2021年9月19日

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米山駅

7:30 米山駅を出発します。

海とは反対側に100m、国道へ出て右折、国道を200m進み左手旧道へ入っていくと「鉢崎宿」になります。
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妙興寺参道

宿場へ入って300m、右手に参道があります。細い坂道を上ると国道を越えるトンネルがあり、トンネルを抜けると妙興寺へでます。

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妙興寺

1368年(応安元)、日玄聖人により創建、1588年(天正16)六世日長上人の代に大平から鉢崎に移りました。1920年(大正9)の鉢崎大火で焼失しましたが、東頸城にあった豪農の邸宅を移転し再建しました。

再び妙興寺参道を下り、北国街道を進みます。参道から30mほど左手に旧郵便局だった中山家が残っています。

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旧郵便局・明治天皇小休所

旧鉢崎郵便局で、1878年(明治11)明治天皇北陸巡幸の際、ここ中山家で小休されました。郵便局の名残なのか、小さなポストが設置してあります。
さらに鉢崎宿を100mほど進んだ右手に「たわら屋跡」の案内板があります。

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たわら屋跡

松尾芭蕉が「奥の細道」へ旅立ったのは1689年(元禄2)、芭蕉は出雲崎を出て8里(32kmほど)先の柏崎の天屋に泊まる予定で紹介状まで用意してきましたが断られ、怒り心頭でさらに4里を歩き通して米山を一気に越え、鉢崎まで来てたわら屋へ宿泊しました。

「奥の細道」では越後の記述が極端に少ないとされますが、不快なことが多く書けなかったそうです。
たわら屋は代々庄屋で、古くからの旧家でした。また、大正の頃までは椎谷の馬市があり、その前後は鉢崎宿も往来が激しく、たわら屋は馬宿もしていたといいます。

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蓮光院参道

たわら屋を過ぎてすぐ右手に「蓮光院」の参道がありますが、蓮光院は後ほど寄ることにします。
すぐ左手の路地の奥が「金蔵跡」です。今は空き地になっています。

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金蔵跡

佐渡からの御金荷は出雲崎で荷揚げされ、最初に宿泊するのが米山(鉢崎宿)でした。 矢来に囲まれた土蔵に厳重に保管されていました。御金荷が到着すると村中が夜番、見回りの強化、自身番が設けられ、消防組も組織されるなど大騒ぎだったといいます。現在は何も残ってはいません。 「金蔵跡」の路地から2軒目が松田伝十郎生家の浅貝家です。

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松田伝十郎生家

樺太が島であることを発見した松田伝十郎は、この浅貝家から江戸に上がり武士として育てられました。幼名は幸太郎でした。

松田伝十郎

松田伝十郎は漁業との兼業農家であった浅貝長右衛門の長男として生まれましたが、4歳で父を失い母に育てられていました。1781年(天明元)、この年は長雨が続き米山峠にがけ崩れが発生し、幕府自ら普請にあたり、幕臣大西栄八郎が来て「たわら屋」に宿泊し工事の指揮をとっていました。 幸太郎はたわらら屋で給仕などの手伝いをしており、大西は幸太郎の人柄や知恵のあるのを見込んで工事終了後に江戸へ連れていき、武士としての教育を行いました。 その後、大西の同僚の松田伝十郎の養子となり、伝十郎の名を引き継ぎました。

浅貝家の向かいが「鉢崎神社」の参道になっています。参道を進み階段を上ると社殿があります。

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鉢崎神社

慶長の頃、船頭が海上で防風にあい、能州(能登)に漂流していたところ、同国石動社より御神符(御札)を奉参し、今ノ字細入江(現在の鉢崎)に安置し村の鎮守となったと伝えられています。

「鉢崎」という地名は現在なくなり、「米山」になりました。鉢崎神社と鉢崎郵便局だけが名残をとどめています。

鉢崎(はっさき)宿

鉢崎宿は『米山三里』と言われた難所の入口にあたる宿場町です。松尾芭蕉、測量を行っていた伊能忠敬なども歩いています。佐渡からの御金荷が留め置かれた「御金蔵」があった宿場でもあります。

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何かの石碑

鉢崎神社から北国街道へ戻り50m、右手に石碑があります。文字が摩耗して何が書いてあるのか全くわかりません。奥に細い道が続いています。
さらに30m左手に鉢崎関所跡の石碑があります。

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鉢崎関所跡

1597年(慶長2)、上杉氏により設けられ、戦国期は旗持城を擁し、軍事、治安上の要衝として重要な役割を果たしていました。江戸時代に入ると高田藩に引き継がれ、街道の往来、出女入鉄砲を厳しくとりしまりました。

「米山三里」の入口でもあります。米山三里はここから三里(12kmほど)の街道を指し、上り下りが激しく、払川の氾濫で道の変更もあり、交通の難所でした。

鉢崎関所事件

米山三里を測量していた伊能忠敬は疲れていたためか、かぶりものも取らず、手形も見せずに関所を通ろうとしたため、番所役人は測量機器を調べはじめました。大事な機器を触られて怒った忠敬は幕府御用の旗が見えないのか、と怒り役人へ詰め寄りました。役人にしてみれば、藩から何の連絡もなく通常通りの役目をしようとしただけですが、結局は役人が折れて一件落着となり、忠敬一行は無事に鉢崎宿へ投宿することができました。

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鉢崎あたりの伊能図

伊能忠敬の測量は主に海岸線を捉えるものでしたので、この「米山三里」の測量はかなり大変だったと思います。

鉢崎関所跡を過ぎ、聖ヶ鼻へ向けてジグザグの坂を登っていくと聖ヶ鼻の広場へでます。

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題目碑

聖ヶ鼻の広場、西の端、斜面の上に題目碑がありました。

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松田伝十郎の碑

昭和47年、米山町内会により東200mの地に建立されましたが、道路事情により平成16年に移設、さらに平成19年の中越沖地震により土砂に埋まりましたが、土砂の中から引き上げられ、平成21年に現在地へ移設されました。

松田伝十郎

1808年(文化5)、間宮林蔵とともに蝦夷地を探検した松田伝十郎は初めて樺太が島であることを発見し、また樺太見聞の実測図を作成しました。後に蝦夷地勤務の経験から得た樺太の風俗・自然、北方防備の策などを記録した「北夷談」を著わしています。

TOO001 聖ヶ鼻から先の北国街道は斜面にそってあったのですが、中越沖地震により崩落し廃道となっています。残念ですが迂回して進みます。

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聖ヶ鼻地層露頭

500万年前頃の半深海性の海で堆積した砂岩と泥岩が交互に何層も重なる地層(砂岩泥岩地層)が分布しており、隆起により姿を見せるようになりました。
旧北国街道廃道のため聖ヶ鼻から登ってきた道を少し戻り、そのまま国道方向へ向かいます。国道の手前右側に蓮光院があります。

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蓮光院と鉢崎(はっさき)地蔵尊

蓮光院は泰澄(たいちょう)が創建したと言われ、もとは聖ヶ鼻にありましたが1781年(天明元)の洪水により崩壊、現在地に移されたとされます。1920年(大正9)鉢崎大火により焼失、昭和7年に再建されています。

鉢崎地蔵尊

江戸時代中期、このあたりの北国街道は冬の高波には命がけで往来する難所のため2km西の海岸には大小数十体の石像地蔵尊が祀られていました。明治29年、信越線敷設の際、岩に刻まれたご本尊の移設は出来ず、やむなくダイナマイトで爆破してしまいました。その直後から工事中に事故が多発、工事は中断に追い込まれまた。工事業者は散在した仏体を拾い集め新たに堂を建てて安置したとろ、工事は順調に進んだといいます。1993年(平成5)に蓮光寺内に移転しました。

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松田伝十郎父母の墓?

樺太探検の15年後に実母が亡くなり、蓮光院の本堂裏に松田伝十郎の建てたお墓があるということですが・・どれでしょうか・・?恐らくこの中のどれか・・?「江都松田傅重郎、文政六年」と刻まれているそうですがよくわかりませんでした。
蓮光院をあとに国道へ出て左へ。400mほど進むと米山トンネルになります。

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米山トンネル

幅が狭いですが、歩道があります。途中から一層細くなります。路肩もほぼないような状況なので、足を踏み外して縁石から落ちたらトラックに轢かれちゃいそう・・・車は多く、かなりのスピードで走っています。慎重にスピードアップして駆け抜けます。トンネルは350mくらいあります。排気ガスにはマスク必須です。
米山トンネルを抜けて100m、左の旧道へ入っていきますが、その前に胞姫(まなひめ)神社に寄っていきますので、国道をそのまま真っ直ぐ進んでいきます。

胞姫神社へは以前は崖下から登る階段があったそうですが、今は国道からしか行くことができません。

その先、胞姫橋には細いですが歩道がありますのでなんとか徒歩で渡っていけます。ただ、結構高い場所にありますので、下を見るとぶるっとします。胞姫橋を渡った右手に胞姫(まなひめ)神社があります。

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胞姫(まなひめ)神社

創立年は不詳ですが、口伝によると筑前国宮崎の本社より分霊勧請したと文献にはありますが、宮崎には同名の神社は無いようなので、「本社」とはどこを指すのか・・・不明です。

源義経が奥州落ちの際、北の方が亀割坂で急に産気づき亀若丸を出産、無事に出産したお礼に亀若丸の胞衣(えな)を神社に納めたと言い伝えられています。安産、子授かりの神様として信仰されています。

明治41年に貴船神社を合祀しています。

訪れた際、神主さんによって若いご夫婦のご祈願が執り行われていました。安産祈願でしょうか。

国道を戻り、米山トンネルから100mのところで右へ入り、坂道を下りていきます。

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上輪方面

上輪の海水浴場も見えます。海がどこまでも青く、美しいです。
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聖ヶ鼻と廃道の斜面

さっきいた「聖ヶ鼻」を望みます。確かに斜面が崩れています。ここに旧北国街道がありました。

上輪海水浴場の駐車場で北国街道から離れて海岸線へでて奥へ進んでいきます。一番奥右手に「白糸の滝」があります。

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白糸の滝

滝つぼの脇に不動明王のお堂があると書かれていましたが、見当たりません・・というか雑草がいっぱいで滝つぼに近寄れませんでした。
海岸線を戻り、再び上輪の北国街道を進んでいきます。トイレの横に題目塔、さらに橋を渡った右手に岩に乗る庚申塔がみえました。

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題目塔と庚申塔

庚申塔のところにはこんぴら塔と米山塔があるとパンフレットに書かれていますが、庚申塔しか見当たりません。雑草に埋もれていたようです。

カーブをまがり、JR線路手前に斜めに登る坂が亀割坂の入口だったと思います。ここから海岸段丘の上に至る亀割坂がありましたが、現在はその先が廃道で歩くことができませんので、アスファルトの道を迂回して登っていきます。

亀割坂

1746年(延享3)頃には「弁慶の力餅」で有名な弁慶茶屋ともう1軒の茶屋があったとされ、坂の途中に双体道祖神、二十三夜塔、1787年(天明7)の題目碑、「海中出現釈迦仏安置の碑」などがありました。

迂回路のアスファルトの道を進み、260mほど右手に「上輪石仏群」があります。頭上には「上輪大橋」が架かっています。

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上輪石仏群

題目碑、二十三夜塔、双体道祖神などの石仏が並んでいます。「海中出現釈迦仏安置の碑」は亀割坂にあったものです。

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上輪大橋

さきほど国道で見た胞姫橋から続く上輪大橋です。下から見るとほんとうに高いところに架かっています。
迂回路を上りきり、上輪新田の集落へ入ると三叉路があり、左手に平地があります。平地へ向かって左手の斜面を2mくらい上ると茂みの奥に「亀若丸誕生の石碑」があります。 なかなか見つからず、ちょうど通りかかったお婆さんに教えてもらいました。

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亀若丸誕生の石碑

源義経の奥州(平泉)落ちの際、北の方がここで亀若丸を出産したと言われます。すぐ横は崖ですので、気をつけてください。
この付近は先程下から見た「白糸の滝」の裏側になります。

北国街道へ戻り、さらに100m右手の幅1mくらいの狭い道を20mほど入ると「弁慶の産水井戸」があります。ここは道に見えないので注意しないと通り過ぎてしまいます。

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弁慶の産水井戸・御前水碑

源義経の供をしていた弁慶が産湯を得るために念じて杖をつくとそこから清水が湧いたと伝承しています。弘法の清水伝説と一緒ですね。今でも清水が湧いています。

1878年(明治11)明治天皇北陸巡幸のさい、上輪新田の田中家(現六宜閣)に小休され、産水井戸の水が御膳水として用いられたため「御前水碑」が建っています。

義経伝説

数々の義経伝説が残されていますが、「義経記」では直江津から寺泊まで船を使い、このあたりは沖合を航行しています。しかし義経記も民間の義経伝説を集成したものと考えられていますから本当のところはわかりません。また同じ伝承が石川県金沢市にもあり、こちらは「瓶割坂」と書きます。また山形県では「亀割山」に全く同じ話があります。

上輪新田をさらに250m、左手に大きなお屋敷が見えます。

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六宜閣

1855年(安政2)に建てられました。元は庄屋の田中家で、明治天皇北陸巡幸の際にはこの田中家で小休止されました。現在は割烹料理店のようですが、今日は閉まっていました。

道なりに1kmほど進むと左手にぐんにゃり曲がっていたり途切れていたり、とても変わった地層が見えてきます。

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牛ケ首層内褶曲

500万年前に堆積した地層が海底地すべりにより褶曲し、さらにその上に地層が堆積したものが隆起し地上に姿を見せました。牛が日本海の水を飲む姿に似ていることから名が付きました。私には亀に見えます・・・

TOO001 「牛ケ首層内褶曲」がよく見える場所からすぐ先は道路が崩落していました。バリケードがしてありましたが、ここを通過できないと先へ進む道は他にありません。右手の草地を通り、なんとか通過出来ました。

その先のY字路は左手へ進みます。ここからまた下り坂で海岸段丘を下りていきます。

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笠島港、笠島海水浴場

暫く進むと右手に多聞寺があります。

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多聞寺

1555年(弘治元)、僧慶圓法印により開山。当初は浜辺にありましたが、北越線敷設のため1895年(明治28)現在地へ移転しました。
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多聞寺の石仏

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二十三夜塔道標と海難事故慰霊碑

二十三夜塔は道標になっており、右側面に「右ハ高田 左ハやま道」「天保七年 笠島村」の銘があります。もとは村中にありました。

海難事故慰霊碑

1895年(明治28)、鯛漁にでていた船が遭難事故にあい、9名が亡くなりました。14歳の子供二人も含まれていたといいます。碑は1901年(明治34)に建立されました。

多聞寺の南側に十二神社と松尾神社があります。多聞寺を東側の山門から出て細い道を少し上り、右手が十二神社です。

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十二神社・松尾神社

創建は不明です。現在の社殿は1902年(明治35)の建築、1909年(明治42)に八幡社、石動(いするぎ)神社、諏訪神社、十二神社の四神社が合併されました。 松尾神社は1938年(昭和13)に建立された酒造りの神様です。昔は冬になると笠島から30人ものサカヤモン(酒造りに関わる働き手)が関東方面の酒蔵に出稼ぎにでていました。

十二神社をでて元の北国街道へ戻り変則的な十字路を右手へ進むと墓地があり、小屋の横に大きな石碑があります。

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近藤甚之助碑

サカヤモンの一人で、年少より酒造りに従事し、新潟県商工技師森敬一氏の酒造場の杜氏に抜擢されたとされます。
墓地の西側、斜面の上にブロックが積まれ、一番上にレンガがのっている台の上に小さなお墓が5つ並んでいます。

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加賀藩(金沢藩)戦死者の墓

鯨波戦争で戦死した加賀藩の5人のお墓が並んでいます。墓石には「加列藩兵士」とあり、また享年が彫られていましたが、皆20代前半の若い人でした。加賀藩は新政府軍です。

鯨波戦争

1868年(慶応4)、柏崎の鯨波で新政府軍と旧幕府勢力が交戦し、新政府軍が勝利した戊辰戦争の一つです。仙台藩、盛岡藩、長岡藩などの31藩が奥羽越列藩同盟(陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)・越後国(越州))を結び、新政府軍に対抗しました。

段丘を下り、JRに沿って進むと左手にJRを渡るトンネルがあり、ここを通って笠島海水浴場で休憩します。トイレの前に新しい石碑がありました。

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かさしま小唄の碑

歌詞を見ると、笠島の素晴らしいところが歌われています。

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笠島の弁財天

豊漁と海の安全を祈り、海難者の霊を鎮める信仰の岩となっているそうです。北前船の四爪錨(よつづめいかり)が置かれています。
この先、廃線のレンガ造りトンネルがあり、そこまで行ってみようと思ったのですが、「立入禁止」看板がありトンネルまでは行きませんでした。 このトンネルは信越本線の前身である北越鉄道開通時に造られました。1897年(明治30)から1967年(昭和42)までの70年間は使用されていました。

しばし海を見ながら休憩します。今日はどこまでも青い空と青い海・・癒やされます。再び北国街道へ戻り、笠島駅前を通過、暫く行くと上り坂となり小さな橋を渡ると右手ブロック積みの中に沢山の石仏が納められています。

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坂村の地蔵

国鉄複線化工事の際にいそうら川の土手にあった石仏が集められています。供養塔や観音像、地蔵などが安置されています。

坂村の地蔵を過ぎて50m、突き当りの細いコンクリートの階段を登ります。さらに200m進むと右手に小さなお地蔵様がありました。

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地蔵

小さなお地蔵さんが2体とこれまた小さな「北陸街道」と刻まれた石版が建てられています。

北陸街道と北国街道

北国街道ははじめ、中山道追分より福島城下までを指していましたが、高田城築城に伴い高田城下までとなりました。その後、佐渡へ通じる街道として重要度が高まり渡海場である出雲崎まで延長して呼ばれるようになりました。「北国街道」という幕府側の呼び方に対して地元では「善光寺街道・中山道・信州道・越後街道・出羽街道・北陸道」など様々な呼び方があったようです。また高田城以北について地元では「奥州道・奥州街道」と呼ばれました。様々な地元の呼び方の名残があちらこちらに見られます。

お地蔵さんから少し進むと「旧高崎市臨海学校」に突き当たります。群馬県高崎市の子どもたちが夏に訪れて海を満喫する施設だったようですね。しかしながら施設の老朽化ということで平成28年に閉校したようです。この臨海学校の校庭に大きな「ヨロンゴの木」があります。

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ヨロンゴの木

柏崎ではのことをヨロンゴと呼んでいます。このヨロンゴの木は樹齢100年ほどと言われ、海風で陸へ大きく傾くいている姿は海風が強い日本海独特の樹形ですね。
この先は「旧高崎市臨海学校」となっており、廃道となっていますので少し戻り、右手の細い階段をおりて少し広い道を進みます。左手に赤褐色の岩場が見えてきました。

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江の尻の岩場

岩が赤褐色に変色している場所は終戦前の塩釜の跡です。この場所で海水を煮詰め、藁苞(藁製の容器)でにがりを取り、上質な塩が作られていました。 岩の上に小さな石祠が祀られていました。

海沿いの国道を1kmほど進むと左手に旧道があり、旧道へ入り90m左手に「明治天皇青海川行在所跡」の石碑があります。

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明治天皇青海川行在所跡

1878年(明治11)北陸巡幸の際に片山吉郎邸で小休しました。現在建物は取り壊され、空地になっています。
さらにその先100m左手に「酒の新茶屋」があります。

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酒の新茶屋・牛頭天王塔

古地図や十返舎一九の「金草鞋」には青梅川の立場茶屋が描かれています。この場所からは海がよく見えて、絶景の茶屋だったと思います。 青海川は牛飼いの村でした。1722年(享保7)の記録によると馬2頭に対して、牛は61頭いたといいます。牛頭天王塔は「明治」の建立。

「酒の新茶屋」から国道を渡った米山大橋袂の駐車場奥に筆塚があります。

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規堂塔

「米山地区お宝探訪マップ」によると「筆塚」となっています。裏面には「尾州中嶋郡蓮池色武」とあり、 尾州(びしゅう)は、尾張を指します。「堂塔」は寺院などの建物をさしますので、昔ここに寺があり「蓮池色武」という人が寺子屋師匠をしていた・・あるいは「蓮池色武」が建立した石碑ということでしょうか・・・

青海川の北国街道

青海川では2つのルートがあったとされます。1つは海岸へ抜け谷根(たんね)川河口を渡り、六割坂を登る道、もう一つは段丘を巻くように酒の新茶屋から右手の道へ入り、谷根(たんね)川の上流で川を渡る道で六地蔵があります。

今回は谷根川河口を渡り、六割坂を登る道を進みたいと思います。

TOO001 元の「酒の新茶屋」まで戻り、新茶屋奥の細い道で海岸段丘を下りて行きます。

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米山大橋

段丘の上に架かる米山大橋を眺めます。昭和41年に完成し、青海川の河岸段丘を一気に越える大きな橋です。高さ50mほどあるそうです。

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お弁が滝

松ヶ崎から流れ落ちる滝ですが、近くまで行く道はなく、海岸線の岩場を歩いていかなければなりません。。対岸の青海川か鴎が鼻(かもめがはな)からは見ることが出来ます。佐渡のお弁という娘と柏崎の船大工、藤吉の悲恋の物語が伝わっています。

お弁の悲恋物語

柏崎の船大工藤吉は、仕事で佐渡に滞在中、お弁と恋仲になりました。しかし藤吉には柏崎に妻子がいました。柏崎へ帰った藤吉を忘れられないお弁は「たらい舟」に乗り、毎晩、藤吉に会いにきました。お弁の一途さに恐ろしくなった藤吉は嵐の夜、お弁が目印にしていた番神岬の灯火を消してしまい、お弁は目印を失い・・・・亡骸は青海川の海岸に打ち上げられました。

「雁子浜の人魚伝説」に似た物語ですね〜

段丘を下りきると十字路へ出ます。北国街道は真っ直ぐですが、ここで左へ曲がり「青海川駅」へ寄ります。

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青海川駅

日本一海に近い駅と言われ、ドラマ「高校教師」に登場し一気に知名度が上がりました。2007年(平成19)の中越沖地震では駅舎近くで大きな規模の崩落があり被害を受けましたが、現在は新しい駅舎になっています。撮り鉄がたくさん来ていましたね。

青海川駅から先程の十字路まで戻り、もう1箇所寄り道。交差点を直進し米山大橋の下をくぐり、70m右手に「青海神社」があります。

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青海神社(諏訪神社)

創建年は不明ですが、古くから鎮座していたと伝えられています。中越沖地震で倒壊しましたが、2010年(平成22)に再建されました。境内の灯籠は悪田村の石工、源之助(小林群鳳の父)の作品です。
写真左端の白くて凸凹の石碑が「酒精礼讃碑」です。1904年(明治37)、青海川のサカヤモン(酒屋者)達が建立したものです。

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青海川開道碑

青海神社前にあります。1922年(大正11)、柏崎港改修工事の際、青海川海岸道路整備を条件に青海川海岸の石材を提供しました。これを記念して建てられたた石碑です。
TOO001 「六割坂」へ向けて進んでいきます。 先程の交差点まで戻り「中部北陸自然歩道」という標柱から細道を東へ進み、向田橋を渡らずに左へ下りると石がゴロゴロの河原へ出ます。

JRの下をくぐり、頭上には六割坂へ至る橋が見えます。さらに左手へ進むと階段があり、これを登ると六割坂へ続く橋がありますが・・・

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なんと通行止め!!

谷根(たんね)川を渡ればそちらにも階段があるようでしたので、そこから六割坂へと登ることもできそうでしたが・・川を渡る勇気がなく断念しました。仕方なく、示されている迂回路へ。
再び青海神社の前を通過し、柏崎さけのふるさと公園の前を通って行きます。

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柏崎さけのふるさと公園

谷根(たんね)川は村上市三面(みおもて)川に次いで多くの鮭が遡上します。観察には10月から12月が良いようです。

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交差点から400m、やっと迂回路に到着しましたが、なんと、迂回路も通行止め!!ええー!!ちょーびっくり!!

地図を調べてもここが通れないとすると酒の新茶屋まで戻り、国道を進み米山大橋を渡るしかありません。しかも米山大橋には歩道がないのですが、車はかなりのスピードで走ってきます。絶対通りたくありません!車にはねられたら段丘下へ50m、真っ逆さまに落下です。
工事現場をよくよく見ると法面工事で車は通れませんが、人が通るのには特に問題なさそう・・悪いとは思いましたが、ここしか行く道はないので、柵を乗り越えて進みました。

それにしても・・どちらの道も同時に通行止めにするなんて余りにもひどいです。 更にこの交差点にあった六地蔵も見当たりません。谷根(たんね)橋のたもとに移設されていたそうですが、気づきませんでした。工事後は元の場所に戻るそうです。六地蔵の他に子安地蔵や弘法大師塔もあり、米山道の道標にもなっているそうです。

六割坂の上も通行止めでした。六割坂にある「出羽三山塔」も見ることが出来ませんでした。

自宅へ戻ってから柏崎市の観光課へいつ頃橋が完成するのか問い合わせたところ・・・直すつもりはないとのことです。この先、六割坂を登ることはもうできません。確かに立派な橋を架けようとしたらかなりのお金がかかりますが、単管や足場材などの簡易なもので良いので架けてほしいです。木曽路でもそうした仮設のものはたくさんありました。次回、上から下りてみようかな・・

国道へ出て100m、ホテルシーポート前の歩道橋を渡り、柏崎コレクションビレッジ方面へ上っていきます。右手に高い松の木が1本残っています。

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松並木の名残

松並木の名残としてたった1本残っていた一本松。どうやら枯れているようです。このあたりは往時、幅1mくらいの沢道だったそうですが、1980年(昭和55)に6m道路に改良されてしまいました。最後の1本が消えつつあります。

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「柏崎コレクションビレッジ」には風力発電の大きな風車があると探しましたが全く見つかりません。高さ56mだから見つからないはずないな〜諦めて四阿で休憩しました。四阿からは海が見えて気持ちよかったです。
帰宅後、調べてみると今年の4月に撤去されていたのですね。ちょうど四阿前の芝生広場となっている場所にあったようですね。

コレクションビレッジを抜けて緩い坂道を下っていき、左手に道標があります。

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米山三里道標(法師塔)

柏崎の文化財として指定されていますが、草に埋もれてほとんど見えません。 法師像が刻まれた石塔の道標で、左側には「右ハかみがた道」と刻まれています。ここは頸城と刈羽の郡境で、桑名藩(飛地)と高田藩の境界でもありました。佐渡からの御金荷の受け渡し場所でもあり、桑名藩柏崎大久保陣屋で受け取り、ここで高田藩へ受け渡されていました。
さらに坂を下って350mで国道へでます。国道を650mで師堂海水浴場が見えてきます。

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薬師堂海水浴場の岩場

空洞がある面白い岩場がありました。

その先、すぐ右手の斜面上に大きな石碑が見えます。

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一万座供養塔・京江戸道道標

一万座供養塔は龍泉寺の月海師の説法一万座を記念して建立されたもので道標にもなっています。

「右の道は 京江戸往来 左の坂は米山薬師さんけい道」と刻まれています。元々は波打ち際にあったものが米山登山道の分かれ道に移されました。
供養塔から国道をさらに400m、左手の旧道へ入っていきます。旧道へ入って250m、左手に人道橋があります。ここを入っていくと鯨波港がよく見える高台に至ります。ベンチもありとても気持ちのいい場所でしたので、ちょっと休憩しました。

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鯨波港

岩場に建つ白い建物は全国25ヶ所にある「験潮所」の一つで、一等水準点も置かれています。験潮場(けんちょうじょう)とは、潮位を測る場所です。

道興の「回国雑記」

道興(1430年〜1527年)は室町時代の僧侶で聖護院門跡、関白近衛房嗣(ふさつぐ)の子であり、門閥学識が高く朝廷内での権限も強かったとされます。1486年(文明18) 聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国し、お供200名を伴い山城国長谷の聖護院山荘を旅立ち、越中から越後へ入り越後府中に至ります。至徳内長松寺塔頭貞操軒で7日間滞在し、その後笠島、青海川、鯨波へ。恐らく「米山三里」を歩いたのでしょう。鯨波では鯨が潮を吹き上げるのを見て感動したと書かれています。その後は柏崎、柏崎からは東へ向かい、安田、山室を経て上野国(群馬)へ向かっています。この旅をまとめ、「回国雑記」を残しています。
鯨波ではほんとうに鯨が見られたのですね・・・

再び人道橋を渡り、北国街道へ戻ります。50mほど進むと右手に石仏が3つ並んでいます。

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庚申塔道標

中央の文字庚申塔が道標になっており、左側面に「右ハ加多道 左ハ山みち」「龍泉寺十五世法師海従 宝暦十二年至寛政十干天初云々」と刻まれています。

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旧旅籠若松屋

庚申塔道標の前が旅籠を営んでいた「若松屋」だった場所です。
200mほど進むと右手に「神明宮」の入口があります。

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神明宮

1609年(慶長14)火災にあい、記録が焼失しています。言い伝えによれば仁賢天皇の時代(489〜506)の創立と伝えられているそうです。そんなに古くから!びっくりです。明治43年、上町の諏訪社、浦町の下諏訪社を合祀しました。
神明宮から北国街道へ戻り、80m左手に道路元標があります。

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鯨波村道路元標

現在設置さけている道路元標は新しく作られたもののようで、古い石標は鯨波の公民館裏に放置されていました。

道路元標があるT字路を右へ曲がり、100m進むと右手に妙智寺、左手に延命地蔵と十三仏があります。

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妙智寺の延命地蔵と十三仏

1559年(永禄2)創立、開基は上杉謙信の叔母、小少将で戒名の文字を寺名としました。開山は僧源巨。本尊釈迦仏座像、観音堂の立像は行基の作と伝わります。

延命地蔵尊は「目地蔵」とも呼ばれ、目の病気にご利益があると言われています。
延命地蔵と十三仏から奥へ入っていくと龍泉寺へつながっています。

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龍泉寺と不動堂

1544年(天文13)順慶法印の開基で本尊は虚空蔵菩薩。不動堂は三ツ石の清水遊水地から遷座され、不動明王と弘法大師像が祀られています。

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小山玄章顕彰碑

下宿の住人で医師であり、幕末から明治初年にかけて寺子屋を主宰しています。
龍泉寺には戊辰戦争の死者である加賀藩夫卒長蔵の墓もあります。

龍泉寺の参道から北国街道へ戻り150mで前川橋を渡りさらに100m、特養くじらなみに差し掛かる右手斜面の上に石仏が並んでいます。

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鯨波一里塚跡付近の石仏群

鯨波一里塚は、前川橋を渡った先の公民館あたりにあったとされ、恐らく現在の「特養くじらなみ」あたりだと思います。そこに石仏が数基あります。このあたりだったのかもしれません。明治・大正期までは跡地が確認できたといいますが、現在は面影がありません。
少し戻り前川橋手前の交差点を左へ曲がり「ナウマンゾウ発掘地」へ向かいます。

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ナウマンゾウ発掘地

1964年(昭和39)国道工事の際にナウマンゾウの化石が発見された場所です。ナウマンゾウの臼歯、切歯などが出土しています。

15:50 本日は「ナウマンゾウ発掘地」のすぐ目の前の『メトロポリタン松島』へ宿泊します。

米山三里はアップダウンが激しく、何度海岸段丘を上り下りしたか・・・ですが、海が綺麗で楽しい道のりでした。