逢坂山の関を越えろ!弥次さん、喜多さんが待っている!

2018年09月15日

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いよいよ東海道最終回です。前泊で金曜日夜に仕事終了後、新横浜から新幹線で京都、JR乗換えで大津へやってきました。大津駅前の「ホテルテトラ大津京都」に一泊し、翌日、膳所駅へ向かいました。

9:10 スタートです。残念ながら雨がしとしと降っています。

道標

「者世越翁の墳 是より二丁」と彫られています。「はせを翁」とは松尾芭蕉のことで、墳はお墓ということなので、この先の「義仲寺」、芭蕉の墓への道標のようです。

義仲寺(ぎちゅうじ)

源義仲(木曾義仲)の死後、妾であった巴御膳が日々供養したことに始まりとされます。鎌倉時代後半には既に「義仲寺」の名が見られるようです。芭蕉は、この寺を大変気に入り、度々滞在しました。亡くなったのは大阪でしたが、遺言により、この寺に埋葬されました。

このあたりに平野一里塚があったようですが・・案内などは何もありません。

平野神社

天智天皇が大津の宮へ遷都された時に都の三里以内へ守護神としたと伝わっています。蹴鞠の奉納があります。

西栄寺

常盤橋

吾妻川という小さな川に架かる小さな橋です。

滋賀県庁 本庁舎

国会議事堂にとてもよく似ています。昭和12年に着手、総工事費200円で昭和14年に完成したそうです。

京町通り

江戸時代、「大津百町」として賑わっていました。かつては多くの商家が軒を連ね、分岐点にあたる札の辻から西は北国海道となっていました。
大津宿に入ってきました。古い家が増えて、風情ある街並みを通過します。

大津宿は東海道最後の宿場町になります。

露国皇太子遭難之地碑

明治24年、訪日中の露皇太子を警備にあたっていた憲兵の一人が斬りつけました。あわや戦争かー――。幸い皇太子の傷は浅く「余は貴国を決して悪しく思わず」と寛大な言葉を残して帰国します。しかし、その後犯人の処遇を巡って議論が起こります。2年前に大日本帝国憲法が制定したばかりで、「法に則って正当に裁くべし」とする大審院と「ロシアに誠意を示し処刑するべし」とする政府が対立します。最終的には、法治国家として無期懲役とされ、司法の独立が貫かれました。

大津市道路元標

1919年(大正8)に制定された道路施行令により市町村に1つ決められています。しかし、札の辻の石碑などはありませんでした。辻の札は、江戸時代に高札が掲げられ人馬会所も置かれた四つ辻で東海道と北国海道(西近江路)の分岐点であり、大変にぎわったといいます。

札の辻で西へ曲がらずに進むと、小関越えと呼ばれる道です。小関越えは山科の手前あたりで再び東海道と合流します。

道標 「蓮如上人近松御舊跡 是より半町」と彫られています。大塚のケヤキのある顕証寺のことのようです。顕証寺は一般的には近松別院・近松御坊と呼ばれるそうです。寛政の法難後、蓮如上人はこの地に腰を落ち着け、三井寺の庇護により開いたのがこの顕証寺のようです。

大津宿本陣跡

大津宿には大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)と肥前屋丸左衛門の2件の本陣と播磨屋市右衛門の脇本陣1件がありました。明治天皇は、この地で休憩されました。

大津には路面電車が走っていました。鎌倉、江ノ電に似てますね。

JR東海道本線の上を越えると、徐々に坂道になってきます。

蝉丸神社(下社)

蝉丸は宇多天皇の第四子と言われ、盲目の琵琶の名手。この逢坂山の地に庵をあみ、住んでいたそうです。

驚くことに、一の鳥居と二の鳥居の間に京阪鉄道が通ってます!

只今通過中です。

百人一首でおなじみの蝉丸の歌

「これやこの ゆくもかえるも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関」

行く人も帰る人も知ってる人も知らない人も別れてはまた出会い、出会ってはまた別れていく・・という人の生き様を歌っています。恋愛の歌が多い百人一首の中で趣ある歌ですね。

関清水神社・紀貫之句碑

現在は、湧き水が枯れているようですが、恐らく昔は柵の中に湧き水があったと思われます。紀貫之の句碑があります。『逢坂の関の清水にかけみえて いまやひくらん 望月の駒』望月は、中山道望月宿のことで、望月の駒が毎年朝廷へ駒を納める「駒牽き」の慣例を詠んだものです。

本殿

屋根がだいぶ傷んでしまっています。

歌人として、また音響の神様として蝉丸を祀った神社は、下社、上社、分社と3つあります。

時雨燈篭

作成年代を示す銘文はないようですが、様式上、鎌倉時代の特色を持っているそうで、国の重要文化財に指定されています。

逢坂山は小野小町が老いた後に住んでいたという言い伝えもありまして、下社の奥に塚が残されています。

安養寺

861年(貞観3)円珍の開基。蓮如上人の旧跡であもありまして、「身代わり名号石」が残っています。

身代わり名号石

寛政の法難で逃れてきた蓮如一行は、逢坂山を越え、安養寺の辺りまで来た時追っ手の僧に長刀で切りつけられました。なすすべも無く、門前にあった石の後ろに身を隠すと不思議なことに、振り下ろされる長刀に合わせて石は左右に傾き、蓮如上人を守ったという、不思議な言い伝えです。

旧逢坂山ずい道東口

日本初の山岳ずい道で、ノミやツルハシなど手彫りで彫ったトンネルです。1878年(明治11)、東口と西口の両方から掘り進め、1年8ヶ月で完成したそうです。大正10年、線路変更で廃線となるまで東海道本線の下り線として使用されました。全長は、664.8mです。

上部に通る道は、名神高速道路です。

蝉丸神社 上社

弘法大師堂と常夜灯

常夜灯の台座は車石が使われているようですね。。

逢坂の関址

山城国と近江国の国境となった関所です。東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関でした。その重要性は、810年に不破関と鈴鹿関と並び三関となります。これ以前は、愛発関が三関の一つでした。実際の関跡については、場所がわかっていないそうです。

逢坂の関公園は、トイレと休憩所になっていました。ここで少々休憩します。

大津絵販売の地

東海道を往来する旅行者用の土産物として「大津絵」が売られるようになりました。。大津絵は庶民向けの絵であることから、生産コストを抑えるため、描写も簡略化し、細かい描写は 小型の木版を押し、素早く描けるよう工夫していたそうです。直筆部分と版を押すだけの部分とを組み合わせていたということですね。

うなぎ注意の看板

歩き旅では、いろいろな看板や標識を見てきましたが、このうなぎの看板は全国でもここにしかないかもしれません。

逢坂山かねよ

お庭と昭和初期頃のようなモダンな建物が建っていました。1872年(明治5)創業。本店には、庭園もあり三条右大臣の詠んだ「逢坂山のさねかずら」がこのお庭にあるそうです。現存しているのはここだけだそうです。

蝉丸神社 分社

車石

中央の荷車の車輪をはめたくぼみがよくわかります。

車石

1805年(文化2)京都の心学者脇坂義堂が一万両の工事費を投じて工事に着手します。交通の要所であったこの逢坂山は、ぬかるんで荷車がなかなか思うように通れず、難儀したためです。道は歩道と車道に分けられ、歩道は車道よりも一段高く作られ、安全に配慮されていました。また、車石は単線の為、午前は京都行き、午後は大津行きと時間により一方通行にしていたそうです。とっても近代的な発想ですね。

大津から京都三条までの約3里(12km)に敷かれていたそうですが、京都まで歩いた中では、一か所も当時の車石の道が残っていません・・せめて300mでも100mでも当時のまま残っていたら良かったです。箱根や菊川などでは当時のままの石畳も残っていますよね。「石」自体はたくさん残っているようで、この後の道のりで様々な形で利用されていました。

元祖走井餅本家の石碑

1764年(明和元年)創業。走井の湧水を用いて餡餅を作ったことが始まりといいます。本家さんのものは現在、大津駅などで売られているようです。追分・大谷には茶屋が多く、どの茶屋にも走井餅がおいてあったそうです。

やわた走井餅老舗は、平安時代の名刀鍛冶・三條小鍛冶宗近が走井で名剣を鍛えたという故事にちなみ、縁起をかついで刀の荒身を模したそうです。1910年(明治43からはに石清水へ引き継がれました。

大谷駅

京阪電車の小さな無人駅ですが、券売機や改札口はありました。ここ大谷町はかつて深い谷間であったことから名づけられた町名です。

ここで京阪電車線路により旧道が分断されていますので、歩道橋を登って道路の向こう側へ渡ります。
歩道橋から眺めますと、この大谷の谷の狭さがよわかります。道路と線路にほぼ占領され、民家やお店などの建物用地は薄く、狭いです。

大津算盤の始祖・片岡庄兵衛

1612年(慶長17)片岡庄兵衛は、明国から長崎に渡来してきた算盤を参考に改良を加え、製造を始めました。この先の一里塚あたりで店を構えると大変評判になり、幕府御用達の算盤師になったといいます。その子孫は、昭和初期までこの地で暮らしていたようです。

月心寺

走井があった場所は、茶店となっており、明治初期まで賑わっていました。その後、1915年(大正4)日本画家の橋本関雪が別荘として購入し、関雪没後は月心寺となります。

NHK朝の連続ドラマ「ほんまもん」で料理人を目指すヒロインの師匠・庵主さんは、この月心寺住職村瀬明道尼さんをモデルにしている。タイトルの「ほんまもん」は、住職が筆を取られたものだそうです。

走井

走井はかれることの無い泉として平安時代から名高く、歌にも詠まれ、浮世絵にも残されています。

『走井のほどを知らばや逢坂の 関引き越ゆる 木綿鹿毛の駒 元輔』 『走井の 筧の水の涼しさに 越えもやられず 逢坂の関 清輔』

水の色が本当に透明て゛写真で見るとまるで水が無いようにも見えますが、実は満水なのです。現在もこんこんと湧いて出ています。

広重の大津、走井茶店を描いたものです。左手、茶店の前にごぼごぼ湧き出ている走井が描かれています。

現在よりもものすごい水量で描かれています。長い間に水量は減ってしまったのかも知れませんね。

月心寺百歳堂

小野小町百歳像を安置しているそうです。

月心寺 山門 

額には、「往来」と書かれています。石垣の一部は膳所城の石垣を移築したものだとされます。

道標

「右 一里丁 左 大谷町」と彫られています。このあたりに大谷一里塚があったようですが、見当たりません。案内もないです。

旧道へ入ってきました。近所のおばさんが「道路の南側は京都で、北側が滋賀県だよ〜」と教えてくれました。さらにこの先の追分に立つ家は半分京都、半分滋賀だそうです。

追分道標

その追分の道標まできました。大津の追分と蓮如上人御塚の石碑があります。道標には、「みぎ京ミち ひだりハふしミミち」と彫られています。カタカナとひらがなが混ざっています。 ここにあるものはレプリカだそうで、実物は安土城考古博物館にあるそうです。

蓮如上人御塚の石碑には、「蓮如上人御塚 是より十町」と彫られています。恐らく、蓮如建立の山科本願寺を指しているかと思います。

東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点

分岐点となる茶屋の角に高札場があり、その左右に石碑が描かれています。

江戸時代はこんなにも往来する人が多かったようですが、今は人っ子一人いないです。

閑栖寺

こちらのお寺にも車石が保存されています。

旧東海道はこの三条通り(国道1号)に分断されています。歩道橋上から通ってきた大谷を眺めます。

横木村

歩道橋を渡ると「横木」です。江戸時代の横木が描かれていました。

道標

「三井寺観音道」、その横に「小関越」と彫られています。大津の札の辻から分かれた小関越えの道は、ここで合流します。

徳林庵(山科地蔵)

小野篁(おのたかむら)公により852年に作られた6体の地蔵です。伏見六地蔵と呼ばれていました。後白河天皇は都の守護、往来の安全などのため、街道の出入口6箇所に一体づつ分置させ、以後山科地蔵は東海道の守護佛となりました。六地蔵めぐりが伝統行事となっているそうです。

十禅寺、人康親王御墓

十禅寺は人康(さねやす)親王の山荘に聖観音像を本尊として創建された寺院です。

人康親王は平安時代の皇族で、仁明天皇の第四皇子です。両目を患う病気を理由に出家し現在の山科区四ノ宮に山荘を造営して隠棲し、山科宮と呼ばれました。琵琶の名手でもあったそうで、境遇が蝉丸と似ていますね。

諸羽神社

山科駅前

山科駅前を通過します。山科駅は東海道本線と京阪鉄道が通る大きな街です。

安祥寺

848年、仁明天皇の皇后藤原順子の発願により建立されました。当初は天皇の庇護を受け、大きなお寺だったようですが、皇后没後は徐々に荒廃し、現在はひっそりとしたお寺になてしまいました。

愛宕常夜燈

1855年に建立されました。愛宕信仰は、右京区の愛宕山頂上にある愛宕神社から発症した信仰で、全国に広まっており、こうした常夜燈が各地に残っています。

五条別れ道標

1707年(宝永4)に建立されました。「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよみず道 右ハ 三条通」と彫られています。

天智天皇山科陵

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)というほうがピンとくるかもしれませんね。大化の改新や遣唐使の派遣などを行った方です。百人一首では「秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」と詠んだおひとです。
樹木が生い茂る参道を延々と歩きます。非常に静かで、誰もいません。何故か、空気が違うような気がします。

ようやくお墓の入口まできましたが、入れるのはここまでです。

琵琶湖疎水はこの奥に流れています。この流れも琵琶湖からの水でしょう。

琵琶湖疎水

琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すため、明治時代に作られた水路(疏水)です。疏水の水力により工場を興し、舟運を盛んにしようという計画で、第1トンネルは長さが2Km以上が計画されましたが、かなりの難工事でした。日本で初めての竪坑掘削を採用し、れんが、材木も直営で生産し、ほとんど人力だけで工事をしました。 5年後の1890年(明治23)に完成しましたが、水力発電により新しい工場が生まれ、路面電車が走りました。それから20年後、第2疏水を建設し、同時に水道と市営電車を開業したことで、今日の京都のまちづくりの基礎ができあがりました。琵琶湖疏水は今も京都に琵琶湖の水を供給し続けています。

日時計碑

660年、天智天皇漏刻(水時計)を作り、671年には大津宮において鍾鼓を打ち、時報を開始させました。671年の4月25日でした。対応するグレゴリオ暦の6月10日が現在は「時の記念日」となっています。

ここに水時計を作ったら一番良かったと思いますが、維持管理が大変なため日時計にしたのでしょうね。 当時も漏刻の管理が大変だったといいます。

13:20 天智天皇陵前の緑道で一休みします。

天智天皇陵をすぎてすぐに西へ曲がると、細い道になります。ここから日岡峠へ向かいます。

日岡峠

だいぶ上ってきました。結構な勾配でした。

亀の水不動尊入口

とっても小さな案内ですので見落とさないように。

1738年(元文3)日岡峠の改修に尽力した木食僧・正禅が峠の途中に結んだ梅香庵(木食寺)の名残とされ、往来の人々の休憩所を兼ねて牛馬の渇きを癒すため、井戸を掘り旅人を接待していたそうです。木食僧とは、穀類や肉類を断ち、木の実や草を食料として修業をした僧です。

亀の水不動尊跡

亀の口から水が出ていますが・・恐らく昔は、上の石が飛び出している場所から水が湧いたのでしょう。パイプが気になったため、水温を計ると24.3℃。これは湧水ではないですね。 後に調べますと、2008年の京都新聞にありました。「水道水の助けを借りて・・」とあり、やはり水道水になってしまったようです。開発などで水みちが変わってしまったのでしょう・・非常に残念です。

ところで亀なのに大きな耳がある・・これは本当に亀でしょうか?

これも後日、調べますと亀ではなく正確には「贔屓」(ひいき)というもののようです。贔屓とは、中国の伝説で龍が生んだ9頭の神獣、龍生九子のひとつで、重きを負うことを好み古来から石柱や石碑の土台として用いられているそうです。

道標

右手の大きいものが「右 明見道」左の小さいものが「右 かさんいなり道」と彫られています。明見道は、東へ3kmほどの妙見寺への道標のようです。妙見堂ともいわれているようで、妙見菩薩像が安置されているそうです。かさんいなりは、南へ2kmほどの花山稲荷神社へ至る道のようです。

大乗寺

酔芙蓉の名所で知られています。1300本以上の酔芙蓉が植えられているそうで、酔芙蓉は秋頃に花を咲かせ、朝は真っ白、午後には薄いピンクになり、夕方には濃紅になりお酒に酔ったようだということから名づけられています。

この階段の左手の樹木が芙蓉、蕾はたくさんありますがまだ咲いていません。これからのようですね・・残念でした。
このあたりのお宅の庭先にはたくさんの湧水点があります。湧水でしょうね・・流しっぱなしです。採水したいですが、人の家なのでだめですね・・

ここは恐らく、湧水を利用した洗い場だったと思います。野菜の土を洗ったりしていたのでしょうが、現在は水みちが変わって出ていないようですね。

日岡峠のあたりは道が極端に狭いです。狭い道ですが、車が暴走して走ってきますので安全に注意してください。

この「旧東海道」の石碑が立っている場所が旧東海道ですが、、下にちらっと見えているのが峠の道路を改修して通した新しい三条通りです。だいぶ山が削られてしまっています。
少し道が広くなり、すぐに国道へ合流します。大きな武家屋敷風な家も残っていました。

九条山 車石広場

車石を利用した小広場です。京都市営地下鉄東西線の開通に伴い、廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用して造られた広場です。

日岡峠改修碑

碑文は「京都三条から近江国境までは往来が困難で特に日岡峠は甚だしく、人々は往来に困難していた。街道改修は1875(明治8)に着手、明治10年に完成した。 峠の道を一丈一尺四寸低くした。」ということが書いてあるそうです。一丈は3m、一尺は30cm、四寸は12cmで約3m42cm低くしたということのようです。

粟田口刑場跡

刑場の場所は詳しくはわかっていないらしいですが、だいたいこの辺的な場所です。また、この付近が「京阪電鉄京津線 九条山駅」があった場所のようです。

萬霊供養塔 南無阿弥陀仏の石碑

刑場は、恐らくはこの石碑の付近なのでしょう。このあたりで磔、獄門、火炙りの刑などが執行されていたのでしょう・・江戸時代は見せしめのため、往来の多い街道筋に処刑場がありました。鈴ヶ森刑場も東海道沿いでした。

廃墟

後で調べると地元では有名のようです。元は韓国人の全和凰という画家の美術館だったそうです。何階建てなのでしょうか。崩れ落ちそうです。

蹴上浄水場

日本最初の急速濾過方式の浄水場として明治45年、京都市で初めて給水を開始しました。4600本のつつじの名所でもありますが、普段は入れません。

安養寺と日向大神宮の参道

この奥に「蹴上インクライン」があります。全長582m、高低差36m、琵琶湖疎水の船を航行するために敷設された世界最長の傾斜鉄道敷でした。

地下鉄東西線 蹴上駅

14:45 ここから東海道を少し外れ、南禅寺に寄っていきます。

ねじりまんぽ

京都でも「まんぽ」というようです。滋賀県あたりから「まんぽ」ですね。銘板には「雄観奇想」と書いてあります。この銘板額は、今通ってきた粟田周辺で焼かれる「粟田焼」で作られ、琵琶湖疎水が開通した当時の府知事北垣国道の筆だそうです。「雄観奇想」とは、素晴らしい眺めと優れた考えという意味だそうです。こうしたねじれた隧道は全国で25か所ほど見つかっているそうです。

隧道の中のレンガがねじれた様に積まれています。「ランキン氏土木学」にも記載があり、西欧の技術を取り入れました。『築堤の下を斜めに交差してトンネルや暗渠などを作る場合、アーチが荷重を垂直に受けるようにレンガを斜めに螺旋を描くように積み上げる工法』と書かれています。つまり、築堤とトンネルが垂直には交わらない場合は、こうした工法が良いということです。確かにこの場所は、築堤と隧道が斜めに交差しています。

金地院(こんちいん)

1394〜1428年、足利義持が北山に創建したとされます。1605年現在地へ移築しました。狩野派による襖絵は有名です。狩野派は、二条城の襖絵も有名です。茶室八窓席、鶴亀の庭、枯山水庭園は小堀遠州の作ということです。

金地院の東照宮

1928年(寛永5)の造営とされ、家康の遺髪と念持仏を賜り、拝殿天井の鳴龍は狩野探幽の筆です。

真乗院

山名宗全公之墓があります。山名宗全は、室町時代の武将で応仁の乱の西軍総大将として知られ、宗全入道、あるいは赤入道と呼ばれていました。

三門

山門とも書きますが、仏道修行において悟りに至るために通過しなければならない3つの門(空・無相・無作)という意味があるそうです。日本三大門の一つとされ、非常に立派なものでした。1295年(永仁3)創立、現在のものは1628年(寛永5)に藤堂高虎が大坂夏の陣で亡くなった家来を弔うために再建したものです。

¥500円を支払い中に入り、上部まで登ってみました。

急な階段を登っていきます。
上部には木像などが並んでいましたが、室内は撮影禁止でしたので、景色だけを写真に収めました。樹木が少しだけ色づいてきています。法堂側、結構高いですね。

水路閣

琵琶湖疎水事業は明治18年起工、同23年竣工。この疎水事業の一環として造られた水路橋です。西欧技術が導入されて間もない当時にあって、日本人のみの手で設計、施工されました。日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定されています。

観光客が多く、なかなかシャッターチャンスがないですが、なんとか粘って撮れました。

火曜サスペンスの世界

上部には琵琶湖疎水が流れ、今でも稼働しています。

南禅寺の休憩所で少し休憩し、また東海道へ戻ります。

16:00 東海道歩き旅のゴールまで、残り2kmです。

蹴上発電所

琵琶湖疎水を利用した水路式水力発電所。日本初の事業用水力発電所として、1891年(明治24)運転が開始されました。現在も稼働しているというから驚きです。

都ホテル 京都

1890年豪商西村仁兵衛らが琵琶湖疎水開通の前日に「遊園 吉水園」を開き、1900年には都ホテルを開業します。以降、各国の皇室や大統領などのVIPが宿泊する名門ホテルです。

徐々に人も多くなり、街もにぎやかになってきました。
残りの距離が短くなってくると昔のことが走馬灯のように思い出されました・・お世話になった名前も知らない人たち・・箱根で出会い、励ましあい、脚を痛めてしまったおじさん、元気にしているでしょうか・・

静岡県から愛知県に入るときは泣きながらだったな〜、何度足にまめができたのか・・熱中症になりかけたこととか・・知らないうちに泣けてきて、泣けてきて・・

三条通 白川橋の道標

「是より ひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と彫られています。1678年(延宝6)に建てられたもので、京都に残る最古の道標です。

山彦九郎像

江戸時代後期の尊皇思想家でしたが、幕府の監視を受け続け自刃します。吉田松陰をはじめ、幕末の志士に多くの影響を与えた人物です。土下座しているようにも見えますが、皇居を望拝しているものらしいです。

16:25 そして・・とうとう三条大橋に到着

もう橋が見えてきたときには、涙が止まりませんでした。

三条大橋の擬宝珠

昭和10年の洪水で橋の一部と擬宝珠(ぎぼし)1個が流されて、新しく製造されたものもありますが、ほとんどは古いもので天正十八年と読み取れます。

わかりますでしょうか?右上に池田屋騒動の時の刀傷といわれる傷がついています。

三条大橋の石柱

高札場も橋のたもとにありました。三条大橋は、1590年(天正18)豊臣秀吉により日本で初めての石柱橋として架けられました。この石柱は、当初に使用されていた橋柱です。擬宝珠(ぎぼし)も入れ替わっているものもありますが、架けられた当時から残っています。

三条大橋

江戸から来た人のゴール地点。江戸へ旅立つ人のスタート地点。

弥次喜多像

そして・・旅の最後に待っていたものは・・弥次さん喜多さん(笑)でした !!

ここのベンチで号泣していました。本当に長かった。492.8km。日本橋を旅立ったのは2002年だった。その間10年ちょっと中断してしまい、16年掛かってゴールした。 辛いこともたくさんあったけど本当に楽しかった。江戸時代の人々は本当にタフですね。

日本橋を旅立った時、最後にどんなことが待ってるかな〜と楽しみにやってきた。そして一つの目標が叶えられた時、考えたことは次への旅立ちのことだった。

そうだ!!次は中山道へ行こう!!