2020年8月10日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

10:00 信濃川田駅で休憩し、福島宿へ向けて歩いていきます。今日の最高気温は36度を越えています。手元のプロトテックの気温は38度を越えています。とにかく暑くて倒れそうでした。 TOO001

領家の長屋門

TOO001

戸長役場跡(地蔵庵跡)

戸長役場とは、明治時代初期に戸長が戸籍事務などを行った役所のことであり、現在の町村役場の前身にあたります。

TOO001

地蔵庵跡の石仏

地蔵堂に祀られていた石仏だと思われますが、詳細はわかりません。

TOO001

領家石塔群

秋葉社など5基の石塔が並びます。秋葉社は水害が多いためこのように高い位置に祀られているそうです。

TOO001

力石

元々は秋葉様の前に据えられていました。重さは1tほどあるそうです。領家の若者が力試しや腕自慢をしていたとされますが、本当に1tもの石を持ち上げていたのか・・不思議です。平成9年に道路改修のため現在地へ移されました。
TOO001

保科川

保科川を越えてすぐに国道を離れ、旧道へ入っていきます。保科川にはアオサギがいました。

TOO001

子育観音堂

コンクリート製の覆屋の中に更に木製の覆屋があり、その中に大切に祀られている観音様です。

TOO001

湯島天満宮 信濃分社

東京都文京区にある湯島天神の分社のようです。社殿は平成14年、北野建設が奉納されたそうです。

TOO001

北野美術館

保科川下流の綿内は製材で栄えていました。北野製材所は長野県最大の建設会社に発展し、北野建設を経営する実業家・北野吉登が所有する収蔵美術品を展示するための美術館を建設し、広く公開することにより地域に貢献したいという趣旨により昭和43年に開館しました。
TOO001

道祖神?

覆屋の中には何やら変わった形の石が2つ祀られています。何でしょうか・・男女の道祖神でしょうか?

TOO001

松代道道標

『右ハ松代道 左ハ保科道』と刻まれています。ここは、保科から来る保科道(現県道378)と松代道の追分です。1905年(明治38)建立。保科道は、保科を経由し、大笹街道へ至る道のようです。

TOO001

若穂綿内の稲荷神社

詳しいことはわかりませんが、玉垣や狛犬は割と最近のものと思われます。道路拡幅で土地が小さくなったのかもしれません。

TOO001

称名寺

開基は、釋浄貞であり、父は木曽義仲といわれています。釋浄貞は、1210年(承元4)越後にいた親鸞聖人の弟子となります。その後、稲田へ同行した後、現在地の信濃、金山の麓波羅密寺に入り、寺号を義仲院水口山称名寺と改称されたそうです。

TOO001

綿内村道路元標

道路元標とは、1919年(大正8)の旧道路法で各市町村に一つ置くことが定められたもので、当時 の市町村の中心地や主要道路交差点に設置されました。多くは村や町の中心となる場所にあります。

TOO001

正満寺山門

創建は戦国時代の弘治2年(1556)、当時の領主、井上兵庫守左衛門尉信満が嫡男である井上備前守正満の菩提を弔う為に開かれたのが始まりとされます。井上氏は清和源氏多田満仲の孫に当たる源頼季(みなもと の よりすえ)が信濃領が与えられ、高井郡井上を本拠にした事から、地名に因み井上氏を名乗ったとされます。その後、井上家からは多くの氏族を排出し、その有力氏族の1つが綿内井上氏で正満寺を菩提寺としています。正満寺山門は1704年(元禄17)に建てられました。現在修繕が行われていまして、よく見えません。残念でした。

TOO001

綿内西宮神社

西宮神社は福の神とされる「えびす様」をおまつりする神社だと思いますが、説明板などはありませんでしたので詳しくはわかりません。

TOO001

綿内の道標・谷街道綿内追分

右 井上 須坂 左 福島 村山 小布施中野道 綿内村町區青年会』と彫られています。大正4年の建立です。右の「井上、須坂」は谷街道になり、谷街道との追分となっています。真っ直ぐが松代道です。

谷街道

北国西街道の稲荷山宿から千曲川に沿って新潟県十日町までが谷街道と呼ばれています。矢代宿から綿内追分までは松代道と重複しています。

東に100mほど進むと長野電鉄屋代線の旧駅舎、「綿内駅」があります。一旦、街道をそれて駅へ向かい駅舎内で休憩させていただきました。日よけがあるだけで有り難いです。旧綿内駅もバスの待合所になっています。また、トイレも綺麗でした。

TOO001

お地蔵様

戦没者慰霊碑と並んでお地蔵様があります。眉毛が化粧されているようです。地蔵に何かを塗りつけると力が増すと伝えられているそうで、東海道では滋賀県で多くみられました。他にの県でも何度が目にしています。
TOO001

養蚕神社

明治時代の日本の一大産業であった養蚕は、農家にとって大きな収入源となっていました。綿内地域も同様で、明治から昭和にかけて製糸業で隆盛を極めましたが、綿内は古くは綿花で賑わったようです。

TOO001

福島宿本陣

大きな荷蔵を持つ家が多く残されています。本陣は問屋も兼ねて丸山家が努めていました。かつては街道の中央に用水が流れ、本陣の目印として立派な松が植えられていました。

福島宿

現在の福島宿は千曲川右岸の自然堤防上にあり、千曲川通船や大笹街道起点など交通の要衝として栄えていました。元は千曲川左岸にあった集落が度重なる千曲川の氾濫により移転を繰り返し、1690年(元禄3)に右岸の現在地へ移りました。1772年(明和9)、人足55人、馬15疋で伝馬役を勤めています。

TOO001

勝楽寺

井上氏一族の唯仏によって鎌倉時代の初期、1214年(建保4)に信濃町に開基されました。その後、飯綱町平出、長野市村山へと移転し、1606年(慶長11)に井上氏ゆかりの地である現在地へ移りました。現在の本堂は1923年(大正12)に再建されたものです。

TOO001

分教場跡

当時は西隣りに伊勢社があり、伊勢神宮の御師の宿舎でした。御師(おし)とは、宿舎を拠点として神宮の案内や神礼の配布等を行い、信仰の普及をする人のことです。明治7年には福島学校となり、明治32年には井上尋常小学校福島分教場と名称が変わり、同年市立福島農業補修学校も併設されました。明治42年には本校に吸収され、廃校となりましたが校舎はそのまま公会堂として利用されました。戦後はリンゴの出荷場となり建物は取り壊されました。

TOO001

福島宿道標

福島宿のほぼ中央に道標があり、大笹街道の起点となっています。1700年以前の建立と考えられています。道標には「左 草津仁礼道 右 松代道」と刻まれています。

大笹街道

大笹街道は江戸へ向かう北国街道の裏ルートとして、主に穀物の輸送に使われていました。また、北信濃の菜種油も大量に運ばれました。北国街道経由よりも6里短く、福島宿から仁礼(にれい)宿を経て上州大笹宿を通り、中山道沓掛宿、あるいは高崎宿へ至ります。大笹街道の整備が進んだ1790年(寛政2)に福島と千曲川左岸の西大滝村の間に通船が許可されると荷揚げされた貨物が大笹街道を経て江戸へ至る量が増えました。荷物を奪われることとなる北国街道の矢代以東の問屋や中山道追分宿の問屋らは仁礼、大笹宿を相手取り差し止めを訴えますが、飯山藩、須坂藩、松代藩の領主米の江戸への輸送路だったことから、1650年(慶安3)には公認されました。特に高井郡産の菜種油が大量に江戸へ運ばれ、鳥居峠は「油峠」とも呼ばれました。 大笹街道は、十返舎一九「上州草津温泉道中膝栗毛」にも登場します。

TOO001

TOO001

丸玉石

福島公会堂建立記念碑台座外周の石は、正面は間知石ですが裏側が丸玉石です。丸玉石は平成20年千曲川堤防工事の際に地下3mほどのところに堤防に沿って整然と並んで発見されました。船着き場に関するものではないかと考えられています。

TOO001

布野の渡し案内板

集落の北に「布野の渡し」があり、街道は福島千曲川を渡り、越後へ向かっていました。犀川が増水し川止めとなっても川幅があり、流れが緩やかだった布野の渡しは通れたため、迂回してきた人々で賑わったといいます。

千曲川通船

公認されたのは西大滝村、斎藤太左衛門の申請に対し1790年(寛政2)が最初で、その後松代藩営川船や善光寺町商人の厚連船(こうれんせん)も加わりました。それぞれの河岸に契約した荷問屋を置きました。

TOO001

天神社

960年(天徳4)京都北野天満宮より勧請したとされます。学問の神様として祭礼には書画や詩歌を奉納する人々で賑わいます。現在の社殿は明治13年に再建されたものです。奥にある金比羅神社と石灯籠は千曲川通船の河岸にあったものが移されたそうです。

TOO001

福島の大幟(のぼり)

明治13年に完成した大幟は棹の長さ36.5mの1対です。旗は長さ22.5m、幅4mの特大で明治の文学者高井鴻山の筆によります。明治18年までは学問の神様「菅原道真公」を奉る天神社の氏子達により毎年町の中央に建てられていましたが、現在は天神社の特別記念祭の折にのみ建てられています。

TOO001

西福寺

1192年(建久3)に法然上人の直弟子、金光上人によって開基されました。福島宿では一番古いお寺です。薬師如来堂の南には庚申塔が2基並び、向かって左側のものは市内最古のもので、1643年(寛永20)の銘があります。右側のものは、1749年(寛延2)の建立です。2つとも以前は福島宿の北口にありました。

TOO001

本陣

竹内家が江戸時代を通じて務め、問屋・通船荷問屋を兼ねていました。大きく、立派な長屋門が残っています。

TOO001

庚申塔

石祠には宝永7年(1710)11月30日と記されています。福島宿最北の庚申塔で、細くて長い宿場内では街道に沿って南北に祠が置かれており、周辺の住民がそれぞれ講を作りお祀りしてきました。

TOO001

馬頭観音道標

江戸後期から明治初期に掛けての建立と推定され、台座には「右 中野・小布施道 左 北国街道・布野船渡・善光寺街道」と記されています。右へ行くと小布施や幕府陣屋のある中野など千曲川右岸の「谷街道」と繋がっています。当初は北国街道飯山道の分岐点にありましたが、昭和初期の築堤によって現在地へ移されました。馬に乗った馬頭観音像が精巧に彫られています。

TOO001

一旦、県道である堤防の上に登り、堤外地へ下りていきます。

TOO001

堤外地は一本道が続いています。左手に「布野の渡し」がありましたが、現在は辿り着くことは難しそうなので、そのまま北上していきます。

TOO001

堤外地(河川敷)には、桃畑が広がります。菜種栽培に適したこのあたりは、江戸時代には一面の菜の花で黄金島と呼ばれていました。ここで育った菜種が大笹街道を経て江戸へ運ばれていたとされます。現在は桃などの果樹園となっています。たわわに実った桃がとても美味しそうです。長野県は桃の生産量全国3位です。
TOO001

TOO001

百々川改修記念碑

この記念碑は、小布施地籍で千曲川に流れ込む旧百々川の度重なる洪水を防ぐため、近隣3村(井上・日野・豊洲)からなる百々川水害予防組合が、直接西を流れる千曲川に流れ込む流路変更を決意し、国の補助を得て改修されたものです。この時川瀬川も掘られ、その経過を後世に伝えるため昭和12年に建立された石碑です。揮毫は当時の長野県知事 近藤駿介氏によるものです。

TOO001

長野電鉄村山駅

15:00 村山駅に到着しました。ここから長野電鉄に乗り長野駅まで戻ります。今日は本当に暑かったです。手元の温度計では38℃越えでした。なんとか熱中症にならずに駅へたどり着けて良かったです。本日は長野駅の『ドーミーイン長野』へ宿泊します。