2019年9月14日

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今回も車でやってきました。昨夜は「上田道と川の駅 おとぎの里」へ車中泊し、朝は4時から「万葉超音波温泉」へ入り、着替えなどをすませ、上田駅へやってきました。

おとぎの里は「半過岩鼻」の隣にあり、ダイナミックな景色を堪能できました。万葉超音波温泉は泉質がほんとうにいいです。つるつるです。

車は、上田駅そばの「フレンドパーク上田天神1丁目」へ駐車します。前回は空きが無かったのですが、本日は停められました。12時間、500円とお得な駐車場です。

8:15 駐車場を出発します。まずは「真田十勇士」コンプリートのため、筧十蔵の像を目指します。

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上田天満宮と筧十蔵

上田天満宮は学問の神様、菅原道真を祀っています。1894年(明治27)旧上田駅跡郵便局長であった上村粂治郎は、旧高田藩が歴代所有していた天神様を譲り受け、氏神様として祀りました。1950年(昭和25)上田駅前広場の拡張に伴いこの地へ移り、北天神町自治会へ寄贈されます。本尊の道真座像は江戸中期の作と伝えられています。

「真田十勇士」の一人、筧十蔵は、鉄砲の名手で鉄砲隊を率いて大阪夏の陣・冬の陣で活躍し、家康を狙撃しましたが失敗に終わりました。真田幸村と共に活躍したという「真田十勇士」は、明治末以降の立川文庫が創作したヒーロー達です。

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穴山小助と源兵衛坂

源兵衛坂は、この道を登った鷹匠町の細道西側に江戸時代仙石氏の頃、馬柄左右衛門の屋敷があり、宝永3年の松平氏の時代にはこの屋敷に並河源兵衛が住んでいたことから屋敷より南へ下る坂を「源兵衛坂」と呼んでいました。並河の後は浜口十左衛門となり、浜口隼太まで3代続き明治を迎えました。

「真田十勇士」のヒーロー、穴山小助は頭がよく槍の達人。幸村の知恵袋であり、幸村と容姿が似ていたため、影武者として身代わりにもなりました。

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みすゞ飴本舗(旧柳町油屋)

油屋は、江戸時代から明治初期にかけて北国街道沿い柳町で穀物商を営んでいました。創業は文化13年とされています。現在の建物は大正時代の建築。明治33年、東京深川近郊で洪水が起こり、広範囲の水田が水没し、売り物にならない大量の冠水米からデンプンを精製し、水飴を製造することを思いつき、穀物商から飴屋へと業種転換します。その水飴の売り先として目を付けたのが、水飴を原料としている森永製菓のミルクキャラメルでした。当時森永は創業したばかりで、認知されていないキャラメルを普及させるため、五代目当主、飯島新三郎は東京に出向き、森永製菓創業者の森永太一郎とともにリヤカーを押してキャラメルを売り歩いたとされます。「みすゞ飴」は水飴に信州の果物を加えたもので、信州の枕詞である「みすゞ」を商品名にしています。現在は信州の果物を使った四季のジャムが人気です。特に養蚕で栄えた信州ならではの「桑の実ジャム」は上田の名産の一つです。

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三好伊三入道

これで、真田十勇士コンプリートです。三好伊三入道は、清海入道の弟で兄と一緒に幸村に従うことになります。兄に負けず、大男で怪力の持ち主であり、大坂の陣では大活躍しました。

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御厩裏(おんまやうら)

ホテル祥園、寿久庵のあたりはかつて、「御厩裏」と呼ばれていました。藩主屋敷手前南には藩主の乗馬を飼育、調教する御厩がありました。ここはその裏側で侍町の一つでした。元禄時代には中級武士の屋敷が10軒ほど並んでいましたが、享保の頃になると割家(長屋)ができ、賑やかになりました。寿久庵のあたりには、幕末・明治維新で活躍した上田藩士、上野健蔵(尚志)が住んでいました。彼は「信濃国小県群年表」を著し、現在でも地域の歴史を知るための基本書籍となっています。明治になると蚕糸業が盛んになり、上田停車場ができ武家屋敷は料亭や旅館となって賑わいました。

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伏見稲荷神社

1845年(弘化2)正一位稲荷大明神の神号を受け、1862年(文久2)浅野門太、岩崎紋左衛門が修復を願い出ているそうです。御神木は「ねずみさし」、ねずみさしとは、あまり聞かない樹木ですが、「トショウ」とも呼ばれるヒノキ科の針葉樹で枝葉が垂れ下がるのが特徴です。葉は針のように固く触ると痛いです。お酒のジンは蒸留する際にヨーロッパネズの実を加えて作られています。

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上田藩主居館跡

真田信之以降、仙石氏、松平氏が廃藩まで藩主屋敷として使用していました。現在は一部しか残っていない堀も往時は屋敷を四方取り囲んでいました。当時は「御屋形(おやかた)」と呼ばれていました。表門は藩主松平忠済時代の1790年(寛政2)、前年に焼失した居館とともに再建されたもので、往時の姿をよく残していますが、堀周りの石積みは崩落防止の為、近年作られたものです。現在は上田高校の敷地となっています。

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赤松小三郎生家跡

1831年(天保2)上田藩士芦田勘兵衛の次男として木町に生まれ、後に藩士赤松弘の養子となります。江戸へ出て、勝海舟に師事し共に長崎でオランダ人より蘭学・航海術、横浜のイギリス人より英国式兵学などを学び、1866年(慶応2)京都に英国式兵学塾を開き、薩摩藩を始めとする多くの藩士に兵学を教えます。民主的な政治、西洋的な思想を描きますが、1867年(慶応3)兵学塾の門下生であった中村半次郎(桐野利秋)らに暗殺されてしまいます。36歳の若さでした。

丸堀

真田氏によって築かれた上田城の三の丸の中屋敷(現清明小学校のあたり)、東側には、池のような丸い堀が作られていました。この堀を丸堀と呼び、その横の通りを丸堀通と呼んでいたのが丸堀町の始まりとされます。

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紺屋町 泉屋

1826年(文政9)の紺屋町大火後、上田藩が職人町再建のため海野宿より移設した建物です。泉屋小泉弥重が藩士の裃(かみしも)用型付藍染工房を開いていました。1838年(天保9)、米・大豆・小豆・塩等を扱う穀屋を開業します。廃藩後、蚕種の製造販売を始め、養蚕指導員として活躍し、「益蚕社」本店として第二次大戦中まで使用されました。大屋根の開閉式煙出は、蚕製造のため明治になってから造られたものです。

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山極勝三郎生家跡

世界初の人工癌発生の成功者、山極勝三郎は1863年(文久3)上田藩士山本順兵衛の三男としてここで生まれました。小・中学校を優秀な成績で卒業後、東京大学医学部へ進学、その間、旧上田藩御殿医・山極吉哉の養子となります。卒業後ドイツ留学を経て東大教授となり脚気(かっけ)、ペストなどの研究を手掛け人工癌の発生に成功します。ノーベル賞は受賞できなかったものの、昭和3年にはドイツのソフィー賞を授与されました。また、博士は研究の傍ら曲川と号し、「曲川句集」を発行しています。

鎌原の中央あたりから北へ向かう道は、遊郭へ至る道でした。太郎山の麓にあった遊郭は明治11年に長野・松本と共に許可されました。明治の終わり頃には28軒の楼があり、料理屋、菓子屋、人力車屋なども店を開いていました。また、北国街道から遊郭へ至る道筋にも菓子屋や料理屋、餅屋や食物屋、足袋屋、芸姑専修学校なども作られました。

TOO001 矢出沢川沿いも歩いてみます。川沿いは小さな遊歩道になっています。

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向源寺

元は上田原にあり、上田原にあった当時の1566年(永禄10)、武田信玄の本陣となり、信玄はこの寺を戦場にしてはいけないという朱印状を与えたとされます。1626年(寛永3)に現在地へ移転しました。小林一茶も逗留し作品や寝泊まりした小さな家も残されているそうです。
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北向観世音道道標

明治28年、上田橋が完成するまで上田と別所、あるいは中南信を結ぶ道はここだけであり、茶屋や商店が立ち並び賑わっていました。「北向観音」はここより南西10km余りの別所温泉にあります。

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坂下延命地蔵尊と歴史の散歩道

坂下延命地蔵尊には、生涯3つの大願と石にまつわる伝説があるとされます。歴史の散歩道は坂下から上田城へ通じる細い道です。1993年(平成5)「歴史の散歩道」として石畳を敷き、石の街頭などを設置して整備されてものです。雰囲気の良い小路です。

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芳泉寺

真田昌幸は上田城築城にあたり、下之城村の金称庵をこの地に移し「常福寺」としました。1622年(元和8)真田信之の松代転出後、小諸より国替えとなった仙石忠政は菩提寺の宝仙寺を小諸より移し、常福寺は、下之城へ移しました。1674年(延宝2)忠政の子で2代目上田城主の正俊死後、「芳泉寺」と改称しました。
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小松姫の宝篋印塔、仙石政俊・仙石秀久霊廟

仙石氏の霊廟は、政俊を中心に左後方に祖父の秀久と秀久の長子久忠や秀久側室の墓があります。五輪塔が政俊の墓で、舟形の石塔が秀久のものです。2つとも覆屋に納められていたため、損傷もなく建立当時のままです。

小松姫は真田信之の正室で、本多忠勝の娘でありますが、嫁ぐ前に徳川家康の養女となり1586年(天正14)信之に嫁ぎました。たいへん賢く、女丈夫として数々の逸話が残っています。1620年(元和6)小松姫は病気を患い、湯治のため江戸より草津へ向かう途中、埼玉鴻巣において48歳で亡くなりました。鴻巣の勝願寺で密葬されました。勝願寺、芳泉寺、上野国沼田の3箇所に分骨されましたが、信之が松代へ国替えとなったおり、姫の御霊は松代へ移されました。この宝篋印塔は信之によって姫の一周忌に建てられました。

小松姫のエピソード

徳川家康が若い武将を列座させ、平伏している武将たちの髷を姫がつかんで順番に顔を見ています。その態度に立腹し、鉄扇で手を打ち据えた大名が信之でした。姫はこれを怒るどころか、他の大名のだらしなさを軽蔑し、信之の気骨に感動して信之の正室になったと伝わります。やがて不幸にも信之と父昌幸、弟信繁とが敵味方に別れたおり、孫の顔が見たいと沼田城に訪ねてきた昌幸に対して留守を預かる小松姫は武装し、昌幸を追っ払ったとされます。一説には城へは入れなかったものの、城下の旅宿へ案内し丁重にもてなす一方、城では襲撃に備えるよう命じたとも言われます。これを見た昌幸は家臣へ向かい「あれを見候へ、日本一の本多忠勝が女程あるぞ、弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ」と褒め称えたといいます。また、昌幸、信繁が九度山蟄居となると「年々信州の四季の物」が小松姫によって届けられ、聡明で優しい人柄が見受けられます。

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高橋

上田宿西の桝形となっていた高橋は、かつては板橋で、合戦の際には橋を切り落として西からの侵入を防ぐ役割がありました。

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丸山邸と石垣

丸山邸は江戸時代、木材問屋を営んでいました。重厚な石垣は明治になり丸山平八郎が上田城を買取り、石垣をここへ移し、積み直したものです。買い取った上田城の土地はその後、公園として開放し、後に上田神社へ寄付され、現在の上田城跡公園となりました。彼がいなければ、上田城の土地は切り売りされ、バラバラになっていたことでしょう。立派なかたです、草がぼうぼうですが、映画「たそがれ清兵衛」の決闘シーンのロケ地でもあります。丸山邸敷地内に入るには、入口がわかりにくいのですが、桝形手前の砂利道を奥へ進むと赤松小三郎記念館やパン屋さん、お蕎麦屋さんなどかあります。

諏訪部

諏訪部は古代には須波郷に含まれていた古い由緒をもつ地名です。千曲川を隔てて諏訪形(地名)のあることから古代において諏訪氏に関係があったと考えられ、鎌倉時代に勢力を伸ばした諏訪氏の本拠地があったと考えられています。

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善光寺道標

「右せん加うし道」と刻まれ、善光寺への道を示しています。1692年(元禄元)建立。

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生塚延命地蔵尊

天正11年、真田昌幸が上田城築城後、山裾にあった「堂屋敷」付近の住民は現在地へ移住を命じられ、併せて地蔵堂を移転しました。元は北国街道の辻、生塚の屈折点(現在の国道18号生塚信号近く)にありました。更に大正13年に現在地へ移転しました。

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正福寺の千人塚

1742年(寛保2)、激しい雨が続き千曲川は平常時より10mも増水し、大洪水となりました。(戌の満水)沿岸の海野・大屋から下塩尻にかけて特に大きな被害を受け、上田藩主は城下、諏訪部の河原に流れ着いた死骸を集めて正福寺に埋葬・供養し「千人塚」としました。

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秋和杉並木の古株

真田昌幸(一部資料では仙石氏の時代)が上田城築城の際、城の西側に当たる秋和集落に267本の杉を植えたと伝えられています。このうち1本残っていた杉は史跡名勝天然記念物に指定されていましたが、昭和34年の台風で倒れてしまい、現在は古株が残っているだけです。

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秋和の里(滝澤秋暁生家)

滝澤家は江戸時代から関東甲信・奥州まで蚕種の仕入れや販売を行っていた家で、秋暁(しゅうぎょう)は家業の蚕種製造業に従事しながら文学活動を行い、上田地方の近代文学の発祥となった場所です。1902年(明治35)に伊良子清白が秋暁のもとを訪れ、「秋和の里」を詠んだ詩や1947年(昭和22)に佐藤春夫が訪れた時の「秋一日のうた」の詩が残されています。
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ねずみ道標

秋和村

秋和村は真田氏が上田城築城の際、防衛のため城下町を囲むようにして造られた村の一つです。藩命により太郎山沿いにあった道をここへ移すと同時に山麓の六工、内屋敷、寺川と千曲川への宿在家にあった民家66戸を道の左右へ配置し整備しました。移住にあたっては屋敷年貢御免の恩恵を受けました。このような村は城下の東の入口に踏入・常田の2ケ村を西の入口には秋和・生塚・西脇・鎌原の4ケ村を更に東北には房山村、西南に諏訪部村があります。これらの村を「城下囲め村」と呼ばれています。
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常夜灯・猿田彦大神の碑

猿田彦大神は、日本神話の中では国造りの道案内を務めたことから道の守り神となります。1800年(寛政12)、立石は横町大神宮(伊勢宮)より、台座は裏山より搬出し、村人千人により運搬されました。村人や北国街道の旅人の安全を祈願し建立されたと伝えられています。

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北國往還道道標と一里塚

古図には秋宮村宮原の上塩尻境に一里塚があったと記されており、道標のある場所が一里塚と考えられています。道標には「此道往還人」「右北国街道 左さくば道」と刻まれています。「さくば道」とは農道を指しているそうで、「作場」と書くのでしょうか。裏側には「文久元歳 上塩尻」の銘があります。

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蚕種保存の洞穴

蚕種(さんしゅ)とは、蚕の卵のことを指します。蚕蛾に産卵させた紙を蚕紙(蚕種紙)といい、これを製造する業者が蚕紙をここに保存していたのだと思われます。養蚕農家は蚕紙を購入し羽化させて繭を生産していました。蚕の孵化は基本的には春なのですが、増産のため時期をずらし、夏や秋にも孵化させるよう、蚕紙を涼しいところに保存する必要があります。風穴などがよく利用されていたようですが、漬物貯蔵場所なども利用されていました。こうしたものの一つだと思われます。

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高遠虎之助碑

昭和34年より上田市議だった方のようです。昭和37年に暴走した自動車に跳ねられて亡くなったようです。ちょうど昭和35年頃より急速に自家用車が普及した時代、同時に交通事故も増えたと思います。碑文は長野県知事西澤権一郎氏の筆によります。

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新幹線トンネルからの湧水

北陸新幹線「五里ケ峯トンネル」の東出口にあり、トンネルより湧出する大量の湧水が流れてきています。五里ケ峯トンネルは、上田市 、坂城町、戸倉町、更埴市にわたる全長15.2km、国内の陸上鉄道トンネルとしては日本で第4位の長距離トンネルとされます。ホースで汲めるようになっていますが、飲用は出来ないと思います。

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座摩(ざますり)神社参道入口

伝承としては元正天皇(氷高皇女)の717年(養老元)に郷里で養蚕の守護を祀って保食神をこの山頂に祀り、同年絹の調(みつぎ)をたてまつったと伝えられます。菟峰頂上の祠の台座には「養老二年丁巳三月下ア交代営道」とあり、712年以前の古くからこの地に鎮座していた神社だと思われます。(※アを代用しましたが、部の崩し体)
塩尻のパンフレットには、「ざまじんじゃ」とルビがふってありますが、境内の案内板では「ざますりじんじゃ」となっています。

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芭蕉句碑・道祖神・歌碑

座摩神社の急な石段を登り、鳥居をくぐった右手に並んでいます。

『雪ちるや 穂屋の薄の刈残し』芭蕉句碑は、上塩尻の俳人・佐藤眠郎らにより1777年(安永6)座摩坂に建立されました。句は句碑の裏側に彫られています。隣の道祖神は、1861年(文久元)に建立されたものです。

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座摩浄水池跡

詳しいことは判りませんが、虚空蔵山からの湧水を水道水として浄化していた施設だと思われます。上塩尻、下塩尻などの周辺へ供給されていたのでしょう。現在は使われていないようで、コンクリートの遺構だけが山の中にひっそりと残っています。
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でいらん坊伝説

昔、信州浅間山のあたりにでいらんぼっち(でいらん坊)という途方も無い大男がいました。この頃はまだ千曲川のほとり、小県の塩田平や佐久の小海あたりは水の底だったので、鮭の大群が遡上してきました。やがてこれらの獲物を求め人間が住み着くようになり、その数はどんどん増え、人間は食べ物をめぐって争いを起こすようになります。やかましい争いにはでいらん坊も参ってしまい、人間のために新しい土地を作ることにしました。でいらん坊は岩鼻と半過の間の崖を切り崩し、湖沼を埋めていきます。こうして佐久平と塩田平ができ、人々は豊かな土地に作物を植えて生活するようになりました。

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座摩神社への道

座摩浄水池跡へ吸い込まれるように入っていくと、どこが座摩神社へ至る道なのかわからなくなっていまいました。急勾配の危険な階段を登ると行き止まりだったり、ウロウロしながらもう諦めるしかないと浄水池跡から元きた道を戻ると、なんと上へ向かう道が続いているではないですか!フラフラ〜と浄水池跡へ入り込んだのがいけませんね。浄水場に入らず、そのまま上へ向かうのが正解です。

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座摩神社

山道が険しく、参拝に苦しむため1662年(寛文2)に現在地へ移されたと言われます。現在の社殿は1812年(文化9)の建築で、1896年(明治29)、屋根の葺き替えや拝殿の改修、石垣の築造などが行われています。養蚕の全盛期には盛況を極め、昭和6年頃までは奉納相撲や山車まで出ました。

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相撲年寄信濃石品吉之碑

1888年(明治21)上塩尻の有志によって建立されたものです。座摩神社では昭和6年まで奉納相撲が行われてきました。上塩尻は近郷でも有数の奉納相撲興業地となり、村民のみならず近郷からも力士が集結していたといいます。こうした相撲の興業を取り仕切るのが「相撲年寄」でした。
その後ろの漢文で彫られた碑は「内閣書記官正五従勲四等巌谷修」と彫られ、巌谷修(一六)が揮毫した漢文の碑のようです。碑文はよく判りませんが、「明治7年」、「佐藤八郎右衛門」の名が見られ、養蚕に関する何かと思われます。佐藤八郎右衛門は明治6年、この上塩尻村に蚕種の製造を主とした「均業社」を設立しています。巌谷一六は、本名を「修」、1834年(天保5)近江生まれの書家、官僚、漢詩人、特に書家として名高く、一六はその号です。

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座摩神社を過ぎると蚕種製造で知られた上塩尻の集落です。北の高田塩と南の倉賀野塩の終着地であったことから「塩尻」と言われたとされます。このあたりは時が止まったかのように漆喰の土塀や瓦屋根が並び往時の雰囲気を残しています。

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東福寺

東福寺は742年(天平14)行基により開かれたとされます。1873年(明治6)に塩尻学校が開かれ、上塩尻学校が開かれるまでの9年間続きました。1720年代(享保年間)に建てられた本堂が1978年(昭和53)に焼失、1982年(昭和57)に再建されました。背後の山中に虚空蔵堂が建てられています。

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東福寺の北西に上塩尻神社があり、境内に万葉防人歌碑があるのですが、座摩神社で1時間ほど迷ってしまったため、ここは断念して上まで登っていきませんでした。

『唐衣裾にとりつき泣く子らを置きてぞきぬや母なしにして』 防人として九州へ行かなければならない父に取りすがって泣いている子供を置いてきてしまった。母もないのに・・哀しい歌です。歌が詠まれたのは755年(天平勝宝7)、万葉集20巻、歌碑の建立は江戸時代の終わり頃とされています。

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小岩井紬工房

紬は蚕種を取った後の出殻繭(でがらまゆ)や割れてしまった繭から真綿を紡ぎ織ったもので、上田は結城紬、大島紬と共に牛首、塩沢を含め日本三大紬の産地であした。
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鍾馗様

中国伝来の鍾馗様は、魔除け、火事除けとして屋根に付けられている家が残っています。昔、京三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ、向かいの住人が突如病に倒れたため、鬼より強いとされる鍾馗様を作り、屋根にのせ魔除けにしたところ、病が治ったとされています。鍾馗様をモデルに五月人形なども作られています。

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道祖神

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沓掛酒造

沓掛酒造は元禄年間(1688年頃)に創業した歴史ある酒造会社です。創業者の沓掛権右衛門は創業当時、酒造業と養蚕業の兼業でした。昭和25年、沓掛酒造株式会社が設立されました。

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福無量の碑

観音様の一説「福寿海無量の生活を歓び、公私一如の理想を生く」から引用され、福が限りなきようにという願いが込められている、ということです。沓掛酒造で製造されているお酒の銘柄となっています。国道18号線側には、沓掛権右衛門長男「沓掛正一」の顕徳碑もありました。

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岩鼻

岩鼻と千曲川を挟んで半過岩鼻は陸続きであったとされます。それを千曲川が侵食したことにより現在の形になったとされます。街道は岩鼻の崖の中間を迂回するように細い道がありました。「六寸街道」と言われており、切通の道は現在ほぼ廃道ということです。不動産屋さん裏のコンクリート擁壁を乗り越えて行くようですが、不動産屋さんは私有地でしょうし、普通に乗り越えられる擁壁の高さには見えませんでした。

岩鼻は松代藩と上田藩の領界で、口留番所が置かれ人や穀物、酒。漆等に対する取り締まりは関所並の厳しさだったといいます。また、岩鼻は坂木の横吹坂と並ぶ街道一の難所で、加賀の前田候は参勤交代の際、岩鼻を通過すると無事に通行したことを飛脚によって国元に伝えたとされます。現在は1876年(明治9)の国道工事によって岩が削られ面影はありません。

TOO001 岩鼻のあたりは蛍の名所としても知られており、北国街道分間絵図にも「毎年蛍合戦アリ」と記されています。近年蛍を復活させようと「下塩尻桜づつみホタル水路」において地域のみなさんで環境づくりに取り組んでいられます。絵図は、高田から江戸へ向かって描かれていましたので、方向がわかりにくいため、逆向きにしました。右手が江戸側、左手が善光寺側としました。

岩鼻の崖下には向井去来の句碑があるらしいのですが、見つけられませんでした。ある本によると夏場は雑草と樹木に覆われ、ほぼ見つからないだろうと書かれており、桜が咲く前頃だと雑草がなく、見つけやすいと書かれていました。

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西澤仁兵衛の筆塚

仁兵衛は、和漢の学に深く、書にも優れ、多くの門弟に読み書きを教えました。また、学問を通じて佐久間象山とも交遊があり、象山もよく仁兵衛宅を訪れたと伝わっています。1882年(明治15)に亡くなりましたが、明治20年に筆塚が建立されました。幕末・明治に活躍した山岡鉄太郎(鉄舟)の書によるものです。

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一里塚橋

この付近に鼠宿の一里塚があったとされますが、現在は何もありません。小さな橋の名だけが一里塚を偲ぶ唯一のものです。

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鼠宿案内板

上田宿と坂木宿の間宿であり、松代藩の私宿でもありました。1622年(元和8)真田信之が松代へ移ると、鼠宿・新地両村の共同経営とする「鼠宿」の造設に着手、松代藩の参勤交代、領内見分、藩士の日常出張の宿泊や休憩、藩の荷物の継立てに当たらせ、口留番所を設けて人や物の出入りを取り締まりました。宿場の南北には桝形があり、鼠宿・新地村境でカギ型に屈曲し、道路の中央には用水、川の東側に沿って柳やザクロ、カイドウ等の並木があり、井戸が点在していました。

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会地早雄神社(おおちはやお)

創建は不詳ですが、鼠宿村、新地村の産上神でした。当初は金井村との境、千曲川の傍に鎮座していましたが、1742年(寛保2)の洪水により流出し、岩が露出した部分に小さな祠があった現在地へ移転しました。1793年(寛政5)現在の名称に改称されました。

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万葉防人歌碑・芭蕉句碑

万葉防人歌碑は、755年(天平勝宝7)埴科郡から九州へ向かう若い防人が信濃国境の御坂峠にて両親への思いを詠んだ歌だそうです。『ちはやぶる神の御坂に幣奉(ぬさまつ)り 斎(いは)ふ命は母父がため』 万葉歌碑は鼠宿村に生まれた滝沢公庵により天保年間(1830〜1844)に建立。滝沢公庵は、江戸時代後期の医師で、本草学や国学・和歌など坂城国学の先駆者として活躍したそうです。
芭蕉句碑は、『膝行(いざり)ふ便や姨捨乃月 翁』 『散花耳垣根をう可つ鼠宿 嵐雪』と彫られ、1891年(明治24)建立。服部嵐雪は、江戸時代前期の俳人で、松尾芭蕉の弟子の中でも優れた人物でした。

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鼠宿本陣

鼠宿本陣は、正式には御茶屋と呼ばれ、室賀家が務めていました。脇本陣・問屋・馬宿のほか一般旅人用の茶屋もあり賑わっていました。明治11年の明治天皇北陸巡幸の際には御休所となりました。邸内には御前水の井戸も残っているそうです。

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埴科郡南條村道路元標・道祖神

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山極茂吉筆塚

字を高明、号をッ高斎又碧山というそうです。1761年(宝暦11)、金井村の山金井に生まれています、碑文は、佐久間象山によるもので、『象山全集』にも掲載されています。山極茂吉は、非常に寛容な人で、近郷の争い事を治めていたといいます。和漢の学や書に優れ、弟子は600人余もあり、なかには上州や越後から来る者もいたといいます。73歳で没し、弟子たちが遺品を納めて筆塚を建立しました。

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筆塚・地蔵堂

奥の筆塚には「三井□筆塚」、(□は不明)と彫られていますが、詳細はわかりません。手前の碑は「開墾碑」と彫られているように見えます。大正13年建立。
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釣瓶井戸と小路

この付近の小さな脇道にはいろいろな名前がついています。

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頌徳碑

竹内留吉頌徳碑と水昇・・あとは読めないです。また、残念ながらどんな人なのかもわかりません。

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玄古たばこ碑

江戸時代初期に薩摩(丹波という説も)より種を取り寄せ、横尾周辺で地たばこ栽培を広めた往海玄古の碑。明治になるまで「玄古たばこ」として横尾の名産品でした。玄古和尚は武蔵国児玉郡今井町(現埼玉県本庄市)の出身で、元和年間(1615〜1624年)、諸国を遍歴した後に埴科郡に到来し、南条に庵をくみ煙草の種を移植したとされています。上に載せている「北国街道分間絵図」にも「タバコ名物」と書かれています。

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小滝家の門

現在公園となっている土地は、小滝家が昭和44年に坂木町へ寄付したもので、昭和46年、南条保育園として開園されますが門は残してありました。しかし、平成17年には門も取り壊され、公園となったようです。現在設置してある案内板は、門の柱及び垂木材を利用して造られています。
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さかき地場産直売所 あいさい

道の駅のような感じで、土地の野菜や特産品が販売されています。綺麗なトイレも併設されていまして、トイレは誰でも使用可能でありがたいです。こちらの食堂で「おしぼりうどん」が食べられます。おしぼりそばもあり、他にはきのこ蕎麦などもありました。

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おしぼりうどん

ねずみ大根の絞り汁に味噌を溶き、つけ汁として食すものです。ねずみ大根は本当に辛いです。ものすごく辛いです。ただ、唐辛子の辛さと違い、食べると辛いのですが、その後は唇や舌には辛さが残りません。食後に唇がいかりや長介なんてことにはならないのです。醤油が普及してきたのは江戸時代後期からと聞きます。それまでは味噌で食べるのが普通で、現在は毒消しにはワサビが一般的ですがその昔は大根が江戸でも一般的だったといいます。うどんは手打ちでもちもちですが、大根が辛すぎて決して美味しいとは思いませんが、歴史ある食べ方、またその土地の名物として一度は食べてみたいですね。これを食べた後に出会う芭蕉句碑の句が一味違いますよ。

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ねずみ大根

江戸時代、長崎より薬用として伝来したと言われ、古くから坂城町の一部地域で栽培されてきた辛味の強い大根です。形状は下ぶくれで短く、ネズミのようなしっぽがついていることから「ねずみ大根(中之条大根)」と名付けられたそうです。小石混じりの畑が栽培に適し、他の土地では本来の味や形にならないと言われています。漬物のほかにおろし大根や蕎麦の薬味、おしぼりうどん用の大根として利用されています。

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格致学校跡の碑

中之条村が明治初期に建てた学校は、松本の開智学校、佐久の中込学校についで長野県内で3番めに古い学校でした。格致学校の建物は1877年(明治10)に建てられましたが、1983年(昭和58)に町立図書館横の現在地へ移築され、町の歴史民族資料館となっています。建物は正面入口のアーチ、ガラス入り開き戸などに洋風形式を取り入れ、屋根や漆喰塗の外壁は日本伝統の様式を取り入れているそうです。
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西念寺

本堂向拝の裏側には、名産品のねずみ大根(中之条大根)が彫刻されています。芭蕉がこの地を訪れた80年後に彫られたものといいますので、1768年(明和5)頃に彫られたものです。

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芭蕉句碑

『身にしみて 大根辛し 秋の空』、1688年(貞享5)、8月15日、松尾芭蕉は姥捨の名月を鑑賞した後、16日と17日と坂本宿、本陣宮原拾玉邸に招かれました。その時に特産の「なかんじょ大根(中之条大根)」をおしぼりうどんで食し、この句が詠まれたと言われます。その後、善光寺へ参拝し江戸へ戻りました。更科紀行の中の一句ですが、句碑は以外に新しく、平成20年に建立されたものです。

先程、おしぼりうどんを食べたばかりでこの句を見ると感慨深いです。芭蕉も辛かったんでしょうね〜

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陣屋郷宿(文化の館)

「郷宿」とは、村々より陣屋へやってきた村役人を滞在させ訴訟文書の相談に応じた場所です。現在は「文化の館」として地域の文化活動の拠点、及び作品公開の場とし利用されているとのことです。
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中之条村道路元標・中之條陣屋跡道標

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中之条陣屋敷跡

江戸幕府の直轄地(天領)、佐久、小県、埴科、築摩、水内、高井の六群の支配所でした。1754年(宝暦4)坂木陣屋が中野へ移動し出張陣屋となり、1771年(明和8)中之条に仮陣屋が置かれ、1779年(安永8)には本陣屋となります。その後、拡張・増築がなされ1840年(天保11)には御門、御本陣、御白洲、役宅、仮牢など総面積170坪の構えとなりました。1868年(慶応4)新政府となり廃されるまでの97年間続きました。
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中島仲重先生生誕之地碑

大正10年1月6日、南条尋常高等小学校は不幸にも火災に遭い、校舎の大半を焼失しました。当時の校長中島仲重先生は、御真影(天皇・皇后のお写真)を案じてその猛火の中に飛びこみましたが力尽き、37歳の若さで亡くなりました。御真影のために火の中に飛び込むとは・・そういう時代だったのでしょうね。

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善光寺常夜灯と筆塚

善光寺常夜灯手前の小さい筆塚は、『淵室庵隆禅の筆塚』、1786年(天明5)建立、常夜灯の後ろ、茶色の自然石が『中島源蔵の筆塚』、1850年(嘉永2)、奥の切石が『中島銀右衛門の筆塚』、1882年(明治14)建立です。善光寺常夜灯は1860年(万延元)の建立です。

中島銀右衛門(1806〜1883年、文化3〜明治16年)は、中之条陣屋によって教学教師に命じられ、代官以下の役人の子や村人の子に漢籍や詩歌を教えました。 門人の中で著名な者は、明治維新後子爵となった陸軍軍医の石黒忠悳(ただのり)がいます。 忠悳は当時、陣屋手代の秋山省三(母親の弟)の家に母と共に陣屋で暮らしていました。 忠悳の長男が忠篤(ただあつ)で、戦前・戦後を通じてわが国の農業政策を展開し、農業の神様とよばれた人物です。筆塚は銀右衛門が存命の明治14年に作られたものです。

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甘泉(かんせん)

古来よりこの地には名沢川に由来する伏流水が清水となって湧出し、人々の生活用水であり、飲用水でした。江戸時代の文化・文政(1814年〜1819年)の頃、四ツ谷組頭 塚田勘九郎が時の代官男谷燕斎に清水の命名を請願したところ「甘泉」と命名し、詩文を自ら筆をふるい、与えられました。このときに碑が建立されました。昭和20年代までは清水が湧出し、甘い水として名所でしたが道路改良に伴って涸れてしまいました。現在は交差点の角に石碑がありますが、以前はもう少し北の民家前にありました。2018年(平成30)、坂城町地域づくり活動支援事業の一環として現在地へ移設されました。
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玉屋

石碑より少し北の左手に古い民家「玉屋」さんがあります。染物屋さんだったといいますが、現在は営業していませんが、崖下には、現在も清水が湧き、鯉も泳いでいます。この豊富な湧水を使って染め物を行っていたということです。

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堂叡山道(どうえいざん)

正式には「大道山」と言うようです。この地域の御岳講の信者が大道山を霊場として開山したのが始まりとされ、信仰の山として近郊郷に広く知られていました。明治になり堂叡山の信仰はますます盛んになり、1892年(明治25)にこの道標が建てられました。山頂には、1860年(文久2)地元の人が山頂まで運んだ「三笠山」、「堂叡山」(御嶽山)、「八海山」などの石碑があるそうです。
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石仏群

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沓掛仲子・水野源三詩碑

『千曲川 ちゞにくだ くる 波のうへに うつらふ月の 影の すゞしさ』沓掛仲子(なか)

沓掛なか子は、1749(延享6)更科郡今里村(長野市川中島)の内村家に生まれ、国文の教養が深かった祖母の影響を受けて育ち、16歳で小県郡塩尻村の沓掛家に嫁ぎます。坂木横町に移り、酒屋(山根屋)や質屋をしていたといいます。女性でありながら、坂城町で和歌や国学を先駆けて研究した人物として知られています。1829(文政12)に亡くなっています。

『今日一日も新聞のにおいに朝を感じ 冷たい水のうまさに夏を感じ 風鈴の音の涼しさに夕ぐれを感じ かえるの声はっきりして夜を感じ 今日一日も終りぬ 一つの事一つの事に 神さまの恵みと愛を感じて』

水野源三は1937年坂城に生まれ、9歳の時赤痢の高熱によって脳性麻痺を起こし、目と耳の機能以外のすべてを失ってしまいます。話すことも書くことも出来なくなりましたが、母が何とか彼と意思の疎通をしようと五十音順を指で指し示したところ、目の動きで応答した。18歳の頃より詩を作成し、多くの作品を残し「瞬きの詩人」と呼ばれましたが、47歳で死去されています。

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田町十王堂・村上義清供養塔

村上義清の墓所は第三代坂木代官長谷川安左衛門利次が戦国時代の誉れ高き武将が忘れ去られるのを懸念し、1657年(明暦3)義清の子孫に諮り、自ら施主となり出浦氏所有の墓地に墓碑を寄進したものです。

村上義清

村上顕国の子として葛尾城に生まれた義清は、家督を継ぎ葛尾城を父より譲り受け、2度も武田信玄を退けた武将です。3度めにして窮地に陥り上杉謙信をたより越後に落ち延びます。このことが武田信玄と上杉謙信との5度にも渡る「川中島の戦い」の一つのきっかけでした。
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心光寺と縁阿弥上人筆塚

心光寺住職であり、狂歌師であった縁阿弥上人(澄)(1778〜1833年)の筆塚です。蜀山人(太田南畝)が序文を書いた「信上諸家人名録」の中央左側に、「狂歌、澄、号 扇池亭、坂木、心光寺」として紹介されています。上人は、仏道に精進し上人を慕って教えを請いに来た弟子は百余名、1818年(文政元)頃、住職を退き心光寺境内の観月舎(月見堂)で狂歌作成に没頭しました。

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鉄の展示館・宮入行平先生顕彰碑

鉄文化の最高峰といえる日本刀の素晴らしさとその技を切り開いた刀匠、人間国宝宮入行平、伝統を受け継ぐ宮入一門の作品の展示や平安時代以来、千年の歴史をもつ名刀の魅力を伝承する展示館です。

宮入行平

現代作刀界の第一人者、「人間国宝」の宮入行平は大正2年に坂城に生まれ、24歳で栗原彦三郎の日本刀鍛錬伝習所に入門、戦前戦後を通じで作刀展における受賞は数多く、昭和38年に人間国宝に指定されました。伊勢神宮をはじめ、由緒ある神社の御神宝太刀を作り、昭和52年に亡くなりました。

源清麿

源清麿は1813年(文化10)小諸藩赤岩村(現東御市滋野)の郷士、山浦昌友の次男に生まれ、1830年(文政13)兄、真雄と共に初めて刀を作製しました。18歳で大石村の名主、長岡家の婿となり、一男を設けますが1831年(天保2)19歳で江戸へ上り、松代藩江戸屋敷の剣術指南であり、後に幕府の講武所頭取となる窪田清音の元で修行します。剣術の腕前も高く、道場では代稽古を務めていたといいます。29歳の時には長州萩藩の招きにより萩にて2年鍛刀、32歳で信州へ戻り、翌年四ツ谷北伊賀町に鍛冶場を構え刀には「源清麿」と刻みます。以降、頭として名刀を鍛刀し鎌倉時代の名匠正宗にあやかり、四ツ谷正宗と称しましたが、1855年(嘉永7)病に倒れ自刃。酒好きがたたり、作刀ができなくなったための自害ともいわれています。

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坂木陣屋跡

1618年(元和4)金井村から杭瀬下までの千曲川東側4ケ村が幕府直轄領、坂木五千石と称され、坂木村に陣屋がおかれ、代官による政治が行われていましたが、焼失を機に中之条へ移りました。
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高浜虚子句碑・若山牧水歌碑

『春雪や 傘を借りたる 野路の家 虚子』 近代俳句の巨匠、高濱虚子は明治7年愛媛県松山市に生まれ、明治27年同郷の先輩、正岡子規を頼って上京しました。明治43年から没年までは神奈川県鎌倉に住んでいましたが、昭和19年、激しさを増した戦火を避けて、北国街道沿いの小諸に疎開しています。

『春あさき山のふもとに畑をうつうら若き友となにをかたりし 牧水』 若山牧水は信州に友人が多かったこと、奥様が塩尻出身だったことから毎年のように信州を訪れていたといいます。句を見ると景色やその空気感も好んでいたのでしょうが、大の酒好きの牧水にとって美味しいお酒があったことも信州を訪れていた理由の一つでしょう。

15:40 本日の街道歩きはここまでとします。坂城駅よりしなの鉄道にて上田駅へ戻り、車をピックアップします。

ここからは、上田駅より車で回った場所を紹介します。

【番外編】

十六夜(いざよい)観月堂

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駐車場がないのですが、道路はカーブですし、びんぐし湯さんかんへ至る道ですので結構な交通量もありますし、道路へ停めることはできません。仕方なく、少し平で車一台分空いている草地へ駐車しました。

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平安時代の1094年(寛治8)に都より信濃国更級郡村上郷へ流され、村上氏の祖となったという源盛清が流人として流された我が身を憂い、月を眺めて心を慰めていたと里人が伝えています。1384〜1392年に村上満清がこの観月殿を建てましたが、1553年(天文22)武田氏攻略の際、兵火にあい焼失してしまいました。1624〜1645年の寛永年間に郷人により再建され、現在の堂は1856年(安政3)に再々建されたものです。
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十六夜(いざよい)観月堂

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この地は古来、「更級八景」の一つに数えられ、その展望と十六夜観月の景勝地として知られていました。1688年(元禄元)松尾芭蕉は、中山道洗馬より北国西街道を北上し、猿ケ馬場峠を越えて姥捨、更級の里へ立ち寄りました。この観月堂へ寄ったのか・・寄っていないのか・・それは今となってははっきりとはわかりませんが、姥捨の長楽寺あたりで一六夜の月を鑑賞したのは確かです。芭蕉はその後善光寺へ向かい、北国街道を南下し江戸へ戻りました。「更科紀行」の中には数々の名作が残されています。

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十六夜観月堂は、狐落城、三水城へ至る登山口でもあります。

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芭蕉句碑

「いざよいも また更科の 郡かな」正面には「桃青霊神」と彫られ裏面に句が彫られています。「桃青」は芭蕉の若い頃の俳号です。
本日は、「びんぐし湯さん館」で温泉へ入浴、食事、「上田 道と川の駅 おとぎの里」で車中泊します。