2018年07月15日
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ホテルにタクシーを呼び、瀬田駅までタクシーに乗り、瀬田駅から草津線へ乗り込みます。
忍者列車
ホームへ入ってきたのは「忍者列車」でした。何度も草津線に乗車しましたが、今日が最後になります。別れを惜しんで記念撮影しました。
電車の中もいろいろ工夫されています。つり革はなんと、巻物になっています。
石部駅前の公園
9:50 石部駅到着
今日は、ここからスタートします。スタート前に駅の販売機でトマトジュースを買って飲みます。トマトジュースは、熱中症に最適らしいのです。予防のために飲んでおきます。
石部宿 西縄手
ポケットパークになっており、日陰の休憩施設のある貴重な場所です。
当時の縄手はまっぐな道で松並木が続いていたそうです。
五軒茶屋道と古道
1682年(天和2年)に大洪水により東海道が流されました。山の中を通る新道が新たに作られましたが、距離は2倍になってしまいました。ここに、1685年(元禄2年)に石部宿より五軒の茶屋が移転し、「五軒茶屋」と呼ばれました。
鏡山方面の山の稜線、次の「五軒茶屋」の浮世絵と全く同じです。こういうのが何だかうれしいですね。
1871年(明治4年)、新道の距離が長いため、旧東海道が整備され元の東海道が復元されました。
この案内板を左に曲がる道が恐らく新道だったのでしょう。地図で見ると確かにかなりの距離があります。
しばらく無機質な道となります。明治に整備しなおした旧道を進んでいきます。
古い住宅地に入ってくると、懐かしい看板が掛かっていたりします。
新善光寺への道標
北へ300mくらいのようです。新善光寺は鎌倉時代の中期創建で、800年もの歴史あるお寺です。
このあたりは旧「林村」です。屋号が掲げられた古い町並みが素敵でした。
長徳寺、薬師如来堂
膳所城大手門は現在、栗東市岡に移築されていますが、廃藩置県後はここ、長徳寺の山門として移築されていました。平成25年に栗東市岡の現在地へ再移築されています。今日の後半に見られます。
上野夜雨(かみののやう)
旧栗太郡の名勝を選んだ「栗太八景」の一つだそうです。栗太八景は1750年、慶崇寺の住職素月が名勝を漢詩に詠んだことが始まりとされています。
領界石
「従是東膳所」と刻まれています。
道標と常夜灯
「新善光寺道」と刻まれています。ここも新善光寺への道のようです。
六地蔵村にも屋号が掲げられています。六地蔵村は「梅ノ木立場」と呼ばれていました。
六地蔵地蔵尊
六体の地蔵のうちの1体が安置されています。
境内のお堂横の日陰で休憩させてもらいます。トイレもありましたが全て汗となり、今日はトイレは全く必要なさそうです。
今日も最高気温は38度超え、過酷過ぎます。
福正寺
福正寺には、寛正の法難で逃れた蓮如上人が一時滞在していました。
寛正の法難
本願寺を開祖した親鸞没後、本願寺は徐々に落ちぶれていきました。蓮如上人が八世に就任すると、親鸞の教えに立ち返り、布教活動に本腰を入れていきます。活動が徐々に実を結び、近江に勢力を拡大していきますと、面白くないのは延暦寺です。1465年(寛正6年)僧兵を差し向け蓮如の命を狙いますが、危機一髪蓮如は脱出します。しかし本願寺はめちゃくちゃに破壊されてしまいます。これ以後、蓮如上人は各地を転々としながら布教活動を続けました。各地に蓮如上人の史跡が残っています。
旧和中散本舗
六地蔵村には道中薬を売る店が数件あり、大角家はその中でも「和中散」という薬を売る「ぜざいや」の本舗でした。和中散の名は徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬でたちまち
治り、家康が命名したといわれています。ケンペルやシーボルトも買い求めたそうです。
和中散といえば、品川と川崎の間の梅屋敷でも売られていました。
大角家
大角家は和中散の製造・販売のほかに、大名の休憩などにも使用されていました。庭園は見事なつくりで「小堀遠州」作といわれています。
小堀遠州は、近江に生まれ、千利休の茶道の本流を受け継ぎ、徳川家茶道指南役となり、駿府城作事奉行を務め、桂離宮、二条城、名古屋城などの建築・造園にも才能を発揮したといい、かなり有名であちこちで名を聞きます。
藤棚の休憩所がありました。日陰で涼しそうです。信楽焼きのたぬきがビックです。
六地蔵一里塚跡
塚はもうありませんが、緑地として綺麗に整備がなされています。
修斎学校跡、巡査駐在跡
修斎学校は、明治6年創立。明治26年に3校が合併し、現在は「葉山小学校」となりました。巡査駐在所は、明治14年六地蔵分署として設置、昭和35年まで存続したそうです。
小野村 五葉の松
こちらのお宅の中にあるようです。見えないですね。五葉松は、普通の松の葉に比べ、極端に松葉の長さが短いのが特徴です。盆栽に仕立てることが多いですが、放置すれば10m以上に育ちます。
肩かえの松
旅人はこの松の下で休憩し、荷物を担う肩を変えた場所とされています。
大名屋敷のような立派な門構えのお宅です。
小野村 飴屋
この地域は、朱色のベンガラ塗りの家が多いです。
行者堂
1820年(文政3)開基、里内九兵衛が大和国より役行者大尊像御告げにより背負って持ち帰り、小堂を建てたのが始まり、と彫られています。役行者(えんのぎょうじゃ)とは、7世紀後半の山岳修行者で、陰陽道、神仙術と密教を古来の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立したようです。保守的な神道側から虚偽の罪を申告され伊豆大島へ流されました。
手原村 屋号鍋岩
手原村 里内呉服店
1872年(明治5)創業の呉服店であり、1922年(大正11)までの50年間営んでいました。2007年(平成19)、85年ぶりに呉服店を再開しているそうです。
手原醤油
代々醤油製造を行っていましたが、三代目は1897年(明治30)創立の栗太銀行の創立者でもあります。栗太銀行は1940年(昭和15)に営業を譲渡し、解散に至っています。手原醤油も現在は営業していない様子でした。
手原稲荷神社
手原の里内氏の「家運擁護之神」として始まりましが、1471年(文明3)から手原村の産土神(うぶすながみ・鎮守)として4月の午の日に祭礼を行うようになったそうです。
手原村 酒屋の蔵
厚進学校跡
厚進学校は明治8年創立です。先ほど見た六地蔵村を出たあたりの「修斎学校」ともう1校が合併し、現在の葉山小学校となっています。
赤坂山記念碑
赤坂山は徳川中期より柴(焚き木にするような雑木の枝など)を取る場所として手原区が権利を持っており、明治22年頃共有山としてその保安に努めてきました。明治42年、金勝山紛争のため、樹木を伐採し、買戻金にあてるなどしていたそうです。その後は植栽を行い、河川決壊時の用材、灌漑用の資材など区の財政に多大な貢献をしたと刻まれています。
赤坂山が地元住民にとって大きな財源であったこと、その貢献を記念して建てられた石碑のようです。
学校門柱碑
厚進学校の校門の門柱だけが残っています。
明治天皇手原御休所
その奥は「手ハラベンチ」(子供を守り育てるベンチ)とあります。人形浄瑠璃や歌舞伎演目「源平布引滝」において、子供を守るため産んだのは手だけだと偽り、平家の追手から子を守ったという話からこのモニュメントができたそうです。
手原稲荷神社
人形浄瑠璃や歌舞伎演目「源平布引滝」により手原村が東海道中記でも有名になったようです。東海道名所記に「左のほうに稲荷の祠あり。老松ありて傘の如しなり。傘松の宮という」と記され、江戸時代は傘松が有名でした。
源平布引滝
源義朝が討たれた後、、その弟
義賢は平家に降伏し館に引きこもっていた。行綱と共に源氏の再興を語り合います。そんな折、清盛の使いが源氏の白旗の取り調べにやってきます。
義賢を疑い、義朝の首を踏み潔白を証明しろ、と迫るられ、清盛の使いを斬ってしまいます。行綱は逃げるよう促しますが、義賢は討死するといいだします。自分が盾となり、行綱に逃げ延びてもらい、源氏の再興してほしいと。義賢は、源氏の白旗を妻の
葵御前に渡します。葵御前は妊娠しており、出産したら必ず旗揚げするよう言い残します。平家方が攻め込み、義賢は防具もつけず、壮絶な最期を遂げます。葵御前は、
百姓九郎助の娘の小万が、行綱の妻という縁で身を寄せます。この小万は、源氏の白旗を預かったまま戻ってきません。ある日、九郎助が琵琶湖へ行くと、
源氏の白旗を握った女の片腕が網にかかります。
「男子が生まれたら殺せ」という命を受けた平家方がやってきます。苦し紛れに九郎助の女房が錦にくるんで差し出したのは、網にかかった
女の腕。平家側から来た人間は元源氏の家臣でした。話によると、平家の舟でのこと、女が白旗を持っており、平家側と奪い合いにり、元源氏の家臣であった自分は、白旗を守ろうと、女の腕だけ海に切り落とした、といいます。そして片腕のない小万の遺体が発見されます。遺体に網にかかった腕を付けると小万が生き返りました。葵御前は男子を産みましたが、後の
木曽義仲でした。
お話はまだまだ続きますが、小万がいた村を手孕村と呼んだという話が1734年(享保19)の『近江国輿地志略』に記されているようです。
東経136度子午線の石碑
立派なお屋敷が数多く残っています。
すずめ茶屋跡
すずめが集まる木があったことからこの名がついたといいます。菜飯と豆腐の田楽が名物だったそうです。菜飯と田楽といえば、日坂の「間の宿菊川」でも名物でした。
近江鈎(まがり)の陣所跡
守護六角氏が権力を振るい始めたためこの六角氏を討伐するため、室町幕府九代将軍足利義尚は、六角氏を追って鈎の山徒真宝坊の居館だった真宝館に陣を敷きました。
足利義尚はこの陣所で25歳の若さで亡くなりました。
上鈎池
このあたりはかつての上鈎村です。古い町並みが残っています。
「東海道 やせうま坂」道標
右が東海道、左は中郡街道になっています。
土手を登ると金勝川です。オニユリが自生しています。
土手の上からの撮影。遠くに三上山が見えます。
延命山地蔵院
目川ひょうたん
目川の立場では、旅の必需品を売るいろいろな店や茶店がありました。中でも瓢箪は、お茶や酒を入れる容器として売られており、明治のころまで農家の副業でした。現在も縁起物として売られているそうです。
目川一里塚跡
現在、塚はなくなり石碑が建っているだけです。
田楽発祥の地、元伊勢屋跡
道標「従是西膳領」とありますが、新しい石碑に見えます。
目川の立場の田楽茶屋では地元の食材を使った菜飯と田楽、お酒は菊水、安くて美味しくて腹持ちが良いと東海道の名物となったそうです。
古志゛ま屋跡
京いせや跡
田楽茶屋は立場であった元伊勢屋(岡野屋)と京伊勢屋(西岡家)、古志゛ま屋(寺田家)の三軒をいいます。
旧跡 人吉藩主相良候 御対面所跡 山本家
詳細は不明ですが、肥後国人吉藩主は近江守に就くものが数名いたようです。近江守として着任していたころに、この山本家の者と御対面したということでしょうか。
田楽茶屋 ほっこり庵
大正時代以降、田楽を販売する店は途絶えてしまいましたが、目川田楽保存会が再現し、このほっこり庵で食べられるようです。田楽セットは700円で要予約のようです。
芭蕉句碑
「草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒」
平安の頃より9月9日は五節句の一つ、「重陽の節句」といい、菊を用いて不老長寿を願うことから「菊の節句」と言われます。『菊の節句など隠者の自分には関係ないことと思っていたが、日が暮れる頃、思いかけず節句の祝いの酒が届いた』という一句。
誰にも気にかけてもらわなくても寂しくないけど・・・やっぱり誰かに気にしてもらえると、ちょっとうれしい!という気持ちが伝わってくる句です。
膳所城大手門
1600年の関が原合戦直後に徳川家康が築城しました。1663年(寛文2)に起きた安曇川地震で大破したため、時の城主本田俊次によって大規模な改築が行われました。この門の屋根瓦の家紋が本田氏のものであるため、地震直後に改修されたものと推定されるそうです。廃藩置県で長徳寺に移築されていたものを平成25年にこの地へ再移築したものです。
領界石「従是東膳領」
真新しい石のように見えます。復元でしょうか。
老牛馬養生所跡
和迩村榎の庄屋・岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛馬で、老いた牛馬を生きたまま皮を剥ぐ様子を見て、その残酷さに驚き、息のある間は皮を剥ぐことを止めるよう呼びかけると
共に、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立したそうです。
小柿村 天秤棒 棒喜
イロハモミジ
草津川を渡り、伊勢路に至る堤防を下った現県道草津六地蔵線との合流地点にあったようですが・・どこにあったのか。見落としてしまったようです。樹高9m、目通2m、樹齢150年以上と紹介されています。
草津川の渡し場跡
草津川は天井川でしたが、平成14年流路の付け替え工事が完成し、廃川となった草津川は「草津川跡地公園」となっています。
この公園で一休みしようと思いましたが、日陰が全くありません。樹木もまだ育っていなく、木陰もなく、真夏の休憩には不向きでした・・
草津宿 江戸見附、常夜灯
いよいよ草津宿へ入ってきました
脇本陣 大黒屋跡
現在は、草津まちづくりセンターとなっています。このセンターのポケットパークのベンチは日陰でやっとここで休憩をとることができました。
堯考法師句碑
『近江路や 秋の草つはなのみして 花咲くのべぞ何処ともなき』
秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい。という意味だそうです。この句は、『覧富士記』に収められています。
堯考法師
室町時代の歌人で頓阿の曽孫(頓阿も僧で歌人)です。常光院と号し、1414年(応永21)には二条派の中心歌人でした。1428年(正長元)足利義教が幕府で歌会を開いて以来、飛鳥井家の中心メンバーとなります。1432年(永享4)の富士見にお供して『覧富士記』を残しました。
このマンポの上がかつて天井川だった草津川です。そして中山道と東海道が合流する場所。中山道はこのマンポの向こうあたりが船着場で、渡し舟で草津宿へ入ってきたのです。
道路の右側にあるのが、追分道標です。
草津宿 高札場跡
草津宿 本陣
本陣が当時の姿をそのまま留めている例は全国でも珍しく、その中でも規模は最大級であり、国史跡として指定されています。
草津本陣は江戸時代初期から明治時代初期までの240年間、大名や旗本、公家などの休憩所としての役割を果たしてきました。
畳廊下
建物内部の見学は240円でできます。ちなみに撮影は資料関係はNG。遠目に景色として撮るのはOKだそうです。宿帳などの貴重な資料もありましたが、それは撮ってはいけません。
湯殿
現存する宿帳から浅野内匠頭・吉良上野介・シーボルト・皇女和宮・徳川慶喜など歴史上の有名な人物が数多く宿泊しています。
台所土間
土蔵と井戸
とってもカワイく、綺麗なトイレでした。
草津宿らしい佇まいのベーカリーカフェ
街道交流館
有料(200円)ですが、旅道具の展示や浮世絵刷り体験、グッズの販売など結構楽しそうです。しかし、時間がないためスルーさせていただきました。次回は入りたいですね。
常善寺
735年(天平7)、良弁の開基とされています。
1600年、関が原合戦に勝利した家康は、現近江八幡から近江路を上り、常善寺に宿陣します。寺の客殿は鈎の陣で足利義尚が出陣した御殿や客室を寺に寄進されたものだといいます。
太田酒造・草津宿政所
太田道灌先祖の酒蔵です。太田家は代々草津宿の関守の役目を務めてきたそうです。日本酒だけでなく、ワインや焼酎も製造しています。酒造りは江戸末期より行っています。
草津宿政所
草津宿は水陸交通の要所であるため、関所的な役割を担ってきました。この付近に問屋場、併せて東海道に3箇所しか置かれていなかった荷物などの重量検査を行う貫目改所も設置されており、太田家を中心とするこの辺りは『草津の政所(まんどころ)』と言われていました。
ちなみに貫目改所は東海道には、品川・府中・草津の3ヶ所、中山道には板橋・洗馬の2ヶ所がありました。
立木神社
1200年の歴史をも古刹。交通の要所にあったためか古くから交通安全厄除けの神様として信仰を集めています。県内では最も古い石造りの旧追分道標がある・・・のですが、
暑さのせいかぼーっとしており、通りすごしてしまいました。
矢倉立場
草津名物「うばがもちや」跡
浮世絵や東海道名所図会、伊勢参宮名所図会などに度々描かれています。
浮世絵の中に「うばがもちや」と建物右手に道標が描かれています。浮世絵に描かれている道標が、今も軒先に立っています。
矢倉道標
「右やばせ道 これより廿五丁 (にじゅうごちょう) 大津へ船渡し」と彫られており、琵琶湖対岸の大津へ渡る「矢場の渡し」へ向かう矢場道の分岐となっています。
『武士のやばせの舟は早くとも 急がば廻れ 瀬田の長橋』と詠まれ、近道であっても湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをするよりも回り道でも瀬田橋回りが確実だと「急がば廻れ」の語源となっているそうです。
稲荷神社
このあたりが「矢倉城遺構」となっていますが、全くの詳細不明でした。奥まで探索しましたが、石碑や案内は一切ないです。本当にここに城があったのでしょうか・・
築城年代や城主なども一切不明のようです。
上北池公園
ここの四阿で一休みしました。
野路一里塚跡
この石碑は、上北池公園の中にありますが、本来は北東20m程度の民有地にあったらしいですが、現在は残っていません。
平清宗胴塚
平清宗は、平安末期の武将です。平宗盛の長子で平清盛の孫にあたります。3歳で従五位下となり、同時に元服するなど破格の待遇を受けます。壇ノ浦の戦いで平家が敗北後は父とともに捕虜となり、近江国野路口(このあたり)で斬首されたようです。胴塚は民地の中にあり、直接見ることはできませんが、写真が掲げてあります。
新宮神社
天平年間(729〜749年)に行基によって創建されたといわれています。付近の住民からは別名、野路神社と呼ばれているそうです。
野路在郷軍人用地
在郷軍人とは平時は別の生業をし、戦時においては必要に応じて召集されます。時折行われた訓練などをする用地だったのでしょうか・・・
子守り地蔵
最初に見たときはびっくりしました。お地蔵様のお顔が白塗りで眉毛、髪の毛、目は黒く塗られています。でもこの後、気をつけて見ているとあちこちのお地蔵様のお顔は、全てこのバージョンです。このあたりのお地蔵様はこのお顔がスタンダード仕様のようです。
子供を守ってくれると言われており、村の人々の信仰を集めていたそうです
萩の玉川
十禅寺川の伏流水が清らかな泉となり湧き出でてあたり一面に咲く萩とあいまって、優雅で風情のある景勝地として平安のころより多くの句や歌に詠まれてきました。
しかし、現在は泉は枯れ循環式のただの水溜りでした。残念です。
弁天池
東海道名勝として名高い弁天池。野路は平安から鎌倉時代にかけて宿駅として、戦略拠点として栄えてきたそうです。しかし、東海道の宿駅として草津ができると衰退していった地域でもあります。
弁財天神社
弁天池に架かる小さな橋を渡ると弁財天神社があります。
弁財天神社
この後更に1kmほど東海道を歩き、本日の宿付近で東海道を離れ、本日の宿「ニューびわこホテル」へ徒歩で向かいます。街道から近いため、便利です。
17:00 本日のゴール 17.7km歩きました。
今日も最高気温38度程度まで上昇しました。熱中症にならず、良かったです。