2002年11月2日
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8:30 由比駅を出発しました。今日も快晴です。今日はさった峠を通りますので景色が楽しみです。
趣のある旧街道、道幅も当時のままでしょう。中の沢二号橋の更に後ろにさった山が見えてきました。
あかりの博物館
大正8年建築の民家に日本の古今のあかりに関する資料が展示されています。古灯具を中心に1000点以上が展示されているそうです。
名主の館「小池邸」
寺尾村の名主を務めた小池家は、甲州武田家の家臣でしたが、この地へ移住し小池分右衛門と名乗ったことから始まりました。東海道を歩く人のための休憩所となっていますが、今日はまだ開いていませんでした。
鞍佐里神社
『日本武命が東征の途中、賊の焼き討ちにあい、鞍下で平伏して神明に念じていると敵の火によって鞍が焼けてしまいました。よって「鞍去」の名がついた』と記され、「鞍去」が「倉沢」と転化したとも言われています。元々は薩?峠の駐車場あたりにあり、後に現在地に移されたと考えられています。
寺澤橋
橋のレリーフには、宝積寺と僧、そして弥次さん、喜多さんと思われる人物がコミカルに描かれています。弥次さん・喜多さんが薩?峠を通った時は大雨で「東海一」と言われた富士の眺望を見ることはできませんでした。
間の宿 本陣跡
ここ、西倉沢の間宿には十軒ほどの茶屋がありました。川島家は慶長年間から天保年間のおよそ230年間、貫目改所(荷物の重量を検査する役所)の中心を担い、大名もここで休憩したため、村では「本陣」と呼ばれていました。西倉沢の名主も努めていました。倉沢の茶屋では弥次さん、喜多さんも海女さんが採ってきたサザエのつぼ焼きをたべていました。
柏屋
明治元年及び明治11年、明治天皇が東幸の際に休憩された茶屋です。明治15年頃、静岡県令(現在の県知事)であった大迫貞清は、病気療養のためここを訪れた折、倉沢の気候風土が郷里の九州に似ていることから「田中びわ」を取り寄せ、栽培を勧め周辺には田中びわが普及しました。田中びわは、果実が大きく整ったつりがね型で光沢があり美しく、完熟すると甘さと酸味のバランスが良く美味しいそうです。
望嶽亭「藤屋」
薩?峠の東登り口に位置していることから「坂口屋」ともいわれ、茶屋を営み磯料理・あわび・サザエのつぼ焼きを名物としていました。藤屋の離れ座敷は、富士山の眺望がよいため『望嶽亭』と呼ばれ文人に好まれていました。
望嶽亭と山岡鉄舟
幕臣であった山岡鉄舟は、官軍の江戸攻撃を阻止するため、府中まで進んできていた西郷隆盛に会うために東海道を下ってきていましたが、薩?峠で官軍に追われ、望嶽亭へ逃げ込みます。座敷の隠し階段と抜け穴を使って清水港へ逃れ、清水の次郎長に助けられ、西郷との会見を果たすことができました。地下への抜け穴は今でも残っているそうです。
望嶽亭から急坂で暫く一気に上がり、その後はダラダラした坂になります。
薩?峠
薩?峠には、
上道・中道・下道の3つの道がありました。当初からあったのが下道で、峠を通らずに海際を行く道です。現在国道1号線がある辺りは、安政の大地震により隆起したため陸地が誕生したのですが、それ以前は浜らしいものもなく、断崖絶壁を打ち寄せる高波の間合いをぬって通り抜けるという、凄まじい道でした。(道とは言えませんね・・)この場所が
「親知らず子知らず」と言われていました。ここを通るときは、親も子も自分のことで精一杯、ということからです。この道は望嶽亭から下に降りていく道ですが、現在は途中で無くなっているようです。 下道の難儀を避けるために作られたのが上道と中道です。どちらも1655年(明暦元)の
朝鮮通信史を迎えるためでした。大名も通るため、幅は4m以上ありました。上道と中道は途中まで一緒ですが、峠から先は分かれて上道は山間を抜け、一旦北へ向かった後に南下する道です。中道は峠より海岸への崖道を下っていきます。上道が江戸後期の東海道本道になります。
朝鮮通信使
室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より派遣された外交使節団です。文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったため、一旦中止されましたが、江戸時代になり1607年から約200年の間に12回来日しています。
みかんのきが多い薩?山
鎌倉時代に由比倉沢の海中から「薩?地蔵」が網にかかって引き上げられました。お地蔵様を山にお祀りしたので、それ以降「薩?山」と呼ぶようになりましたが、それ以前は「岩城山」といいました。万葉集にも詠まれています。『岩城山 ただ超え来ませ 磯崎の 不来海の浜に われ立ち待たむ』引き上げられた地蔵は、現在は東勝院に移されています。
地蔵道標
「これよりさつたぢぞうミち」と彫られています。地蔵道は東海道上中下道とは別の道で、古くから地元の人の生活道路として現在の駐車場から北側へ向かう道です。駐車場付近が「山の神跡」で、先程麓にあった「鞍佐里神社」が元々あった場所とされます。この地蔵道周辺は日本武命伝説が点々と残っています。
広重 薩?峠
広重の浮世絵、そのままの景色でした。当時なかった高速道路などがありますが、逆に東名高速と国道1号線が美しいカーブで交差し、海の向こうに富士山を望む壮麗な美しさです。
薩?峠
1801年(享和元)蜀山人(大田南畝)が峠にあった茶店で休憩をしていると小さな祠が目に止まり、亭主に尋ねると「山の神」だと言われ即興で作った狂歌が薩?峠の名を有名にしました。
『山の神 さった峠の風景は 三行半に かきもつくさじ』
山の神は「女房」を指し、さった峠のさったを「去った」とかけ、三行半に書き尽くせない・・という意味です。江戸時代も現代も夫婦関係は変わらないものなのですかね。
薩?峠
薩?山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点であり、度々古戦場となっています。1351年足利尊氏はここに陣をはり、弟足利直義の大軍を撃破しました。1568年(永禄11)には、武田信玄の駿河国侵入を阻止するために駿河守護の今川氏真軍が最後の砦として薩?峠に陣をはりました。今川軍の士気は低く兵は退却を始め、以後今川家は衰退の一途をたどります。
崖に沿って下りていくのが「中道」ではないかと思います。
江戸後期の本道「上道」を進みます。
薩?山を下るとすぐに「興津川」を渡ります。
興津川
広重は興津川を描いています。興津川は水深が浅かったため、10月から3月までの渇水期は板がかけられ、無料で渡ることができました。しかし、4月〜9月までは水量が少なくとも人足にお金を払い、渡してもらわなければなりませんでした。
安鶴という旅人は賃銭を浮かすために浅瀬を渡ろうとして人足と言い合いになり、「足も濡らさず超すも易し」と言い放ち、風呂敷包みを足へ縛り逆立ちして川を渡り、見事に足を濡らさず渡ってしまいました。これは1862年(文久2)に発刊された『安鶴在世記』にかかれています。安鶴は駿府の左官で芸人として有名であった安鶴が自らの体験した実話を綴った本です。八人芸と言われる八つの技をこなすとされた安鶴でしたので、このようなことができたみたいですね。
興津宗像神社
創建は平安中期といわれ、沖に漁に出た漁夫達から「母なる森」として親しまれていました。魚師の目印となり、海上安全の守護神を祀っています。境内には樹齢400年の松があります。
身延道起点と髭題目塔
身延道は、身延山参詣の道ですが、元々は駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達した街道で、鎌倉時代には既に成立していたと言われています。戦国時代になると駿河侵攻を目論む武田信玄により整備され、軍用路として使用されました。当時はここが身延道の起点でしたが、現在は興津郵便局前が起点となっているそうです。
興津一里塚跡
日本橋より39番目、41里目の一里塚です。現在は塚もなく、石碑も民家と民家に挟まれて、片身が狭そうです。
興津宿東本陣
市川新左衛門が務めた本陣です。
水口屋脇本陣跡、一碧楼水口屋跡
水口屋初代当主、水口屋半平は武田信玄の家臣、興津砦の主でしたが、武田氏が滅亡後、塩や魚などを甲斐へ送る商人でした。江戸時代には脇本陣として、明治以降は政治家、皇族、財界人、小説家、画家などの別荘旅館として営業し、昭和32年の国体では天皇皇后陛下の宿舎にもなりました。
1985年(昭和60)に廃業し、企業の研修センターになっていました。
興津宿西本陣
牛塚家が務めた本陣です。
興津の町並み
興津宿には問屋2軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒がありました。
興津宿モニュメント
清見寺
山門の額には「東海名区」と書かれています。奈良時代に創建された禅寺の古刹です。山門と本堂の間、境内になると思いますが、東海道本線が走っています。清見寺の位置は、大和朝廷が「清見関」を置いた場所で、清見寺は元々関の鎮護のため建立された関寺だったそうです。家康が「竹千代」と呼ばれていた幼少の頃は人質として駿府今川家へ預けられていましたが、ここへ勉強に来ていたそうです。庭園には駿府城より移された虎石など数点があり、芭蕉句碑や五百羅漢など見どころの多いお寺です。兼好法師、秀吉、武田信玄、島崎藤村など多くの文人、歌人などが訪れています。一度はゆっくりと見学したいお寺です。
坐漁荘跡 (西園寺公園)
西園寺公望が晩年の20年間を過ごした別荘跡です。敷地は300坪あります。建物は明治村に移されましたが、跡地は「西園寺公園」として保存されています。しかし、本日はなにか工事をされていまして立ち入り禁止になっていました。
興津は明治〜昭和初期まで西園寺公望や井上馨ら政府要人の高級別荘地でした。
西園寺公望
3歳で公卿西園寺家の当主となり、ソルボンヌ大学で10年学び、日本人で初めて正規の学位を受けました。明治・大正・昭和の政治家で、伊藤博文の腹心、総理大臣経験もあります。天皇の相談役の、「元老」の一人でありました。
明治村へ移築された 坐漁荘
坐漁荘内部
清見潟公園
興津の海はかつて「清見潟」と言われ美しい砂浜の海岸があり、海水浴や釣り人で賑わっていたそうです。薩?峠の方向を眺めると富士山と三保の松原、砂浜のない荒磯が見え山水画のようだったといいます。しかし昭和30年代から始まった興津埠頭建設と護岸工事により、現在は臨海工業地となってしまいました。公園の一角にはこの清見潟を愛した井上馨の銅像が建てられています。
薩?峠へ向かう時、みかん農家のおじさんに声を掛けられ、今日の薩?峠の景色は最高だと、教えられました。今日のようないいお天気で素晴らしい景色は年に何日もないそうです。本当に今日はラッキーでした。
10:30 薩?峠の素晴らしい景色を胸に刻み、江尻に向かいます。