正3)長篠合戦で兄、信綱、昌輝が戦死したため、三男の昌幸が真田家の跡を継ぎました。1585年(天正13)に上田城を築城、1585年(天正13)と1600年(慶長5)の
上田合戦では大軍の徳川を2度も退けています。その後、
高野山九度山へ信繁とともに幽閉され1611年(慶長16)九度山にて65歳で死去しています。遺髪や爪等が国元に送られ、幸隆の墓脇に埋葬されました。
真田氏歴史館
入場料250円ですが、昨日買った六文銭手形を使い、無料で入れます。真田氏ゆかりの品々が展示されています。
グッズも販売していました。真田紐のキーホルダー(1300円)を記念に購入しました。
真田氏館跡
真田氏が上田城を築城する以前の居館跡で、地元では「御屋敷」と呼ばれています。1551年(天文20)頃に造られたとされる居館は、昌幸の父、幸隆・兄の信綱の代より用いられたとされます。ほぼ完全な形で残っています。
皇大神社
真田昌幸が上田城に移る際に屋敷が荒廃するのを恐れ、伊勢より勧請したものと伝わります。現在の本殿・拝殿のあたりに居館の主殿があったとされます。
土塁・御北の松
館の背後には天然の堀、大沢川が流れ三方には空堀と土塁が廻らされています。
御北の松は、亡き夫、信綱を偲んで植えたものと伝えられ、植え継がれて樹齢200年と推定されています。
真田氏館
居館は扇状台地上に位置する方台形の敷地を有し、真田本城の麓にあたります。日常生活は館で過ごし、事が起こると真田本城に立てこもる体制ができていました。内部は2段に分かれ、上田城本丸と同じ構造です。
大手門・桝形跡
北東に真田氏本城、東に天白城、北に神川を隔てて尾引城(横尾城)、西方に砥石城などを巡らせた要害の地です。敷地は西130m、東80m、北150m、南160mの台形、東側から西側にかけて緩やかに傾斜しています。現在は周辺一帯を公園として保存されています。
稲倉の棚田
稲倉の棚田
道路に看板があったので、ちょっと寄ってみた棚田です。
一時は荒廃していた棚田を多くのサポーターにより復活し、日本の棚田百選に選ばれています。季節ごとにイベントを行い、若者とお年寄りが智慧を出し合い、この景色を守っています。
信濃国分寺跡
信濃国分寺は、741年(天平13)
聖武天皇発布の詔勅(しょうちょく)にあるように「造塔の寺は兼ねて国の華なり、必ず好処(こうしょ)を択びて実に長久なるべし」と、その国の最も良い場所が選ばれ、信濃の国では現在の上田市が選ばれました。現在は公園として保存されています。
「信濃国分寺資料館」が併設されており、国分寺や上田地方の原始、古代の資料が展示されています。ここも昨日買った「六文銭手形」で無料入館できました。
国分寺案内図
昭和38年から昭和46年までの発掘調査の結果、中門・金堂・講堂・回廊・塔・僧房・築地塀・尼房・経蔵・北門などの遺構を確認、推定することができ、僧寺は東西約176m、南北178m、尼寺は東西148m、南北150mと判明しました。現在は国道や鉄道が国分寺の敷地を貫いています。
国分寺山門
939年(天慶2)の平将門の乱で一帯は将門と従弟である平貞盛との戦場となり信濃国分寺の堂宇の多くは兵火により焼失したため、現在地へ移ったと言われます。
お昼も過ぎてお腹が減ってしまったため、お蕎麦を食べに上田城のほうへ一旦戻ります。
「草笛」も
「刀屋」も行列ができています。ランチ時間も過ぎようとしていますし閉店する時間が迫っています。仕方なく、googleマップで口コミも良かった
「琴笙庵」というお蕎麦屋さんへ伺いました。並んでいる人もいなく、すぐに入れました。
琴笙庵
本日は「ざるそば、そばがき、野菜や山菜の天ぷら、小鉢」がセット(1200円)となっているものしかないと言われ、それをお願いしましたが・・・まずびっくりしたのが、天ぷらは枝豆に代わっており、そばがきは、蕎麦の実を茹でたものに代わっていました。心のなかで「えええっーー!!」って感じです。まあそれでもそばが美味しければと、気を取り直して食べ始めますが・・・
写真でわかりますか?そばの太さがバラバラなのです。そして箸でつかむとほとんどが5cmくらいと短く、ブニョブニョに柔らかい。ズルズルっとは食べられず・・なんですか?これ。最後のほうには5,6本が塊となったものもでてきました。これでは乾麺を自分で茹でたほうがよっぽど美味しいですよ!!
最低なお蕎麦屋さんでしたね。人生の中で一番まずいお蕎麦でした。せっかく
真田の郷で育てたという蕎麦なのに・・・入店時から女将はペラペラ自慢話の多い変な人だと思っていましたが、やはりそういうところが仕事にでます。いい加減な蕎麦打ちといい加減な調理でしょう。怒り心頭な上、最後には食べたものを自分でカウンターまで返却しろと。これを美味しいと口コミしている人が信じられません。やはり並んでも別のお店に入るべきでした。
信濃国分寺
見頃は終わりに近づいていますが、まだ少しだけ蓮の花が咲いていました。とても綺麗で華やかです。
本堂は1860年(万延元)の再建です。完成までに31年かかりました。大工棟梁が佐久耳取村の田島喜平、彫工は地元の竹内八十吉、瓦師は三河から招いたと記録が残っています。岩下の伊波保神社本殿の彫刻や諏訪神社(青木神社)の拝殿前向拝上の彫刻も竹内八十吉作と伝わります。
国分寺鐘楼、三重塔
源頼朝が善光寺参詣の途次、発願して寄進したという伝承もあり、また塔内に建久8年の黒書があったとされますが、様式からみて
室町時代に建てられたものとされます。現存する国分寺の塔でも最も古いものです。昭和7年から8年に行われた解体修理により、心柱が取り替えられ、短く切断されてしまいましたが、塔の前に展示されています。
心柱は塔の中心に吊り下げられる形となっており、スカイツリーと同じ構造だといいます。1月7日、8日の縁日には全国で唯一の珍しいお守り「
蘇民将来符(そみんしょうらいふ)」が売られ、土地の人々は「
八日堂」と呼ばれています。
蘇民将来符
信濃国分寺の門前に家を構えていた
「蘇民講」と呼ばれる人々によって作られていた蘇民将来符は、
ドロヤナギの木を六角錐形に手彫りしていました。昭和43年には上田市の民俗文化財に指定されています。信濃国分寺の蘇民将来符は、全国各地に伝わる多くの蘇民将来符の中でも形状や図柄が優れているとされています。また、作られた年代や作者によって、大きさ・形状・描かれる文字や紋様に特徴がみられます。
真田徳川会見の地
1600年(慶長5)、第二次上田合戦の際に真田氏と徳川氏が国分寺で会見したとされます。この会見より真田方が計略をもって徳川秀忠38000の兵を足止めしたことにより、秀忠は関ケ原の戦いに間に合いませんでした。当時は兵火により三重の塔だけが残り、僅かな草庵があっただけとされます。
六文銭手形を完成するためにあと一つスタンプが足りません。サントミューゼは料金がかかりますので、一番近い
「旧宣教師館」へ向かいました。
旧宣教師館
1904年(明治37)に建てられたカナダ人女性宣教師の住宅です。元々は上田城近くの丸堀町(現大手町)にあったものを移築したものです。上田新参町教会を拠点に布教しながら梅花幼稚園も開設し幼児教育とともに、上田保姆伝習所として幼稚園教諭の育成にも取り組んだ女性です。1919年(大正8)からは現在の東洋英和女学院保育科に受け継ぎます。
1941年(昭和16)には戦時色が強まり、宣教師は帰国することとなり、小県地方の蚕業教育の指導者で上田保姆伝習所でも教鞭を取っていた
三吉米熊の子息、敬三氏が住宅兼病院として購入しました。1991年(平成3)、上田市に寄贈され、平成6年に現在地へ移転、復元されました。
建物は、アーリーアメリカン様式、あるいはアメリカン・コロニアル様式といわれる、下見板張りの簡素な造りが特徴です。
上田六文銭手形完成!!
やったー!!『上田六文銭手形』が完成しました!800円で購入しましたが、全部で1450円分、見学しましたので650円もお得でしたね。そして頂いた記念品がこちらのクリアーファイルです。2種類から1つだけ選択できます。
別所温泉付近をゆっくり見て回る時間がなく、残念でした。また機会があれば回りたいと思います。