2022年7月2日
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6:30 北国街道から善光寺へ寄り道していきます。参道を進んでいきます。
善光寺縁起
阿弥陀如来に両脇侍の観音、勢至菩薩が配された一光三尊像を本尊としています。百済から伝来した仏を本田善光が背負ってきて安置されたものとされ、642年(皇極天皇元)の創建と伝えられています。この本尊は秘仏で、7年に一度御開帳が行われますが、御開帳されるのは本尊の前立本尊で、御本尊ではありません。 戦国期には武田信玄により本尊が甲斐に持ち去られ、武田滅亡後、流転を重ね豊臣秀吉のもとから戻されたのは、1597年(慶長3)でした。大竹屋平兵衛の伝説
平兵衛は伊勢出身で、江戸で財を成しましたが長男が放蕩で家によりつきませんでした。ある夜、盗賊が入ったので突き殺すとそれが我が子であったといいます。平兵衛は世の無常を感じ、家を後継者に譲り巡礼の旅にでます。途中、善光寺へ来て庶民の難儀を救うため敷石を寄進しました。平兵衛は後に茂菅静松寺で出家し、「道専」と名乗り、1726年(享保11)没。墓は静松寺と善光寺山内の向仏坊の墓地に今も残っているそうですが・・「向仏坊の墓地」がどこなのかさっぱりわかりません。 その後も平兵衛の子孫は敷石の修繕をしていたとされます。東都分間絵図の「善光寺」
善光寺は創建時から宗派に関係なく参詣できる霊場として栄え、『信濃では月と仏とおらがそば』と唄われたようにあらゆる善男善女の信仰を集めていました。 参道の左手には「大本願」右手には宿坊が並んでいます。宿坊淵之坊・兄部坊
善光寺宿坊や東之門町などの木賃宿の営業が盛んになると、大門町の旅籠屋と営業をめぐり争いも起こっています。 また、権堂村は元禄の頃から水茶屋が増え、幕末には30軒以上、200人以上の女性を抱えていたとされます。水茶屋は遊郭的なもので、善光寺参詣の男性客をからかう川柳として『善光は白へおろして腰をのし』と詠われていました。善光寺名所図会の「水茶屋」
1791年(寛政3)の記録には院坊(宿坊)46軒、門前町の旅籠屋30軒、木賃宿26軒があり、善光寺平一帯の商品流通中心地としても発展し、10万石の松代城下町をしのいで繁栄したとされます。善光寺仁王門
長野県山形村の永田兵太郎をはじめとする全国の篤志により1918年(大正7)に再建されました。仁王像は高村光雲と米原雲海の合作で、「定額山」の扁額は伏見宮貞愛親王の筆によるものです。善光寺名所図会の「善光寺」
善光寺仁王門の左手に「良寛詩碑」、その奥に「稲畑汀子句碑」がありました。善光寺敷石の仲見世
早朝ですので、お店は開いていません。参詣者もまばらです。昼間はものすごい人なので、この時間帯に来れるよう調整しました。お店が覗けないのは残念ですが、観光客がいない善光寺はのんびり見学ができます。 仲見世の中間くらいまで来ると左手に「延命地蔵尊」があり、さらに仲見世を進み「駒返り橋」を渡ると境内へ入っていきます。駒返り橋
1197年(建久8)源頼朝が善光寺へ参詣した折、馬の蹄が石橋の穴に挟まりここから奥は馬を返して、徒歩で入ったと言われています。頼朝は火災で焼失した本堂の再建を行うなど善光寺を深く信仰していました。 駒返り橋を渡ると右手には六地蔵や濡れ仏と呼ばれる大きな仏様、左手には池があり、池の奥が二本坊の一つ、天台宗の「大勧進」になっています。大勧進入口脇に「明治天皇長野行在所碑」があります。明治天皇長野行在所碑
明治天皇長野行在所は大勧進の中にあり、1878年(明治11)に明治天皇が東海・北陸巡幸の際に滞在され、以降、大正天皇、昭和天皇も滞在されました。 さらに進むと迫力の「善光寺三門」、これをくぐると本堂が見えてきます。善光寺三門
本堂再建後の1750年(寛延3)に再建されたもので、大正時代、平成に改修がされています。内部の見学もできますが、見学はしませんでした。善光寺本堂
戦国時代に衰退した善光寺は徳川の時代になると復興し始めていましたが、本堂は度々の焼失、1666年(寛文6)に再建されていましたが、痛みもひどく粗末な建物でした。現在の本堂が再建されたのは1707年(宝永4)です。 2022年は7年に一度の御開帳が6月29日まで行われ、大変な人出でした。つい3日前まで行われていたようです。本堂前の回向柱はまだ設置されたままでしたのでよ〜くすりすり・・・ご利益をいただけるでしょうか。善光寺本堂再建へ
本堂の再建の機運が高まった1692年(元禄5)、資金集めのため前立本尊の出開帳を江戸両国の回向院(えこういん)、京都真如堂、大阪四天王寺で行いました。催しは大盛況で2万両の収益をあげ、本堂再建事業に着手しました。まず門前町から類焼しやすかった本堂を現在地である奥へと移し、本堂の建築へ取り掛かりましたが、火災のため建築中の本堂、材料から諸堂までも焼失してしまいました・・・ 善光寺の再建に熱心だった徳川綱吉、側用人柳沢吉保は江戸の慶運を善光寺に送り込みました。慶運は再建費用を工面するため江戸谷中の感応寺でご開帳を行いましたが、前回の江戸御開帳より間もなかったため、3500両しか集まりませんでした。そこで「日本回国出開帳」を行う決意をし、上総・下総・安房からはじめ、3年半をかけて奥羽から九州・四国を回り、ようやく建築費が集まりました。 1707年(宝永4)本堂は24500両を費やしてついに完成したのです。ついで三門(山門)、経蔵なども出開帳の収益で建てられました。 また全国で出開帳を行ったため、善光寺信仰が日本全国に浸透しさらに参詣者を集め、信濃に入る道は全て「善光寺道」と呼ばれるほどになりました。謡曲と善光寺
善光寺は謡曲によく登場します。「土車」
妻に死別して世を捨てた深草少将が善光寺へやってきました。一方、家臣の小次郎も父・少将を慕う若君を土砂運搬用の土車に乗せて全国を訪ね歩き、善光寺にたどり着きます。少将は2人に気づいたものの出家の妨げとなるとして、やり過ごしました。疲れと絶望で川に身を投げようとした2人を寸前で呼び止め、再会を喜びあったのでした。経蔵
経本の収蔵庫として1759年(宝暦9)に完成しました。中央には八角形の回転式輪蔵があり、1694年(元禄7)に寄進された鉄眼黄檗版一切経の経木が納められています。輪蔵の腕木を押して一回転させると中の経本を全て読んだのと同じ功徳が得られると言われています。むじな燈籠の伝説
昔、下総国(茨城県)に住んでいたむじな(たぬき)が人の姿となり善光寺講中に混じり善光寺をお参りしました。むじなは殺生をしないと生きていけない自らの罪業を恥じ、後生(来生)を頼むため善光寺に灯籠を寄進したいという願いを持っていました。 白蓮坊を宿に定め、善光寺への参詣を果たしたむじなは安堵してお風呂へ入りますが、うっかりむじなの姿のまま湯を浴びているところを見つかり、慌てて逃げ去りました。むじなを不憫に思った住職はむじなの願いを伝え聞いて一基の常夜灯を建立してあげました。爪彫如来
親鸞聖人は越後国から東国への旅の途中、善光寺に百日間逗留したとされます。この阿弥陀如来像は聖人が逗留中に爪で彫られたものと言われ、特に眼病に効くとされます。 経蔵まで戻り、善光寺三門西側の「仏足跡」、その隣の「佐藤兄弟塚」へ向かいます。仏足跡
往時の大勧進僧正の発起により1838年(天保9)に作られたものです。 お釈迦様の足跡を石に刻んだもので、古代インドで仏教が作られる前からお釈迦様の象徴とされてきました。